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September 28, 2006

『LOFT』とサイレント映画

黒沢清の映画を見ていると、サイレント映画を見ているような気分におちいることがある。なぜだか無声映画の感触に近いものを感ずるのだ。

といっても僕のサイレント体験は大したものじゃない。『カリガリ博士』『メトロポリス』や『戦艦ポチョムキン』といった古典、キートンとチャプリンの数本、邦画では小津安二郎と山中貞雄をわずかに見た程度。

サイレント映画は、言うまでもなくセリフの音声と音楽がない。弁士や楽団が入ることもあるけどそれはあくまで例外で、観客の目は沈黙の空間で映像の光と影の乱舞に曝される。闇のなかで五感のうち目だけに強烈な刺激が与えられつづける。

トーキー以後、映画は音声と音楽をもって目も耳も刺激する総合芸術になったけれど、サイレント映画を見ていると、19世紀末に発明された「動く映像」が人々にとってどんなに驚異だったか、その見世物がどんなに人々の心を奪ったかをわずかながら想像できる。

黒沢清の映画の感触は、この無声映画の映像の氾濫に曝されているという感じに似ているんだと思う。『LOFT』の豊川悦司も、過去の作品では役所広司もオダギリジョーも、ぼそぼそとセリフをしゃべり、決して声高になることがない。ヒロインの中谷美紀も、「やめて!」と大声で叫ぶショットや言葉にならない悲鳴を例外として、若い女(安達祐実)の幽霊(幻覚)やミイラに出会っても大声を出さない。低いトーンでセリフをしゃべっている。

音楽にも同じようなことが言える。幽霊やミイラが出現する直前のショットは、さあ出るぞ出るぞ、とばかり音楽が高鳴るのがホラー・恐怖映画の定番だけど、黒沢清はここでも高揚を抑えて、むしろ控えめに、でも感覚をぞろりと逆撫でする音楽を入れている。

セリフや音楽に強弱が少なく、ほとんど一定の低いトーンで入っていると、それに慣れた観客は無意識のうちにセリフや音楽への注意を薄れさせる。いわばゼロに近いと感覚してしまう。だからこそ、黒沢清の映画ではサイレント映画のように映像が圧倒的な力をもって見る者に迫ってくるんじゃないかな。

中谷美紀が草原を横切るショット。壁にシミが浮き出た、いかにも黒沢好みの古い研究所の建物とその内部。中谷美紀が住む洋館の、だだっぴろい空間。そしてミイラが沈んでいる池。水面に映る森の不穏な空気。池に突き出た絞首台のような引き揚げ装置。芦澤明子の見事なカメラで、いくつもの記憶に残るショットが紡ぎ出される。

黒沢清の映画がいちばん印象に残るのは、こういうショットに出会ったとき。逆に言えば、全体の結構が弱い(構成に興味を示さない)作品もあるってことなんだけど、それを補って余りある映像の力。「黒沢清はショットの監督」と思うのだ。

もうひとつ彼の映画でいつも感ずるのは、カットとカットのつなぎに唐突感があること。そのこともサイレント映画に近い感触を与えているのかもしれない。

トーキーになってからの映画は、セリフやストーリーに沿ってカットとカットを違和感なくつないで、観客を映画の流れのなかに引きずり込む。でもサイレント映画では、僕の乏しい体験から言えば物語の整合性やスムースさより、映像と映像の衝突のエネルギーで観客をスクリーンに釘付けにする(モンタージュってことですね)ことで映画をドライブさせるようカットとカットが編集されている。

現在の観客が見ると、そこにちょっとした違和感や唐突感をもつ。黒沢清の映画は、それを意識的にやっているように見える。豊川悦司と中谷美紀が若い女を殺したのではないかと妄想して地面を狂ったように掘りはじめると、いきなり嵐のような天候になり、妄想だと分かってひしと抱き合う。ほとんど説明抜きでそういうことが起こるので、見ている側はあっけにとられるしかない。

この唐突感は、当てずっぽうの勘で言えば黒沢が大きな影響を受けた小津安二郎につながり、小津を通してサイレント映画につながっているんじゃないか。小津はサイレント時代にすでに自分のスタイルを完成させ、トーキーになってからも基本的にそれを変えていない。小津もカットのつなぎが相当に変なんだから。

僕は黒沢清のホラー映画をちゃんと見てるわけではないけど、見ている限り(『CURE』『回路』『ドッペルゲンガー』)、彼のホラーは「出るぞ!」「出た!」という出会い頭の恐怖を与える編集を避けてつくられている。出会い頭ではなく、じわじわと恐怖が身に沁みてくるような、ホラーというジャンルに収まらない映画になっている。

でも『LOFT』では、恐怖・ホラーのジャンル映画的な「出会い頭の恐怖」の演出が多用されている。物語も「古い洋館の恐怖」「殺した女の幽霊(幻覚)」「ミイラ(ゾンビ)の復活」といったジャンル映画の定番を踏襲している。

そんなジャンル映画を構想しながら、にもかかわらず説明のつかない唐突な出来事が黒沢清的に(としか言いようがない)起こる映画に仕上がっている。そこがまた黒沢清的と言うしかない。

それにしても、あのミイラは中谷美紀に似ていたな。いや、中谷美紀がミイラに似ていたと言うべきか。

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September 22, 2006

『弓』の生々しい欲望

キム・ギドク監督の映画はいつも一貫したテーマ系と似通った設定を持ちながら、初期作品の性と暴力に満ちた風俗的な次元から宗教の匂いのする象徴的次元へ、さらに『弓』では神話的な次元にまで変貌しているように見える。

『弓』というタイトルが、いくつもの意味を多層的に表している。まず、人を殺傷する武器としての弓。その弓が、この映画では同時に弓占いという神事に使われている。さらに弓と弦のあいだに共鳴する胴をはさみこむことによって、弓はヘグム(韓国二胡)となって音楽をも奏でる。その3種の「弓」が、この映画のいちばん底のところで重要な役割をになっている。

海の上に浮かんでいる船で、老人(チョン・ソンファン)と少女(ハン・ヨルム。『サマリア』の聖少女から一転してエロチック)が暮らしている。身寄りのない少女は10年間、船を下りたことがないらしい。数ヶ月後に迎える少女の17歳の誕生日に、老人と少女は結婚することになっている。

老人は船に釣り人を連れてきて暮らしを立てている。釣り人が少女にちょっかいを出そうとすると、老人は弓を射て釣り人を威嚇する。釣り人が老人に弓占いを頼むと、老人はブランコで遊ぶ少女ごしに舷側に描かれた観音像を射る。老人を信頼しきって彼の射る矢に身をさらす少女が、矢の位置からなにごとかを読みとって託宣を告げる(彼女は巫女的な能力を備えているらしい)。老人は、いつも弓のヘグムで音楽を奏でている。

冒頭からラストまで、老人がヘグムを弾くシーンだけでなく、ほとんどの場面で背後にヘグムの調べが流れている。そしてまた冒頭から最後まで、すべてのシーンが船上で撮影されているから、ときに激しく、ときに気づかぬくらい微妙に画面は常に揺れている。

だからこの映画は、まるごとヘグムの調べと海の揺れがつくりだす原始的なリズムにくるまれている。男と女、そこに割り込んでくるもうひとりの男という物語の原型のような構造が、そんな民俗的なリズムにくるみこまれることによって、また男と女が最後まで無言であることによって神話的な空気が生まれてくる。

少女は釣り客の若い男と、ほのかに惹かれあう。そのことによって老人と少女との信頼にヒビが入りはじめる。老人は激しく嫉妬し、弓を射て若い男を追い払う。

孤立した小宇宙に自足している2人のあいだに世俗的なもう1人が割り込むことによって小宇宙が壊れる。これは前作『春夏秋冬、そして春』と同じ構造。男が女を暴力的に支配して監禁し(ソフトに描かれているけど、そうには違いない)、監禁された女が支配者である男に倒錯した愛情を持つという設定は『悪い男』と共通している。

だからまぎれもなくこれはキム・ギドクの映画だ。そしてこの神話的な空気を感じさせる映画が神話の透明さに遂に達せず、まぎれもなくキム・ギドクの映画であるのは、欲望の生々しさにある。

ことあるごとに老人の顔のアップが映し出される。老人の眼は、孫のような年齢の少女をいとおしむ父(祖父)の慈愛のまなざしではなく、少女に対する執着を隠さない剥きだされた欲望のまなざしだと感じられる。老人の顔の執拗なアップによって、キム・ギドクそのことを伝えたかったのに違いない。

異性に対する剥きだしの、時には反社会的な犯罪のかたちを取る欲望があり、その欲望を浄化するのではなく欲望の底の底にまで降りることによって、ある瞬間、別の次元のなにものかに変貌する。それを(仏教なら)悟りと呼ぶには、あまりに世俗に執着を残している。それでもなお、現実を超えた宗教と呼ぶしかないものを求めずにはいられない。キム・ギドクの映画が一貫して描いてきたのは、そんな同一のテーマ系をもったいくつもの変奏曲であるようにも思える。

ラストで、老人の弓から放たれた矢は男根となって白衣の少女を貫く。血に染まった白衣の少女を乗せた船が海を漂う。ほとんど国産み神話みたいな場面で終わるけれど、浄化された愛の美しさとは遠い欲望の生々しさだけが後に残った。やっぱりこれはキム・ギドクだな。

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September 17, 2006

『マイアミ・バイス』のコン・リー

コン・リーももう40歳になったんだなあ。疾走するモーターボートの上で、風に乱れた髪がきりっとした表情の顔に戯れかかる。昔のふっくらした線が消え、肌には年相応のやつれが見えるけど、それでもなお魅力的な姿を見て、コン・リーは久しぶりに彼女を美しく撮ってくれる監督にめぐりあったと思った。

過去にコン・リーを美しく撮った監督は、まず言うまでもなく彼女を見いだし、スターにしたチャン・イーモウ。デビュー作『紅いコーリャン』から、私生活でも2人が別れる直前に撮られた『活きる』まで。惚れただけあって、コン・リーの魅力をすみずみまで知っている。特に1990年代前半の3本。コン・リーの美しさをあらゆる角度から耽美的な映像に仕上げた『紅夢』、ファム・ファタールふう美女の『上海ルージュ』、たくましく生きる母を演じた大河メロドラマの『活きる』が記憶に残る。

もうひとり、コン・リーを魅力的に撮った監督は同じ「第5世代」のチェン・カイコー。『さらば、わが愛 覇王別姫』も悪くないけど、同じくレスリー・チャンと競演した『花の影』が好きだな。素封家を継いだコン・リーがレスリー・チャンとの愛にのめりこんでいく、その狂気のような愛は絶品だった。

チャン・イーモウ、チェン・カイコーの作品を中心に、90年代、20代後半のコン・リーは匂うような美しさをスクリーンから発散させていた。ところが30代になったコン・リーは作品にも恵まれなかったし、女優としての華も失ったように思えた。たとえばウォン・カーウァイ映画のコン・リーは、陰のある高級娼婦を演じて、ちっともきれいに撮られていない。カーウァイはきっとマギー・チャンのほうが好みなんだろう。

そんなわけでここしばらく、コン・リーの映画には失望していたけど、『マイアミ・バイス』は久々に楽しめた。

かつての匂うような美しさはないし、英語のせりふ回しもうまくない。物語としても、コリン・ファレルと恋に陥るあたりがきちんと描写されていないので唐突に映る。いずれコリン・ファレルが裏切るのか、コン・リーが裏切るのか。そんなハードボイルドふうな展開を期待(?)していたけど、そうはならなくて、ややがっかり。それでも、2人のダンス・シーンでコン・リーの背中から肩に柔らかな光が当たっているのをカメラが舐めるショットにはぞくっとしたし、乱れ髪のコン・リーも素敵だ。

…などと、コン・リーのことばかり書いたけど、『マイアミ・バイス』は「夜の映画」とでも呼べそうなほど夜のシーンにあふれている。マイケル・マン監督の前作『コラテラル』は夜から朝までの映画だったから当然、夜のシーンばかりだったけど、この映画でも夜への偏愛は変わらずに続いている。

ふつう、映画の舞台としてのマイアミは明るい原色で撮影されることが多い。去年の『イン・ハー・シューズ』でも、前半のフィラデルフィアの落ち着いた中間色と対比させるように、後半のマイアミ(フロリダ)は抜けるように明るい原色で色彩設計されていた。

ところが、『マイアミ・バイス』ではそんな定型をくつがえすように、原色の世界はほとんど登場しない。海も青い海ではなく夜の海。コリン・ファレルとコン・リーを乗せた高速モーターボートが白波を立てて夜の海を突っ切っていくショットが見事だ。

ストーリーはお約束通りとはいえ、アクション・シーン、銃撃シーンも小気味いいリズム。僕は『コラテラル』までこの監督の映画にさほど感心したことはなかったけど、なかなかやります、マイケル・マン監督。

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September 10, 2006

『楽日』の雨と足音

この映画、見る人によってめちゃくちゃ色んな感想があるだろうけど、僕にとっては「雨の映画」として記憶されることになるだろう。

台北のさびれかけた繁華街。福和大戯院という映画館が閉館になる最終日(楽日・らくび)の最終回。映画館の外では暗くなった空から激しい雨が落ちて亜熱帯植物の葉を打っている。館内の通路には、窓をたたく雨滴の音が響いている。湿った暖かい空気が淀んでいるのが、まるで自分がその場にいるように感じられる。

上映されているのは、1960年代武侠映画の大ヒット作として知られるキン・フー監督の『血闘竜門の宿』。新宿ミラノ座を円形にしてひとまわり大きく、傾斜を激しくしたような、スクリーンを谷のように見下ろす広い観客席には、ほんの数人の観客。この映画の時間は、『血闘竜門の宿』最終回が始まるところから、上映が終わり観客が去って最後にシャッターが閉められるまでの時間に対応している。

上映が終わっても、雨はなお激しく降っている。上映技師(リー・カンション)が合羽を着てバイクで去ってゆく。それを陰から見つめていた受付嬢(チェン・シャンチー)が、傘を差して雨のなかに出てゆく。そのロングショットの背後には、青い街灯に照らし出される雨中の映画館の大きな看板絵。

だから最初から最後まで一瞬たりとも止むことなく雨が降っているわけで、あらゆるシークエンス、あらゆるカットが、たとえ画面に雨が映らず、雨音がしなくとも、雨中のシーンであることが映画の基調音をかたちづくっている。

もうひとつ、この映画の基本的なリズムをつくっているのは、受付嬢の歩行。映写技師と2人きりで映画館を切り盛りしている彼女は身体障害者で、歩くときに身体が大きく浮き沈みする。その独特のリズムで歩きながら、館内の通路を見回り、トイレや客席を掃除する。全編に雨が降っているように、彼女もまた最初から最後まで絶えることなく画面に登場して歩き回り、その歩行がつくりだす独特のリズムが映画を底のところで支えている。

雨と受付嬢の足音。2つの映画の身体性ともいうべきものがあるからこそ、『楽日』がもっている映画と映画館への愛というテーマと手法の実験――極端にまで押し進めた固定フレームでの長回し――が生きているのだと思う。

アンゲロプロスやキアロスタミの映画も総カット数が少ないけど、『楽日』のカット数はそれより少ないんじゃないだろうか(ついでにいえば、セリフも極端に少ない)。とにかく据えっぱなしの長回し。途中で気持ちよく寝てしまい(数十秒? 数分?)、起きてみるとまだ同じカットが映っている。それだけでなく、人物もまったく同じ位置にいて微動だにしていない。かといって決して退屈で眠ってしまったのではなく、眠気を誘うほどに快い。

もっとも、上映が終わったあと無人の観客席を5分ちかく見つめつづける動きのまったくないカットでは、さすがに出品したヴェネツィア映画祭でも何かの間違いかと観客が騒ぎ出したという。

映画(に限らず小説も)では物語とスタイルは密接不可分だけれど、『楽日』に物語らしい物語はない。もちろん、受付嬢の上映技師に対する思いとか、映画館に集まるホモセクシュアルとか(ツァイ・ミンリャン監督がずっとこだわっているテーマ)、『血闘竜門の宿』に主演している2人の俳優が観客席にいるとかのドラマはあるのだが、人物と人物が絡み合って物語がころがっていくことはなく、淡い水彩画のように数少ないカットで簡潔に示されるだけ。

希薄な物語性に代わって、この映画の極端なスタイルを支えているのが、最初に触れた降りつづく雨や受付嬢の歩行といった映画の身体性ではないだろうか。そうしたものに担保されているからこそ、『楽日』は手法倒れの実験映画ではなく、映画の豊穣さを感じさせる作品になったのだと思う。

それにしても、アジアでのキン・フー映画の影響力はものすごい。台湾のホウ・シャオシェンも、香港のウォン・カーウァイも、アメリカに行ったアン・リーも、マレーシアで暮らしていたツァイ・ミンリャンも、ある世代の監督たちはみんなキン・フー映画で育ち、なんらかのかたちで作品のなかでキン・フーへのオマージュを捧げたり、インタビューでキン・フーに言及したりしている。

その点、日本では『血闘竜門の宿』(1967)以外、同時代にほとんど公開されていない。当時の香港・台湾映画はたっぷりと日本映画の影響を受けていたのに(「座頭市」やら「渡り鳥」やら)、逆向きの影響が欠けた一方通行だったわけで、そのあたりは、最近の日本映画のアジア的血糖値(?)の低さにまでかかわっているのかもしれないな。

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September 03, 2006

『ユナイテッド93』と疑似ドキュメンタリー

2001年9月11日。ニュージャージーのニューアーク空港を飛び立ったユナイテッド93便はアルカイダのイスラム原理主義者4人にハイジャックされた。同時にハイジャックされた別の3機が世界貿易センターや国防総省に突っ込んで自爆テロの目的を達したのに対し、93便だけは米国議会議事堂を目指しながらワシントン近郊に墜落した。

『ユナイテッド93』の印象をひとことで言えば、まるで事件に居合わせた誰かが記録した映像を編集したドキュメンタリーである「かのような」映画。

9.11の朝、イスラム青年が敬虔な表情でベッドに座りコーランを読んでいる。別の青年が現れて「さあ、出かける時間だ」と告げて、4人のハイジャッカーが空港へ向かう。空港では93便の出発準備が進められ、クルーが搭乗してくる。出発ロビーの乗客は話をしたり新聞を読んだりしながら搭乗のアナウンスを待っている。

そんな情景を、手持ちカメラの不安定な映像が、短いショットを積み重ねてテンポよく追っていく。素人が撮影したような、カメラを急激に振ったり、ピントを合わせなおすカット、粒子が荒れたカットも意識的に挿入されている。背景に音楽はなく、現実音のみ。

そんなドキュメンタリー的な手法は、別の部分にも見られる。そもそも脚本を書くに当たって遺族や関係者にインタビューを重ねたというし、何人ものほんものの航空管制官が自ら出演して9.11当日の自分を演じている。他の役者も、名のある俳優(少なくとも僕が知っている俳優)はひとりもいない。そこからは、この作品をフィクショナルなドラマではなく、事実に即したドキュメンタリー・フィルムに近づけようという意図が明確に読みとれる。

ともすればウソっぽくなる劇的な描写を避ける姿勢は、画面の緊張が高まっても変わらない。最初のハイジャック機が世界貿易センターに突っ込む瞬間は、事件以来繰り返し見慣れた映像ではなく、レーダーの上からハイジャック機のアイコンが音もなく消えることで静かに示される。

ユナイテッド93がハイジャックされる場面も、事態を知った乗客が「反乱」を起こすクライマックスも、ドラマ的な盛り上げをつくる演出はほとんどなされない。それまでと同じ、近くにいる誰かが撮ったような映像で処理されている。

最初から最後までそんなスタイルを徹底させた、なかなかよくできた映画なのだ。

疑似ドキュメンタリーの手法を取ることによって、もうひとつ別の意味が生まれることを、ポール・グリーングラス監督は意識していたにちがいない。それは、記録映像のようなスタイルを取ることで、登場人物の心理描写や内面描写に踏み込む必要がなくなること。登場人物の心理・内面に踏み込まないことによって、価値判断ぬきの「中立的」「客観的」描写が可能になる(本当にそうかどうかはひとまず措いて)ということだ。

だからこの映画では乗客や管制官を「ヒーロー」として描いていないし、ハイジャッカーをハリウッド的な「悪」としても描いていない。4人のイスラム原理主義者は、少なくともブッシュが「テロリスト」と憎々しげに呼ぶような人間像からは遠い。そこには自爆テロの緊張に押しつぶされそうになり、逡巡したり不安に駆られたりする青年がいるだけだ。

それはグリーングラス監督が、9.11という扱い方によってはとても危険な素材をどう映画化するか考えぬいた末に採用した戦略ではないだろうか(彼は『ブラディ・サンデー』でもドキュメンタリー・タッチの映画をつくっているというが、未見)。

もっとも、だからといってこの映画が「客観的」「中立的」かといえば、そんなことはない。いくら事実に基づき、事実に近づけるといっても、多面的な事実のどこをどう切り取り、どう見せるかによって、事実の意味はさまざまに変化する。

例えば、「さあ、出かける時間だ」というこの映画のファースト・シーンをラスト・シーンにして、イスラム青年がどのようにして「テロリスト」になり、自爆テロに参加することになったのかという事実を切り取って映画化すれば、『ユナイテッド93』とはまったく別の文脈を持つ映画になったろう。

その意味で、この映画が他のハイジャック機ではなくユナイテッド93を選んだこと自体には政治的な文脈がある。93便は、機中の乗客から家族への電話などから、機内で乗客の「反乱」があったことが明らかになっている。ことさらにドラマ的な善悪や盛り上がりをつくらなくとも、疑似ドキュメンタリー映像のなかから「アメリカ人の誇り」が立ち上がることが作り手にはわかっていたろう。

そのために、この映画はインタビューしたり本人が出演したり、できるだけ事実に寄り添いながらも、ひとつだけ事実を改変している。

ラスト・シーン。乗客たちは爆弾を身につけたハイジャッカーを襲い、ついにハイジャッカーが操縦するコックピットにに突入する。そして彼らをやっつけるのだが……という部分。公式報告書では、「反乱」を起こした乗客がコックピットに進入することができないまま93便は墜落したとされている(ウィキペディア)。

いくらドキュメンタリー・タッチとはいえ、公式報告書の事実どおりでは映画的興奮も「アメリカの誇り」も立ち上がってこない。だからここは、どうしても乗客がコックピットに突入しなければならなかった。

これはあくまでドキュメンタリー的な手法によるフィクションなのだから、まあ小さな改変に目くじらを立てることもない。そのことを踏まえても、この映画は独自のスタイルを持ち、昨今のナショナリスティックなハリウッド映画とは一線を画している。これは映画の作り手たちが、ブッシュ的な愛国映画ではもはや世界市場に通用しないという冷静な計算をした結果なのかもしれないな。

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September 02, 2006

『マッチポイント』のイギリス度

『マッチポイント』でいちばん興味があったのは、デビュー以来ずっとニューヨークを舞台に映画をつくってきたウッディ・アレンが初めて舞台をロンドンに移したことで、作品にどんな変化が現れたのか、あるいは現れなかったのかということ。

ニューヨークからロンドンへ、まずは当然のことながらロケーションした風景が違う。冒頭、セレブなテニス・クラブの重厚な赤レンガのクラブ・ハウスに向かってクリス(ジョナサン・リース・メイヤーズ)が歩いていく移動ショットから、まぎれもなくロンドンの重くたれこめた空気が感じられる。

ウッディの映画にはたいてい「定番」ともいえるショットが出てくる。ジャズクラブのライブ演奏とか精神分析医の診察室なんかがすぐに思い浮かぶけど、橋の見えるショットもそのひとつ。『アニーホール』や『マンハッタン』はじめ、橋(特にマンハッタンとブルックリンを結ぶブルックリン橋)が画面を大きく横切り、水辺に登場人物が見えるいくつものロング・ショットが記憶に残っている。

この作品でもテムズ河にかかるランベス橋(? 国会議事堂が見えている)の同じようなショットが出てきたのには、やっぱりね。この橋のたもとは、「マッチポイント」というタイトルが暗示する重要なシーンでも登場する。クリス夫妻が住む高級コンドミニアムからはウェストミンスター橋も見える。

さらにウッディ映画の多くにはNYのおしゃれスポットがさりげなく取り込まれているけど、この映画も同様。建築もユニークな美術館テート・モダン、現代アートのサーチ・ギャラリー、ボンド・ストリートのブランド・ショップなどが舞台になって、何度も映るビック・ベンとともにしっかり「観光映画」してる。

この町には、どうもウッディの好きなスイング・ジャズやスタンダードは似合わない。20世紀初頭のオペラ歌手エンリコ・カルーソーの歌が、ザーザーというSP盤のノイズとともに全編に流れている。ヴェルディを歌うその沈鬱な歌声が、この映画の基調音を決めているように思えた。

ストーリーは自作の『ウッディ・アレンの重罪と軽罪』に『陽のあたる場所』や『太陽がいっぱい』をミックスしたような、セレブと成り上がり者が織りなす不倫と犯罪の物語。裕福な一家の娘と結婚したクリスが、義兄の婚約者ノラ(スカーレット・ヨハンソン)と関係をもつ。クリスは手に入れた地位と財産を取るのか、魅力的な美女を取るのか……シリアスなラブ・ストーリーにも、サスペンスフルなミステリーにも、ブラックなコメディにもなりそうな素材だ。

そこでウッディが採用したのは、映画の最初と最後に、偶然と運が人生を大きく左右するという皮肉を噛みしめることになるシーンを置いてウッディらしい目線を設定し、そのあいだをコメディーでもミステリーでもなく、重厚でオーソドックスな描写でつないでいくスタイル。クリスの妻が子供が欲しくて不妊治療に懸命になるシーンとか、妻を取るのか自分を取るのかノラがクリスに迫るシーンなんか、ウッディらしいコメディの絶好の素材なのにそうはならない。

僕はそこに、ニューヨークではなくロンドンを舞台にしたことの影を感じてしまった。これがニューヨークの物語だったら、もっと軽快でブラック・コメディふうな映画に、あるいは『重罪と軽罪』みたいに精神分析好きのひねくれた映画になったんじゃないだろうか。

とくに何度も出てくる週末を過ごす郊外の別荘の場面。シャトーの豪華な建物と、周囲に広がる緑の野や森のしっとりした描写。女主人に叱責されたノラが激しい雨の野原にさまよい出、それを追ったクリスとはじめて関係をもつシーンの濃密な描写は、赤狩りでハリウッドを追われたジョセフ・ロージーが、イギリス上流階級の女性を主人公にした『恋』で見せた同じような場面の同じような空気感を思い出した。

ウッディがこれをコメディにする気がなかったのは、ジョナサン・リース・メイヤーズとスカーレット・ヨハンソンを主役に配したことからもわかる。アイルランドの貧困家庭の出で、トップ・プロに一歩及ばずレッスン・プロになったことから上流階級に入りこむクリスを、メイヤーズは『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンを思わせる目つきと表情で演じている。

一方のヨハンソンはいかにもウッディ好みのクールな美女。ヨハンソンが初めて顔を見せる別荘の遊戯室での美しさったらない。胸の大きくあいた白いドレスにアップした金髪。男を惑わす唇でメイヤーズを挑発する。メイヤーズも挑発に応え、体をヨハンソンにすりよせてラケットの握り方を教える。白いカーテン越しに柔らかな外光が差し込み、逆光になったヨハンソンの顔のクローズアップには息を飲む。

ウッディ、ヨハンソンに惚れたかな。ウッディはダイアン・キートンとかミア・ファーロウとか主演女優をモノにしてきた過去があるけど、まさかあの歳で……。万が一そんなことになったら、世界中を敵に回すことになる。

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September 01, 2006

ナイトゲーム

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ラグビー・トップリーグの開幕戦を見に行く。優勝候補同士の東芝ブレイブルーパスvsNECグリーンロケッツ。南アから来たNECの新スタンド・オフ、ヴェストハイゼンの蹴ったハイパントが照明を越えて高く舞い上がり漆黒の空にふわりと浮く。ナイトゲームはこういう瞬間が快い。

ゲームは東芝の強さばかりが目立ち、NECはロスタイムにようやく1トライ返しただけだった。

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夜の「アール・デコの館」

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(ルネ・ラリックのガラス・レリーフ扉)

東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)の夜間特別公開(8月26~31日)に出かけた。

1933(昭和8)年に完成した朝香宮邸は、パリに滞在していた朝香宮が当時流行だったアール・デコに心酔し、フランスのトップ・デザイナーを起用して造営した「アール・デコの館」として知られる。

昼間は何度か行ったことがあるけれど、この建物の本当の魅力は、周囲が暗くなり灯がともる夜になってはじめて明らかになる。間接照明のぼんやりした光に照らされて、建物の細部がエロティックに息づきはじめる。文化というのは、やはりカネのかかるものなんだな。

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(香水塔)

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(スチーム吹き出し口)

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(食堂天井の照明)

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(廊下の照明)

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(食堂の壁)

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(小客室の飾り)


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