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August 29, 2006

「銀座 酒と酒場のものがたり」

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今和次郎・吉田謙吉「銀座のカフェーWaitress服装採集」(1926、本書から)

面白い本を手に入れた。銀座社交料飲協会というところが刊行した『銀座社交料飲協会八十年史 銀座 酒と酒場のものがたり』(2005、非売品)。

銀座社交飲料協会というのは、名前からも想像がつくように銀座のバー、クラブ、キャバレー、喫茶店に、一部のレストランや鮨屋も加わった団体。関東大震災から2年後の1925(大正14)年に37店で発足し、2005年で80年になるのを記念して編集された、B5変型4色刷り240ページの豪華な「夜の銀座」史だ。

年毎のトピックを集めた編年体になっているんだけど、なによりも収録された資料が素晴らしい。写真、ポスター、イラストレーション、マンガ、広告、マッチのラベル、映画のスチール、カフェのメニュー、地図といった図版類。テキストも、雑誌の特集、コラム、座談会、作家や文化人のエッセー、流行歌の歌詞、そして詳細な年表と、「夜の銀座」に関するありとあらゆる資料が丹念に集められている。

とくに興味深かったのは、戦前のカフェーがどういうものか、どんな店構えで、どんな女給がいて、どんなメニューで、どんなサービスをしていたのかがよくわかったこと。

関東大震災前後に登場した銀座のカフェーは、日本のモダン文化の象徴だった。夜ごと有名人が顔を見せた老舗の「ライオン」とか、美人女給をそろえ永井荷風や菊池寛が通った「タイガー」とか、戦前の作家のエッセーによく出てくるんだけど、その実態がどういうものかは、いまひとつ腑に落ちなかった。それをヴィジュアルを含めた多彩な資料で色んな角度から明らかにしてくれる。

たとえば、雑誌の特集「カフェー女給さんの24時間」。「カフェ・ライオン鼻つまみ番付」(前頭・廣津和郎「店のことを小説にかくから」、同・尾崎士郎「宇野千代に飲代を貰ってくるから」)。今和次郎他「銀座のカフェー服装採集」。

小島政二郎「カフェー断片」。谷崎潤一郎「カフェー対お茶屋・女給対芸者」。「銀座行進曲」歌詞。アサヒビールのポスター(カフェの女給)。「カフェ外観写真集」。クロネコのメニュー。濱谷浩の写真「カフェ銀座パレス」。山名文夫の「カフエ・バア・喫茶店広告図案集」、などなど。

「カフエーは、ちゃちながらも、現代建築の小模倣があり、光度、照明、座作にも、相当時代的な快適がともなふであらう。ジヤズの騒音と、葉巻の紫煙の中でしきりと琥珀色の液体を胃腑に注ぎ込む。思ひきって魅惑的な、或は貞操からすらも解放された気に見える、小鳥のように自由な、年若な女性と華やかに接触する。……現代人欲望の中心たる酒精と女性はここで完全に包合する」(千葉亀雄「カフエーの社会的意義」『経済往来』1928年)

大正末から流行り、「モボ・モガ」の流行語を生み、「エロ」で売り、日中戦争勃発後、急速に規制され消えていったカフェーは、今でいえばキャバクラみたいなもんだろうか(行ったことないけど)。

いずれにしても、「夜の銀座」についてなにか調べようとしたら、今後は必ず参照しなければならない貴重本。非売品だから手に入れにくいけど、国会図書館、都立中央図書館、中央区図書館あたりには入ってるんじゃないかな。


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August 27, 2006

『ハリウッド・バビロン』のブラック・ダリア

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ジェームズ・エルロイのノワール小説『ブラック・ダリア』が映画化され、10月に公開される。映画への愛にあふれたブログ「ツボヤキ日記」に詳しい情報が紹介されてるけど、ブライアン・デ・パルマ監督、主演がジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート、いまいちばんの美女、スカーレット・ヨハンソンにヒラリー・スワンクというスタッフ、キャストだから楽しみ。

この映画の素材になったブラック・ダリア事件のことを初めて知ったのはケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロンⅡ』(1991、リブロポート)だった。その後、エルロイの『ブラック・ダリア』が翻訳され、エルロイ・ブームが起きて、ノワール、ハードボイルド好きのあいだではよく知られるようになった。

ケネス・アンガーの本によると、事件はなんともスキャンダラスで、その後、全米を揺るがすことになるいくつもの猟奇殺人の原型のようなもの。

1947年1月、ロスの町なかの草むらで、登校途中の少女が若い女の全裸死体を発見した。死体は上半身と下半身に切断され、体じゅうに残虐な拷問の痕があった。口は両端を真一文字に切り裂かれ、乳房には無数の切り傷と煙草の焦げあと。全身が血抜きされて洗浄され、髪はきちんとシャンプーされ染料で赤く染められていた。

「奇妙だったのは、太股の、三角形に深くえぐりとられたあと。そこには、もともとバラの花の刺青が施されていた。解剖の結果、刺青のある肉片は、からだの奥深くに押しこまれていたことがわかった。細い手首とミルクのように白い足首に残っていたロープのあとは、3日は続いたと思われる拷問のあいだ、彼女が固く縛りつけられていたことを物語っていた」

この本には切断された「ブラック・ダリア」(被害者がいつも黒髪をアップにし黒い服を身につけていたことから、こう呼ばれた)の現場写真が添えられているけど、とてもここで紹介する気になれない。エルロイは、ついに真犯人が逮捕されなかったこの事件をもとに小説家の想像力をふくらませ、1940年代LAの闇を見事に描ききった。

エルロイもすごいが、アンダーグラウンド映画作家のケネス・アンガーが書いた2冊の『ハリウッド・バビロン』(Ⅰの翻訳は1978、クイック・フォックス社)も、なんとも面白いハリウッド裏面史。

ヴァレンチノ、クララ・ボウ、チャップリン、ディートリッヒから資本家ケネディ(大統領の父)、ヒッチコック、ジェーン・マンスフィールド、モンローまで、ハリウッド・スターの情事や自殺や事故や発砲事件や麻薬騒動や乱痴気騒ぎ、認知裁判、ありとあらゆるスキャンダルが集められている。

当時のタブロイド紙やゴシップ雑誌に載った記事や写真が満載だから、映画ファンにとっては下世話な覗き趣味としても面白いし、一方で「欲望」をキーワードにして編んだハリウッド史(ひいてはアメリカ史)でもある。アメリカの雑誌や小説を読んでいたり、映画を見ていると、ああこれは『ハリウッド・バビロン』に出ていたあの事件だな、と気づくことが時々ある。そのたびに、この本を読みかえす。

「ブラック・ダリア」の映画化を知って、またまた本棚から引っぱりだした。この本やエルロイの小説をぱらぱらながめていると、いやでも期待が高まる。同じエルロイ原作でカーティス・ハンソン(監督・脚本)、ブライアン・ヘルゲランド(脚本)の強力スタッフで映画化した『LAコンフィデンシャル』が素晴らしかっただけに、デ・パルマさん、頼むよ。

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August 24, 2006

『ローズ・イン・タイドランド』のミイラ

梶井基次郎の「桜の木の下には死体が埋まっている」にならって言えば、「大草原の小さな家にはミイラがあるんだよ」。

『ブラザーズ・グリム』につづくテリー・ギリアムのファンタジー。原作の「タイドランド(干潟)」は少女を主人公にした小説だそうだが、それがもともとファンタジーの要素をもっているのか、それともテリー・ギリアムが映画化に際して「不思議の国のアリス」を重ねたのかは原作を読んでいないのでわからない(邦訳あり)。

ただ『ブラザーズ・グリム』にも『ローズ・イン・タイドランド』にも共通しているのは、いま全盛のファンタジー映画の波に乗りながら、正義と悪がはっきりした少年少女の成長物語ではなく、ファンタジーの底にひそんでいる性と死の世界をギリアム流の映像で全面展開してみせるしたたかな意思。僕はファンタジー映画をほとんど見てないのでわからないが、こういうのをダーク・ファンタジーと称するんだろうか。

緑の丘に囲まれた干潟の金色の草原。そにぽつんと建つ朽ちかけた家。草原のなかの1本の枯れ木と引っくりかえって錆びた車の残骸。草原と丘の境を走る鉄道の線路。こんな風景が、映画の舞台装置。たぶん「大草原の小さな家」を意識してるんじゃないかな。そしてその家のなかにいるのは一生懸命に生きる善意の人々ではなく、ミイラ。

少女のローズ(ジョデル・フェルランド)は元ロック・ミュージシャンの父・ノア(ジェフ・ブリッジス)とともに、お祖母ちゃんが住んでいた草原の廃屋に引っ越してくる。「不思議の国のアリス」が大好きなローズは、いつも指にはめたバービー人形の頭と会話ごっこをしては空想にひたっている。この人形の頭が、ちょんぎられた首を連想させて不気味。

ドラッグ漬けのノアは、ある日、クスリをやってトリップしたまま、この世に戻ってこない。ローズは父の死を気にもとめず幻想の世界に遊んでいる。のっけから全開のジェフ・ブリッジスはあっけなく死んでしまい、以後、死体とミイラとして画面に登場するのを嬉しそうに演じてる。

やがてローズは近くの屋敷に住む、知的障害を持つ少年デルと仲良くなる。ローズはデルに無意識の性的な遊びをしかけたりもする。デルの姉で魔女のようなディケンズは、ノアが少年だったころ、彼が好きだったらしい。死体になったノアを見つけたデルはを彼をいとおしみ、皮をはぎ内臓を取りだして、愛する男のミイラをつくる。そして彼女の家には、もう一体のミイラ……。

このあたりテリー・ギリアムの独壇場。特殊メーク(ルイーズ・マッキントッシュ)を駆使し、広角レンズの歪んだ視覚を使って夢幻的なショットを次から次へ繰り出してくる。といっても、おどろおどろしく見る者を脅かすのでなく、ギリアムらしい遊びの感覚。ローズとデルの家の悪夢のような光景と、周囲に広がる明るい草原との鮮やかな対照。

美しい風景と暗黒世界を自由に出入りするローズを演ずるのは11歳のジョデル・フェルランド。その可愛らしさが、この映画を暗い死の世界へとなだれていくことから救っている。金髪にぱっちりした二重の目。死んだお祖母ちゃんの帽子とピンクのショールを身につけ、口紅を引いた幼い唇の色っぽさ。それでいて凛とした品を感じさせる。

ファンタジーとかダーク・ファンタジーとかいうより、やっぱりテリー・ギリアムの映画、としか言いようのない作品だった。

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August 22, 2006

『トランスアメリカ』とロード・ムーヴィー

ロード・ムーヴィーがジャンルとして意識されるようになったのはいつごろからだったろう。ちゃんと調べもせず記憶だけで言えば、ヴェンダースの『さすらい』3部作あたりからだろうか。

もちろんそれ以前に『イージーライダー』があり『ヴァニシング・ポイント』があるわけだけど、当時はロード・ムーヴィーというよりアメリカン・ニューシネマというくくりで語られることが多かった。でも今となってみれば、ヴェンダースがアメリカ映画から多くの刺激と啓示を受けたのを自らの作品で語っているわけだから、やはり『イージーライダー』を起点とするのがいいかもしれない。

ロード・ムーヴィーを「旅もの」と解すれば、過去にも「珍道中」をはじめとしてハリウッドには古くからこのジャンルの映画はあった。でも、単に「旅もの」ではなく、旅にともなう精神的なもの、内面の価値観にかかわる映画として解すれば、そのルーツはケルアックの小説『路上にて』に代表されるビートニクに発している。

『イージーライダー』を生みだしたヒッピー・ムーヴメントの背後には明らかにビートニクの精神があるから、その意味でも『イージーライダー』をロード・ムーヴィーの起点にするのがいいんだろう。

そう考えるとき、アメリカのロード・ムーヴィーの主人公が大陸横断(トランスアメリカ)するとき、単に西から東へ、北から南へ地理的な移動をしているだけでなく、異なる価値観のあいだを旅しながら自らの価値観を変貌させているといえるわけだ。地域・人種・階層・世代によって異なる価値観のあいだを緊張をはらみつつ移動するなかで、『イージーライダー』や『ヴァニシング・ポイント』の主人公たちは殺されていった。

なんてことを言いだしたら、いつまでたっても『トランスアメリカ』に行きつかない。話を一気にとばして、最近のロード・ムーヴィーと呼べるアメリカ映画では、かつてのように異なる価値観のあいだで登場人物が対立するといった社会的構図より、もっと個人的な家族の問題が素材にされることが多いように思う。

1960~70年代のカウンター・カルチャーの時代が終わった後、アメリカ社会が抱える矛盾は階層や世代の社会的対立から、より小集団である家族へ内在化したことの反映かもしれない(無論、アフリカ系やヒスパニックの民族問題が解決したわけじゃないけど、アメリカ産ロード・ムーヴィーはもともと白人中産階級の豊かさを前提にした映画だからね)。

ロード・ムーヴィーの名作をつくってきた監督たちの最近作、ジャームッシュの『ブロークン・フラワーズ』も、ヴェンダースの『アメリカ、家族のいる風景』も、少し前になるけど『アバウト・シュミット』も、いったんはばらばらになった親と子、夫と妻といった家族が、旅のなかで再び新しい絆を見つけだそうとする映画だった。

『トランスアメリカ』も、最近のロード・ムーヴィーのそうした流れを忠実に受け継いでいる。この映画の面白いところは、そこにもうひとつ性同一性障害(トランス・セクシュアル)を絡ませたこと。これが長編第1作のダンカン・タッカー監督(脚本)は、旅+家族+トランス・セクシュアルというアイディアを得たとき、これだと思ったにちがいない(監督のインタビューを読むとトランス・セクシュアルの友人からヒントを得たというから、実際の順序はトランス・セクシュアル+家族+旅だったろう)。

男から女への性転換手術を目前にしたブリー(フェリシティ・ホフマン)の前に、息子だというトビー(ケヴィン・ゼガーズ)が現れる。LAに住むブリーはNYで拘留されたトビーを迎えにいくが、女性として生きている彼は父親だと名乗ることができない。名乗れないままに、ブリーは父と暮らすのが夢と語るトビーとともに大陸横断してLAに向かう。

中西部の小さな町々を通過し、ニューメキシコのブリーの実家を経てLAを目指す2人の旅は、予想どおり色んな出来事に見舞われる。ブリーは先住民系の男にほのかな恋心を抱かれ、実家では母親の激しい拒絶に出会う。金がなくなるとトビーは体を売る。ブリーを父親と知らないトビーは、彼(彼女)に心を寄せるようになる。定石といえば定石通りの展開。

最後の心温まるエンディングまで、脚本も演出も、ヒューマン・ドラマをとても上手に見せてくれるのだが、そこが不満といえば不満。このエントリーは映画を見て1週間後に書いているけど、印象に残ったシーンやショットを捜そうとしてもなかなか出てこない。

熱くならない適度な距離感、優しい眼差し、ユーモア、この映画の感触は『アバウト・シュミット』のアレキサンダー・ペイン監督の映画から受けるそれと似ているけれど、ペインが時に見せるドタバタふうな逸脱、過剰さ、かいまみせる鋭い棘のようなものがなく、すべてがバランスよく収まっている。そのことが、時間が経つほどにじわっと染みこんでくるペインの『サイドウェイ』などとは逆に、時間が経つほどに印象が薄くなってくる理由かもしれない。

トランス・セクシュアルを演ずるフェリシティ・ホフマンが見事。まったく予備知識なしで見たので、最初、男優なのか女優なのかよく分からなかった。男優が(体を見せる部分は特殊メークか吹き替えで)自分を女だと思う男を演技しているのか、女優が自分は女だと思う男を演技しているのか。低い声は男優が声をつくっているようだし、ラスト近く、バスタブのヌード・シーンではっきりするまで確信をもてなかったほど。怪演といってはなんだけど、後で素顔を見るとなかなかの美女。根性あるね。

お久しぶりバート・ヤングもいつもながら。

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August 19, 2006

軒先の黒猫

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散歩道、古い一軒家の軒先にいた黒猫。このあたり、ちょっとした高層マンションブームで、あちこちに地上げされた空き地があり、高層反対のビラが貼ってある。老人が住んでいるらしいこの家も、高層の谷間になったり、空き地になったりしないといいが。

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August 12, 2006

『レイヤー・ケーキ』の階層

冒頭で、麻薬密売人のXXXX(ダニエル・クレイグ)がロンドンの典型的な労働者階級の赤レンガ住宅に入っていく。仕入れた麻薬の作業場。彼は「末端のユーザーは避けろ。必ず問題が起こる」なんてつぶやくから、麻薬を仕入れ、売人のギャングに卸す仲買人なのだろう。

XXXXはボスに呼ばれて彼の邸宅へ赴く。郊外の広大な緑の敷地に建てられた、かつては貴族が住んでいただろうシャトー。赤レンガ住宅とシャトー、2つの建物のショットで『レイヤー(階層)・ケーキ』というタイトルの意味が示される。

普通の映画なら、最下層のレイヤー(ちんぴら)から最上級のレイヤー(ボス)へと登ってゆく野心に満ちた男が主人公になる。でもXXXXはそんな野心にあふれた男ではなく、自分を「ギャングじゃない、ビジネスマンだ」と呼ぶ。

そんなクールな男が、「好調なうちに引退しろ」という金言に従って引退しようとするのだが、ボスに命じられた最後の2つの仕事をこなすうち、そこに仕掛けられた罠にはまって……。レイヤーから降りようとした男が、気がつけばレイヤーを駆けのぼり、そこからさらに反転する結末を迎える。

どんな危険や裏切りに直面しても、顔の筋ひとつ動かさないXXXXのクールさに対応しているのが、平面を強調した映像だ。

シネマスコープの映画は横長の画面に奥行きを感じさせるため、前景や中景を配して立体感と動きを持たせようとするのが普通だけど、ここでは意識的に前景や中景なしの平面的で静的な画面をつくり、カメラが平面的な映像に沿って平行移動するという、主人公の冷静沈着さに見合ったスタイルを取っている。冒頭の、ドラッグストアのモノクロとカラーが反転するしゃれたシーンからそれは始まる。

もっともそれがマシュー・ボーン監督のスタイルだというほどの強烈さはない。もともとヒット作のプロデューサーで、この映画で初めて監督をつとめるボーンは、なかなか粋な映像と音楽(60~70年代の懐かしいブリティッシュ・ロック)を次々に繰り出してくるけれど、あくまで部品の面白さで、惜しいことにそれらが1本の映画として結晶していない。

名だたる階級社会であるイギリスの表と裏のレイヤーについても、もっとイギリス映画らしい寸鉄人を刺す皮肉を期待したのだが。麻薬を国の産業としてつくっているセルビア人が悪役として登場するのもステロタイプ。いい素材、いい役者、いい音楽なんだけどね、惜しい。

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August 10, 2006

若冲を見たか?

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(『BRUTUS』の「若冲を見たか?」。左に出ているのは観音開きの「動物花木図屏風」の一部)

六曲一双の屏風が細かく升目に区切られている。1辺1センチほどの正方形の升目が一曲に約14,000個。一双では86,000個にもなる。平面に広げた巨大なルービック・キューブのような、あるいはモスクの細密なタイル画のような、その升目のひとつひとつに描かれた線や色が集合すると、象や虎や猿などの動植物が満ち満ちている極彩色の絵が現れる。

江戸のデジタル画像とでもいえそうなこの屏風のヴィジョンを、伊藤若冲はどこから得たんだろう? 一説には李朝(韓国)のモザイク画からヒントを得たともいわれるが、本当のところはわからない。この「鳥獣花木図屏風」ひとつを見るだけでも、同時代から抜きんでた若冲の天才がひしひしと伝わってくる。

ここに描かれた象や虎や獅子やラクダを、若冲はたぶん見たことがない(対になるもう一双には想像上の生きもの、鳳凰が描かれている)。だからこの絵は、徹底した写生から生まれた何枚もの有名な鶏図とは性質が異なる。

この屏風を見たとき、涅槃の風景だなと思った。厚い仏教信者だった若冲は何点かの涅槃図を描いているけれど、深い青空と白雲をバックに、象が野を歩き、鳳凰が羽を広げ、鳥が空を飛び、猿が樹上に遊ぶこの絵もまた、画面の中心に死にゆく釈迦が不在ではあるものの、若冲の想念がつくりだした美しい涅槃の光景だと思えた。釈迦のかわりに画面の真ん中にいる白象は、普賢菩薩の乗り物でもある。

「若冲と江戸絵画」展(東京国立博物館。8月27日まで)は見応えたっぷり。若冲を17点も見られるなんて、「動植綵絵」30点を所蔵している三の丸尚蔵館を除けば、このプライス・コレクション以外にない。

会場は、若冲、曽我簫白ら「エキセントリック」を中心に、「正統派絵画(狩野派)」「京の画家(円山応挙ら)」「江戸の画家(師宣ら)」「江戸琳派」に別れている。

若冲だけを見るのではなく、若冲を当時の狩野派や応挙、江戸琳派などのなかに置いてみて気がつくことがある。若冲の絵は屹立しているけれども、かならずしも孤立した異端ではなく、当時の絵画の流れのなかにきちんと収まっていること。当時の絵画の環境のなかから生まれた絵師であることがよくわかる。

ただ、若冲が若冲であるのは、そこに誰にも真似のできない天才のエッセンスが1滴加わっていることで、そのことによって、現代人が「奇想」とか「エキセントリック」とか「シュール」と呼びたくなる絵が出現しているのだ。

この展覧会で面白かったのはもうひとつ、「江戸琳派」のセクションが作品の前に保護のガラスをはめず、光量と色、光源の角度を調整して、朝の光、昼の白っぽい光、夕方の赤い光、夜の暗がりなど刻々と変わる照明のもとで作品を見せていること。

掛け軸にしろ屏風にしろ、家屋のなかでは部屋を飾る調度品として見られるのが普通。だから、当時の住まいの条件に近づけて見せることによって、江戸の人々がこれらの絵を実際にどのように見ていたのかを知ることができる。特に夕方から夜にかけての、赤く暗い光に照らされた酒井抱一や鈴木其一の色っぽさといったらない。

このところ出版界も若冲ブームで何冊もの画集や豪華本が刊行されているけど、雑誌『BRUTUS』の特集「若冲を見たか?」が充実している。コレクションのオーナー、プライス氏へのインタビューや2つの両観音開き(しかもダブルの観音開き)で「鳥獣花木図屏風」と「動植綵絵」を見せているのは保存版としての価値も十分。

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August 06, 2006

エイリアン?

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散歩道の公園にある銅像。奥まった場所にあり、いつもあそこに何かあるなあと思っていたが、近づいてみたら奇妙奇天烈な像だった。河童の親戚か、インディオの神か、はたまたエイリアンか。なんでこんなものが、こんなところ(市の公園)にあるんだろう。

何も書いてないので公園内を歩きながら捜したら、出入り口の案内板に「風の神」とだけあった。「風の神」といっても、どこの風の神なんだろう。日本の風の神のイコンは、たいてい風袋をかついだ赤鬼で表される。とするとこれは? 謎が深まるだけだった。


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August 02, 2006

浮き浮き気分

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普段が遅いので、仕事場を出て空がまだ明るいと浮き浮きした気分になる。近くのビル解体現場から見る西の空が焼けていた。

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3分ほど歩くともう赤味は消え、ビル群の間に月が昇っていた。

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