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July 31, 2006

『M:i:Ⅲ』はいまいち興奮しなかった

『M:i:Ⅲ』はまずまず楽しめて2時間退屈はしなかったけど、すごい映画に出会ったときのワクワクドキドキはなかった。

僕の場合、このシリーズでそんなワクワクドキドキを味わったのはジョン・ウーが監督した2作目。むろんこれは、あくまで好みの問題。ブライアン・デ・パルマ監督の1作目がすごかったという人もいるし、いや、テレビ出身の新人、J.J.エイブラムスが監督したこの3作目がいいよ、という人もいるだろう。ジョン・ウーの「やりすぎ」でセンチメンタルな演出がうざったいという人だっているに違いない。

同じノンストップ・アクションなのに、このワクワクドキドキの差はどこから来るんだろう。2作目と3作目を僕なりに考えてみることにする。ちなみに1作目については、チームのメンバーが次々に殺されるあたりにパルマ監督らしいサスペンスはあっても、全体として絶好調時のパルマ作品に遠く及ばないという印象をもった。

ひとつは脚本の差。2作目は、イーサン・ハント(トム・クルーズ)が一目惚れするナイア(タンディ・ニュートン。魅力的)が悪役ショーン(ダグレイ・スコット)の愛人という、敵対する者同士の三角関係が生む葛藤がドラマ部分の軸になって、全体をおおうアクションに陰影と陰りを与えていた(見事な脚本は『チャイナタウン』のロバート・タウン)。

今回、イーサンには婚約者ジュリア(ミシェル・モナハン)がいる。ファースト・シーン。誘拐された婚約者(その時点では観客にはわからないが)の前で、イーサンがデイヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)に銃をつきつけられ、殺されそうになる。この冒頭で映画の軸が提示される。愛する女性が捕らわれ、主人公が彼女を助けに危地ににおもむく、「姫、危うし」のパターン。

イーサンはジュリアにスパイである自分の正体を明かしていない。それがいつどんなかたちで明らかになるのか期待したけど、そこはごくあっさりと処理されていた。その場面で明らかになるイーサンとジュリアの葛藤に、2作目とちがって3作目はほとんど興味を示さない。

そのかわりに、イーサンとジュリアの婚約パーティをはじめ、幸せな2人のシーンが前半のそこここにインサートされる。その後、婚約者の誘拐の衝撃を高めるためだろうけど、どのシーンもお定まりの描写を出ない感じ。そもそも幸せなスパイなんてのはありえないんじゃないか。イーサンはスパイとしての裏の顔を婚約者に隠しおおせると思っていたんだろうか。でも3作目はそういう人間ドラマには目もくれず、ひたすら「姫、危うし」の定型を踏んでゆく。

いまひとつ2作目と3作目で違うのは演出力の差。世界中にロケ地を求め(3作目はベルリン、ローマ、ヴァージニア、上海)、イーサンと女性のからみを短くはさみながらノンストップ・アクションがつづくことは2作目も3作目も同じ。3作目のアクションは、テレビ出身の監督らしく2作目よりテンポがかなり早くなっている。手持ちカメラの不安定な映像も今ふう。

でも、ベルリンの襲撃シーンも、バチカンの拉致シーンも、海上道路でのカー・チェイスも、上海の高層ビルからの飛び降りも(これは1作目にも2作目にもあるトム・クルーズ得意のスタント)、どこかで見たという既視感がつきまとう。もちろんどれもアクション映画お定まりの設定で、それはそれでいいのだけど、お約束を見せながらなお観客を驚かせるショットに乏しい。

それに比べるとジョン・ウーの2作目は、お定まりのなかにも新鮮なショットに満ちていた。

冒頭、アンダルシア(だったか?)でイーサンとナイアがフラメンコ・ダンサーの踊りを間にはさんで目と目で出会うシーンから、スローモーションを駆使したジョン・ウー節全開。オートバイのチェイスも、イーサンと悪役の空中での剣士のような対決があり(三船敏郎と仲代達也みたい)、その瞬間、空中のオートバイを真下から見上げるショットは鮮やか。敵の要塞では、『男たちの挽歌』を思い出させるように鳩が飛び、炎のなかからイーサンが現れる(やりすぎ)。

おっ、おおっ、と見る者を驚かせるショットがつづく。「やりすぎ」とセンチメンタリズムもここまで徹底されれば、ジャンル映画の底を抜いて快感に変わる。これこそアクション映画の面白さなんだな。

いまひとつ3作目で期待ほどでなかったのは、悪役に今をときめくフィリップ・シーモア・ホフマンを起用したこと。ホフマンは『ブギー・ナイツ』やトム・クルーズと共演した『マグノリア』みたいな映画で生き生きすることからわかるように、外見ではなく内からじわじわにじみ出てくるもので役を演じるタイプ。でもこの映画は脚本も演出もそういうことに力を注がないから、悪役としてのホフマンの凄みがうまく出ていないように感じた。いい役者を生かしきれてない。

それにしても上海の高層ビル群はキッチュな建築が多いから、映像的には面白い。これから上海ロケが増えるかもしれないな。


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July 30, 2006

比叡山へ

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京都へ出張し、半日あいたので25年ぶりに比叡山延暦寺を訪れる。梅雨は明けたけど、時々驟雨に見舞われる不安定な空模様。杉の大木の向こうに根本中堂が見えた。

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西塔まで行くと、人はぐっと少なくなる。親鸞が修行した聖光院跡の石組み。近江側の登山口である坂本は穴太衆(あのうしゅう)の根拠地。彼らは石組みの専門家集団として、古代の砦から江戸時代の城づくりまで各地で活動してきた。坂本の日吉神社から叡山にかけての石組みは、当然のことながらほれぼれする出来映え。

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いちばん奥の横川まで行くと人影もまばらになる。元三大師堂からの帰り道、雨上がりの空が明るくなってきた。

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京都の町並みを見下ろす。鴨川の流れ、京都御所、上賀茂・下賀茂神社は緑が濃く、位置関係がよくわかる。

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July 27, 2006

庚申塚

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散歩道の町角にある庚申塚。このあたり中山道の宿場町なので、一里塚や江戸時代の道標も残っている。塚の前の花は隣の花屋さんの商品で、売りもの。花屋の店先とほとんど一体化している。

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July 24, 2006

『ゆれる』のもうひとつの可能性

『ゆれる』の評判がいい。僕の行った平日の最終回(新宿)もほぼ満員。オダギリジョーが出ているからか、兄弟の葛藤という題材が人の心を引きつけたのか、西川美和監督の実力か、あるいは魅力的なポスターの力もあずかったのか。

僕はちょっと誤解していたかもしれない。企画に是枝裕和が噛んでいること、カンヌ映画祭(監督週間)に出品されたことなんかから、単館ロードショー系のマイナーな映画かと思っていた。

確かに、過剰な説明を避けて多義的な解釈を許す脚本や、繊細な風景描写、大胆な音の使い方(省略)など、この映画には常識的な文法を踏み外したところがたくさんある。でも、これが長編2作目(1作目は『蛇イチゴ』。未見)の西川美和の資質は、ひょっとしたらエンタテインメント系の映画にこそ向いているのではないか。そんなふうに思った。無論これは、おとしめているつもりはない。

なぜそう感じたのかは、説明が必要だろう。ポイントは、弟の猛(オダギリジョー)が誰も予想しなかった証言をするクライマックスと、そこにいたる描写にある。

兄の稔(香川照之)と一緒に橋を渡って転落した智恵子(真木よう子)の死は事故なのか、殺人なのか? 西川美和は事件の核心を、観る人によってどちらにも取れるように描いている(と僕には思えた)。いわば、殺意はあったかもしれないが事故だった、あるいは事故だったかもしれないが殺意はあった、というふうに。それがどちらだったかは、記憶を反芻するなかで兄自身にすらよくわからなくなってしまった、とも見えるように描写されている。

事件・逮捕・自白・面会・裁判といった過程で、兄も弟も「ゆれる」。兄弟の感情は、2人の過去の関係性にとらえられてぐらぐら変化し、その結果、事件に対する証言も一貫性を欠くものになる。事故が起こったとき、兄は呆然としているが、やがて殺意があったことを「自白」し逮捕される。裁判では、叔父の弁護士(蟹江敬三)の誘導に従って事故であることを淡々と述べる。

その過程で、暗示的な描写が散りばめられる。事故の前の晩、猛が智恵子とセックスしたのを、智恵子に好意を寄せる稔は気づいていた(らしい)。兄の腕に残る傷跡は、幼い兄弟が事件が起きたのと同じ橋をかつて2人で渡ったとき、数十年後に再現されるのと似た事故が起こった(らしい)。

そんな過去と、地方都市で家業のガソリンスタンドを継いだ地道な兄と、東京でカメラマンとして成功した奔放な弟の現在がからんで、怒る父(伊武雅刀)に対しては結束していた兄弟の間に、心の底にあった憎しみが噴出してくる。兄も弟も、愛と憎しみに引き裂かれて「ゆれる」。

弟は、兄の無実を訴えるはずの証言台で、「兄を自分に取り戻すために」、誰も予期しなかった証言をする。その証言が、そこまでの過程で観客が納得するように描かれているかどうかが、この映画の核。で、僕はといえば、必ずしも画面から説得されなかった。

それがなぜかは、ネタバレしそうで詳しくは述べられないけど、兄の殺意の存在がなぜ「兄を取り戻す」ことになるのかが十分に描写されていないことにあると思う。兄弟の過去のいきさつが暗示的に、色んな解釈を許すように描かれていることの弱点が、決定的な場面で出てしまったように感じた。

こういう映画のつくり、2人の過去を多義的に描くつくりでなく、幼い日の出来事、職業の選択、親子の対立、智恵子をめぐる確執といったことがらを、誰にも納得できるような因果関係で結び、その上で2人のぐらぐら「ゆれる」理由を少しずつ種明かしして、クライマックスは最後の証言、というエンタテインメント系の作品に仕上げる選択肢もあったんじゃないか。そしてここには、そんな見事なサスペンス+法廷劇になりうるメリハリの効いたセリフや画面が、そこここに散りばめられている。

ひょっとしたら西川美和は自分の資質に気づいていないのかな、なんてことも思った。いまこの国で作家性の強い映画監督の代表である是枝裕和ではなく、別のプロデューサーが彼女の映画を企画したら、まったく別のテイストの、でも面白い映画が生まれるかもしれない。無論、それで失敗する例もまたたくさんあり、その結果、「商業主義に屈した」などと批判されるかもしれないが。

でも、僕が今の日本映画に期待したいのは、作家性にこだわったマイナーな映画ばかりでなく、あるいは小劇場やテレビのバラエティをスクリーンに移したにすぎないこじんまりした笑いばかりでなく、ハリウッドのなかで作家性にこだわりつつ素晴らしい映画をつくっている(だから失敗作もあるけど)イーストウッドやリドリー・スコットやクローネンバーグみたいな存在が出現すること。ま、それは監督というよりシステム全体の問題だけど、西川美和はそういう資質を十分に持っていると思った。

出演者のことを書くには長くなりすぎたけど、この映画は別の視点から見れば、オダギリジョー、香川照之2人の役者の肉体の輝きから成り立っている。

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子供御輿

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この町には大きな産業も商店街もないせいか、どうも祭が盛り上がらない。風にのって祭囃子が遠くから聞こえてくるようなわくわく感を味わったことがない。

散歩していたら銭湯の前を子供御輿が通りかかって、そういえば今日は祭だったなと思い出した。御輿をかついでいる子供たちも、つきそっている大人たちも、遠慮がちにかけ声を出しているように聞こえる。見物人もなく、コインランドリーの客も気乗りしない顔で御輿をながめていた。

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July 23, 2006

「文化住宅」

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散歩道には、大正から昭和初期のいわゆる「文化住宅」が2軒だけ残っている。和風住宅の玄関脇に1部屋だけ洋間(応接間)を配したつくり。洋風の瓦ととんがり屋根、両開きの窓が当時のモダン感覚を象徴している。

このあたりは戦前からの住宅地で、昔はそこらじゅうにあったものだが、ここ10年、建て替えられたりマンションになったりで、ほとんどなくなってしまった。もっとも、子供のころ近所の「文化住宅」に何度かおじゃました記憶では、たいてい物置きのようになっていて、有効に使われているようには思えなかった。

写真のお宅は外回りもよく手入れされており、なかの部屋もきちんとしているのではないかと想像させる。

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遊歩道の脇に盛大に伸びていた雑草(という名の草はないと、ある人が言っていた。でも誰かが植えたものとは見えない)の花。なんという草なのだろう?

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July 22, 2006

豆腐屋さん

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これまでデジタル・カメラはコンパクト型を使っていたのだが、一眼レフを買ってしまった。ふだん持ち歩くには大きすぎるし重すぎるけど、なにかのときに必要かなと……いや、要するにほしくなったんですね。で、ならし運転のため散歩に持ち歩くことにした。撮ったものを<散歩道>としてアップします。

老夫婦がやっているご近所の豆腐屋さん。暗いうちから働きだし、いつも朝7時すぎには仕事を終えて、路上に道具を出して干している。1丁買って帰り、庭の茗荷を摘んで冷奴にした。スーパーの無味無臭の豆腐とはちがう、にがりの効いた昔の味。

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July 21, 2006

陰翳礼讃

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昨日につづいてカメラ・テスト。玄関を廊下奥から。外は雨が降っているので暗く、照明をつけないと「陰翳礼讃」の気分。ベトナム製の葦の簾がかすかに揺れている。

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庭のノウゼンカズラ。ノウゼンカズラの花は和風の庭にはそぐわない、ちょいと妖しげな雰囲気をもっている。そこに妙に惹かれて10年ほど前に植えた。

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July 20, 2006

雨中のムクゲ

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マクロ機能がついたカメラを買ったので、庭のムクゲをテスト撮影。ムクゲの花には色んな種類があるけど、僕はこの白い花弁で中心が赤くなっているのが好き。これから9月まで、毎日楽しめる。

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July 17, 2006

『キングス&クイーン』とヌーヴェルヴァーグの遺伝子

アルノー・デプレシャンの映画を初めて見る。

「トリュフォーの再来」といわれるデプレシャンの新作『キングス&クイーン』のファースト・シーンはパリの街角。陽光きらめくマロニエの並木通りをタクシーが走ってきて止まり、ヒロインのノラ(エマニュエル・ドゥヴォス)が降り立つ。彼女に降りそそぐ木漏れ日の揺らめきと柔らかな空気に、まぎれもなくトリュフォーの遺伝子を感じてしまった。

窓ごしに入ってくる逆光のなかでノラはじめ登場人物の上半身が捉えられるショットがいくつもある。顔がシャドーになった人物の背後に、ハイライトになった白い壁やカーテン、あるいはちょっとした色がアクセントになっている。そんな、あふれるばかりの光がなんとも印象的な映画だ。

それ以外にもトリュフォーあるいはヌーヴェルヴァーグのいくつもの遺伝子に気づく。

車から降りたノラは経営している画廊に入っていき、仕事の指示を与えるシーンがつづくが、次のショットで彼女はいきなりカメラに向かって語りだす。「最初の結婚で子供ができ、夫は死んだ。2度目の夫とは1年前に離婚した。先週、ある実業家にプロポーズされた」。

俳優がカメラを見つめ、カメラに向かって話す、あるいは俳優がインタビュアーに答えるドキュメントふうな手法はヌーヴェルヴァーグが多用したやり口だった。

ノラがグルノーブルに住む作家の父と、父に預けてある息子を訪ねると、父はガンに侵されているのがわかり入院することになる。ノラが病院の廊下のソファーに座っていると、男がいきなり現れてノラと親しげに話しはじめる。誰だろうと思っていると、やがて話の中身から男はノラの最初の夫、つまり死者であることがわかってくる。

だからこれはノラの幻想なんだけど、幻想シーンであることを示すきっかけ(思いにふけるノラの顔のアップとか、音楽が変わるとか)はなにも示されない。それまでの日常シーンとなんら変わることなく当たり前のように接続されている。以後も現実と幻想が自在に入れ替わり、これまたヌーヴェルヴァーグ的な感覚。

あるいは、登場人物が詩やシェークスピアのせりふを口ずさむ。ゴダールのように引用そのものが映画をドライブさせるわけではないにしても、引用好きもまたヌーヴェルヴァーグの遺伝子だね。そんなゴダールやトリュフォーを意識した手法を取り込んで、多様な視線をもつポリフォニックな映画をデプレシャンはつくりだした。

音楽もまたそのことを示している。ノラが車を降り立つファースト・シーンとラスト・シーンは懐かしの「ムーン・リヴァー」(『ティファニーで朝食を』ですね)。もうひとりの主役、ノラの2度目の夫イスマエル(マチュー・アマルリック)が登場するシーンでは激しいリズムのヒップホップ。

ほかにもノラのシーンではフレンチ・ポップスやクラシック、イスマエルのシーンではブラック・ミュージックやジャズと、白人系の音楽とアフリカ系の音楽が意識的に使いわけられている(イスマエルはヴィオラ奏者で、彼が現代音楽を演奏するシーンもある)。

音楽が変わると、画面のタッチも変わる。ノラや作家の父、息子が登場するシーンは端正で美しく、イスマエルや病院で親しくなる「中国女」(!)、ノラの妹が登場するシーンでは手持ちカメラの不安定で動的なショットが多用される。

ノラの視線。イスマエルの視線。このふたつの視線を中心に、父や妹、最初の夫などのたくさんの視線が入り混じって、それぞれに画面やつなぎ、音楽がつくりだすタッチが異なっている。だから映画に統一感がなく、そのごった煮のような多様さこそデプレシャンが狙ったものにちがいない。

いくつもの視線が折り重なり、はじめよくわからなかった人間関係がはっきりしてくるにつれて、結婚を控えた幸せなノラの過去が徐々に明らかになってくる。最初の夫はなぜ死んだのか? ノラと父はどういう関係にあったのか? ノラは新たな結婚のために、息子を義理の元父親であるイスマエルに押しつけるのか? 3度目の結婚は打算なのか? 

正直なところ、東洋の島国に暮らしている僕らにはヨーロッパの白人の人間関係、特に父娘の関係はよくわからない。フロイト的解釈もできそうな、過去のトラウマもよくわからない。だからノラに対しては、彼女の孤独に同情はしても、ノラの父が彼女について書き残したように傲慢で偽善的なブルジョア女と思うだけで、見ていて何の共感も覚えないんだな。

デプレシャンはノラの過去を暴く一方で、そんな孤独を抱えながらも積極的に(息子を養子に出し、金持ちの実業家と結婚するってことだけど)生きようとする彼女になにがしかの共感を覚えているように見える。でなきゃ最後に「ムーン・リヴァー」使わないものね。最初と最後にこの曲を使うことの意味は、「みんな孤独に、でもけなげに生きている」ってことでしょ。

そんなノラの姿に、ヨーロッパの観客は同じように共感を覚えるんだろうか。よくわからない。ついでに言えば、僕はエマニュエル・ドゥヴォスにちっとも魅力を感じないんだけど、フランスの観客にとって彼女は魅力ある女なんだろうか。

ノラに対して、社会常識がなく、自分勝手でいいかげんだけど才能あるミュージシャンのイスマエルには、つい親しみを感じてしまう。

強制入院させられた精神科の病院で親しくなった「中国女」に、退院してしばらくほったらかした後に彼女への愛に気づいて電話するシーン。中世ふうの奇抜なマントに身をくるんで彼女に会いに行くシーン。あるいはノラの息子を連れて博物館に行き「父」としてふるまうシーンなど、ノラと対照的に、自分勝手でいい加減なふるまいの底の誠実さを感じさせる。マチュー・アマルリックがそんな愛すべき男を魅力的に演じている。

「キングス&クイーン」とは、クイーンであるノラと、彼女を取りまくイスマエルや最初の夫、父などのキングたちということだろうか。それとも、カードの何かの手、何かの比喩なんだろうか。

カトリーヌ・ドヌーヴが大年増の魅力を醸しだしてる。『反発』のころを知っている身には感慨深い。

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July 09, 2006

『やわらかい生活』寺島しのぶは最高

『ヴァイブレータ』につづく廣木隆一(監督)-荒井晴彦(脚本)-寺島しのぶ(主演)のトリオ。これは今の日本映画で最良の組み合わせかもしれないな。

歴史に残る傑作というわけじゃない。でも、こんなふうに時代の気分をうまく映し出した日本映画は、最近見た記憶がない。ハリウッド映画でもないし、ヨーロッパ映画でもない。韓国映画や中国映画は全体として日本映画よりおもしろいけど、僕の見ている限りこういう雰囲気の作品はない。その意味では、日本映画の現在を良くも悪くも象徴していると思う。昔はこういう映画が「標準」だったと思うのは、過去の記憶を美化しすぎか。

なんといっても寺島しのぶがいい。バリバリの総合職だったのに、躁鬱病で引きこもりになった30代の独身女。躁のときはネットで捜した痴漢趣味の男(田口トモロヲ)とデート(?)する。痴漢される映画館のある蒲田が気に入って引っ越し、「Love 蒲田」というブログを立ち上げる。鬱になると、服も脱がずにベッドへもぐりこんで、何日も風呂にも入らない。躁と鬱をいききするトワイライトの気分をなんとも自然に、等身大で演じている。

寺島しのぶがこんなに力が抜けたのは、やはり『ヴァイブレータ』で廣木・荒井コンビと出会ったからだろうか。同じ年に主演した『赤目四十八瀧心中未遂』では、以前の熱演型演技派のしっぽを引きずっていた。この2本の映画で彼女はこの年の女優賞を総なめしたわけだけど、僕には『ヴァイブレータ』のしのぶのほうがずっと生き生きしているように見える。

僕が寺島しのぶを初めて見たのは10年以上前の舞台「近松心中物語」(平幹二朗・太地喜和子主演。涙滂沱の名作)で、このときはちょっと3枚目の演技派といった趣だった。

その後はテレビドラマで何度か見た程度だけど、時代劇は意外なことに(藤純子の娘なのに)似合わないし、演技派の線でいくのか、ヒロインの線でいくのか、自分を決めかねているように見えた。ま、美人じゃないからヒロインの線はもともと無理があったし、演技派の線でそれなりの個性的役者になるのは確かだとしても、先は見えている。

日活ロマンポルノの系譜を引く廣木・荒井の映画に出演するのは、彼女自身、母親との葛藤を書いたり語ったりしてるけど、それなりの決意がいったにちがいない。

荒井晴彦はもともと文芸ものがうまいけど(原作は絲山秋子)、自ら監督した『身も心も』の失敗で吹っきれたのか、かつての団塊ふうなこだわりをさらりと捨て、豊川悦司の駄目男や田口トモロヲの痴漢、妻夫木聡の鬱病のヤクザ、松岡俊介のEDの都議、主人公ばかりでなく男の造形がどれもいい。

廣木隆一は『ヴァイブレータ』につづいてのオール・ロケ(多分。しのぶのアパートだけはセットかも)。ロケで映しこんだ「粋のない下町」蒲田の空気が心地よい。豊悦としのぶが尾崎豊を歌うカラオケ・シーンで、全曲そのまま撮るなんて大胆な演出も、2人の感情の揺れを感じさせてうまくいった。

そして寺島しのぶの表情の魅力を、素晴らしくうまく捉えてる。鬱でベッドにいるしのぶが目を覚ますのを真上から捉えたショット(このショットのしのぶは美女です)。はにかみながらする独特の微笑。Gジャンに朱色のスカートで豊悦と屋台が並ぶ祭りの町を歩くラスト。寺島しのぶが最高にいいね。

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July 03, 2006

水族館で

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伊豆半島・下田の海中水族館でのショット。子供たちはイルカのショーに歓声をあげてたけど、そこここに官能的な光景が展開している。


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