『ブロークン・フラワーズ』の曇天
『ブロークン・フラワーズ』を見ていちばん記憶に残ったのは、われながら意外なことに曇天の空だったんですね。
オープニング。離陸した航空機が灰色の空にまぎれ、溶け込むように上昇してゆく。そのシーンを見て、なぜ青空ではなくあえてこんな空を選んだんだろうと思ったら、この映画の光が気になった。そこから、ラスト近く、かつての恋人が暮らすあばら家の脇に咲いているピンクの花と、庭に捨てられたピンクのタイプライターを写すショットまで、重要な場面では必ずと言っていいほど太陽は出ていず、灰色の雲が空をおおっている。
ビル・マーレイが車を運転するショットで何度か陽が差しているけれど、これは多分、ロケのスケジュールの都合でそうせざるをえなかったので、マーレイが車を降り、かつての恋人たちのドアの前に立つとき、空は必ずどんよりと曇っている。これは意図的にそうしているのだとしか考えられない。
冒頭、名を名乗らないかつての恋人から、ピンク色をした封筒の手紙がマーレイに届く。その手紙は、彼と別れたあとマーレイの子供を産んだこと、その子が父親を捜しに旅に出たことを告げる。かつてはプレイボーイだったらしいマーレイは、隣人であるアフリカ系の善意の、でもおせっかいな男にそそのかされて、過去の女性たちを訪ねる旅に出る。彼女たちの家を探し当ててドアを叩くとき、手にはピンクのバラの花束を抱えている。
この映画の色彩の核になっているのはピンク色。手紙やバラやタイプライターだけでなく、恋人のひとり、シャロン・ストーンが着ているのはピンクのバスローブだし、ピンクのブーツも出てくる。旅を終えてマーレイが家に戻ると、居間の花瓶に生けられていた薄いピンクのバラは萎れている。
それらのピンクは色鮮やかなショッキング・ピンクではなく、どちらかといえばくすんだピンク。かつての色事師マーレイは、事業には成功したものの年老いて、同居していた女にも逃げられ、郊外の立派な家にジャージー姿でぽつねんと座っている。そんな男に、かつてのラブ・アフェアの名残りが届けられる。だからこそピンクはピンクでもくすんでいて、その背景には抜けるような青空ではなく曇天の灰色こそがよく似合う。ピンクと灰色がこの映画の気分をよく表しているんだと思う。
色だけでなく、音も映画の重要な鍵。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』とジョン・ルーリーの音楽が切り離せなかったように、ムストゥ・アスタトゥケというエチオピア出身のミュージシャンの音楽が、この映画のオフ・ビートな感覚をつくりだしている。アラブ歌謡のようでもあり、古いロックンロールのようでもある気だるいリズムとメロディーが、マーレイの困りはてた顔の背後に流れはじめると、言いようのないおかしみと哀しみが画面に立ちこめる。
『ブロークン・フラワーズ』はロードムーヴィーには違いないけれど、マーレイはその主役にふさわしくない。
ロードムーヴィーの登場人物たちはみな定住を嫌い、自ら望んで移動のなかに身を置く。移動のなかの出会いによって、自分の変貌を待ち望む。
でもマーレイは成功者として郊外の邸宅(というほどのものではないが)に住んでいる。隣人が旅の計画を立て、隣人に半ば強要されて旅に出る(そもそも差出人不明のピンクの手紙も、マーレイの精神の危機を察した隣人の計画なのかもしれない)。そしてマーレイが旅で出会うのも未知のなにものかではなく、過去の色っぽい亡霊のようなものだ(シャロン・ストーンとはいいことあったけど)。いわば過去への強いられたロードムーヴィー。
かといって過去の謎が解決するわけではない。自分に子供はいたのか? 親は誰なのか? 旅が終わっても何もわからない。マーレイが息子と信じ込んだ若い男に言うように、過去は起こってしまった、未来はまだこない、だから大切なのは現在だ。ところがマーレイの現在は旅の前も後も変わらず、女の去った郊外の家のソファーにジャージー姿で座り込むしかない。
マーレイの困り果てた顔は、その宙づりにされた現在を絶妙に示していた。マーレイと同じように中年から老年に足を踏みいれつつある僕にも(彼のようなプレイボーイではなかったけど)、その気分がよく分かる。
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Comments
>ロードムーヴィーの登場人物たちはみな定住を嫌い、自ら望んで移動のなかに身を置く。移動のなかの出会いによって、自分の変貌を待ち望む。
>過去への強いられたロードムーヴィー。
なるほどと思いました。
ブログはこういうときとてもやめになります。
TBありがとうございました。
Posted by: えい | June 02, 2006 01:07 AM
えいさんのブログはいつも楽しみにしています。
空港ロビーやバスの中の女性と、マーレイの目の演技から「心のざわめき」を指摘するところなど、いいところに目をつけてらっしゃるなあと感心しました。
Posted by: 雄 | June 03, 2006 12:40 PM