『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』の肖像
アンリ・カルティエ=ブレッソンが自作を語ったこのドキュメンタリーが感動的だったのは、彼の数十枚の見事なプリントが大写しにされ、作者によって1枚1枚解説されたことではない。いや、それはそれで十分にすごいことではあるのだが、仕事柄、数十年にわたって彼の作品を折りにふれ見てきたから、その意味での驚きはさほど大きくない。それよりも驚いたのは、カルティエ=ブレッソンが自ら進んでカメラの前に素顔をさらし、長時間にわたり、時には嬉々とした表情で自分と作品を語っていることだ。
というのは、カルティエ=ブレッソンは素顔を見せない写真家として知られていたからだ。僕が編集者の仕事を始めた1970年代、彼はすでに写真を離れ、少年時代の憧れだった絵画の世界に没頭していたから、新作が発表されることはなかった。写真の世界にあいそをつかし、写真家として仕事を求められても決して応じないという噂だった。
また人前に顔をさらすことを極端に嫌い、自分のポートレートが雑誌その他に発表されることにナーバスになっているとも言われた。彼の過去の写真集を見ても、写真家自身の姿はどこにも印刷されていない。だから70年代当時、僕たちが見ることのできるカルティエ=ブレッソンの肖像といえば、辛うじて50年代にパリに行って別荘に招かれた木村伊兵衛が撮影したものがあるばかりだった。
90年代になり、回顧展が開かれ回顧的な写真集が出版されるようになって、写真家自身の肖像もぼちぼち出てきたけれど、この映画のように70分にわたってカルティエ=ブレッソンの素顔に接しつづけられるのは、そのこと自体が驚きなのだ。
90歳を越え、死を目前にしたカルティエは、そんな過去を忘れたようにカメラに対して寛容な表情を崩さず、闊達に自作を語っていた。それは、60年代までの活発な活動に一区切りつけたとき、おそらく過去の自らの仕事のあまりの巨大さから、写真に対して二律背反的な感情を抱いて絵画に向かったとも想像される70~80年代の経験を、死を前にして、ある余裕をもって振り返ることができるようになったからだろうか。
ところで「決定的瞬間 The Decisive Moment」という写真集のタイトルは英語版のものであって、フランス語版では「Images a la Sauvette」となっている。これは楠本亜紀訳では「逃げ去るイメージ」、飯沢耕太郎訳では「ないしょのイメージ」、今橋映子によると「不意に勝ち取られたイメージ」といった意味になるという。
いずれにしても「決定的瞬間」という言葉が持つドラマチックな響きからは遠い。その言葉が連想させる社会的な意味合いよりも、外部世界の人や物が配列された秩序と、写真家の内的な秩序が不意に共振した一瞬のことを指している、とでも言えるだろうか。
この映画のなかで写真家のフェルディナンド・シアナは「『決定的瞬間』とは瞳と現実が出会った時だ」と言っている。スクリーンいっぱいに映し出される多くの名作・傑作は、その言葉を納得させてくれる。
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