『デイジー』は2本の映画
『デイジー』は、まったく違う2本の映画を強引に1本の映画にしてしまったような印象を受けた。設定や物語だけでなく、映像もまた「2本」が別の映画みたい。
「1本」はラブストーリー。男2人と女1人の三角関係。姿を見せずに女を助け、デイジー(ひなぎく)を贈りつづける男、チョン・ウソン。女を利用するために近づきながら、女を愛してしまった男、イ・ソンジェ。自分の中で理想化された姿を見せない男かもしれないと思いながら、近づいてきたソンジェに心惹かれる女、チョン・ジヒョン。
ソンジェがジヒョンの前から姿を消すと、入れ替わるようにウソンが姿を現すが、ウソンは自分が何者なのかをジヒョンに告げない。ジヒョンは、再び彼女の前に現れ、彼女を欺いたことを謝るソンジェに心乱されながら、ウソンを愛する。それはウソンの正体が分かっても変わらない。
この映画からラブストーリーの要素を抜き出すと、こういうことになる。だからこれは、ソンジェに心惹かれながらもウソンを愛することを選ぶジヒョンの一途な愛のお話。ウソンとソンジェの男2人も、敵対する立場にいながら、ことジヒョンのことになると互いにジヒョンのために身を引こうとする。どろどろした男と女の絡み合いからは遠い。その意味では一連の韓国純愛映画の延長線上にある。
もう「1本」はノワール。ソンジェはインターポールの捜査官で、捜査のためにジヒョンに近づく。ソンジェが追っているのはプロの暗殺者、ウソン。ウソンは、田園の隠れ家に身を隠していたときにジヒョンを見て魅惑される。ジヒョンはソンジェが警官であることも、ウソンが暗殺者であることも知らないまま2人と愛人関係におちいってしまう(ジヒョンと2人の男とは純愛のように描かれているけど、ノワールならば当然「愛人関係」でしょう)。
女が犯罪者とそれを追う警官の両者と愛人関係にあるというのは、たとえばジャン・ピエール・メルヴィルの傑作『リスボン特急』がそうだった。刑事アラン・ドロンとギャングのリチャード・クレンナは、情婦のカトリーヌ・ドヌーブを間にはさんで言葉少なに、でも虚々実々の意味深なやりとりを交わしていた。でも『デイジー』は男と女の世界になるとノワールではなく純愛映画なので、正直で一本気で、相手を思いやるけなげな会話がつづく。
撮影も「2本」の映画を意識的に撮りわけているようだ。純愛映画は陽光のもとで、明るく清潔な画面。ノワールになるとシャドーを強調した日影での撮影が多い。ハリウッド・アクション映画のテクニックも総動員されている。僕の見るところ、『インファナル・アフェア』シリーズの監督であるアンドリュー・ラウは、やはりノワールになると生き生きするみたいだ。純愛と銃撃の両方の舞台になるアムステルダムの広場が、純愛からノワールに変わる瞬間には興奮する。
で、この「2本」の映画がうまく融合して1本の映画になったかと言われれば、うーん、ちょっとね、と首を傾げる。僕のようなじじいになると、さすがに純愛映画ふうなやりとりに鼻白むところがあって、男や女にノワール的にうまく感情移入できない。第一、可愛いチョン・ジヒョンにノワールは似合わない(やっぱり『猟奇的な彼女』みたいなコミカルな役どころが似合うんじゃないかな)。
脚本のクァク・ジュヨン(『猟奇的な彼女』の監督)と監督のアンドリュー・ラウの持ち味が、それぞれには出ているけれど最後まで「2本」のままだった。素材はいいけれけど、全体として味が決まらない料理を食べさせられた気分で映画館を出たのだった。
Comments
TBありがとうございました。
なるほど『リスボン特急』か……。
これは盲点。
気づきませんでした。
Posted by: えい | June 11, 2006 03:03 PM
ドヌーブとチョン・ジヒョンではキャラが違いすぎて、ちょっと無理な比較なんですがね。
えいさんが指摘されている「階段の銃撃戦」は、なんだか50年代のアクション映画を見ているみたいな演出で嬉しくなってしまいました。
Posted by: 雄 | June 13, 2006 01:51 PM