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June 27, 2006

『インサイド・マン』とジャンル映画

今ではスパイク・リーをことさらにアフリカ系監督と呼ぶ必要はないのかもしれない。

デビュー作の『ジョーズ・バーバーズ・ショップ』から『ドゥ・ザ・ライト・シング』を経て『マルコムX』あたりまで、アフリカ系ならではのテーマを取り上げ、政治的だったり道徳的だったりする強いメッセージをもった映画を撮っていた。だからハリウッドで唯一ブラック・ムービーと呼べるジャンルの映画をつくっている監督といったポジションにあったように思う。

僕もちゃんと見ているわけではないけど、そんなテイストは徐々に薄くなって、最近の彼の映画は例えばデンゼル・ワシントンが主演していてもアフリカ系監督の映画だと意識して見る必要のないような作品になっていると思う。『サマー・オブ・サム』なんかは、主要な登場人物にアフリカ系が出てこない、ブルックリンのイタリア系コミュニティーの話だった。無論、マイノリティーとしての少数派の視点はちゃんと保っているけれど。

そういう、普通のメジャーなハリウッド映画に声がかかるようになったのは、やっぱりスパイク・リーの腕が確かだからだろう。オーソドックスな演出。饒舌なおしゃべりと皮肉とジョークに込められたメッセージ。ブルックリンへの偏愛。スパイク・リーの映画はいつも、エンタテインメントとアフリカ系のこだわりがほどよくバランスされている。

『インサイド・マン』もそんな系列に属する映画だった。

アフリカ系監督としてのこだわりは、何よりニューヨークのエスニックな多彩さをうまく映画に取り込んでいることに表れている。冒頭からアラブ系のヒップホップが流れる(テレンス・ブランチャードの音楽は、他にオーケストラのいかにも映画音楽風な弦楽と、ベースを中心としたジャズ。テレンスのトランペットは聞けなかった)。これは銀行強盗の犯人が外国なまりを装ってアラブあるいは東欧系だと警察側に思いこませるのに対応してるのだけど、観客自身をも錯覚させることになる。

登場人物も多彩で、エスニック・ジョークもいっぱい。ターバン(イスラムを連想させる)を巻いた人質の老人がメッセージを持たされて解放されるが、犯人の一味と間違われそうになる。犯人は目くらましにアルバニアのホッジャ元大統領の演説を流すのだが、盗聴した警察はあわててアルバニア語が分かる市民を捜し、現れたタクシー運転手の女房が警察を手玉に取って笑わせる(「アルバニアもアルメニアも分からない」なんてセリフもある)。

狙われた銀行のオーナーが、過去にナチスやユダヤの富豪と関係をもっていたことが、何を狙っているのかはっきりしない強盗の目的とからんでいるらしいことが明らかになってくる。

多彩なのはエスニシティばかりじゃなく、映画そのものがいろんなジャンル映画のミックス。人質を取った犯人と包囲する警察の、発生から「解決」へと至るプロセスはアクション映画の定番(でも、ドンパチはないのでカタストロフィーには欠ける)。人質に犯人と同じジャンプ・スーツを着せて人質と犯人の区別をつかなくさせたり、にやりとさせる銀行からの脱出、ラストのオチ、そして人を一人も殺さないあたりは、『トプカピ』やなんかのトリック・面白系犯罪映画の味。そしてスパイク・リーらしい社会派映画でもあり、映画オタク出身らしい映画ネタも満載。

デンゼル・ワシントンが、ちょび髭を生やし下ネタ・ジョークを飛ばす刑事役をいつもと違った雰囲気で、ジョディ・フォスターがセレブ専門の鼻持ちならないWASPの弁護士役を、クライヴ・オーウェンが凶悪を装った頭脳犯の犯人役を、それぞれ楽しそうに演じている。

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June 16, 2006

『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』の肖像

アンリ・カルティエ=ブレッソンが自作を語ったこのドキュメンタリーが感動的だったのは、彼の数十枚の見事なプリントが大写しにされ、作者によって1枚1枚解説されたことではない。いや、それはそれで十分にすごいことではあるのだが、仕事柄、数十年にわたって彼の作品を折りにふれ見てきたから、その意味での驚きはさほど大きくない。それよりも驚いたのは、カルティエ=ブレッソンが自ら進んでカメラの前に素顔をさらし、長時間にわたり、時には嬉々とした表情で自分と作品を語っていることだ。

というのは、カルティエ=ブレッソンは素顔を見せない写真家として知られていたからだ。僕が編集者の仕事を始めた1970年代、彼はすでに写真を離れ、少年時代の憧れだった絵画の世界に没頭していたから、新作が発表されることはなかった。写真の世界にあいそをつかし、写真家として仕事を求められても決して応じないという噂だった。

また人前に顔をさらすことを極端に嫌い、自分のポートレートが雑誌その他に発表されることにナーバスになっているとも言われた。彼の過去の写真集を見ても、写真家自身の姿はどこにも印刷されていない。だから70年代当時、僕たちが見ることのできるカルティエ=ブレッソンの肖像といえば、辛うじて50年代にパリに行って別荘に招かれた木村伊兵衛が撮影したものがあるばかりだった。

90年代になり、回顧展が開かれ回顧的な写真集が出版されるようになって、写真家自身の肖像もぼちぼち出てきたけれど、この映画のように70分にわたってカルティエ=ブレッソンの素顔に接しつづけられるのは、そのこと自体が驚きなのだ。

90歳を越え、死を目前にしたカルティエは、そんな過去を忘れたようにカメラに対して寛容な表情を崩さず、闊達に自作を語っていた。それは、60年代までの活発な活動に一区切りつけたとき、おそらく過去の自らの仕事のあまりの巨大さから、写真に対して二律背反的な感情を抱いて絵画に向かったとも想像される70~80年代の経験を、死を前にして、ある余裕をもって振り返ることができるようになったからだろうか。

ところで「決定的瞬間 The Decisive Moment」という写真集のタイトルは英語版のものであって、フランス語版では「Images a la Sauvette」となっている。これは楠本亜紀訳では「逃げ去るイメージ」、飯沢耕太郎訳では「ないしょのイメージ」、今橋映子によると「不意に勝ち取られたイメージ」といった意味になるという。

いずれにしても「決定的瞬間」という言葉が持つドラマチックな響きからは遠い。その言葉が連想させる社会的な意味合いよりも、外部世界の人や物が配列された秩序と、写真家の内的な秩序が不意に共振した一瞬のことを指している、とでも言えるだろうか。

この映画のなかで写真家のフェルディナンド・シアナは「『決定的瞬間』とは瞳と現実が出会った時だ」と言っている。スクリーンいっぱいに映し出される多くの名作・傑作は、その言葉を納得させてくれる。

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June 11, 2006

『デイジー』は2本の映画

『デイジー』は、まったく違う2本の映画を強引に1本の映画にしてしまったような印象を受けた。設定や物語だけでなく、映像もまた「2本」が別の映画みたい。

「1本」はラブストーリー。男2人と女1人の三角関係。姿を見せずに女を助け、デイジー(ひなぎく)を贈りつづける男、チョン・ウソン。女を利用するために近づきながら、女を愛してしまった男、イ・ソンジェ。自分の中で理想化された姿を見せない男かもしれないと思いながら、近づいてきたソンジェに心惹かれる女、チョン・ジヒョン。

ソンジェがジヒョンの前から姿を消すと、入れ替わるようにウソンが姿を現すが、ウソンは自分が何者なのかをジヒョンに告げない。ジヒョンは、再び彼女の前に現れ、彼女を欺いたことを謝るソンジェに心乱されながら、ウソンを愛する。それはウソンの正体が分かっても変わらない。

この映画からラブストーリーの要素を抜き出すと、こういうことになる。だからこれは、ソンジェに心惹かれながらもウソンを愛することを選ぶジヒョンの一途な愛のお話。ウソンとソンジェの男2人も、敵対する立場にいながら、ことジヒョンのことになると互いにジヒョンのために身を引こうとする。どろどろした男と女の絡み合いからは遠い。その意味では一連の韓国純愛映画の延長線上にある。

もう「1本」はノワール。ソンジェはインターポールの捜査官で、捜査のためにジヒョンに近づく。ソンジェが追っているのはプロの暗殺者、ウソン。ウソンは、田園の隠れ家に身を隠していたときにジヒョンを見て魅惑される。ジヒョンはソンジェが警官であることも、ウソンが暗殺者であることも知らないまま2人と愛人関係におちいってしまう(ジヒョンと2人の男とは純愛のように描かれているけど、ノワールならば当然「愛人関係」でしょう)。

女が犯罪者とそれを追う警官の両者と愛人関係にあるというのは、たとえばジャン・ピエール・メルヴィルの傑作『リスボン特急』がそうだった。刑事アラン・ドロンとギャングのリチャード・クレンナは、情婦のカトリーヌ・ドヌーブを間にはさんで言葉少なに、でも虚々実々の意味深なやりとりを交わしていた。でも『デイジー』は男と女の世界になるとノワールではなく純愛映画なので、正直で一本気で、相手を思いやるけなげな会話がつづく。

撮影も「2本」の映画を意識的に撮りわけているようだ。純愛映画は陽光のもとで、明るく清潔な画面。ノワールになるとシャドーを強調した日影での撮影が多い。ハリウッド・アクション映画のテクニックも総動員されている。僕の見るところ、『インファナル・アフェア』シリーズの監督であるアンドリュー・ラウは、やはりノワールになると生き生きするみたいだ。純愛と銃撃の両方の舞台になるアムステルダムの広場が、純愛からノワールに変わる瞬間には興奮する。

で、この「2本」の映画がうまく融合して1本の映画になったかと言われれば、うーん、ちょっとね、と首を傾げる。僕のようなじじいになると、さすがに純愛映画ふうなやりとりに鼻白むところがあって、男や女にノワール的にうまく感情移入できない。第一、可愛いチョン・ジヒョンにノワールは似合わない(やっぱり『猟奇的な彼女』みたいなコミカルな役どころが似合うんじゃないかな)。

脚本のクァク・ジュヨン(『猟奇的な彼女』の監督)と監督のアンドリュー・ラウの持ち味が、それぞれには出ているけれど最後まで「2本」のままだった。素材はいいけれけど、全体として味が決まらない料理を食べさせられた気分で映画館を出たのだった。

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June 05, 2006

結城紬の館

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茅葺き古民家を移築した結城紬陳列館

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今も商談に使われている現役の店舗

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機織りの体験

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私が織ったコースターと、手染めのショール(肌色部分は栗の木染め、鼠色は鉄媒染)

結城紬の老舗・奥順が計画した「つむぎの館」を知人の建築家が手がけていた。それが完成して、初めてのツアーに参加した。結城紬で知られる茨城県結城市には蔵づくりの店舗がいくつも残っている。蔵を改装したカフェや、古民家を移築した陳列館、染織体験ができる織場館や結城紬資料館などが「つむぎの館」。開館して間もないけれど、近くに益子や笠間もあるから週末はけっこうにぎわっている。

結城紬は重要無形文化財に指定されている。繭を加工した真綿から手で糸をつむぎ(普通の糸のように撚らない)、何ヶ月もかかる複雑な作業で染め、原始的な地機織(じばたおり)で織る。ベテランが1日に織れるのはせいぜい20センチ、1反織るのに50日から、複雑な模様は1年かかるという。1500年前の染め方と織り方が今もそのまま使われている(もちろん、もっと「近代化」されたものもある)。その気の遠くなるような工程を説明されると、本物の結城紬が1反数百万円から数千万円するというのも、まあ仕方ないかという気がしてくる。

そんなことを知り、簡単な染めと織りを体験ができたのが嬉しかった。編集者という仕事もそういう部分が多いけど、こういう職人的な作業はなんとも楽しい。


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June 02, 2006

『ブロークン・フラワーズ』の曇天

『ブロークン・フラワーズ』を見ていちばん記憶に残ったのは、われながら意外なことに曇天の空だったんですね。

オープニング。離陸した航空機が灰色の空にまぎれ、溶け込むように上昇してゆく。そのシーンを見て、なぜ青空ではなくあえてこんな空を選んだんだろうと思ったら、この映画の光が気になった。そこから、ラスト近く、かつての恋人が暮らすあばら家の脇に咲いているピンクの花と、庭に捨てられたピンクのタイプライターを写すショットまで、重要な場面では必ずと言っていいほど太陽は出ていず、灰色の雲が空をおおっている。

ビル・マーレイが車を運転するショットで何度か陽が差しているけれど、これは多分、ロケのスケジュールの都合でそうせざるをえなかったので、マーレイが車を降り、かつての恋人たちのドアの前に立つとき、空は必ずどんよりと曇っている。これは意図的にそうしているのだとしか考えられない。

冒頭、名を名乗らないかつての恋人から、ピンク色をした封筒の手紙がマーレイに届く。その手紙は、彼と別れたあとマーレイの子供を産んだこと、その子が父親を捜しに旅に出たことを告げる。かつてはプレイボーイだったらしいマーレイは、隣人であるアフリカ系の善意の、でもおせっかいな男にそそのかされて、過去の女性たちを訪ねる旅に出る。彼女たちの家を探し当ててドアを叩くとき、手にはピンクのバラの花束を抱えている。

この映画の色彩の核になっているのはピンク色。手紙やバラやタイプライターだけでなく、恋人のひとり、シャロン・ストーンが着ているのはピンクのバスローブだし、ピンクのブーツも出てくる。旅を終えてマーレイが家に戻ると、居間の花瓶に生けられていた薄いピンクのバラは萎れている。

それらのピンクは色鮮やかなショッキング・ピンクではなく、どちらかといえばくすんだピンク。かつての色事師マーレイは、事業には成功したものの年老いて、同居していた女にも逃げられ、郊外の立派な家にジャージー姿でぽつねんと座っている。そんな男に、かつてのラブ・アフェアの名残りが届けられる。だからこそピンクはピンクでもくすんでいて、その背景には抜けるような青空ではなく曇天の灰色こそがよく似合う。ピンクと灰色がこの映画の気分をよく表しているんだと思う。

色だけでなく、音も映画の重要な鍵。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』とジョン・ルーリーの音楽が切り離せなかったように、ムストゥ・アスタトゥケというエチオピア出身のミュージシャンの音楽が、この映画のオフ・ビートな感覚をつくりだしている。アラブ歌謡のようでもあり、古いロックンロールのようでもある気だるいリズムとメロディーが、マーレイの困りはてた顔の背後に流れはじめると、言いようのないおかしみと哀しみが画面に立ちこめる。

『ブロークン・フラワーズ』はロードムーヴィーには違いないけれど、マーレイはその主役にふさわしくない。

ロードムーヴィーの登場人物たちはみな定住を嫌い、自ら望んで移動のなかに身を置く。移動のなかの出会いによって、自分の変貌を待ち望む。

でもマーレイは成功者として郊外の邸宅(というほどのものではないが)に住んでいる。隣人が旅の計画を立て、隣人に半ば強要されて旅に出る(そもそも差出人不明のピンクの手紙も、マーレイの精神の危機を察した隣人の計画なのかもしれない)。そしてマーレイが旅で出会うのも未知のなにものかではなく、過去の色っぽい亡霊のようなものだ(シャロン・ストーンとはいいことあったけど)。いわば過去への強いられたロードムーヴィー。

かといって過去の謎が解決するわけではない。自分に子供はいたのか? 親は誰なのか? 旅が終わっても何もわからない。マーレイが息子と信じ込んだ若い男に言うように、過去は起こってしまった、未来はまだこない、だから大切なのは現在だ。ところがマーレイの現在は旅の前も後も変わらず、女の去った郊外の家のソファーにジャージー姿で座り込むしかない。

マーレイの困り果てた顔は、その宙づりにされた現在を絶妙に示していた。マーレイと同じように中年から老年に足を踏みいれつつある僕にも(彼のようなプレイボーイではなかったけど)、その気分がよく分かる。

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June 01, 2006

トラックバック・スパム

このところトラックバック・スパム攻撃に見舞われています。気がついたら削除していますが、手作業で対処できない規模になったら、何か対策を考えなければなりません。トラックバック・スパムのほとんどが英文ですので、そちらはクリックしないようお願いします。

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