『隠された記憶』と映画の肉体
『隠された記憶』で印象的なのは「正面・据えっぱなし・長回し」の3つのカット。冒頭での、ダニエル・オートゥイユとジュリエット・ビノシュ夫妻が裕福な暮らしを営む都会の一軒家を道路越しに捉えたカット。ふたつ目は、中庭に鶏が放し飼いされているダニエルの生家を、手前にある納屋の暗い空間を通して捉えたカット。そして3つ目は、主人公の息子が通う小学校の玄関の階段を、これも道路越しに映し出したカット。
冒頭、夫妻の自宅門前が映されているカットに突然ノイズが入り、逆回しされることで、それがビデオテープの映像であることがわかる。夫妻の自宅を盗み撮りした撮影者も、その意図も不明なビデオテープと、血に染まった不気味な絵を描いた葉書が突然、夫妻に送りつけられることから、ミステリアスなタッチで物語がはじまる。
といっても、ミヒャエル・ハネケ監督のこの映画はミステリーではない。謎はついに謎のまま解決されない。というより、謎はいよいよ深まったまま映画は終わってしまう。謎の原因らしきものも、ふつうのミステリーなら納得されないような些細な「事件」が、しかも十分に説明されないままに提示されているにすぎない。ラストシーンになにごとかが隠されている(原題は「Hidden」)と宣伝のキャッチコピーにはあるけれど、夫妻の息子らしい少年が映っていたこと以外、僕にはよくわからなかった。
この映画を見た人の反応ははっきり2通りに別れる。隣に座っていたカップルは、「ぜんぜんわかんなーい。サイアク」とつぶやいていた。一方で映画が終わった後、ロビーで熱心に語りあっている2人連れもいた。僕はといえば、両方がわかる。あるいは、両方に全面的には同意できない。見ている途中で2度ほど眠くなった。でも、長回しの3つのカットをはじめ、いくつかのシーンでは画面に釘付けになった。
若い頃はどんなつまらない映画でも眠ることはなかったけど、この10年、疲れているときなんか、ちょっと退屈を感じるとすぐ眠くなってしまう。ゴダールを見ながら初めて寝たときには、さすがに自己嫌悪に陥った。でも最近は、少しぐらい寝ても面白さはわかるさ、と開き直っている。歳のせいという以上に、そこにどんな理屈もつけられないけど、なぜ眠くなってしまったか、いささか自己弁護気味な感想を記してみようか。
この映画は物語的な起承転結を意識的に回避している。冒頭でビデオテープと葉書で謎を投げかけておきながら、誰が何の目的でそれを撮影し、主人公夫妻に送りつけたのかが最後まで明らかにされない。最初から物語の整合性を無視しているならこちらもそのつもりで構えるけど、サスペンス映画のような導入で緊張と不安を高め、見る者にその答えを期待させておきながら、結末は色んな解釈が可能という肩すかしが眠くなる原因のひとつ。
その動機もまた、ことさらに小さく設定されている。主人公の、生家に暮らしていたアルジェリア人少年に向けた「無邪気な悪意」が少年を施設へ収容させることになり、その結果、彼が教育を受ける機会は奪われてしまう。そのことが数十年後に主人公への「脅迫」となって返ってくるらしいのだけど、映画や小説といったフィクションの世界で観客(読者)を十分に納得させるような動機にはなっていないように思う。
さらに眠気を誘う原因は、画面の背後にいっさいの音楽が使われていないこと。あるいは、映像的に魅力ある画面をどうも意識的につくっていないらしいこと。例えばハネケと同じように長回しを多用する監督たち、アンゲロプロスやホウ・シャオシェンやキアロスタミのような、それぞれに個性的で魅力に満ちた映像ではなく、クールで客観的な映像がことさら選ばれているように感じられる。「正面」という素っ気ないカメラ位置が、その印象をさらに強めている。
どうやらこの映画では、「映画らしさ」がとことん避けられている。それがここまで徹底されれば、それこそがミヒャエル・ハネケ監督が狙っていたことだとわかってくる。「映画らしい」つくりごとを拒否すること。映画を限りなくリアルな現実に近づけること。
確かに僕らが生きる現実は、映画や小説のようにドラマが展開するわけではないし、音楽が高鳴るわけでもない。人生を決める瞬間が、ごく日常的な風景のなかにやってくることだってあるだろう。他人には何の意味ももたない少年時代の小さな出来事が一生を左右することだってありうる。その意味では、物語としての整合性や起承転結を持たず、見る者の感情を大げさに揺さぶることをしない『隠された記憶』はとてもリアルな映画だ。
でもそれは、映画が本来的にもっている魔力を削ぐことにつながる、ある意味で危険な方法でもあるんじゃないだろうか。僕たちは映画という濃縮された時間のなかで、ドラマに翻弄され、激しい感情の揺れを体験したい。美しい音楽と映像に驚き、酔いたい。それが19世紀末以来、見世物として発達し、今も大衆的なエンタテインメント産業として成り立っている映画の最大の魅力ではないかと思うのだ。
『隠された記憶』のような映画は、ハリウッドみたいな大衆的なエンタテインメントの対極に位置している。単純な起承転結を避けて物語を解体し、意味を重層化する。情動を揺さぶるフォトジェニックな映像と音楽ではなく、言葉を喚起するような映像(反映像)を選ぶ。それは現代小説や現代アートとも共通する、尖端的な表現の一形式として必然でもある。大衆的なエンタテインメントが「型」に堕したとき、こういう先鋭な映画によって新しいスタイルが生まれる。
それは確かなんだけど、この映画は見る者の五感を揺さぶる「映画の肉体」とでも呼ぶべきものが希薄なような気がするのだ。どんな実験的な映画でも、映画がその肉体を失ってしまってはつまらない……なんて大上段な物言いをしてしまったけど、なに、自分が眠ってしまったことの自己弁護にすぎない。しかも、ハネケ監督の『ピアニスト』も『ファニーゲーム』も見ていないとあっては、大きな誤解をしているんじゃないかという恐れもある。他の作品も見て、もう一度考えてみよう。
Comments
非常に興味深く拝読いたしました。
先日のハネケ特集上映に通ってから本作を観たのですが、本作はそれまでのハネケ作品とも微妙に違うのではないかと思いました。おっしゃるように、本作のハネケの挑発は、映画らしさを否定することにもあるように思われますが、一応ジャンル映画(ミステリー)的な展開を装っているあたりが、それまでとは大きく異なるような気がしたのです。本作では、積極的に謎を謎として提示していますよね。
もともと彼の挑発性には、“事態の理由を説明しない”というものがありますが、それは謎を提示した上でそれを投げっぱなしにしているというより、起きつつある事態の原因やら背景やらを決して他人事としてでなく、時に暴力的な手法を用いてでも観客に思考させるというものだったと思うのです。
私も鑑賞後いろいろ考える内、少なからぬ違和感めいたものを感じつつ今にいたるのですが、しかしそれもこれも私が宣伝に踊らされただけなのかもしれず、未だに宣伝文句を完全に頭から排除できない自分に苛立っています。
是非とも旧作(dvd化されているものだけでも)をご覧になっていただき、ご感想などお聞かせいただきたいです。
長文失礼いたしました。
Posted by: [M] | May 09, 2006 11:40 AM
長いコメントありがとうございます。
なるほど。ミステリーのスタイルを採用していることで、以前の作品に比べればまだ「映画らしさ」があるということですね。となれば『ピアニスト』や『ファニーゲーム』がどんなものか、いよいよ興味が湧きます。特に観客に考えることを求めるスタイルと、暴力的な描写との関係がどうなっているかなど。
今、週末にはキム・ギドクの旧作を見ているので、その次に挑戦してみたいと思います。[M]さんのレビューも楽しみにしています。
Posted by: 雄 | May 10, 2006 01:16 PM