« April 2006 | Main | June 2006 »

May 31, 2006

『コーストガード』(DVD)

『コーストガード』は軍隊に過剰適応してしまった男の哀しみを、キム・ギドクらしいアクの強さと映像感覚と風俗描写であぶり出した映画だった。

大日本帝国の軍隊でも、下層階級出身の兵にとって軍隊は飢える心配がなく、階層も社会的地位も学歴も財産も関係なく「平等」で、古参兵ともなれば下には鬼軍曹としてふるまい、上官もそれを大目に見る、適応すればそれなりに「楽しい」場所だったという回想がある。

38度線沿いの海岸で、スパイの侵入に備え沿岸警備に当たっているチャン・ドンゴンも、そんな上等兵。任務に忠実なあまり、夜、立入禁止区域に入りこんだカップルの男を射殺してしまい、そこから彼と、恋人を殺された女の運命が狂いはじめる。

貧しい家庭に育ったキム・ギドク監督は、小学校を卒業した後、専門学校を出て工場で働き、その後、5年間の軍隊生活を送っている。その経歴が、除隊後、牧師を目指したというもうひとつの経歴が他の作品に影を落としているように、この作品には色濃く影響しているようだ。ラストでドンゴンと兵士の仲間がフット・バレーボールに興じ、「懐かしい日々」という歌がかぶさってくる回想シーンには、軍隊生活へのノスタルジーすら感じられる。キム・ギドクにとって軍隊生活はそれなりに充実した体験だったのかもしれない。

さて、任務に忠実だったドンゴンは表彰されるが、誤って民間人を殺したという自責の念にさいなまれる。恋人を殺されて狂った女が兵士たちと見境なくセックスを繰り返すのを見て、自らも徐々に精神に失調を来してゆく。

夜の警備シーンや兵士たちの日常は「軍隊もの映画」の決まり事を踏まえ、一方、海中に立てられたトーテムポールのような杭や、女の兄が営む海の家のキッチュな色の天幕、石鯛が泳ぐ水槽などは、キム・ギドクらしい風俗描写が冴える。前作『悪い男』のラストシーンがつながっているような海岸。彼はこういう風景が好きなんだな。

赤ん坊を身ごもった女が、兵士の不品行が露見するのを恐れた上官によって堕胎させられ、水槽を真っ赤に染めるシーンは、キム・ギドクの偏愛する水と血のイメージ。

キム・ギドクの映画群を貫く「贖罪」のテーマが、狂ったドンゴンが都会の雑踏で次の殺人を犯すという形で最後に浮上する。哀しいラストシーン。

今年は処女作『鰐』(1996)が公開されるらしい。今から楽しみだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 26, 2006

『春夏秋冬そして春』(DVD)

『春夏秋冬そして春』は、キム・ギドクの作風ががらりと変わった作品だと言われる。確かに、キム・ギドクを特徴づける暴力描写(自他に対する)はなく、全編が静謐な空気に満たされている。キッチュな色づかいもなく、山と湖の美しい自然が織りなす季節のうつろいと、主人公が住む湖上の庵との落ち着いた色彩で統一されている。そしてどの映画からも伝わってくるキム・ギドクの激しく切迫した息づかいが、この映画では一見感じられない。

でもこれは、まぎれもなくキム・ギドクの映画だ。今までコインの「裏」ばかりを見せていたとすれば、この映画でキム・ギドクははじめて同じコインの「表」を見せたのかもしれない。正統派の監督なら、まずは「表」の顔を見せておいてその評価の上に立って「裏」の顔を見せる。でもキム・ギドクは、不器用に、性急に、自分の「裏」の本音を叩き付けるようにして映画をつくってきた。その意味では彼もまた、ようやく年齢なりに成熟してきたのかもしれない。

「裏」が「表」になったからといって、同じコインであることに変わりはない。ここにも、キム・ギドク以外の誰の映画でもない構造や設定やショットにあふれている。

湖面に浮かぶ庵は、『魚と寝る女』の浮き小屋と同じもの(途中で、庵が水面を移動するショットがある。僕は庵が浮いているというより幻想シーンと解したが)。これは「孤立」の喩だろうけど、同時に「拘束」をも暗示していると思う。『悪い男』の売春宿も『青い門』の曖昧宿も同じ意味を持っているのではないか。男が女を暴力的に拘束するというのは、キム・ギドクの「裏」の作品にしばしば流れているテーマ。「表」のこの作品では、孤立した場所に閉じこめられた少年と少女が互いに惹かれあうことになる。

「表」の静謐は、「裏」に激情を秘めている。少女を忘れられずに庵を去った少年は、やがて結婚した少女を殺し、追われる身となって庵に戻ってくる。でもそれは、数少ないせりふで示されるだけで、直接の描写はまったくない。

キム・ギドクの映画に流れるいくつものテーマ系のうち、この作品でいちばん激しく表現されるのは「贖罪」だろう。少年は面白がって魚やカエルや蛇に石を結びつけ、動けなくなった魚や蛇を殺してしまう。少年は、父親代わりの在家の僧から背中に石を結びつけられ、彼らを弔うことを命じられる。成人し、妻を殺して戻ってきた男は、父親代わりの男と同様の在家の僧となり、腰に石を結びつけ、庵の観音を手に、湖を望む山の頂上に観音を据える苦行を自らに課す。

暴力的に女を拘束し、傷つけることでしか女とつながれない男。その男が贖罪のために、自らをまた激しく傷つける。それがキム・ギドクの映画の底に流れる、どうしようもない性と感情であるように思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 24, 2006

ツバメがやってきた

060524_001w_1

毎日、利用している駅にツバメがやってきた。もう何十年も、この季節になるとツバメが姿を見せる。利用客が通る通路の天井に巣をつくると、糞が落ちないよう駅員が手づくりのガードをつくっていた。今年はどこに巣をつくるのか。つがいが巣づくりの場所を捜すようにして鉄骨に止まっていた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 23, 2006

『悪い女 青い門』(DVD)

キム・ギドクは、自分の映画は「キム・ギドク」という長い映画のパーツ、パーツなのだという意味のことを語っているらしい。なるほど、設定や物語が相似形の映画があるし(例えば『魚と寝る女』と『悪い男』)、彼の映画を何本も見ていると、ああ、これはキム・ギドクが偏愛するイメージだな、という映像が見えてくる(例えば自然の色とキッチュな色との対照など)。

『悪い女 青い門』(Birdcage Inn、1998)は彼の第3作だけど、その後の『サマリア』(2004)の原型のような作品だった。

女二人の物語。ひとりは、セックスに何の罪悪感ももたず、それでいて無垢な聖少女のような存在。常識に縛られた社会的存在であるもうひとりは、彼女に同化することによって彼女を理解し、彼女そのものになろうとする。『サマリア』では、聖少女が自殺することから、もう一人の少女の聖少女への同化に宗教的な贖罪の気配を感じさせた。『悪い女 青い門』はもっと風俗映画ふうな味で、僕はこっちのほうが好み。

娼婦のイ・ジウンが東海岸の製鉄の町、浦項の曖昧宿(民宿)に流れてくる。ジウンは宿に来る男に身体を売りながら、昼は絵の勉強をしている。エゴン・シーレを愛し、周囲の人たちの肖像をスケッチする。

ペンキ塗りの青い門と怪しげなネオンが印象的な民宿の娘、イ・ヘウンは自分の父親や恋人とも寝るジウンにはじめ激しく反発するが、ヘウンの存在が気になり、彼女の行動を追うようになる。ジウンと同じ髪飾りをつけ、ジウンと同じ店に入る。宿に来た客にジウンと間違えられ、最初は「違う!私は娼婦じゃない」と答えるが、ある時、間違えられるままに客の男と寝てしまう。

舞台は、韓国の近代化を象徴する浦項製鉄所を背景にした海水浴場。殺伐としたコンビナートの見える海岸と、キッチュな色(またしても!)の民宿や町並みが、90年代、IMF管理下で不況にあえぐ韓国のリアルな空気をすくい取っているのだと思う。こういう色彩感覚はキム・ギドクの独壇場。

ラストシーン。水中のカメラが、ジウンが海に放った金魚(金魚や緋鯉はギドク映画に頻出するアイテム。金魚が海で生きていられるのか、などと常識的な疑問をキム・ギドクの映画に抱いてもはじまらない。彼の映画ではそういうものなのだ、と納得するしかない)と、水面の揺らぎを通したジウンとヘウンのアップを映し出す。

水(海や湖、あるいは水槽の)を通した顔のクローズアップは、キム・ギドクが偏愛するイメージのひとつ。水を通すことによって屈折したり揺らいだりする登場人物の顔は、彼らがそれまでのありようをはみだし、変貌し、別の存在になろうとする瞬間を捉えているようにも感じられる。

これ以前の彼の作品は未公開だけど、こういうイメージ群がもう出現しているのか、見てみたいね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 18, 2006

『夜よ、こんにちは』の雨滴

歴史的事実にもとづきながら、事実から自由につくられたこの映画でいちばん印象的だったのは、暗殺される運命にあるモロ元首相が監禁されたアパートを抜け出し、雨に濡れながら広場を歩いてゆく幻想シーンだった。雨の滴に我が身をさらすように顔をあおむけ、雨の音に耳をそばだて、襟を立てて、冷たい空気をいとおしむように歩いてゆく。

1978年、ローマで起こったモロ元首相誘拐暗殺事件を素材にしたこの映画で、ラスト近いそのシーンまで、ほとんどが元首相が監禁されるアパートと、誘拐した「赤い旅団」の女性メンバー、マヤ・サンサが勤める図書館という室内空間でのみ進行するから、それまでの閉ざされた息苦しさから解放され、外の冷たい空気と雨に触れて「自由の感覚」にひたるのは元首相ばかりでなく、それを見ている観客の僕たちでもあるのだ。

似たようなシーンは他にもある。夜、元首相を監視する「赤い旅団」のメンバーが眠っている間に、元首相はアパートのなかを自由に歩き回る、これもマヤ・サンサが幻想するらしいシーンがある。元首相は寝ているマヤのベッドの脇に座って、彼女の寝顔をじっと見ている。書棚に近づき、本を取りだして読んでいる。

元首相は狭い一室に監禁されている。監禁している側の「赤い旅団」のメンバーもまた、監禁しているがゆえに自らの身も自由ではなく監禁した空間に拘束されている。彼らはそのように肉体的に拘束されているだけでなく、精神的にもプロレタリアの名による革命的処刑というイデオロギーに拘束されている。登場人物すべてが肉体的に、また精神的に拘束されているなかで、ひとり幻想シーンの元首相だけが自由にふるまっている。

事件に対する政府の反応といった外界の動きは、居間のテレビ画面を通してのみ語られる。外の風景は、居間の窓ごしに見える道路と隣家のアパートだけ。壁に開けられた狭い隠し扉や、ドアののぞき穴を通した映像が、監禁する側もされる側も閉じこめられていることを強調する。それを見る観客も、監禁されているという感覚に捕らわれる。そのなかで、マヤは誘拐と処刑に疑問を感じ、監禁された元首相が自由に動き回ることを幻想する(行動は起こさない)。

監督のマルコ・ベロッキオは、そんなふうに拘束され密閉されている感覚を執拗に描くことによって、そこから解放される「自由の感覚」がどんなに大切なものかを語っているように僕には感じられた。

幻想シーンにまじって、映画には何カ所か、何の説明もなくモノクロ映像がインサートされる。雪の積もったブランコ。雪のなか、汽車で2月革命のロシアに帰還するレーニン。軍服を着たスターリン。処刑されるパルチザン(ロッセリーニ『戦火のかなた』の引用?)。それらの映像が暗示しているのは、潰えた革命の理想ということだろうか。

この映画は元首相を暗殺したテロリストを秩序の側から一方的に断罪しているわけではない。マヤの迷いと幻想のなかに、一筋の光明を見ている。マヤが一族の結婚式を回想するシーンで、出席者の一人がパルチザンの歌(ロシア民謡)を誇り高く歌うシーンを、ベロッキオ監督が共感をこめて撮っていることからも、それはうかがえる。

この国では絶えて聞くことのなくなった「左翼ヒューマニズム」なんて言葉を思い出した。この国では、戦後のある時期にもてはやされ、消費され、とっくの昔に死語になってしまったけれど、この映画の底には、そしてある種のヨーロッパ映画には、戦争や革命の体験に裏打ちされたそんな精神が今も脈々と流れていることを実感させられる。

日本で「左翼ヒューマニズム」などという言葉から連想される類型的なリアリズムではなく、自由で成熟した、しかもサスペンスフルな映画だった。

冒頭、暗い室内に貼られた映画のポスター(何の映画のか分からなかった)と、挿入されるピンク・フロイドの音楽が、あっという間に、僕らをあの時代に連れていってくれる。


| | Comments (6) | TrackBack (8)

May 14, 2006

『受取人不明』(DVD)

キム・ギドクの映画に1970~80年代の日本映画、特に日活系の匂いを感ずるのは僕だけだろうか。彼がこの時代の日活(ロマンポルノ)を見ているのかどうかは知らない。見ているのかもしれないし、見ていないかもしれない。そういう直の影響関係というより、時代のありようが似ているのかもしれない。

キム・ギドクも70年代日活映画も、性と暴力が素材として取り上げられる。ノスタルジックな風景と、高度成長によって変貌する都市風景とが入り乱れている。近代化によって家族や人間関係が崩壊し、あてどなく漂白する心情が好んで描かれる。「思い」の強い映画。

神代辰巳(『恋人たちは濡れた』)、田中登(『人妻集団暴行致死事件』)、相米慎二(『ラブホテル』)、日活系ではないけれど柳町光男(『さらば愛しき大地』)、ピンク系で時代も新しいけど瀬々敬久(『黒い下着の女 雷魚』)、そういった映画と共通の匂いがある。

『受取人不明』で思い出すのは、根岸吉太郎の『遠雷』だ。変わりゆく農村を舞台にした青春群像。『遠雷』は農業を営む青年たちと都市化した団地住民との接点にドラマが生まれたけど、ここでは農村の新旧世代に加えて米軍基地との接点でドラマが生まれる。

この映画では、いつもの暴力的な描写より悲しいユーモアがいい。主役の3人の男女がそろって眼帯をして歩くシーン、主人公の青年が門前の地面を踏み抜くと朝鮮戦争当時の骸骨が現れるシーン、もう一人の主役が凍った田に上半身を突っ込んで死ぬシーンなんか、クストリッツァのような、ずぶといユーモアと悲しみ。

『魚と寝る女』や『悪い男』のように「思い」の強さ激しさを描くのではなく、ちょっと距離を置いて主人公たちの生きていくさまを見つめている。それがまたいい。

(後記)宮台信司が自分のブログでキム・ギドクと日活ロマンポルノを関連づけて論じている。いかにも彼らしい読みで、参考になります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 12, 2006

『魚と寝る女』(ビデオ)

『魚と寝る女』は『悪い男』と対をなす映画だった。というより、製作年から言えば『悪い男』(2001)が『魚と寝る女』(2000)と対をなしている。相手と自分を精神的にも肉体的にも傷つけることでしか成り立たない愛の形を、男と女それぞれを主人公に、一方は都会、一方は自然の中を舞台に描かれる。

『魚と寝る女』のソ・ジョンは湖上の小屋船に、『悪い男』のチェ・ジェヒョンは売春宿に相手を拘束する。2人とも屈託するものを内に抱え込み、ソ・ジョンは映画の初めから終わりまで一言も発しないし、チョ・ジェヒョンも言葉にならない言葉を一言発するだけ。

ソ・ジョンは水のなかから、チェ・ジェヒョンはマジック・ミラー越しに相手を窃視する。相手をつなぎとめるために、ソ・ジョンは釣り針を自らの性器に突き刺し、チェ・ジェヒョンはガラスに腕を突っ込む。観客がヒリヒリするような「暴力」描写。

風景もまた対をなしている。『悪い男』では都会の夜の闇に浮かび上がる売春宿のキッチュな色彩が記憶に残ったけど、『魚と寝る女』では朝霧が流れる湖の水面に黄色や紫のペンキを塗った小屋船が浮かんでいる。共に、キッチュな色がとても効果的に使われている。

『魚と寝る女』には、このイメージを撮りたかったんだなと思わせるショットがいくつもあった。特にラストシーン、浸水したボートの底に横たわるソ・ジョンの裸の死体(?)は、腹の肉を切りとられて泳いでいる鯉のイメージと重なって酷く美しい。

キム・ギドク監督は決してうまい監督ではないけど、いつでも映画の大もとになる原イメージがあり、それを実現するために脚本も演出も強引さをいとわない。それが彼の映画の力強さになっているんだろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 08, 2006

『隠された記憶』と映画の肉体

『隠された記憶』で印象的なのは「正面・据えっぱなし・長回し」の3つのカット。冒頭での、ダニエル・オートゥイユとジュリエット・ビノシュ夫妻が裕福な暮らしを営む都会の一軒家を道路越しに捉えたカット。ふたつ目は、中庭に鶏が放し飼いされているダニエルの生家を、手前にある納屋の暗い空間を通して捉えたカット。そして3つ目は、主人公の息子が通う小学校の玄関の階段を、これも道路越しに映し出したカット。

冒頭、夫妻の自宅門前が映されているカットに突然ノイズが入り、逆回しされることで、それがビデオテープの映像であることがわかる。夫妻の自宅を盗み撮りした撮影者も、その意図も不明なビデオテープと、血に染まった不気味な絵を描いた葉書が突然、夫妻に送りつけられることから、ミステリアスなタッチで物語がはじまる。

といっても、ミヒャエル・ハネケ監督のこの映画はミステリーではない。謎はついに謎のまま解決されない。というより、謎はいよいよ深まったまま映画は終わってしまう。謎の原因らしきものも、ふつうのミステリーなら納得されないような些細な「事件」が、しかも十分に説明されないままに提示されているにすぎない。ラストシーンになにごとかが隠されている(原題は「Hidden」)と宣伝のキャッチコピーにはあるけれど、夫妻の息子らしい少年が映っていたこと以外、僕にはよくわからなかった。

この映画を見た人の反応ははっきり2通りに別れる。隣に座っていたカップルは、「ぜんぜんわかんなーい。サイアク」とつぶやいていた。一方で映画が終わった後、ロビーで熱心に語りあっている2人連れもいた。僕はといえば、両方がわかる。あるいは、両方に全面的には同意できない。見ている途中で2度ほど眠くなった。でも、長回しの3つのカットをはじめ、いくつかのシーンでは画面に釘付けになった。

若い頃はどんなつまらない映画でも眠ることはなかったけど、この10年、疲れているときなんか、ちょっと退屈を感じるとすぐ眠くなってしまう。ゴダールを見ながら初めて寝たときには、さすがに自己嫌悪に陥った。でも最近は、少しぐらい寝ても面白さはわかるさ、と開き直っている。歳のせいという以上に、そこにどんな理屈もつけられないけど、なぜ眠くなってしまったか、いささか自己弁護気味な感想を記してみようか。

この映画は物語的な起承転結を意識的に回避している。冒頭でビデオテープと葉書で謎を投げかけておきながら、誰が何の目的でそれを撮影し、主人公夫妻に送りつけたのかが最後まで明らかにされない。最初から物語の整合性を無視しているならこちらもそのつもりで構えるけど、サスペンス映画のような導入で緊張と不安を高め、見る者にその答えを期待させておきながら、結末は色んな解釈が可能という肩すかしが眠くなる原因のひとつ。

その動機もまた、ことさらに小さく設定されている。主人公の、生家に暮らしていたアルジェリア人少年に向けた「無邪気な悪意」が少年を施設へ収容させることになり、その結果、彼が教育を受ける機会は奪われてしまう。そのことが数十年後に主人公への「脅迫」となって返ってくるらしいのだけど、映画や小説といったフィクションの世界で観客(読者)を十分に納得させるような動機にはなっていないように思う。

さらに眠気を誘う原因は、画面の背後にいっさいの音楽が使われていないこと。あるいは、映像的に魅力ある画面をどうも意識的につくっていないらしいこと。例えばハネケと同じように長回しを多用する監督たち、アンゲロプロスやホウ・シャオシェンやキアロスタミのような、それぞれに個性的で魅力に満ちた映像ではなく、クールで客観的な映像がことさら選ばれているように感じられる。「正面」という素っ気ないカメラ位置が、その印象をさらに強めている。

どうやらこの映画では、「映画らしさ」がとことん避けられている。それがここまで徹底されれば、それこそがミヒャエル・ハネケ監督が狙っていたことだとわかってくる。「映画らしい」つくりごとを拒否すること。映画を限りなくリアルな現実に近づけること。

確かに僕らが生きる現実は、映画や小説のようにドラマが展開するわけではないし、音楽が高鳴るわけでもない。人生を決める瞬間が、ごく日常的な風景のなかにやってくることだってあるだろう。他人には何の意味ももたない少年時代の小さな出来事が一生を左右することだってありうる。その意味では、物語としての整合性や起承転結を持たず、見る者の感情を大げさに揺さぶることをしない『隠された記憶』はとてもリアルな映画だ。

でもそれは、映画が本来的にもっている魔力を削ぐことにつながる、ある意味で危険な方法でもあるんじゃないだろうか。僕たちは映画という濃縮された時間のなかで、ドラマに翻弄され、激しい感情の揺れを体験したい。美しい音楽と映像に驚き、酔いたい。それが19世紀末以来、見世物として発達し、今も大衆的なエンタテインメント産業として成り立っている映画の最大の魅力ではないかと思うのだ。

『隠された記憶』のような映画は、ハリウッドみたいな大衆的なエンタテインメントの対極に位置している。単純な起承転結を避けて物語を解体し、意味を重層化する。情動を揺さぶるフォトジェニックな映像と音楽ではなく、言葉を喚起するような映像(反映像)を選ぶ。それは現代小説や現代アートとも共通する、尖端的な表現の一形式として必然でもある。大衆的なエンタテインメントが「型」に堕したとき、こういう先鋭な映画によって新しいスタイルが生まれる。

それは確かなんだけど、この映画は見る者の五感を揺さぶる「映画の肉体」とでも呼ぶべきものが希薄なような気がするのだ。どんな実験的な映画でも、映画がその肉体を失ってしまってはつまらない……なんて大上段な物言いをしてしまったけど、なに、自分が眠ってしまったことの自己弁護にすぎない。しかも、ハネケ監督の『ピアニスト』も『ファニーゲーム』も見ていないとあっては、大きな誤解をしているんじゃないかという恐れもある。他の作品も見て、もう一度考えてみよう。

| | Comments (2) | TrackBack (9)

May 03, 2006

『美しき運命の傷痕』のキャロル・ブーケ

主役の娘3人の母親役を演ずるキャロル・ブーケの存在感に圧倒された。おかっぱの白髪。車椅子、しかも精神を病んで言葉を発することができない。ほとんど目の光と、筆談する指先だけの演技。彼女自身はまだそんな歳ではないはずだけど、老いの美しさと狂気を発散させて、娘3人を、そして男たちを食い、支配してしまっている。

キャロル・ブーケといえば30年前、ブニュエルの遺作『欲望のあいまいな対象』でデビューしたときの冷たい官能を思い出す。貞操帯を身につけ、人を人とも思わぬ目つきで、フェルナンド・レイのブルジョア老人を翻弄していた。その後の出演作ではクールな美人女優というイメージが強かったけど、こういう癖のある映画が嫌いじゃないみたいだな。

エマニュエル・ベアールの長女は、両親が住んだアパルトマンに暮らし、浮気した夫とドア越しに両親がやったとまったく同じ確執を繰り返す。次女のカリン・ヴィアールは、父親のある姿を目撃したことがトラウマとなって、男とうまくつきあうことができない。3女のマリー・ジランは父親のような大学の教師と不倫の関係にある。親との関係に挫折した3人の娘たちの愛の「地獄」(原案はキェシロフスキが映画化しようとしたダンテ「神曲」の「地獄篇」)が、赤、青、緑の3色を3人の姉妹に配しながら描かれる。

ヨーロッパ人がエゴをとことん突き合わせ、傷つけあうのを真正面から見つめるこういう映画はどうも苦手だ。でもそれだけに、最後に「私は後悔してない」とつぶやく、エゴの果てのようなキャロル・ブーケの狂った母には凄みがあった。

| | Comments (9) | TrackBack (7)

May 01, 2006

庭の花々

060501_001w

060501_002w
庭の花々

仕事が忙しい上に、ワープロ・ソフトの打ちすぎでまたまた腱鞘炎が悪化してしまい、更新がままならなくなってしまった。本も映画も音楽もたまっているのだけど、残念。ようやくひと山越えそうなので、少しずつアップしていきます。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

« April 2006 | Main | June 2006 »