« March 2006 | Main | May 2006 »

April 23, 2006

『悪い男』(DVD)

すごい映画をつくる男がいたものだね。『サマリア』(2004)をDVDで見てうなり、新作『うつせみ』(05)につづいて評判の高い『悪い男』(02)を見た。傑作でした。キム・ギドクを見てなかったのは最近のいちばんの痛恨。設定、物語、映像感覚、すべてが「キム・ギドク印」のオリジナルな個性を持っている。

男が公園のベンチに座っている女子大生にいきなりキスする。男は風俗店の用心棒で、彼女を罠にはめ、娼婦に堕としてしまう。男(作者)の内的欲望があからさまにされていて、フェミニストなら目を剥く物語。

でも、そこからがこの映画の面白さで、男は娼婦になった女にいっさい手を触れない。マジック・ミラー越しに女を見守るだけ。女とベッドの上で横になっても、女にすがるように頬を寄せるだけでセックスを求めようとしない。だからこの映画、暴力的な男の純愛映画とも、不能男の恋愛映画とも取れる。

映像感覚が素晴らしい。暗い街路に浮かび上がる、そこだけけばけばしい色彩の風俗店と、男の手を引く女たちの色とりどりの服、嬌声。雨が降って、濡れた色彩がまたいい。『サマリア』での、ソウルのラブホテル街の映像も魅力的だったけど、これはそれ以上。

2人がトラックに幌をかけ、流しの売春をやりながら海岸線を走っていくラストも情感たっぷり。

この監督の映画、誰にも似てないけど、部分的にパトリス・ルコントと神代辰巳を思い出した。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 18, 2006

最後の花見

060417_001w

線路際に1本の八重桜がある。例年、これが最後の花見。ソメイヨシノが散った後に満開になる。駅の階段でカメラを構えていると、何人もの人が足を止めて、見事な桜ですね、と声をかけてくる。美しいものを見ると、その思いを誰かと共有したくなるんだろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 12, 2006

『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』と現代ウェスタン

去年のカンヌ映画祭に『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を出品したトミー・リー・ジョーンズ監督は、これは現代的なウェスタンではないかという質問に、「馬とカウボーイ・ハットが出てくるからといってウェスタンとは限らない」と答えている。

確かにテキサスを舞台にしたカウボーイの映画という題材だけでウェスタンという枠にはめられるのは、「国境と、その両側の文化を扱った映画」であることを強調する監督と脚本家(メキシコのギジェルモ・アリアガ)にとっては不本意だろう。

でも僕がこの映画を見ての印象は、馬とカウボーイ・ハットだけでなく、映画の中身も深々とウェスタン映画の伝統に根ざしながら、でも同時に白人からの目に偏りがちなウェスタンの視線を相対化した、やはり現代的なウェスタンと呼ぶのがふさわしいような気がするのだ。

監督であり主役でもあるトミー・リー・ジョーンズ演ずる男ピートは、年老いた外見はともかく、ウェスタン映画のヒーローの精神をたっぷりと受けついでいる。

カウボーイの頭であるピートは、メキシコからの不法入国者メルキアデス(フリオ・セサール・セディージョ)を雇って、やがて深い友情で結ばれる。メルキアデスが何者かに殺されると、「俺が死んだら故郷ヒメネスに埋めてくれ」というメルキアデスの言葉に従って、保安官に遺体を渡すことを求め、ふとしたことで判明した犯人の国境警備隊員を逮捕するよう求める。

両方とも拒絶されると、ピートはひとりで保安官と国境警備隊に立ち向かう。犯人のマイク(バリー・ペッパー)を痛めつけ、遺体を掘り出し、拉致したマイクと遺体とともに馬に乗って国境を超えメキシコを目指す。

19世紀、開拓された西部の町々では法の支配が弱かった。法を代表するのは保安官だけれど、無法者に対抗できるような力を持っていないことが多かった。そこから西部劇のヒーローが生まれ、公の法ではなく個人の正義に基づいて無法者をやっつけることでドラマが成立する。

ピートも、法が役に立たないと知ると、ためらうことなくメルキアデスとの友情と信義に殉ずる。法も国境も、彼にとっては何の意味ももたない。馬に乗り、荒野と岩山と砂漠を横切ってヒメネスに向かう姿は、西部劇のヒーローそのもの。

でも、一方でこの映画はTLJが強調するように伝統的な西部劇というジャンルに収まらない映画でもある。

ピートはメルキアデスの遺体を故郷に運ぶことに、あくまでこだわる。腐りはじめた遺体がアリに食われると、火をつけて遺体を焼き、不凍液を口から注ぎ込む。ピートにとって、メルキアデスとの約束を果たすこと以外なにも目に入っていないようだ。保安官も拉致されたマイクも、ピートを「狂ってる」と言う。西部劇のヒーローであることを超えた偏執的な振るまいには滑稽感すら漂う。

ピートの旅は徒労に終わるのではないか。見る者は途中からそんな予感に襲われる。そうした気配が深まるほどに、彼を取りまく風景がいよいよ美しく感じられる。低い潅木が続く寂寥とした荒野の夕暮れ。砂漠の白い稜線と青い空。焚き火の影が揺れる夜の岩山。

映画の前半が過去と現在を交錯させたギジェルモ・アリアガ(『アモーレス・ペロス』『21グラム』)らしい複雑な構成をもっているのに対して、ピートが荒野に足を踏み入れてからはシンプルなロード・ムーヴィーになり、それだけに風景の美しさが心に沁みる。

とりわけ印象深いのはメキシコに入ってから。毒蛇に咬まれたマイクを助けるために、一行はメキシコ人の家(越境を試みてマイクに殴られたことのある一家)に滞在する。マイクが休んでいる漆喰壁の白い部屋で、カーテン越しに差し込むピンクがかった外光の神々しいような美しさ。

あるいは、村の酒場からピートが国境を超えて愛人(ダイナーのウェイトレス)に電話するシーン。少女が弾く古ぼけたチェンバロの音、無数の飾り電球が輝く夕暮れの酒場の風景が、愛人にメキシコに来ないかと愛を告げる老いた男の純情と悲哀を際だたせる。

ピートとマイクとメルキアデスを巡る2人の女が、少ないシーンながら素晴らしい。

田舎町で、夫とともにダイナーを営んでウェイトレスをしているレイチェル(メリッサ・レオ)。彼女は保安官やピートと浮気し、ピートには「愛してるのはあなただけ」と告げるけれど、彼にメキシコに来ないかと誘われると拒絶して夫と残ると言い、男には分からないわよ、と電話口でピートに告げる。

マイクの妻、ルー・アン(ジャニュアリー・ジョーンズ)。高校の同級生同士の2人は、知る人のいない国境の町に赴任して移動式住宅に住む。暇をもてあます彼女はダイナーの常連になり、レイチェルに誘われてメルキアデスと遊ぶ。

メリッサ・レオの中年に達した女の疲れた表情、ジャニュアリー・ジョーンズの若く美しいのに放心した表情が忘れられない。すべてが仮の建物であるような国境の町の空虚な風景のなかに、2人の女の孤独な姿が刻み込まれている。

ラストシーンでマイクが発する言葉は、この映画は伝統的なウェスタンではないというトミー・リー・ジョーンズ監督の自負を象徴するようなセリフ。このところ俳優が監督として映画をつくるケースが目立つけれど、TLJは第1作で自分のスタイルをつくってしまった。これは記憶に残る映画になるね。

画面の背後にカントリー、チカーノ・カントリー、テックス・メックス(メキシコと南西アメリカの融合音楽)が絶えず流れているのも魅力。

| | Comments (0) | TrackBack (13)

April 06, 2006

『春が来れば』の苦い心地よさ

どこかで見たことのある設定と物語、聞いたことのあるセリフ、過去の映画で記憶にあるイメージが散りばめられているけれど、それが二番煎じとは感じられず、むしろなじんだ服のように心地よく映画の流れに身をゆだねることができ、最後にはジンと来たりする。『春が来れば(springtime)』はそんな「中年映画」だった。

売れないミュージシャンが恋人と別れ、ソウルを離れて地方都市の中学校で吹奏楽部を指導する講師になる。生徒たちの真情に触れ、ほのかな恋もあったりしながら、廃部寸前の吹奏楽部を立て直してコンクール入賞をめざす。

……と要約してしまえば、ありきたりの物語。でもそれが型どおりではなく襞ひだの細かな感情を見る者に伝えてくる映画になったのには、いくつかの理由があるように思う。

なにより、売れないミュージシャンになるチェ・ミンシクがうまい。『オールド・ボーイ』や『親切なクムジャさん』では髪を振り乱してエキセントリックな演技を見せたチェが、冴えない独身男になりきってる。太り気味で二重顎の身体から発する寂しさと切なさ。映画によって硬軟自在の役をこなす幅の広さは役所広司といい勝負だね。

この独身男のマザコンぶりがすごい。日常の身の回りの世話は母親に任せきり。地方都市へ行ってからも淋しくなると母親に電話し、母親が食料を腕いっぱい抱えていきなり下宿を訪ねてくると、男は文句を言いながらも喜々として迎えいれる。中年になった息子の母への甘えぶりは日本人から見ると度を越しているけど、公式HPのコラムによると、独身男と母親のこんなふうに密着した母子関係は韓国ではよくあることらしい。

夜、二人が下宿の一部屋に並んで布団にくるまり、若いころの夢はなんだったの? と息子が母親に問いかけて会話が始まる。小津安二郎の『晩春』で、寝巻き姿の笠智衆と嫁ぎ遅れた娘の原節子が旅館の一室で会話する有名なシーン(近親相姦の気配を感じる人もいる)を逆転させた構図。リュ・ジャンハ監督がそれを意識していたかどうかは分からないけど。

映画のロケは江原道の炭鉱町・道渓(トゲ)。この寂れた町の風景がたまらない。山間の谷間に小さく開けた低い家並み。坂の多い町にことあるごとに雨が降り、雪が降り、列車の走る音、踏み切りのカンカンという音が響く。日本人ばかりでなく韓国人にとっても、もはやこういう失われた風景はノスタルジーの対象なんだろう。

坂の途中、橋のたもとに一軒の薬局がある。木造で、ガラスの引き戸をがらがら開けると、中でだるまストーブが熱くなっている。中年男と薬剤師のほのかな恋の舞台になるこの薬局を道路の反対側から引き気味に捉えたショットが繰り返し挿入される。この映画のキー・イメージ。

リュ・ジャンハ監督が助監督としてついた『8月のクリスマス』でも恋の舞台になった写真館の引き気味のショットが繰り返し登場していたから、明らかにそれを踏まえたもの。でも、さびれた地方都市のリアルな風景が二番煎じに陥ることから救っている。

中年男が指導してコンクールをめざす吹奏楽部は、メンバーが抜けるお定まりのトラブルに見舞われる。日本でも似たようなテレビドラマや映画は多いけど、リュ監督はトラブルの理由を斜陽になった炭鉱の貧しさから引き出している。だから、日本映画よりも『フル・モンティ』や『ブラス!』といった階級社会の現実を背景にしながらエンタテインメントに仕立てた一連のイギリス映画に近い味わい。

日本のこの手の映画ではそういう骨っぽさはなく、ただの青春物語やノスタルジックな物語になってしまうことが多い。いや、それは総中流化した社会を反映しているだけなんだけど、今また格差社会などと言われている現実を素材にエンタテインメントにしてみせるしたたかな映画が見たいもんだね、というのは余分な感想。

中年男が作曲した唯一のヒット曲が教室で、キャバレーで、あるいは海岸で、トランペットとサキソフォーンで何度も演奏される。そのセンチメンタルで甘いメロディと、時折挿入されるピアノの抑制された叙情がうまくブレンドされているところが、『春が来れば』のほろ苦い心地よさになっているんだろう。

リュ・ジャンハ監督の第1作。いろんな意味で巧みすぎて、次がちょっと心配だけど。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 04, 2006

夜の青

060404_004w

060404_003w

仕事場の周囲は方角によってずいぶん雰囲気が違う。東側は下町ふうの民家や店が並んでいて、行きつけの大衆食堂がある。市場が近いので、魚はとびきり旨い。食堂の近くまで行くと、暮れきらない空と黒い電線に目が引きつけられた。

店を出て仕事場の西へ、JRの駅に向かうと新しいオフィス街がある。この一帯は、夜になると青い光がいろんなところに配置されていて、それがアクセントになっている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« March 2006 | Main | May 2006 »