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March 08, 2006

金子光晴の放浪3部作メモ(1)

10日間ほど臨時に入ってきた仕事にしばられていた。待ち時間が長く、夜も遅く、デスクを離れることができないから、映画にも行けないしブログの更新もできない。仕方ないので以前から気になっていた金子光晴の自伝的放浪3部作『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』(いずれも中公文庫)を読むことにした。

1928年、詩人の金子光晴は妻の三千代とともに上海を経由してパリを目指した。三千代にアナーキストの若い恋人ができたことから、金子の元を去った妻を男から引き離し、同時に貧困にあえぐ生活を建て直そうとしてのこと。とはいえ、パリまでの旅費はおろか上海までの旅費すらなく、とりあえず知人のいる大阪で旅費を調達しようという、なんとも無謀な企てだった。

『どくろ杯』は詩の好きな女学生だった三千代との出会いにはじまって、大阪、上海への旅のいきさつまでが、『ねむれ巴里』は三千代を先にパリに旅立たせた光晴がシンガポールやマレー半島を放浪してヨーロッパにたどりつき、パリとブリュッセルに暮らす日々が、そして『西ひがし』では妻をブリュッセルに残して再び一人で東南アジアを放浪する旅が回想されている。

何より驚くのは、この3部作が書き始められたのが1971年、実際の体験から40年以上たっているのにまるで昨日のことのように鮮やかなイメージで、読む者に旅の日々を伝えてくることだ。それは金子光晴がこの放浪の旅を頭ではなく五感でもって咀嚼し、反芻し、記憶していたからであるように見える。五感、なかでも匂いという嗅覚によって、旅の生々しい風景が蘇る。

例えば上海。

「大陸特有の、編み糸の目を針のようにくぐって肌に突刺さるきびしいつめたさの、氷雨がふりはじめていた。そんなときは、世の終りのような気がして、やりかけのことも欲得もなく放棄して、胴ぶるいの止まらないからだを、温い湯気の渦巻く片隅にうずくまって、熱い湯麺の椀にでも顔を埋めたくなる。楊樹浦クリークのくさいにおいが鼻を穿つ。うらぶれた家屋が庇をよせあったなかのうすぐらいところに、うようよと人がむらがっている。/そこは、女の肉の切り売の袋小路……上海の土地でも名うての腐肉捨て場で、紫色にふくれた、注射針のあとだらけなくずれた肉に烏の群のように男たちがたかってくる」(『どくろ杯』)

氷雨のなかの湯麺の匂い、クリークのどぶのような匂い、売春窟のすえた肉の匂い。そんな匂いのなかを、金子は水彩画を描いて日本人に押し売りしたり、エロ小説を書いたりしながら、明日を生きつぐ金を求めて彷徨っている。

上海からシンガポール、マレー半島と旅費をかせいでまわり、ようやくフランスに向かう船に乗った金子は、中国人留学生4人組と同室になる。そこで彼は一人の女子学生と出会い、互いにそこはかとない好意を感ずるようになる。深夜、金子が船室でひとり眼を覚まし、ベッドから下りての描写。

「僕の寝ている下の藁布団のベッドで譚嬢は、しずかに眠っていた。……僕は、からだをかがみこむようにして、彼女の寝顔をしばらく眺めていたが、腹の割れ目から手を入れて、彼女のからだをさわった。じっとりとからだが汗ばんでいた。腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしいものをさぐりあてた。その手を引き抜いて、指を鼻にかざすと、日本人と少しも変らない、強い糞臭がした」(『ねむれ巴里』)

後で金子は、あのとき譚嬢は自分の行為に気がついていたのではないか、と書いている。当時、すでに日中間は緊張し、上海でも東南アジアでも排日の動きが高まっていた。

でも金子の中国人(中国系華僑)への接し方は、この本のあちこちでスケッチされる植民者が被植民者に対するものではなく、かといって左翼インテリのそれでもない。植民地支配被支配の関係を軽々と超えて、金子の言葉を使えば「同糞同臭」のアジア人として、人間と風土(米食だからこその「同糞同臭」)への生理的一体感をもっているように思える。なんとも官能的な、先の引用の続き。

「同糞同臭だとおもうと、『お手々つなげば、世界は一つ』というフランスの詩王ポール・フォールの小唄の一節がおもいだされて、可笑しかった」


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