『picnic』に流れる感情
仕事で、ある女優さんの若い頃の写真を見る機会があった。深い海の色をした地中海が背景に見える南仏で、彼女は美術館の石積みの壁に上体をもたせかけて撮影者を見つめている。頬近くに寄せた右手の指をかすかに折って壁の石を撫で、ちょっと上目遣いにカメラを見ている彼女のエキゾチックな微笑はなんとも親密なもので、こんな個人的な親しさを感じさせる瞬間を捉えるとは、「女性専科」と呼ばれているとおり、かの写真家はすご腕だなと思った。
それからしばらくして、この写真家と女優は写真が撮られた時期、恋人同士だったらしいことを知った。やっぱりね、あの表情はただのモデルが見せるものじゃないよな、と納得したものだった。
写真はカメラという機械が撮るものなのに、びっくりするほど人間的感情を写しこんでしまう。撮影者と被写体の間に流れている感情、あるいは被写体となった人たちの間に流れている感情。さまざまに彩られたそれらを読み解くのは、写真を見る楽しみのひとつだ。
瀬戸正人の『picnic』(発行:PLACE M、発売:月曜社)は、そんな快楽を存分に味わうことのできる写真集だった。代々木公園はじめ、東京の公園や河原で声をかけて撮った58組のカップルの肖像。
それぞれのカップルは、木陰の草むらやシートの上で抱き合ったり、膝枕をしたり、寝そべったり、思い思いのポーズを決めている。動きの少ない静止したポーズを取っているのは、おそらく瀬戸正人が意識的にそうしているからだろう。東京に住む若者や外国人を彼らの居間で撮影した、かつての『Living Room, Tokyo』と同じスタイル。おそらく中判カメラを使っているため、瞬間的なスナップショットではなく記念写真のような雰囲気が感じられることも共通している。
写真家とカップルは知り合いではなく、初対面での撮影。だから撮影者と被写体のあいだに個人的感情は流れていない。公園の緑という背景も、真ん中にカップルを置く構図も、カメラの位置も、写真のスタイルはすべて同じ。だから、撮影者と被写体との関係はどの写真も一定で、しかも写真家の存在は限りなく透明に近い。そこで浮かび上がってくるのは、緑のなかで戯れているカップルの、男と女のあいだにどんな感情が流れているのかということだ。
相手を信頼しきって、まったく無防備に背中を男の体に預けている女がいる。仰向けに寝た男の腹に肘を立ててにこやかに笑っている女がいる。女の膝に頭をのせて男が寝そべっているカップルは、2人とも照れたような硬い表情をしている。幼い高校生のカップルは女の子が顔を隠している。
白人男性とアジア系らしい女性のカップルは屈託なく抱き合っている。かと思うと遠慮がちに距離を保ったカップルもいる。ホームレスみたいなカートを持ち、缶ビールでドーナツを食べる手を休め、憮然とした顔でカメラに写されている中年のカップルはどういう2人なんだろうか。
1点1点をじっくり見ていると、そこから無限の物語が紡ぎだされてくる。そんな楽しみに身をゆだねることになってはじめて、この写真集が同じスタイルの写真を60点近く重ねている理由が見えてくる。
「不幸はそれぞれ別の顔をしているが、幸福はみな同じ顔をしている」といった意味のことを言ったのはトルストイだったか。でもここに集められた写真を見ていると、幸福なカップルもそこに流れている感情と関係は均一ではなく、微細に見ればそれぞれに違うことが納得できる。60点を通しての同じスタイルは、そのわずかな差を浮かび上がらせるためにこそ必要だった。
瀬戸正人は巻末でこの作品について「恋愛のはじまりの瞬間」という言葉を使い、「消えそうに淡く、そして危ういその瞬間こそが写真かもしれません」と書いている。
ここに写された58組のカップルも、次に写されるときはもう2人のあいだに流れる感情は微妙に、あるいは大きく変わっているにちがいない。男と女のあいだに生まれる恋愛という不可思議な感情と、それを写しとることのできるカメラという機械の精妙な不思議さとが二重写しに見えてくるところに、この写真集の面白さがあると感じた。
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