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February 22, 2006

『picnic』に流れる感情

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仕事で、ある女優さんの若い頃の写真を見る機会があった。深い海の色をした地中海が背景に見える南仏で、彼女は美術館の石積みの壁に上体をもたせかけて撮影者を見つめている。頬近くに寄せた右手の指をかすかに折って壁の石を撫で、ちょっと上目遣いにカメラを見ている彼女のエキゾチックな微笑はなんとも親密なもので、こんな個人的な親しさを感じさせる瞬間を捉えるとは、「女性専科」と呼ばれているとおり、かの写真家はすご腕だなと思った。

それからしばらくして、この写真家と女優は写真が撮られた時期、恋人同士だったらしいことを知った。やっぱりね、あの表情はただのモデルが見せるものじゃないよな、と納得したものだった。

写真はカメラという機械が撮るものなのに、びっくりするほど人間的感情を写しこんでしまう。撮影者と被写体の間に流れている感情、あるいは被写体となった人たちの間に流れている感情。さまざまに彩られたそれらを読み解くのは、写真を見る楽しみのひとつだ。

瀬戸正人の『picnic』(発行:PLACE M、発売:月曜社)は、そんな快楽を存分に味わうことのできる写真集だった。代々木公園はじめ、東京の公園や河原で声をかけて撮った58組のカップルの肖像。

それぞれのカップルは、木陰の草むらやシートの上で抱き合ったり、膝枕をしたり、寝そべったり、思い思いのポーズを決めている。動きの少ない静止したポーズを取っているのは、おそらく瀬戸正人が意識的にそうしているからだろう。東京に住む若者や外国人を彼らの居間で撮影した、かつての『Living Room, Tokyo』と同じスタイル。おそらく中判カメラを使っているため、瞬間的なスナップショットではなく記念写真のような雰囲気が感じられることも共通している。

写真家とカップルは知り合いではなく、初対面での撮影。だから撮影者と被写体のあいだに個人的感情は流れていない。公園の緑という背景も、真ん中にカップルを置く構図も、カメラの位置も、写真のスタイルはすべて同じ。だから、撮影者と被写体との関係はどの写真も一定で、しかも写真家の存在は限りなく透明に近い。そこで浮かび上がってくるのは、緑のなかで戯れているカップルの、男と女のあいだにどんな感情が流れているのかということだ。

相手を信頼しきって、まったく無防備に背中を男の体に預けている女がいる。仰向けに寝た男の腹に肘を立ててにこやかに笑っている女がいる。女の膝に頭をのせて男が寝そべっているカップルは、2人とも照れたような硬い表情をしている。幼い高校生のカップルは女の子が顔を隠している。

白人男性とアジア系らしい女性のカップルは屈託なく抱き合っている。かと思うと遠慮がちに距離を保ったカップルもいる。ホームレスみたいなカートを持ち、缶ビールでドーナツを食べる手を休め、憮然とした顔でカメラに写されている中年のカップルはどういう2人なんだろうか。

1点1点をじっくり見ていると、そこから無限の物語が紡ぎだされてくる。そんな楽しみに身をゆだねることになってはじめて、この写真集が同じスタイルの写真を60点近く重ねている理由が見えてくる。

「不幸はそれぞれ別の顔をしているが、幸福はみな同じ顔をしている」といった意味のことを言ったのはトルストイだったか。でもここに集められた写真を見ていると、幸福なカップルもそこに流れている感情と関係は均一ではなく、微細に見ればそれぞれに違うことが納得できる。60点を通しての同じスタイルは、そのわずかな差を浮かび上がらせるためにこそ必要だった。

瀬戸正人は巻末でこの作品について「恋愛のはじまりの瞬間」という言葉を使い、「消えそうに淡く、そして危ういその瞬間こそが写真かもしれません」と書いている。

ここに写された58組のカップルも、次に写されるときはもう2人のあいだに流れる感情は微妙に、あるいは大きく変わっているにちがいない。男と女のあいだに生まれる恋愛という不可思議な感情と、それを写しとることのできるカメラという機械の精妙な不思議さとが二重写しに見えてくるところに、この写真集の面白さがあると感じた。


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February 17, 2006

『クラッシュ』の悲しみの連鎖

アメリカ映画を見に行って、オープニングでユニバーサルや20世紀フォックス、あるいはドリームワークスやミラマックスといったおなじみの製作・配給会社のロゴではなく、この映画みたいな見慣れないロゴが出てくると、それだけでちょっとだけ楽しみがふえる。

ハリウッドの大資本と離れたところでつくられたインディペンデント系の映画には時々渋いヒットがあって、そういう映画にめぐりあったときの嬉しさは単館ロードショー系の映画好きなら誰でも思い当たるはず。

野心満々の若い監督のデビュー作もあれば、我が道をゆく監督もいる。インディペンデント映画でデビューした監督がハリウッドに呼ばれ、作家としてのこだわりと商業主義にどう折り合いをつけながら作品をつくるかを見守っていくは、けっこう楽しい「追っかけ」だ(ここ数年はアレクサンダー・ペインやクリストファー・ノーランを追っかけてる)。

『クラッシュ』もインディペンデント系の映画で、ポール・ハギス監督のデビュー作。もっとも彼は『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本で注目を集めたし、テレビの世界で既に名をなしているらしいから、無名の新人じゃない。

今年のアカデミー賞にもノミネートされているから(作品賞・監督賞など)、『ブロークバック・マウンテン』や『ミュンヘン』を押さえて賞をもらえば一躍ビッグな存在になるにちがいない。というか、すでにイーストウッドの新作や007最新作の脚本、そして彼自身の監督第2作も決まっていて、ハリウッドの評価は定まっているようだ。

この映画がハリウッドではなくインディペンデントでつくられた理由のひとつは、そのエスニックな設定にあるだろう。アフリカ系を中心にして、ヒスパニック、イラン人、コリアンなど、ロサンジェルスのごった煮のような人種が入り乱れ、彼らが「ポリティカリー・コレクト」な配慮を必要とするハリウッド映画では御法度なエスニック・ジョークを連発する。

しかも彼らはハリウッドの定番のような善玉でも悪玉でもない。

狂言回しになるアフリカ系の刑事(ドン・チードル)は、野心家の地方検事が警察官同士の殺人事件を政治的に不利にならないよう嘘の発表をするのを受け入れる。イラク人と間違われ店が荒らされた老イラン移民は、ドアの鍵を修理に来たアフリカ系の男を逆恨みして銃をぶっ放す。交通事故の被害者になったコリアンの男は、実はアジア人の密入国に携わっている。

かと思うと、アフリカ系の裕福なTVディレクター夫妻の車を止め、「武器所持調べ」で妻の全身を触りまくる人種差別主義者の白人巡査(マット・ディロン)は、家に帰れば病気の父親の面倒を見る心優しい息子でもある。アフリカ系に偏見をもち差別的な言葉を吐く地方検事の妻(サンドラ・ブロック)は、震えるような孤独に苛まれている。

ひとつの交通事故(クラッシュ)をきっかけにして、彼ら彼女らの運命が鎖のようにつながってゆく。傷ついた者が次の者を傷つけ、悲しみにくれる者が次の者を悲しみの底に突き落とす。それは何十台もの車が次々に追突するクラッシュそのものだ。

そんな、多彩な登場人物の色んなエピソードが、時間をさかのぼりながら群像劇として巧みに構成され、演出されている(脚本・監督ともハギス)。悲しみのなかに、ひとすじの希望を灯す「見えないマント」の挿話も差し挟まれる。映像や演出にこと新しい実験はないけど、快調なテンポ、一瞬の描写で登場人物の光と影を彫り込んでゆく職人技。さすがテレビ映画で鍛えられただけはある。

『クラッシュ』は非ハリウッド的な設定やセリフや登場人物に満ちているのに、ハリウッド的に(あるいはテレビ・シリーズ「24」や「ザ・ホワイトハウス」みたいに)ウェルメイドなドラマに仕立てられている。その、ある種のアンバランスがこの映画の魅力だろう。

あえて瑕瑾を捜すなら、善人らしく見えた登場人物がそうとばかりはいえず、悪人らしく見えた人物もまた見かけどおりでないという、ひとひねりした「類型」が途中から見えてくるので、腐敗警官を嫌悪する若い巡査は「いい人」のまま終わるんだろうか、盗みを重ねるアフリカ系のちんぴらも「悪い人」のまま終わってしまうんだろうかと疑いが生じて、ラストに込められた思いがやや軽くなってしまうこと。

ラストシーン。ロサンジェルスに降る雪は美しい。ロスでは稀に雪が降るらしいけど、カエルは降らない。『クラッシュ』と同じ群像劇である『マグノリア』で最後に降ってきたカエルみたいに、この雪もいつまでも記憶に残るだろうか。


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February 10, 2006

中井久夫の『関与と観察』

精神科医である中井久夫の専門的な著作には歯が立たないけど、一般向けの本(『分裂病と人類』や阪神大震災関連)とエッセイ集はたいてい読んできた。そうして彼の書くテキストと阪神大震災での現場の医師としての実践などから、いまこの国に存在する最高の知性のひとりだと思ってきた(それについては「book navi 」で「時のしずく」に関連して書いたことがある)。

『関与と観察』(みすず書房)は中井の5冊目のエッセイ集。彼には珍しく「9.11以後」や「イラク戦争」など、生々しい現実に触れた文章が多く収録されている。

中井久夫を読むスリルは、あるテーマが思いもかけない角度から光が当てられる瞬間にある。医学者として、あるいは詩人として(現代ギリシャ詩の訳者でもある)、ある事実や直感を核にして、独特のやり方でテーマににじりよっていく。そのユニークな発想と論理展開がそのまま彼の個性になっている。

たとえば「精神医学および犯罪学から見た戦争と平和」と題された講演原稿では、「発砲率」ということから戦争が考えられている。「発砲率」とは、敵に対峙したとき何パーセントの兵士が実際に敵に向かって銃を撃つか、という数字。米軍では南北戦争から第二次世界大戦までの100年近いあいだ、おおよそ15%から20%だったそうだ。

中井は、米軍兵士のこの発砲率が「日本軍の玉砕攻撃に立ち向かう時でも同じ」で、「つまり80パーセントから85パーセントの兵士は、自分の命が危ない時でも、敵をねらって発砲しない」で「最後のヒューマニティを守っている」として、次のように言う。「調べていくにつれて、意外に人間には希望が持てる面があることに気づきました。人間はそうそう人を殺せないのです」。

第二次大戦後、米軍は、これではならじと兵士教育を徹底させ、朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では95%の発砲率を達成した。ところが「『心の底のブレーキ』を外して、発砲率を飛躍的に向上させた」「悪魔の心理学」を採用した代償として、兵役が終わっても市民生活にうまく戻れない元兵士が大量に生まれた。彼らにはPTSD(外傷性ストレス)という病名がつけられたが、「その概念はベトナム復員兵を対象として70年代に成立した」。

いま、ベトナムで懲りた米軍は「悪魔の心理学」を捨て、イラク戦争での米軍の発砲率は24%に戻っているそうだ、と中井はつけ加えている(兵士としての訓練が十分でない州兵が多いことも関係しているにちがいない)。

そこから話は兵士の戦闘意欲、白兵戦がいかに兵士の心理を消耗させるかというところから、指導者の心理へと展開し、最後は「銃後」の民衆に至る。「今は戦争の実際の経験者が引退しつつある時であることを見ると、どうも危ないという気がします。戦争への心理的バリヤーが低くなっています」と言いつつ、一般民衆(つまり僕たち)に対するこんな危惧で話を結んでいる。

「たとえばミサイルが日本に飛んできた時に、飛んできたもととおぼしい国の人であって、長く日本におられるというような方に危害を加えるようなことが今後の日本人にあるかどうか、それは日本の国民の究極の品位を国際的に問われることであると言いたいと思います」

あるいはまた、次のような感想も戦争を知っている世代だからこそと言えるだろう。

「『北』の話を聞くと60年前のわが国がしきりに思い出される。国民が飢えているのに軍事大国で、謀略を『国のために』躊躇せず行い、麻薬を近隣国に売っていた日本である。『北』が古い日本を遺伝している可能性はないだろうか」

本文とは別に、単行本化に際してつけられた注がまた面白い。戦前の日本海軍で艦船の爆沈が多かったという事実に触れながら、「日本の艦はよく爆沈するが、少なくともその半数は制裁のひどさに対する水兵の道連れ自殺という噂が絶えない」なんてことが、さらりと紹介されている。


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February 08, 2006

セルタブの「エスニックR&B」

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アラブ・ポップスを聴いているのは前にも書いたことがある。(05年1月15日)。今度買ったのはアラブではないけど、同じイスラム圏トルコの歌手、セルタブの「No Boundaries」(SONY)。

タイトルが英語であることや、制作会社がソニーであることから分かるように、トルコ国内ではなく国際マーケット向けのアルバム。一昨年発売され、韓国映画『箪笥』のイメージ・ソングとしてCMにも使われたらしいけど、知らなかった。

セルタブ自身がこのアルバムの音を「エスニックR&B」と言ってるように、西洋音楽とトルコ民族音楽のチャンポン。曲によって、欧米のポップスふうなメロディーに民族楽器(サズ、ウード、ドラム等)の音とビートを乗せたものもあれば、民謡に近いメロディをやはり民族楽器でダンサブルなR&Bに仕立てたのもある。メローなバラードもある。

彼女自身の歌い方も、ポップスふうあり、こぶしをきかせたものあり、部分的にクラシックの発声をしてるのもある。時には堂々と歌いあげ、時にはひどく色っぽくと、トルコのディーヴァと言われるだけのことはある。

歌詞はすべて英語。曲づくりには、ブリトニー・スピアーズに曲を提供しているピーター・クヴィントはじめ、フランス、インドネシアなどいくつもの国のミュージシャンがかかわっている。だからトルコ・ポップスといっても、トルコ人以外にも聴きやすい味付けがされているんだろう。

もっとも、欧米人(日本人も)が「トルコ的」と感ずるエキゾチシズムを意図的に狙った「逆オリエンタリズム」の気配もあるかもしれない。そのあたりは、他にトルコ・ポップスを聴いてないのでよく分からない。

ま、そんな難しいことは考えなくても、歯切れ良く浮き浮きしてくるようなリズムは休日の朝、食事の支度をしたり、部屋の片づけをしたりしながら聴くのに最適。カミさんの家事専用BGMと化しているナワール・エル・ズグビー(レバノン・ポップス)とともに、最近の「元気モード」用の音楽はこれ。


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February 04, 2006

河井寛次郎三昧

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河井寛次郎記念館・寛次郎の陶房。右上の像は円空仏

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登り窯

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中庭

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書斎。椅子は寛次郎のデザイン

仕事で京都へ行き4時間ほど自由時間ができたので、前からやってみたかった河井寛次郎めぐり。京都国立近代美術館の川勝コレクション(常設展)を見て、円山公園から円徳院(特別公開中)、五条坂を歩き河井寛次郎記念館へ。

寛次郎の作品は日本民芸館やMOA美術館にもあるけど、これだけまとまって見られるのは京都だけ。しかも記念館は寛次郎自身の設計になる自宅・工房がそのまま使われ、家具も生前のまま配置されている。彼がどんなバックグラウンドをもち(父親は大工の棟梁)、どんな空間を好んだかが体感できるから、作品の根っこの発想のようなものが実によく分かる。さりげなくおいてある壺や皿やオブジェも見事なものばかり。


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