『王道の狗』の陰影
安彦良和の「近代史もの」の男たちは、いつでも危うい場所にいる。傑作『虹色のトロツキー』の主人公、日蒙混血の青年ウムボルトは傀儡満州国のスローガン「五族(日朝中満蒙)協和」を本気で信じ、そのために満州の野に果てなければならなかった。
『王道の狗』(白泉社、全4巻)の主人公2人、加納と風間は明治の自由民権運動に身を投じ、獄につながれた。彼らは北海道で道路開削のため過酷な労働を強いられるが、脱走してアイヌに助けられる。名を変えて生きることを選んだ2人は、やがて相容れない立場で対面することになる。
風間は、大陸に進出し清に戦争を仕掛けようとする外務大臣・陸奥宗光の「帝国の狗」として。加納は、日朝中が連携して列強に対抗しようとする金玉均、宮崎滔天、孫文らの「王道の狗」として。
物語の上では加納がひとまずヒーローになっているけれど、「王道の狗」という呼び方はどうみても正義派のものじゃない。「狗」というのはスパイ、回し者の意味だし、儒家の理想政治を意味する「王道」は後に「王道楽土」という言葉で、「五族協和」とともに満州国傀儡政権の上辺を飾るスローガンになった。もちろん安彦良和は、「王道の狗」というタイトルが呼び起こすそんなニュアンスを百も承知のうえで使っている。
だからウムボルトがそうだったように、彼らはどこかに複雑な陰をかかえている。最後には孫文らの隊列に身を投じる加納の額に常に巻かれているアイヌの布が、そのことを示しているだろう。正義が文字通りには信じられていない。
安彦良和の主人公が僕らの心をとらえるのは、マンガの主人公として正義派のヒーローという衣をまとっているけれど、いつの時代でも何が正義か結局のところ分からない状況のなかでひたむきに生きようとする男たち女たちが美しいからだろう。
安彦のストーリー・テリングの巧みさ、絵のうまさ、カットとカットのつなぎの映画的快感には本当に酔わせられる。アイヌの娘、タキの艶っぽさもひときわ。
ただ惜しむらくは、掲載誌(『ミスターマガジン』)の廃刊が決まったために終盤がばたばたになり、じっくり描き込む安彦のスタイルが生かされなかったこと。単行本化に当たって100枚ほど加筆したらしいけど、ファンとしてはまだまだ物足りない。
特に「帝国の狗」風間の生き方がはしょられているので、最後の2人の対決がウムボルトの死のようには胸に迫ってこないのが残念。「王道の狗」加納ではなく「帝国の狗」風間を選んだアイヌの娘タキも、描き込めばさらに陰影を増したろう。
などと無理な注文をつけたけど、つまりもっと読みたいということ。構想は現在の全4巻の倍くらいのスケールで考えられたんじゃないだろうか。
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