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January 31, 2006

『僕のニューヨークライフ』とビリー・ホリディ

『僕のニューヨークライフ』と次作『メリンダとメリンダ』を最後に、ウッディ・アレンは映画づくりの本拠をニューヨークからロンドンに移すそうだ。そんなニュースを聞いて、ニューヨーク(と周辺)を舞台にした作品をほぼ毎年1作、30年のあいだコンスタントに発表してきたウッディ・アレンの映画は「寅さん」だったんだな、と思った。

「寅さん」がロケ地とマドンナを変化させながら常に同じスタイル(人情喜劇)で同じテーマ(寅の不器用な恋)を変奏してきたように、ウッディ・アレンの映画も舞台をニューヨークに固定して、ウッディのスタイルとしか言いようがないやりかたで同じテーマを変奏してきた。それをあえて言葉にすれば、「引き裂かれたもの同士の葛藤」とでも言ったらいいか。

愛とセックス。機関銃みたいなジョークと、それを生み出す神経症的な自分。最先端の都市風俗と懐古的ノスタルジー。ウッディ・アレンは、そういったものが一体となって充足した宇宙をつくる幸せな映画を夢見ながら、そうはならずに引き裂かれ、手と足が意思に反してばらばらに動いているような映画をつくってきたように思う。そのちぐはくさがまた魅力でもあった(ウッディが脚本を書き、ジョージ・ロイ・ヒルが監督した『ボギー! 俺も男だ』のハリウッド的完成度と、ウッディの監督作品との落差)。

僕がウッディ・アレンをよく見たのは、1970年代から80年代にかけて。

『ボギー! 俺も男だ』(脚本・主演)から『アニーホール』を経て『マンハッタン』にいたる70年代の「ダイアン・キートン」時代。『ボギー!』は恋愛コメディの、『アニーホール』や『マンハッタン』は青春(中年?)映画の傑作だったよね。

ダイアン・キートンからミア・ファーロウに乗りかえてからの、『カイロの紫のバラ』『ハンナとその姉妹』『ラジオデイズ』といった80年代の「ミア・ファーロウ時代」。この時代のウッディの映画は時にあまりにノスタルジックで、時にあまりにシリアスで、ちょっとかなわんなあと思った記憶がある(『僕のニューヨークライフ』でも、ちょっと真面目なユダヤ・ネタがある)。

しばらく離れていたウッディの映画にまた行くようになったのは、ここ4、5年。かつてのような傑作にめぐりあえるとは思わないけど、ちゃんと楽しませてくれることは保証つき。しかも歳のせいか(ウッディも、こちらも)、シニカルな笑いよりハート・ウォーミングな笑いが勝つようになってきた。その意味でも「寅さん」映画だった。

ウッディ・アレンの映画にジャズはつきものだけど、それは必ずモダン・ジャズ以前の音楽で、チャーリー・パーカー以後のビバップやハードバップが流れることはない(見ている限り)。それがウッディの映画にノスタルジックな空気をかもしだす。『僕のニューヨークライフ』では、最初から最後までビリー・ホリディの歌が流れている。ビリーの歌に絡みあうようにセクシーな伴奏をつけたことのあるレスター・ヤングのテナーサックスも流れる(ダイアナ・クラールのライブもちらりと)。

ところで、日本人のビリー・ホリディの聴き方はひょっとして誤解の上になりたっているんじゃないかと、ずっと思ってきた(僕が誤解しただけのことかもしれないが)。

僕らの世代は、彼女が生きていた時代を知らない。僕らがビリーを聴きはじめたのが60年代ということもあったかもしれない、そのころビリー・ホリディの名前とともに引き合いに出される歌は決まって「ストレンジ・フルーツ(奇妙な果実)」だった。リンチにあって「奇妙な果実」のように木に吊された黒人を歌った、悲しくも陰惨な歌。

その名唱(コモドア盤)の印象があまりに強烈だったからだろうか、ビリー・ホリディの歌は暗くて重い、という刷り込みが頭のなかにできてしまった。それ以来、彼女のどんな歌を聴いても暗いなあと思ってしまう。

確かに晩年の歌はかつての艶を失ったしゃがれ声だし、彼女自身も悲惨な境遇にあったけれど、全盛期のビリー・ホリディは全米ナンバーワンの人気者だったのだ。そんな暗いだけの歌手であるはずがない。その「誤解」が、この映画で解けた。

『僕のニューヨークライフ』に流れるビリー・ホリディの歌は、映画のなかで何度も出てくるセントラル・パークの木々を透して射し込む木漏れ日のように温かで、幸福感に満ちている。あるいはブルックリンあたりだろうか、褐色砂岩のアパートが立ち並ぶ街路の秋めいて落ち着いた色彩のように、ゆったりしている。ああ、ビリー・ホリディの歌はこういうものなんだな、と初めて実感した。それはこの映画そのものが幸福感にあふれているからだろう。

クリスティーナ・リッチ演ずるキュートで我が儘な女の子に振り回されるジェイソン・ビックスも、ジェイソンの兄貴分になるウッディ・アレンも、かつての登場人物がもっていた神経症的な雰囲気はない(相変わらず精神分析医に通って、文句ばかり言ってるけど)。かつて「ボギー」に女の子の口説き方をコーチされてたウッディが、この映画ではジェイソンの教師役に回っているんだから、30年がんばったニューヨークの「寅さん」も退けどきなんだろう。

ロンドンに移ったウッディがどんな映画をつくるか、それはそれで楽しみ。老いたとはいえ、そんな期待をもたせる監督だね。


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January 28, 2006

蘇った「テクニカラーの美女」

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最新技術で修復されたヒッチコック『めまい』のDVDが980円で発売されていて、思わず買ってしまった。

『めまい』は数あるヒッチコック作品のなかでも傑作として知られるし、そのめくるめく色彩のマジックのような映像は30年以上前に見たにもかかわらず鮮明に記憶に残っている。それだけじゃなく、キム・ノヴァクの匂うような女っぽさに大学生のこちとら、クラクラきた。

「テクニカラーの美女」って言い方がある。色の鮮やかさが際だつテクニカラーは『風と共に去りぬ』で評判になり、コダックのイーストマン・カラーに敗れて姿を消すまで、ハリウッドのたくさんの映画に使われた。肌色のつややかさ、衣装の発色の美しさ。テクニカラーは女優を美しく見せる。

「テクニカラーの美女」は、本来もう一世代古いモーリン・オハラ(赤髪がよく映えた)なんかを指すのだろうけど、僕にとって「テクニカラーの美女」といえば、この映画のキム・ノヴァクに尽きる。

レストランの緋色の壁を背景に、緑と黒の豪華なドレスに身をつつんだキム(写真)。白に近いブロンドの髪に白ブラウス、グレイのツーピースと同系色でまとめ、幽霊のように存在感の薄いキム。白いコートに黒のスカーフが風になびく海辺のキム。記憶のなかの「テクニカラーの美女」が蘇った。

キム・ノヴァクだけではない。カーテンに緑のネオンが映える幻想的な室内シーン。夜の町が漆黒に沈む交差点のインサート・ショット。樹齢2000年の杉に囲まれた森の闇の深さ。画面が赤や紫に変化するジェームズ・スチュワートの錯乱シーン。こんなに色彩をうまく使った映画はほかにない。

そんな映像が、おそらく1958年の公開時そのままの色彩で見られるのが嬉しい。

内容に関して言えば、『めまい』ほどさまざまに語られた映画も少ない。しかもヒッチコック自身がフランソワ・トリュフォーの質問に答えて、「この男は死んだ女と寝ること、つまり屍姦に夢中になっているわけだ」と、隠されたテーマをずばり語っている(『ヒッチコック トリュフォー 映画術』)。であれば、これ以上言葉をついやす必要もなく、ブロンド・フェチ=ヒッチコックの歪んだエロティシズムに惑乱するのみ。

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January 26, 2006

『サマリア』の風景に抱きしめられて

遅ればせながら『サマリア』(DVD)を見た。なんという画面の艶やかさ。ことに手持ちカメラで撮られたソウルの町や晩秋の山々や川面の色彩の見事さったらない。

援交女子高生を演ずるソ・ミンジョンとクァク・チミンがラブホテル前の石段に座ってアイスクリームを頬ばりながら男を待っている。石段には緑の光が当てられている。石段の向こう、ラブホテルの車の出入口には赤や灰色、紫のびろびろの布が垂れ下がっている。ソウルのラブホテル街の原色が、目に突き刺さるのではなく、何と言ったらいいか、けばけばしいまま背後の建物に沈みこむような奇妙な美しさを感じさせる。

高校の制服を着たミンジョンとチミンが晩秋の公園を散歩している。紅葉と竹の緑との鮮やかな対照。園内の立木には管理のためだろうか、緑色の丸い印がつけられていて、その不思議な色と形が2人の会話を非日常的な雰囲気にしている。

チミンの父親の警察官(イ・オル)が、援交する娘(といっても、死んだミンジョンがセックスした男たちを呼び出して金を返す「逆援交」なのだが)を車でつけている。娘を待つ間、フロントグラスに落ち葉が降りかかる。時間の経過を表わす教科書みたいな描写だけど、それ以上にソウルという都市の美しさを感じさせる。

ラスト近く、父親のイ・オルは娘のチミンを墓参りの旅に誘う。山に囲まれた斜面での墓参りをすませ、山村の空家で一晩をあかした2人は川のほとりに出る。父は川の流れのなかに車を乗りいれ、眠っている娘をおいて車の外に出てしまう。少し淀んだ緑の水面に取り残された車を俯瞰するショットが素晴らしい。

父は援交している娘を絞め殺す白昼夢を見る。が、売春している娘に一言も言わない父は、目覚めた娘に車を自分で運転してごらんと、ひとりで生きていく道を暗示する。川沿いの道をチミンが右に左によろよろと車を運転し、ぬかるみにはまって立ち往生するのを空中からとらえたラストシーンには息を飲む。

それらの映像がただ美しいというだけでなく、映画の根底にかかわっていると感じられるのが『サマリア』のすごいところだと思う。

映画は「バスミルダ」「サマリア」「ソナタ」のタイトルによって3つのパートに分かれている。それぞれミンジョンとチミンと父親イ・オルの視点が中心になるのだけど、3人の内面や心理にはほとんど立ち入らない。

パリへ行くチケット代を貯めるために援交していると一応は説明されるけれど、それ以上のことは分からない。警察の手入れがあり、警官やチミンの制止を振り切って、なぜミンジョンがラブホテルの窓から飛び降りたのかも説明されない。ミンジョンが死んだ後、チミンがどういう気持ちで「逆援交」を始めるのかも語られない。

カメラは2人の内面にはまったく興味を示さず、ただソウルの風景のなかで彼女らの行動を追っている。娘に何も言わずただ後を追う父親に対しても、カメラは同じように振る舞っている。むろん彼らの行いの善悪も問わない。

そこから、彼らが何かに「見つめられている」という感覚が生まれてくる。ラブホテル街という都市の影の部分の風景、それと対照的な美しい山河の風景に、ミンジョンもチミンも父親のイ・オルも「抱かれている」という感情を見るものに起こさせる。ミンジョンもチミンもイ・オルも、自分が主体としてその行為を選んでいるのではなく、何ものかに選ばされていると言ったらいいか。

彼らが「見つめられている」という感覚は、映画に宗教的な要素が散りばめられていることによっても補強されている。

ミンジョンは自分を「バスミルダ」(客を仏教徒にしてしまうインドの娼婦)と呼ぶ。2人はミッション・スクールに通っているらしいが、チミンが中心になるパートは「サマリア」(ユダヤ教にとって異教の地)と名付けられている。ミンジョンが聖少女の微笑をたたえて死んでいくのも、父親のイ・オルが娘と寝た男の車に石礫を投げるのも、宗教の行為を感じさせる。

だからといって、神に「見つめられ」、神に「抱きしめられている」と言ってしまっては、それもまた違うように思う。画面が示しているとおり、ミンジョンもチミンも父親のイ・オルも風景に「見つめられ」、風景に「抱きしめられ」、そのことによって彼らの行いのすべてが肯定されているように感じた。

自分でも何を言っているのかよく分からなくなってしまったけど、援助交際という今日的なテーマを素材にしながら、ギリシャ悲劇か近松でも見ているような不思議な魅力をもった映画。キム・ギドク監督ははじめてだったけど、ほかの作品も見てみよう。

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January 22, 2006

『王道の狗』の陰影

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安彦良和の「近代史もの」の男たちは、いつでも危うい場所にいる。傑作『虹色のトロツキー』の主人公、日蒙混血の青年ウムボルトは傀儡満州国のスローガン「五族(日朝中満蒙)協和」を本気で信じ、そのために満州の野に果てなければならなかった。

『王道の狗』(白泉社、全4巻)の主人公2人、加納と風間は明治の自由民権運動に身を投じ、獄につながれた。彼らは北海道で道路開削のため過酷な労働を強いられるが、脱走してアイヌに助けられる。名を変えて生きることを選んだ2人は、やがて相容れない立場で対面することになる。

風間は、大陸に進出し清に戦争を仕掛けようとする外務大臣・陸奥宗光の「帝国の狗」として。加納は、日朝中が連携して列強に対抗しようとする金玉均、宮崎滔天、孫文らの「王道の狗」として。

物語の上では加納がひとまずヒーローになっているけれど、「王道の狗」という呼び方はどうみても正義派のものじゃない。「狗」というのはスパイ、回し者の意味だし、儒家の理想政治を意味する「王道」は後に「王道楽土」という言葉で、「五族協和」とともに満州国傀儡政権の上辺を飾るスローガンになった。もちろん安彦良和は、「王道の狗」というタイトルが呼び起こすそんなニュアンスを百も承知のうえで使っている。

だからウムボルトがそうだったように、彼らはどこかに複雑な陰をかかえている。最後には孫文らの隊列に身を投じる加納の額に常に巻かれているアイヌの布が、そのことを示しているだろう。正義が文字通りには信じられていない。

安彦良和の主人公が僕らの心をとらえるのは、マンガの主人公として正義派のヒーローという衣をまとっているけれど、いつの時代でも何が正義か結局のところ分からない状況のなかでひたむきに生きようとする男たち女たちが美しいからだろう。

安彦のストーリー・テリングの巧みさ、絵のうまさ、カットとカットのつなぎの映画的快感には本当に酔わせられる。アイヌの娘、タキの艶っぽさもひときわ。

ただ惜しむらくは、掲載誌(『ミスターマガジン』)の廃刊が決まったために終盤がばたばたになり、じっくり描き込む安彦のスタイルが生かされなかったこと。単行本化に当たって100枚ほど加筆したらしいけど、ファンとしてはまだまだ物足りない。

特に「帝国の狗」風間の生き方がはしょられているので、最後の2人の対決がウムボルトの死のようには胸に迫ってこないのが残念。「王道の狗」加納ではなく「帝国の狗」風間を選んだアイヌの娘タキも、描き込めばさらに陰影を増したろう。

などと無理な注文をつけたけど、つまりもっと読みたいということ。構想は現在の全4巻の倍くらいのスケールで考えられたんじゃないだろうか。

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January 21, 2006

雪の休日

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1928(昭和3)年の建築だから築78年になる我がボロ家と手入れの悪い庭も、雪が降るとそれなりにサマになる。掘り炬燵にもぐりこみ、昼間っからブランデーをちびちびやって山田宏一『何が映画を走らせるのか?』を読む悦楽。

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January 20, 2006

いろんな泡盛

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(銀座1丁目)

有楽町駅近くにある沖縄物産店「わした」は、見ているだけで楽しい店だ。色とりどりの果物や野菜(島バナナ、サラダ用パパイヤ、島唐辛子を買う)、さまざまな塩(「粟国の塩」が、変な表現だけど甘い)、陶器(故金城次郎の作品もある)、本や雑誌、CD、楽器など、見ているだけで飽きない。加えて、何十種類もの泡盛。名前も知らない泡盛が並んでいる。試飲させてもらうと、古酒などとろけるように旨い。

昔、焼酎や泡盛は「3里四方が商圏」と言われた。つまり村の中でつくり村の中で飲まれていたんだろうけど、泡盛にしろ焼酎にしろ(シオサイトには全国の焼酎を集めた酒屋があり、こちらも楽しい)、そういう地域性が残っているのがうれしいね。

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January 15, 2006

『キング・コング』とリュミエールの機関車

髑髏島からニューヨークに運ばれたキング・コングは劇場で見世物にされる。コングを捕らえた映画監督ジャック・ブラックが口上を述べて幕が開くと、そこには生きたコングが鎖につながれている。やがて興奮したコングが鎖を断ち切って暴れ出すと、観客はわれ先に逃げまどう。

1本の古い映画を思い出した。19世紀末に映画の父・リュミエール兄弟がつくった『列車の到着』。当時、映画は誕生したばかりで、映像が動くこと自体が珍しく見世物として人気を集めていた。

僕はほんの断片を映画の黎明期を扱った記録映像で見ただけだけど、はじめスクリーン奥の小さな点だった機関車があっという間に観客に向かって驀進してくる。列車が駅に到着するのを撮っただけの映画なのだが、観客は自分が轢かれるのではないかと恐怖しておののいたという。フィルム上の虚像が実物と錯覚されたわけだ。

映画は誕生のその瞬間から、視覚的な驚きを観客に与えることで興行として成り立ってきた。やがてそれがスペクタクル映画という大衆映画の一ジャンルになり、1933年につくられたオリジナル版『キング・コング』は特殊撮影による古典的名作と言われる。

2005年版『キング・コング』は、エンド・ロールでオリジナル版へのオマージュを捧げている。監督のピーター・ジャクソンはオリジナル版にオマージュを捧げながらそれにとどまらず、オリジナル版を通して映画そのもの、なかんずく見世物(スペクタクル)としての映画にオマージュを捧げているように、僕には感じられた。劇場で鎖につながれ、鎖を解いて観客に襲いかかるキング・コングはリュミエール兄弟の機関車なのだ。

05年版は、時代に合わせて現代化された1976年版と違って33年版に忠実にリメイクされている。時代や人物設定、ストーリーがほぼ同じであるばかりでなく、同じシーン、同じセリフ、同じショットまで出てくる。そのようにリスペクトしながらも、当然のことながら05年版『キング・コング』は今日ただいまの映画としてつくられている。

オリジナル版に対して、05年版で新しく付け加えられた要素が3つあるように思えた。ひとつは、映画についての映画というメタなサブ・テーマを浮上させたこと。ふたつめはもちろんCGを始めとする最新のデジタル技術。もうひとつは、キング・コングとナオミ・ワッツという美女と野獣の関係のあり方の変化。

オリジナル版でも映画の撮影隊が南海の髑髏島を目指すのだけど、それはストーリーのうえで美女と野獣を出会わせるのに都合よいという以上の意味を持っているようには見えない。そこを05年版は、ジャック・ブラック扮する映画監督の狂ったような映画への執念と偏愛、富と名声への野望を描いて、当時の映画がどんなにいかがわしく投機的なものだったか、そしてそれが今も昔も変わらぬ映画の魔力であることを浮かび上がらせている。

19世紀、南の海の果てには欧米人が足を踏み入れたことのない島々が無数にあり、そこで「発見」された珍しい動植物や、ときには「原住民」までもが持ち帰られて見世物にされた。19世紀のニュー・メディア、写真や映画はそんな博物学的かつ植民地主義的好奇心を満たす役割も果たしながら発達した。コンラッドの『闇の奥』がちらりと出てくるのは、そんな歴史的背景を示唆しているのに違いない。

髑髏島で恐竜に出くわして興奮し、命の危険も顧みずカメラを回そうとする映画監督ジャックは、そんな冒険的で投機的な植民地主義者の血を引いている。恐竜に追われてカメラが壊れ、露光してしまったフィルムを監督が見つめるシーンはいかにも悔しそうだったものね。

失われたフィルムの代わりに、監督はもっと大きなスペクタクル、生きた「原住民」(キング・コング)を持ち帰る。76年版(ジェフ・ブリッジスとジェシカ・ラングしか記憶に残らない平凡な映画だった)でNYに運ばれたキング・コングは確か野外のスタジアムで公開されたけれど、キング・コングはだからオリジナル版通り劇場で見世物にされるのがふさわしい。

キング・コングというモンスターは、失われたフィルムに代わる、よりスペクタクルな獲物であり、両者が取り替え可能ということは、逆に言えば映画というスペクタクルなメディアもまたモンスターとして人々の心をつかみ、破壊する力を持っているということでもある。その源がリュミエール兄弟の機関車であり、ピーター・ジャクソン監督はそんなモンスターとしてのスペクタクル映画にオマージュを捧げたのだ……てなことを考えさせるメタなテーマを、この映画は隠し持っているように思った。

もうひとつのCGを始めとするVFXについて、僕は技術的なことはよく分からない。でもその凄さは映画を見れば一目瞭然。

特にエンパイア・ステートビルによじ登ったキング・コング(ちなみに76年版は世界貿易センタービルによじ登り、今となってはそれも意味深いね)を複葉機が銃撃するシーンは圧巻。当時の写真をもとに再現したという、摩天楼が立ち並ぶ1933年のNY市街を俯瞰した素晴らしいショットや、カメラが複葉機の視点になって摩天楼の頂上をかすめて飛ぶスピード感、回転する感覚は『スター・ウォーズ』以上だった。

キング・コングそのものは33年版がミニチュアとスクリーン・プロセス(プロジェクター合成)でつくられ、76年版は『猿の惑星』あたりから進化した特殊メークによるリアルな表情が売りだった。05年版はミニチュアと特殊メークに加えて最新のCG技術が駆使され、キング・コングと恐竜の対決シーンや、恐竜に追われて登場人物が逃げまどい踏みつぶされるシーン、巨大昆虫に襲われるシーンなんか実写みたいにリアル。サービス過剰だけどね。

ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』『キング・コング』チームは、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』チームと対抗して、これからのVFXをリードしていくんだろうな。

美女とキング・コングの関係も、33年版と05年版ではずいぶん違う。

33年版では、キング・コングにさらわれた金髪美女のフェイ・レイ(言うまでもなくジェシカ・ラングもナオミ・ワッツも金髪)は、ラストシーンのエンパイア・ステートビルのてっぺんに至ってもまだ恐怖の悲鳴を上げていた。いわばコングがフェイ・レイに一方的に片思いする関係。フェイ・レイは野獣に襲われ、身につけた服を剥ぎとられ、当時としてはかなりエロティックな姿にさせられる、野獣(男)に従属を強いられる存在として描かれている。

でも05年版では、恐竜に襲われたナオミをコングが助けた直後に、ナオミはダンスを踊ってコングの気を引きはじめる。コングはいちころ。2人(1人と1頭?)は、ナオミがむしろコングをリードする感じで相思相愛の関係になる。

2人のシーンはまるで『タイタニック』のディカプリオとケイト・ウィンスレットを見てるみたい。絶壁の上に仲良く座り、水平線に沈む夕陽をながめながらナオミが「美しい」とつぶやいて、世界の中心で愛を叫ぶ純愛ぶり。ナオミの露出度も、最近の映画に比べればどうってことない。

76年版はどうだったんだろう。覚えてないけど、後にジェシカ・ラングがデビュー作の76年版について、屈辱の体験だったみたいな発言をしていた記憶がある。ということは33年版に近いつくりだったのか、でも70年代のフェミニズムの時代の映画だから、05年版に近い関係になっていたのか。

美女と野獣の関係について、ここから更に何か言えそうだけど、長くなってしまったので野暮なことはやめ。

そんなふうに楽しめた映画だけど、3時間以上の上映時間はスペクタクル映画としては長すぎた。ひねくれたジジイの感想としては純愛部分をあっさり処理してほしかったな。


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January 14, 2006

追悼・本田竹曠

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ジャズ・ピアニストの本田竹曠が死んだ。1997年に脳内出血で半身不随になった後、リバビリして復帰し演奏活動をつづけていた。60歳。ということは、僕より2歳上でしかない。70年代に何度かライブを聴いていたころ、本田はまだ20歳代半ばだったんだなあ。髭をはやした風貌から、もっとずっと年上だと思ってた。

そのころの本田はファンキーでソウルフルな音をたたきだし、日本でいちばんの、いわゆるクロッぽいピアニストだった。フリー系の山下洋輔やバラードが泣かせる菊池雅章と並ぶ人気者。僕は山下洋輔トリオを聴きにいくことが多かったが、たまに本田のピアノを聴くと楽しくて身体がひとりでに弾みだした。

何年か在籍したナベサダ・カルテットもよかったけど、印象に残るのは鈴木良雄(b)、日野元彦(ds)とのトリオ。写真は3人が久しぶりに顔を合わせてつくった「バック・オン・マイ・フィンガーズ」(FUN HOUSE・1990)のジャケット。右が本田で左(訂正。コメント参照)が日野(彼も死んでしまった)。改めて聴くとタッチの力強さは70年代と変わらないし、バラードもいい。

復帰後の演奏に接する機会はなかったけど、一度、聴いてみたかった。今日は一日、このアルバムをかけて冥福を祈ろう。

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January 13, 2006

4丁目の和菓子屋

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(銀座4丁目)

銀座4丁目も昭和通りを越えれば普通の暮らしのある町。この和菓子屋も、銀座に来る人ではなく銀座に住んでいる人を相手にしている店。近くに有名な和菓子屋がたくさんあるのにちゃんと営業をつづけていられるのは、高級なものでなくともきちんとした味の和菓子をつくっているからだろう。

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January 11, 2006

ストリート・ギャラリー

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(銀座1丁目)

中央通りを歩いていたら、いつもは通り過ぎる銀行のウインドーが「ストリート・ギャラリー」になっているのに気がついた。若いアーティストの作品を展示して応援するのだという。今回は、ちずわまさゆきと伊東宣哉のポップな作品。20代らしい2人には、僕らがガキのころに親しんだSFマンガみたいなテイストが新鮮なんだろうか。

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January 08, 2006

『暗く聖なる夜』の敵役

9.11以後のアメリカで、といっても現実の世界じゃなくハードボイルドや刑事もの小説の話だけど、新しい敵役が生まれている。

マイケル・コナリー『暗く聖なる夜』(講談社文庫)にはREACTなる組織が登場する。「緊急強制執行およびテロ対策部隊」の頭文字で、NSA(国家安全保障局)、CIA、FBIなどからなる連邦政府直属機関。なにしろテロの容疑者、関係者とみれば法なんか無視して引っくくり、時には「行方不明」にしてしまう。

この小説の主人公、元ロス市警刑事で私立探偵のハリー・ボッシュもREACTの取調室に連れ込まれ、「おまえも行方不明になりたいか」と脅される。これ、もちろん今アメリカで起こっていることの誇張された反映だけど、主人公のような民間人だけでなく、REACTはロス市警やFBIの現場捜査官の前にも立ちふさがって物語が進んでいく。なにしろ超法規的存在という意味ではテロリストやマフィアと同じだから、敵役としての存在感は十分。

そんな時代状況をスパイスとして散りばめながら、本筋は正統派のハードボイルド。市警を退職したボッシュが未解決のまま心に引っかかっている殺人事件の再調査をはじめると、映画ロケ現場での200万ドル強奪事件に結びつき、さらに別の殺人も絡んでくる。銃撃されて負傷し全身不随の元同僚の警官、FBIの捜査官からラスベガスのギャンブラーに転身した元妻……、主人公は否応なく複雑な糸がからみあった過去に引きずりこまれてゆく。

原題(「LOST LIGHT」)の通り、全編を被っている闇の感覚。

「ハリウッドはいつの場合も、夜の光景がもっともうつくしい。近寄りがたい神秘性を保てるのは暗闇のなかでだけなのだ。陽が照って、カーテンがあがると、そのヴェールが消えてしまい、危険が潜んでいる感覚に置き換えられる。そこは奪う者と使う者の場所、壊れた歩道と壊れた夢の場所だった……マルホランド・ドライブの出口をおり、フリーウェイを横断すると」

外の闇と内の闇がないまぜになったような文章がいい。ボッシュはベトナム戦争で地下トンネルを破壊する工作兵だった過去をもっているから、闇は恐怖であるとと同時にそこに帰りたい場所でもある。70年代から80年代にかけて全盛をほこったネオ・ハードボイルドの生き残りのような主人公の造形。

ボッシュ・シリーズを読むのは『ナイト・ホークス』(扶桑社ミステリー、1992)以来久しぶりだけど、ストーリー・テリングのうまさは相変わらず。プロットを変に複雑にせず、一気に最後まで読ませる快調なテンポ。ラストにどんでん返しあり、銃撃戦あり、男と女の場面ありの盛りだくさんで、ボッシュをとりまく元同僚やFBI捜査官や元妻との裏切りや友情、愛情も型通りだけど泣かせる。

去年の「このミス」第2位。上下巻2冊、正月休みをたっぷり楽しんだ。

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January 07, 2006

上野公園 6pm

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上野の国立博物館構内に臨時につくられた映画館「一角座」(それにしても東博がよく認めたもんだ)に行った帰り、午後6時だというのに上野公園は真っ暗で人けもない。噴水だけが生き物みたいに水を噴き上げている。

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January 05, 2006

「愛より強い旅」のトランス

「愛より強い旅」はトニー・ガトリフ監督が97年につくった「ガッジョ・ディーロ」と似た構造をもつロード・ムーヴィーで、「ガッジョ」がそうだったように、この映画もまた、その映像と音がひたすら官能に奉仕している。音はまず音楽であり、さらに人の声であり、自然のざわめきでり、街の音でもある。

冒頭は男の背中、というより皮膚のアップ。カメラが引くと、男は窓から外をながめていて、環状道路とコンクリートの団地というパリ市街地周縁の映像。殺伐とした風景に、耳を刺すようなテクノ・ミュージック(っていうのかな? ガトリフの自作らしい)がかぶさっている。

男(ロマン・デュリス)はアルジェリア出身でロマの血を引く移民2世。パリ郊外に住む移民といえば、堀江敏幸の『郊外へ』その他に点描されたアラブ・アフリカ系の登場人物を思い出してもいいし、最近、移民2世の若者によって引き起こされた暴動を思い起こせば、2人が置かれている環境がよりリアルに感じられる。

ロマンはすっぽんぽんで、ベッドにはやはりアルジェリア移民の全裸の女(ルブナ・アザバル)。男がいきなり「アルジェリアへ行こう」とルブナに告げて、2人のアイデンティティーを求める旅が始まる。

フランスからスペインへ。セビリア、アルメリア、さらに地中海を越えてモロッコからアルジェリアへ。2人が移動する先々で異なった音楽が聞こえてくる。2人の身体はさまざまな音楽にさらされ、皮膚の細胞が開き、五感が解放されてゆく。

セビリアではフラメンコ。ルブナに裏切られたロマンが夜明けの広場で酒瓶を蹴飛ばすからんからんという音も音楽以上に美しい。

アンダルシアの港町アルメリア。不法労働者として働くアルジェリア人が住む廃工場のスラムからは、アルジェリア・ポップスのライが聞こえてくる。金を稼ぐためにプラム農園で働く2人が、赤く熟したプラムを枝や葉ごとむしゃむしゃやりながらキスするシーンにうっとり。赤土の並木道に野宿して、蚊の目になったカメラに向かってルブナが太股をむきだし、「ほら、刺してごらん」と挑発するシーンも素敵だ。

地中海を越えたモロッコでも、ライや民族音楽が流れる。ガスバ(葦笛)やベンディール(大型タンバリン)を使ったリズムとメロディーは、日本でCDを聞いているとアフリカ系ワールド・ミュージックのひとつとして抽象的に聞こえてしまうけど、モロッコの赤茶けた風景とともに流されると生々しい。

アルジェリアではスーフィズムの儀式。アフリカン・ドラムの単調なリズムと、巫女である女の歌に、ロマンとルブナはトランス状態に入ってゆく。

ロマンとルブナはここではじめて、異国の都市で抑圧されて育ったトラウマを解き放つ……と言ってしまえば、ロード・ムーヴィーのお約束。そんなふうにちょっと引いてながめてしまったのは、トランス状態に入った2人を追う画面がここではどこまでもドキュメンタリーぽくて、映像そのものが恍惚や官能を湛えてはいないような気がしたから。

トランス状態を説明するんじゃなく、トランスの恍惚そのものを伝えるのは、かのガトリフ監督とはいえ難しいものなんでしょう。もっとも官能は常により大きな刺激をほしがるから、頭からずっと官能を求めてきたこの映画のラストでは、見るほうも麻痺してて、ガトリフ監督に「もっと、もっと」と無理なことを求めてたのかも。

「愛より強い旅」はだから、ストーリーやテーマをどうこう言うより、その途中のひとつひとつの官能描写に酔えばいいんだね。原題の「EXILS」は「放浪者たち」。簡潔な響きの、いいタイトルです。

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January 03, 2006

「ある子供」のリアリズム

「ある子供」を見ていて、ネオ・リアリスムなんて古い言葉を思い出した。

第二次大戦後のイタリアで、混乱した社会に生きる人間たちをリアルに描いた映画群。といっても同時代に見ているわけでなく(それほどのジジイじゃありません)、ずいぶん後に「自転車泥棒」などの代表作を名画座で見た程度。

ヨーロッパの映画には、その鋭い社会性や、ドキュメンタリー・タッチといったネオ・リアリスムの精神が脈々と受け継がれている。60年代イギリスのアングリー・ヤングメンの映画、最近ではケン・ローチなんかがその代表だろうけど、この映画もまぎれもなくその1本だと感じた。

舞台はベルギーの都市(町の名前は明らかにされない)。車通りの激しい道路の歩道を、少女の面影を残した若い女が、あるいは若い男が乳母車を押しながら歩くショットが何度も繰り返される。

町はずれの道は一方が河原、反対側が工場地帯に面している。人気のない殺伐とした雰囲気のなか、激しい騒音(意識的に増幅されている)とともに走り抜ける車の向こうに、その場にそぐわない乳母車を引く女(男)のイメージ。繰り返されるこの映像が映画のキーになる。

ちんぴらの男(ジェレミー・レニエ)と少女のような女(デボラ・フランソワ)は恋人同士。男は河原の小屋をねぐらに、少年を使ってケチな盗みを働いてその日暮らしをしている。2人には子供ができたけれど、男には親になった自覚などかけらもない。

カメラは、赤ん坊を抱えて病院を出たばかりの女と男が小さないさかいをしたり、簡易宿泊所に泊まったりするのをアップを多用して見つめてゆく。2人を至近距離で捉える映像も、少ないせりふも、彼らがどんなふうに生きてきて、どんなふうに結びついたのか、男の母親がちらっと出てくる以外は過去をほとんど説明しない。社会的背景も説明しない。

カメラは2人にぴったり寄り添っているけれど、彼らの喜びや悲しみに同化するというより、すぐ近くでじっと見つめる第三者の視点を感じさせる。2人が公園の緑のなかで子供のように戯れる印象的なシーンでも、カメラは2人とともに動きまわるようなことをせず、距離を置いてじっとながめている。

そういえば、彼(彼女)が乳母車を押すキー・イメージでも、反対側の歩道から車越しに距離をおいて撮影されていた。他のシーンでは彼らに密着したアップの映像が多いのに、そして手持ちカメラの揺らぐ映像で彼らに寄り添っているのに、どこか冷静な観察者がながめているように感じられるのは、随所に挿入されるそんな距離の取り方によるのだろう。

それがドキュメンタリー出身である監督のダルデンヌ兄弟のやり方であり、その端正で古典的な感触がネオ・リアリスムなんて映画史のなかの言葉を思い出させたんだと思う。

男は金のために赤ん坊を売ってしまう。動揺した女の愛をつなぎとめるために、男は赤ん坊を取り戻そうとして悪党に痛めつけられ、さらに盗みを繰り返す。

ラスト近く、カメラは男が今度は乳母車ではなく壊れたバイクを牽きながら道路や町なかを歩くのを長々と見つめている。男は何をしようとしているのか? そんな、先の読めないサスペンス映画の手法を取っていることも、この映画に並の社会派映画とは違う感触を与えている。それがラスト・シーンが生み出す感情を増幅させる。

いい映画だなあ、と思う。ただその映像が「さまよっている子供」を見つめる「揺らぎのない大人」の自信に満ちた視線を感じさせることもまた、この映画に古典的な印象を与えているんじゃないかな。

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January 01, 2006

あけましておめでとうございます

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元日の朝のわが家の庭、雲間から顔をのぞかせた初日。

あけましておめでとうございます。

思いもかけずたくさんの人に見ていただいたおかげで、ここまで続いてきました。今年もよろしくお願いします。

年末に「愛より強い旅」「ある子供」と、なかなか面白い映画を2本見ました。まず、このあたりからアップしていきたいと思います。

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