『嗤う日本の「ナショナリズム」』のカギカッコ
気鋭の社会学者、北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)のタイトルにある「ナショナリズム」には、カギカッコがついている。そのカッコの意味を、北田は糸井重里やテレビのバラエティーを取り上げながら説明している。
90年代のテレビ番組を覆っていたのは、80年代の糸井重里的アイロニーが形骸化した結果としてのシニシズム、斜に構えて他人を「嗤う」感覚だった。そのような「嗤う」シニシズムがテレビ番組(バラエティ)の方法論として一般化したことに、ネタとしては不滅の「感動」がくっついて、例えば「猿岩石ヒッチハイク」のような「感動」ものがせり出してきた。アイロニーが制度化することによってベタな感動が呼び起こされる逆説的な事態が生じた。
こういう「構造化されたアイロニズムと『感動』指向の共存、世界をネタとした『ツッこみ』=嗤いと『感動をありがとう』的感覚との共棲」を純化させたものが、2ちゃんねるとそこを舞台にした「電車男」だというのが北田の見立て。
「偽悪を装う2ちゃんねらーたちは、身も蓋もない本音を語るリアリストというよりは、『建前に隠された本音を語る』というロマン的な自己像を求めてやまないイデアリストであるように思われる。だからこそ、かれらは時に信じがたいほどの正義感ぶりを発揮するし、アイロニーとは程遠い浪花節的な物語に涙したりもするのだ」
そのようなシニシズムの果てのロマン主義の対象として「ナショナリズム」や「反市民主義」や「反マスコミ」が呼び出されている。
「ロマン主義的シニシストたちにとっては、行為が接続されるという事実性(引用者注・そのような主張によって内輪の共同体で繋がりあっているという感覚を保持できること)こそがリアルなのであって、接続可能性を高めるための仕掛け(注・「ナショナリズム」「反市民主義」「反マスコミ」)は本質的には何であってもかまわない。ナショナリズムに括弧がついているのもそのためだ」
北田はまた、「『無批判に日の丸君が代で盛り上がるW杯の若者』など、香山リカが『社会の漠然とした右傾化傾向』の徴候として挙げる事例を『ナショナリズムの風化の証』にすぎないとする、浅羽通明の議論は正しい」とも書いている。これも、おなじことを別の言葉で言っているのだろう。
社会のなかに新しく現れてきた現象の分析としては、北田の言うとおりなんだと思う。サッカー場やTシャツのゲバラのアイコンに、若い世代がゲバラの主義や生き方から切れたリアリティーを感じているように、サッカー場の日の丸君が代にも、旧世代が感ずる戦前の負の遺産としての日の丸君が代とは別の肯定的なリアリティーを感じているようだ。それがこの社会に新しく生まれた「ナショナリズム」のかたちなんだろう。
でもそのカッコつきの「ナショナリズム」は、社会の一部に現れた現象にすぎないこともまた押さえておく必要がある。若い学者が新しい現象に敏感になのは当然だけど、それをもって日本のナショナリズムが変質したと全体を推し量ることもできない。北田自身も、もちろんそういうことはしていない。
自民党の憲法草案や、小泉の「ナショナリズム」的言説がポスト小泉を狙う面々のカッコ抜きのナショナリズム言説の誘い水になっている事態を見ても、社会全体を見わたすとカギカッコ抜きの伝統的なナショナリズムに回帰しようとする動きもまた強く、大きい。
ナショナリズムと「ナショナリズム」を区別しないで性急にひとくくりにすると、結果として「ナショナリズム」を本当のナショナリズムの側に追いやってしまうことにもなりかねない。だからそのあたりは注意深く扱っていくことが必要だし、そのためにどうしたらいいかを考える材料として、この本はとても役に立つ。
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