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December 28, 2005

雑賀陽平の年賀状

友人のマンガ家、雑賀陽平(さいが・ようへい)が今年4月のJR福知山線脱線事故で亡くなったことは、事故の直後のブログに書いた(05年4月26日)。年賀状を整理していたら、ここ10年ほどの彼からの年賀状が何枚か出てきた。

雑賀陽平の年賀状は友人たちに評判のもので、「美人の奥さん」(と、いつも言ってた)と結婚し、2人の子供が生まれ、子供たちが大きくなり、やがて独立していくのが毎年、ほほえましいタッチで描かれていた。ときに自虐的なナンセンスの笑いが特徴的な彼の普段のマンガとは違う、温かさの感じられる年賀状だった。

アップしたのは1996年以後のものだけど、それ以前のものもどこかにあるはず。これだけでも、息子たちが年ごとにたくましく、大人になっていくのが分かる。下の息子はパンクバンド「オシリペンペンズ」のヴォーカル、モタコというミュージシャンで、若い人には人気があるらしい。今年の賀状で、彼はギターを持っている。

「美人の奥さん」から、もう絵入りの年賀状を出せなくなりました、という喪中の挨拶をいただいた。雑賀陽平という名前と彼のマンガを、ひとりでも多くの人が記憶に留めておいてもらえればと思う。改めて冥福を祈りたい。

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(1996年)

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(1997年)

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(1998年)

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(1999年)

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(2002年)

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(2004年)

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(2005年)

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December 26, 2005

京橋ねこちゃん通り

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(京橋2丁目)

「京橋ねこちゃん通り」と名づけられた小路。両側の6軒の家が猫を飼っていて、その姿が報告されている。いつもはたいてい1、2匹いるのに、この日はあいにく、どの猫ちゃんも顔を見せてくれなかった。

腱鞘炎が思わしくない上にパソコンの調子が悪く、再インストールする羽目に。自宅のパソコンが使えないので、長いテキストをアップできない。年内には復帰させたいけど、、、。

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December 24, 2005

ケヤキの最後の紅葉

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(丸の内3丁目)

今年は紅葉したケヤキの葉が落ちずに樹上で枯れてしまう異変が起こっているらしい。確かにちりちりの枯葉をつけたケヤキが目立つが、このケヤキは1本だけまだその手前で鮮やかな色を見せていた。


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December 21, 2005

「ブレイキング・ニュース」の長回し

「ブレイキング・ニュース」は、絶好調の香港ノワールの新作。期待にたがわず楽しめた。なかでも3つのシーンが、物語と手法とが密接に絡み合って印象に残る。

ひとつは、冒頭の1シーン1カット。路地裏のアジトから、銀行強盗の一団がまさに出撃しようとしている。特捜班の覆面パトカーが、それを監視している。警官が偶然通りかかり、強盗の車に不審を抱いて尋問する。ふとしたことからギャングが発砲し、特捜班も応戦して銃撃戦になる。

……といったあたりまで、7分間が1カットで撮影されている。路上から階上のアジトの室内へ、そしてまた路上へとクレーンを使って激しく移動しながら、何かが起こりそうな気配と、不審を抱かれた一味の緊迫、そして白昼のすさまじい銃撃戦が見事なカメラ・ワークで撮影されている。

その長い長い1シーン1カットは、アンゲロプロスやキアロスタミやホウ・シャオシェンの静謐な長回しではなく、例えばオーソン・ウェルズの傑作ノワール「黒い罠」のような、ケレンに満ち激しく動き回り移動する1シーン1カットを思い出させた。

7分間の錯綜したアクションを1カットで見せる腕の冴えは鮮やかだけど、それ以上に、カットとカットをつなぎモンタージュする映画的処理がなされていないので、観客は、その場に偶然居合わせた誰かがカメラを回しっぱなしにした映像の中継を見ているような気分にさせられる。

物語のその後の展開が、警察側と犯人側がテレビとインターネットを使って共に現場の映像を流し、どちらが観客(視聴者)の支持を得るかを争うことになってゆくことを考えると、「中継」と「観客(視聴者)」がこの映画のキーであることを、冒頭の回しっぱなしの映像があらかじめ予告しているようにも思える。

特捜班に追われた強盗団の一味は、下層階級が住む高層アパートの一室に逃げ込む。そのアパートには強盗とは関係のない殺し屋も潜んでいて、非常線を張った警察に追われて同じ部屋に逃げ込む。印象的なふたつ目は、その一室のキッチンでのシーン。

腹が減ったと、強盗のリーダー、リッチー・レンが料理をつくりはじめる。殺し屋のユウ・ヨンもキッチンにやってきて、包丁を握り野菜や魚を手慣れた手つきでさばいてゆく。カメラはそれをホームドラマの1シーンのように穏やかに見つめている。そこまで緊迫していたリズムが一気にゆったりする。大陸から来た強盗団のリーダーと、やはり大陸からやってきた殺し屋が互いに友情を抱きはじめる一瞬が、キッチンという一見そぐわない場で鮮やかに捉えられていた。

実は、部屋の住人で人質になったタクシー運転手(おなじみラム・シュー)も大陸出身で、人質と強盗と殺し屋3者のひそかな共感も画面に漂っているらしいのだけど、言葉が理解できないので微妙なニュアンスは分からない。いずれにしても、映画の前半と後半をつなぎ、しかも後半の味わいを濃厚にするリズムの変化のうまさ。

3つ目は、後半の高層アパートでの銃撃戦のいくつものシーン。狭い廊下や階段を舞台に、特捜班、機動部隊と強盗団、殺し屋の銃撃戦が繰り広げられる。狭い廊下の水平な空間の奥行きと、階段やエレベーターの垂直な空間の高低が巧みに使われている。横長のシネスコ・サイズは本来そんな奥行きや高低を処理しにくいものだと思うけど、ジョニー・トー監督はそれを嬉々として楽しんでいる。

主役のケリー・チャンは、ちょっと損な役回りにも思えた。女っぽさを殺した役柄な上に、再び路上に戻ったラスト近く、ケリーはリッチー・レンに何の抵抗も見せない。エリート指揮官がそれじゃあまずいんじゃないの?

最後の強盗と殺し屋の仕事に、ちょっとした仕掛けがほどこされているのも洒落てるね。


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December 20, 2005

マッコイ・タイナーに陶酔

青山ブルーノートでジャズのライブを聴いていつも感ずるのは、演奏時間が1時間ちょっとで短いこと。ミュージシャンも聴くほうも調子が出てきて、さあこれからというところで終わってしまい、いつも欲求不満がつのる。

でも今回は同じ時間、しかもアンコールもなかったのに大満足。マッコイ・タイナー(p)、チャーネット・モフェット(b)、ジェフ・ワッツ(ds・訂正。コメント参照)のトリオがものすごいテンションで70分を駆け抜けた。これだけの演奏をした67歳のマッコイにアンコールを求めるのは酷だねと、客もみんな納得していた(12月15日、2ndセット)。

マッコイのオリジナルをはじめ、コルトレーンと演奏した曲(タイトル思い出せない)、古いブルース、ゴスペル調の曲など7曲。

10年前に聴いたときは、マッコイらしいものすごい早弾きで曲の最初から最後まで飛ばしまくっていた。今回は早いタッチで高音を連ねていく(コルトレーンの「シーツ・オブ・サウンド」に対応した)スピードに衰えはないものの、途中でゆったりしたソロも聴かせる。それがまたいい。

特に、最後に演奏したオリジナルの「パッション・ダンス」。3人のインタープレイが素晴らしかった。ふつう、テーマの演奏が終わると、1人がソロを取って他のメンバーはサポートに回り、次々にソロを受け渡していく。でもこのトリオはソロとサポートという役割分担をあいまいにして常に3人が一体になって音楽をつくっている。そのなかで、まずマッコイが次いでモフェットが、そしてワッツが主導権を握りながら対話がつづいてゆく。

マッコイはもちろん、モフェットのベースがすごい。音の良さ、乗りの良さ、ものすごいテクニック。加えて、ワッツの踊るようなリズム感。ここにこういう音がほしいなというところに、ボボボン、ズシンと入ってくる。その快感。3人が織りなす音の世界にエクスタシーを感じてしまった。今年聴いた、屈指のライブ。

この3人、レギュラー・バンドではなく臨時編成らしいが(特にワッツは来日直前に代役に立った)、マエストロ3人が組んだこのトリオのアルバムを聴いてみたいな。

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December 18, 2005

ウインドーの足袋

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(銀座4丁目)

足袋専門の店のウインドー。いまどき足袋だけを扱っている店なんて銀座以外に何軒あるだろうか。三原橋には手ぬぐいの専門店もあり(浅草にも有名な店がある)、歌舞伎座が近いこともあるだろうが、まだまだ和装小物の専門店が息づいている。

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December 17, 2005

「ALWAYS 三丁目の夕日」

「ALWAYS 三丁目の夕日」は時代考証・VSX命の映画だね。出だしの長い1シーン1ショット、軒をかすめて飛ぶ模型飛行機とともに昭和33年の東京、木造やモルタル造の下町の商店街が映し出される。まだ舗装されていない道路をミゼット(初代のオート三輪ハンドルではないが)が走り抜けたとき、おお、よくぞ見つけてきた、と思った。

オープン・セットとミニチュア撮影、当時の大道具・小道具が総動員されて、高度成長以前の東京がVFXによって再現されている。山崎貴監督の「ジュブナイル」も「リターナー」も未見だけど、今までに見た日本映画のVFX--「スパイ・ゾルゲ」の戦前の上海や、「血と骨」の戦後の大阪--に比べ雲泥の差。

僕は2人の主人公の少年と同い年、昭和33年に小学校4年だから、この映画に出てくる街路や家のたたずまい、行き交う人々の服装、駄菓子屋に並ぶクジや鉄砲のおもちゃや月刊少年誌にいちいち納得がいく。見る者を驚かす、これ見よがしの映像ではなく、こういう失われた風景の再現に使われるVFXは好感が持てる。

役者もそれぞれにいいけど、東北弁まるだしで頬ぺたの赤い少女を演ずる堀北真希が、「パッチギ」の沢尻エリカに劣らずかわいいね。小雪も美しいけど、洗練されすぎて昭和30年代の女という感じはしなかった。

西岸良平の連載の何本かを組み合わせたらしい物語は、お定まりの笑いと涙の「感動もの」。ノスタルジックなホームドラマで、それ以上でもそれ以下でもない。僕もいくつかのシーンで思わず泣かされてしまったけど、「さあ、ここで泣け」って演出の意図が透けて見える映画は、天の邪鬼だから涙しながらもあんまり好きになれない。

客は入っているようだから、来年は続編が出来て東宝の正月映画になるかもしれないな。

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December 15, 2005

正午の光

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(銀座8丁目)

12:00、真昼の光を反射するシオサイトの電通ビル。真冬の寒さになって空気が澄み、青空のなかにビルのエッジがひときわくっきりと立ち上がっている。

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December 12, 2005

クルドのハルクを聴く

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クルド映画「亀も空を飛ぶ」を見て、冒頭とラストシーンに流れる哀切な歌が心に残った。過去に何本か見たクルド映画でも、民族楽器を使った音楽が流れていた。

アイヌールはトルコのクルド人歌手。「クルドの娘」(輸入元・Sambinha)はクルドのハルク(民謡ベースの音楽)を歌ったアルバムだ。

古典的な民謡に、曲によっては現代的なアレンジをほどこしているのだと思う。サズ(ギターのような弦楽器)、ネイ(葦笛)、ズルナ(オーボエの原型の笛)、ダウル(大太鼓)などイスラム圏の楽器に加え、シンセサイザーや打ち込みも使われている。

アイヌールの歌は透明感のある、優しさよりは強さを感じさせる声。こちらが彼女の歌にクルドの歴史を重ねてしまうからだろうか、「クルドの娘」「私はあなたが恋しい」「お墓へ」「母」など、悲しみや喜びが詰まった歌の数々。「亀も空を飛ぶ」を思い出させる絶唱も、陽気なリズムをもった歌もある。アラブ・ポップスなどと共通するメロディやリズムも聞こえる。エンヤみたいな気配の曲もある。

ふだん聴くにはちょっと重いけど、たまに聴きたくなりそうな歌。

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December 10, 2005

昼の月

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赤い実の残る街路樹の向こうに昼の月

ちょっと油断したら、また腱鞘炎が悪化してしまった。この文も左手だけで書いている。しばらく長いものは書けそうもない。今日も『ALWAYS 3丁目の夕日』を見てきたり、寺山修司・森山大道『ああ荒野』を読んだり、書きたいものがあるのだけど、残念。

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December 07, 2005

『VGのハービー・マン』のアフリカ

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あまりの懐かしさについ買ってしまった。再発された『ヴィレッジ・ゲートのハービー・マン』(ATLANTIC・1962)。高校時代にジャズを聞きはじめて、最初に買った何枚かのLPのうちの1枚。確か最初に買ったのがMJQ、次がこれ、それからマル・ウォルドロンで、次がオーネット・コールマンのストックホルム・ライブと、あきれるくらい一貫性がないね。

このハービー・マンのライブは当時、ジャズ喫茶の人気盤だった。2時間か3時間ねばっていると、たいてい1回はかかった。ヒット曲「カミン・ホーム・ベイビィ」と名曲「サマータイム」がカップリングされたA面がかかることが多かったけど、たまにかかるB面の「イット・エイント・ネセサリー・ソウ」も捨てがたい。

20年ぶりくらいで聞いて、「サマータイム」のハービー・マンの見事なアドリブを、フルートに合わせて今でも口ずさめるのが嬉しかった。

もうひとつの「発見」は、濃厚にアフリカ色があること。当時は、ノリのいいポップなジャズだとばかり思っていた。コンガにアフリカン・ドラムと2本のアフリカ楽器が入り、ハービー・マンの背後で絶えることなくアフリカのリズムを叩きだしている。とくに「イット・エイント・ネセサリー・ソウ」は、アフリカのジャズかと思えるほど。

その後、ダラー・ブランドをはじめアフリカのミュージシャンがジャズ・シーンに登場するけど、その先駆をなすような意欲的な盤だったのかもしれないな。

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December 04, 2005

『嗤う日本の「ナショナリズム」』のカギカッコ

気鋭の社会学者、北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)のタイトルにある「ナショナリズム」には、カギカッコがついている。そのカッコの意味を、北田は糸井重里やテレビのバラエティーを取り上げながら説明している。

90年代のテレビ番組を覆っていたのは、80年代の糸井重里的アイロニーが形骸化した結果としてのシニシズム、斜に構えて他人を「嗤う」感覚だった。そのような「嗤う」シニシズムがテレビ番組(バラエティ)の方法論として一般化したことに、ネタとしては不滅の「感動」がくっついて、例えば「猿岩石ヒッチハイク」のような「感動」ものがせり出してきた。アイロニーが制度化することによってベタな感動が呼び起こされる逆説的な事態が生じた。

こういう「構造化されたアイロニズムと『感動』指向の共存、世界をネタとした『ツッこみ』=嗤いと『感動をありがとう』的感覚との共棲」を純化させたものが、2ちゃんねるとそこを舞台にした「電車男」だというのが北田の見立て。

「偽悪を装う2ちゃんねらーたちは、身も蓋もない本音を語るリアリストというよりは、『建前に隠された本音を語る』というロマン的な自己像を求めてやまないイデアリストであるように思われる。だからこそ、かれらは時に信じがたいほどの正義感ぶりを発揮するし、アイロニーとは程遠い浪花節的な物語に涙したりもするのだ」

そのようなシニシズムの果てのロマン主義の対象として「ナショナリズム」や「反市民主義」や「反マスコミ」が呼び出されている。

「ロマン主義的シニシストたちにとっては、行為が接続されるという事実性(引用者注・そのような主張によって内輪の共同体で繋がりあっているという感覚を保持できること)こそがリアルなのであって、接続可能性を高めるための仕掛け(注・「ナショナリズム」「反市民主義」「反マスコミ」)は本質的には何であってもかまわない。ナショナリズムに括弧がついているのもそのためだ」

北田はまた、「『無批判に日の丸君が代で盛り上がるW杯の若者』など、香山リカが『社会の漠然とした右傾化傾向』の徴候として挙げる事例を『ナショナリズムの風化の証』にすぎないとする、浅羽通明の議論は正しい」とも書いている。これも、おなじことを別の言葉で言っているのだろう。

社会のなかに新しく現れてきた現象の分析としては、北田の言うとおりなんだと思う。サッカー場やTシャツのゲバラのアイコンに、若い世代がゲバラの主義や生き方から切れたリアリティーを感じているように、サッカー場の日の丸君が代にも、旧世代が感ずる戦前の負の遺産としての日の丸君が代とは別の肯定的なリアリティーを感じているようだ。それがこの社会に新しく生まれた「ナショナリズム」のかたちなんだろう。

でもそのカッコつきの「ナショナリズム」は、社会の一部に現れた現象にすぎないこともまた押さえておく必要がある。若い学者が新しい現象に敏感になのは当然だけど、それをもって日本のナショナリズムが変質したと全体を推し量ることもできない。北田自身も、もちろんそういうことはしていない。

自民党の憲法草案や、小泉の「ナショナリズム」的言説がポスト小泉を狙う面々のカッコ抜きのナショナリズム言説の誘い水になっている事態を見ても、社会全体を見わたすとカギカッコ抜きの伝統的なナショナリズムに回帰しようとする動きもまた強く、大きい。

ナショナリズムと「ナショナリズム」を区別しないで性急にひとくくりにすると、結果として「ナショナリズム」を本当のナショナリズムの側に追いやってしまうことにもなりかねない。だからそのあたりは注意深く扱っていくことが必要だし、そのためにどうしたらいいかを考える材料として、この本はとても役に立つ。

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December 01, 2005

ディジー・ガレスピーの音色

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ディジー・ガレスピーのトランペットの音色はいいなあと、『ザ・チャンプ』(savoy)を聴いて改めて思った。チャーリー・パーカーとともにビバップをつくりあげたスピード感や新鮮なアドリブに、すごいと感じたことはあっても、いい音色と感じたことはなかった。

それは、僕の聴いたのが1940年代から50年代初期の録音が多く、音がどこかヴェールをかぶったように聞こえていたからだろう。デジタル・リマスターされたこのシリーズの音は、1951年録音というのに、その場に立ち会っているような臨場感がある。

突き抜けるハイノート。明るく力強い中低音。ガレスピーって、こんないい音出してたんだ。一世代若いマイルス・デイビスとは対照的。というより、マイルスはガレスピーを意識しながら自分の個性を探って、細く消え入るようなミュートの音に行き着いたんだろう。

このアルバムのもうひとつの聴きどころは、ガレスピー・バンドの錚々たる顔ぶれ。ミルト・ジャクソン、パーシー・ヒースという後のMJQ組、J.J.ジョンソン、ケニー・バレル、ウィントン・ケリー、そしてジョン・コルトレーン。「キャラバン」「スターダスト」「バークス・ワークス」などなど、おなじみのナンバーをビッグバンド風な楽しいサウンドで。

ミルト・ジャクソンは大きくフィーチャーされて、のりのいいヴァイブを聞かせているし、ウィントン・ケリーは短いながら、ころがるようにリズミックなピアノを弾いている。新人コルトレーンはまだアドリブを取らせてもらえない。

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