『TAKESHIS'』の妄想世界
北野武もついにフェリーニみたいになったね。
『TAKESHIS'』は作品としての完成度はともかく、まるでフェリーニの『8・1/2』や『女の都』のようにシュールな極私映画だった。
ロースルロイスに乗ったビートたけしがマネジャー(大杉漣)や愛人(京野ことみ)を引き連れてテレビ局や麻雀屋に出入りする日常と、たけしの分身と思しい、役者になりたくてオーディション巡りをしているコンビニ店員(北野武)の日常とが、現実と幻想の境界もなく交錯している。
たけしの分身であるコンビニ店員は北野武の売れない時代の自画像とも取れるし、人気者になったたけしの内的な妄想(売れなくなる恐怖、あるいは落ちぶれ願望)とも取れる。
『8・1/2』や『女の都』が、フェリーニがなぜアニタ・エグバーグやソフィア・ローレンみたいな巨乳美女に執着するのか、少年時代に遡ってそのタチの所以を描いてみせたように、この映画も北野武のいろんなタチが意識的にも無意識的にも露わになっているように思った。それを楽しむのが、この映画じゃないかな。
気づいたことを箇条書きに。
・女優は愛人役の京野ことみと、北野映画の常連・岸本加世子(7役)。岸本加世子は、過去にたけしと愛人関係にあったらしい役もやっていて、恨みがましい目をした岸本からたけしは水をぶっかけられたりする。たけしは、まんざらでもない表情をしている(ように見える)。察するに、北野武はあまり女っぽい女は好きじゃなく、中性的な女性(それも貧乳?)が好きみたい。
・花束のユリに極彩色の毛虫(CG)がうごめくイメージが繰り返し登場する。それが巨大な張りぼてになり(『女の都』の巨大な唇の張りぼてのように)、その怪物に大物歌手役の美輪明宏が重ねられる。美輪の「よいとまけの唄」に合わせて、張りぼてでよいとまけをするシーンもある。もぞもぞ動く極彩色の毛虫は、あたかもたけしが自分でそうありたい、おぞましくも美しい姿かもしれない。
・北野武の映画を通底しているのは「死の誘惑」だと思う。過去の自分の映画をなぞるように無数の弾丸が発射されるけれど、まっさきに殺されていいはずのたけしだけはなぜか死なない(死ねない)。生き残る、死ねないヒーローたけしに、僕は逆に『ソナチネ』に露骨に現れていたたけしの死にたい願望を感じた。なかでも冒頭とラストシーンに出てくる、銃を構えた米兵に見下ろされ死体のふりをするショットは何なんだろう。米兵を日常的に見かけた昭和20年代の何らかの体験か、それとも少年時代に見た『コンバット』のようなアメリカのテレビドラマや映画の記憶なのか。
・たけしの死にたい願望を浄化する場所として、沖縄(あるいは海辺)がある。そこから「キタノ・ブルー」の色調が出てくるのだけれど、この映画でも沖縄は繰り返し登場する。僕は北野武の映画のなかで『ソナチネ』がいちばん好きだけど、あの映画の沖縄の空と海は『TAKESHIS'』にそっくり受け継がれている。
・たけしの分身であるコンビニ店員は、旋盤のある町工場の2階、木造の安アパートに住んでいる。たけしは東京の田端で生まれ育っているけど、まさに昭和30年代のこのあたりの風景を思い出させる。たけしの原風景。
・その安アパートの柱や窓枠が青や赤に塗られていて、それが、しがないコンビニ店員は売れっ子タレントたけしの内的妄想かもしれない非現実感を醸し出している。他にもコンビニの制服がピンクだったり、黄色が頻出したり、色の遊びが随所に顔を出す。かつて鈴木清順は『肉体の門』で4人の娼婦の衣装にそれぞれ4色を当てて描きわけるユニークな演出をしたけど、そんなことも思い出した。
ここまでフェリーニをやるなら、次は傑作『フェリーニのローマ』に倣って『TAKESHIS' TOKYO』を撮ってほしいな。
(後記)うかつなことに映画のタイトルが『TAKESHI'S』だとばかり思っていて、正しくは複数形の『TAKESHIS'』であることに記事をアップしてから気づいた。北野武とビートたけし、内的妄想と過去の記憶といった複数のTAKESHIが錯綜している映画と考えればいいのだろう。
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