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November 01, 2005

『冷血』の深い闇

「寝食を忘れて(読む)」なんて言い方が死語に近くなったのは、言葉の問題もあるけれど、それ以上に、熱くなって何かをやることが少なくなったクールな時代の空気とも関係あるのかもしれない。加えてこちとら、老眼が進んで長時間の読書に耐えられない。

でもこの本は「寝食を忘れて」読んでしまった。いや、もちろんご飯は食べたし、寝もしましたけど、気分としてはそんな感じ。それほどに引き込まれ、おもしろかった。

新しく訳されたトルーマン・カポーティのノンフィクション・ノベル『冷血』(佐々田雅子訳、新潮社)。瀧口直太郎の旧訳は30年間も本棚の片隅にあり、いつか読もうと思いながらそのままになっていた。奥付を見ると1972年12月発行の11刷(初版は1967年)とある。江藤淳、石原慎太郎、大宅壮一が推薦文を書いているのが時代を感じさせる。

新訳は、これが1965年に書かれた40年前の作品だとは全く感じさせなかった。1959年の出来事を半世紀後の今、2005年に小説化したのだと言われてもまったく分からなかったろう。

「わたしはいつだって霊感を試してみるんだ。今日までわたしが生き延びてきたのもそのおかげさ」(瀧口訳)

「おれはいつも勘を働かせてきたんだ。今、生きているのもそのせいだ」(佐々田訳)

同じせりふを拾い出しただけだから厳密な比較ではないけど、1人称が「わたし」から「おれ」に変わり、言葉のテンポとリズムが速く強くなっている。それが新しく訳し直したことの意味なのだろう。

古さを感じなかったのは、もちろん訳だけの問題じゃない。なにより1950年代のアメリカ社会の断層を通して明らかになる人間の心の闇が、別の時代、別の地域に生きている僕たちにも深く突き刺さってくるカポーティーの作品そのものの力によっている。

殺されたのは、アメリカ中西部カンザス州で農場を営む、敬虔なプロテスタントとして人望のある一家。大金を目当てに邸宅に侵入し、結果として50ドルのために一家4人を惨殺したのは刑務所で知り合った若者2人。1人はプア・ホワイトの息子で、1人はアイルランド人の父と先住民チェロキー族の母の間に生まれた混血。混血青年は、父母とともにアメリカ中西部や西部、アラスカを転々としてきた、いわば「流れ者」だ。

中西部は「バイブル・ベルト」とも呼ばれるけれど、プロテスタントの信仰篤い人々は、ブッシュ再選の原動力になったことからも伺えるように、建国以来、社会の基盤をなしてアメリカの「健全」と「正義」を体現してきた。

一方、移民国家であるアメリカは、貧しい人々が国に入ってくることによって常に下層階級が更新されている。彼らのある者は広大な大陸をさまよい歩いて流れ者となる。

定住者と流れ者が出会うことで起きる出来事は小説や映画でおなじみの、いわばアメリカのドラマの原型のようなもの。西部劇の流れ者(「シェーン」)や、大陸横断鉄道時代のホーボー(「北国の帝王」)、ケルアックの『路上』の主人公のようなビートニクたち、60年代のヒッピーもそんな流れを引いているにちがいない(「イージーライダー」)。

僕は『冷血』を読んで、この小説が発表された数年後から「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て」「ゲッタウェイ」など、移動しながら犯罪を繰り返すロードムービーがニューシネマと呼ばれて流行した背後にはこの小説の出現があるのではないかと、ふと思った。そういえば、「イージーライダー」のラストシーンも、殺す者と殺される者が『冷血』をそっくり逆転させた構図になっている。

そんなことを思ったのも、『冷血』を読みすすむにつれて、これが必ずしも中立客観的なノンフィクションではなく、作者の思い入れが殺人者の、なかでも流れ者の混血青年にあることがはっきりしてくるからだ。

カポーティは、この殺人を貧しさや社会の矛盾によって説明しているわけではない。強盗の動機はたしかにカネだけれど、作者自身も説明しきれない心の闇のなかにこの殺人があることにこそ『冷血』の凄みがある。

強盗を計画したのは、2人のうちプア・ホワイトの青年のほうだった。混血青年はプア・ホワイト青年に誘われ、いわば従犯として農場に侵入する。侵入する直前には、いったんは犯罪から降りようともしている。

ギターと歌がうまくてミュージシャンになることを夢見、文章を書くことが好きな混血青年は、一家を縛り上げてからも、プア・ホワイト青年が娘をレイプしようとするのを止め、農場主が床にころがされるのは冷たかろうとマットレスの箱を敷き、ベッドに寝かされた農場主の妻にはベッドカバーをたくしあげる思いやりを示している。

家族を皆殺しにするのはプア・ホワイト青年の計画で、混血青年は最後まで一家を殺すことを考えていなかったのだが、実際に農場主の喉をナイフで掻き切り、散弾銃を撃ったのは、臆したプア・ホワイト青年ではなく混血青年のほうだった。

その間の事情をカポーティは2人の告白と、犯罪心理学の論文を援用して記述してゆくのだが、それによっても混血青年がナイフと散弾銃に手をかけた瞬間が納得できるようには描かれていない。その瞬間を作者が説明しきれないだけでなく、当のプア・ホワイト青年や混血青年自身にも自分たちの行った行為がよく分からないのだ。カポーティの叙述は、そんな言葉にならない部分をも想像させるに十分な深さを湛えている。その語りえない領域にひそむ人の心の不可思議な恐ろしさによって、このノンフィクション・ノベルは今でも読む者を震撼させる。

印象に残った挿話。ひとつは混血青年の夢。「国境の南」メキシコへ行って金を掘り、ユカタン半島沖合の島で王侯貴族のように暮らすこと。「おれは金を掘ることなら裏も表も知り尽くしてる。本物の山師だったおやじから教え込まれたからな。だから、おれたち二人、荷馬を二頭買って、シエラマドレで運試ししてみるっていうのはどうだ?」。これはハンフリー・ボガートの映画(『黄金』)だね。

もうひとつは、混血青年が語る父の肖像。「父親は“本物の男”だった。木を望むとおりの位置に切り倒すことができた。熊の皮を剥ぎ、時計を修理し、家を建て、ケーキを焼き、靴下をつくろうことができた。曲がったピンと糸があれば、鱒を釣ることもできた。かつて、アラスカの荒野で独り、冬を乗り越えたこともあった」。

こんな男たちが50年代にはまだ生きていたんだな、アメリカという国には。


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Comments

こんばんは。TBありがとうございました。
読んで思ったいたことが、ほぼ同じ感じ方を持って見事に文章化されていて読んでいて楽しかったです。
そして特に

>この小説が発表された数年後から「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て」「ゲッタウェイ」など、移動しながら犯罪を繰り返すロードムービーがニューシネマと呼ばれて流行した背後にはこの小説の出現があるのではないかと、ふと思った

これには激しく納得してしまいました。
そういった意味では確かにこの小説はロード・ノヴェルと言ってもいいかも知れませんね。

Posted by: nikidasu | September 24, 2006 01:44 AM

コメントありがとうございます。

『路上』とニュー・シネマの関係はさまざまに論じられていますが、『冷血』との関係はあまり読んだ記憶がありません。でも『冷血』を読んでいるとまるで映画を見ているように場面場面が想像されて、これはロード・ムービー(ノヴェル)だと思いました。「ロード・ノヴェル」、いいネーミングですね。

Posted by: | September 24, 2006 01:58 PM

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