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November 29, 2005

『イン・ハー・シューズ』のハリウッド度

カーティス・ハンソンは、クリント・イーストウッドを別格とすれば、ハリウッドの良質な伝統をいちばんよく継いでいる監督だと思っている。特に『L.A.コンフィデンシャル』『ワンダー・ボーイズ』『8Mile』『イン・ハー・シューズ』という最近の4作はいろんなテイストの映画をそれぞれに楽しませてくれて、脂が乗りきってる印象。

「良質な伝統」ということを自分なりに説明すると、アメリカ映画を50年近く見てきて、ハリウッド映画の質が1980年あたりを境に大きく変わったことを実感している。ひとつはVFX(ヴィジュアル・エフェクト)と呼ばれるデジタルによる映画づくり。この技術の進化を初めて目の当たりにしたのは、やはり『スターウォーズ』第1作(1979)だった。

もうひとつは、プロデューサーの権限が大きくなって、マーケティング重視の映画づくりが主流になったこと。観客(モニター)に製作中のフィルムを見せてその声を反映させるようなやり方が一般的になった結果、3分に1度は観客をハラハラドキドキさせるテンポの速い映画が増えた。そんな、短いカットを積み重ねストーリー展開を速くする手法を最大限に推し進めて自分のスタイルにしたのが、例えばトニー・スコットやスティーブン・ソダーバーグだろう。モニターの意見によって結末を変えることも行われるようになった。

プロデューサー主導の映画づくりが盛んになったのは、超大作『天国の門』(1981)がコケて、そのせいでユナイトが倒産して以後のことじゃないかな。1本の映画に巨大な資金が必要になればなるほど、リスクも大きくなる。「ディレクターズ・カット」なんてのが出てくるのも、ハリウッド映画が監督ではなくプロデューサーの映画になったことの証拠だろう。

僕が良質の伝統といったのは、要するにそれ以前の、そうではない映画作りということ。歳のせいで昔の映画がよく見えるのさ、と言われれば、半分はその通りと答えるしかないけど、まあ聞いてよ。

そのように言ったとき、具体的には自分がアメリカ映画を見始めた1960年代以降のドン・シーゲルやロバート・アルドリッチといった監督の映画を念頭に置いている(これは好みの問題でもあるから、いくつもの名前と置き換え可能)。

見事なエンタテインメントでありながら、紋切り型にならない複雑な人物像を造形し、作り手のメッセージ(必ずしも政治的なものではない)をくっきり浮かび上がらせる。ドン・シーゲルの『殺人者たち』『ラスト・シューティスト』『ダーティ・ハリー』、ロバート・アルドリッチの『飛べ! フェニックス』『特攻大作戦』『カリフォルニア・ドールズ』なんかは、そういう意味で良きハリウッドを代表する作品群だったと思う。

なんて、大げさな前置きが長くなってしまったけど、『イン・ハー・シューズ』のことを語るのだった。

(以下、ネタバレです)
ラスト・シーン。ジャマイカ・レストランでのカジュアルな結婚式を終えて車に乗った姉のトニ・コレットが振り返ると、リア・ウィンドー越しに妹のキャメロン・ディアスが暗い車道に立って姉夫婦を見送っている。車のライトで逆光になったディアスの、輪郭だけのミディアム・ショット。

次の場面、ディアスはスキップを踏むようにまだ続いているガーデン・パーティのなかへ溶け込んでゆく。これもディアスのアップなしのミディアム・ショット。

さりげない終わり方が、いかにもこの監督だなあと思った。『8Mile』のラストで、ヒップホップ・コンテストに初めて優勝したエミネムが、これから夜勤の仕事だと言って暗い街角へ消えてゆくのと同じ。映画は終わるけど、まだドラマが完結したのではないという感触。明日もまたディアス(エミネム)の人生はつづくという日常のリアリティ。

映画の終わり近く、キャメロン・ディアスは、この男と結ばれるかもしれないと予感させる、亡くなった教授の息子と出会っている。マーケティング重視の映画づくりなら、姉の結婚式の場面に彼を登場させ、ヒロインのディアスが姉とともに幸せをつかんだことを観客に示してハッピーエンドで終わるのではないかな。

そのようなエンディングを選ばなかったことで、カーティス・ハンソンがハリウッドの紋切り型を避けると同時に、この映画が2人の姉妹の恋の映画ではなく、相互依存的な姉妹がそれぞれに自分の道を歩みはじめる自立の物語であることが明らかになる。

弁護士になった優秀な姉をもつ妹は、小さい頃からの姉へのコンプレックスの代償として難読症を病んでいる。美しい妹をもつ姉は、妹の美貌と肉体へのコンプレックスの代償として、クローゼットの奥に決して履かれることのないハイヒールのコレクションを持っている。

愛しあいながら憎みあっている姉妹の相互依存関係が、妹が姉のヒールを履いてこわし、それを知らずに姉がはじめてヒールを履くことをきっかけとして、紆余曲折を経ながら変化してゆく。ハンソン監督は実験的な手法や難しいことはいっさいやらない。そのかわりゆったりと間をとって、姉妹や両親、祖母がそれぞれに抱えている傷をめぐって、複雑な感情の揺れを繊細に表現してゆく。人の気持ちにスッと入りこんでくるようなショットの連続。

それを可能にしたのは、演出だけでなく役者の力でもある。なかでも、姉妹のおばあちゃん役で後半に登場するシャーリー・マクレーンは圧巻。皺ひとつ動かすことで色んな感情を表現する演技には惚れ惚れする。

もうひとつ、ハンソン監督の映画でいつも見事なのはロケ中心のカメラ。前半のフィラデルフィアの落ち着いた色彩と、後半のマイアミの原色に抜けた色彩の対照が鮮やかだ。『ワンダー・ボーイズ』のペンシルヴェニアの大学町、『8Mile』のデトロイトもそうだったけど、それぞれの街の空気感が手持ちカメラでとてもリアルに撮られている。

製作はリドリー・スコット。彼もまた、ハリウッドのなかでエンタテインメントと作家性を両立させながら映画をつくっているひとり。こういう男たちがいるから、ハリウッド映画は面白い。

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November 27, 2005

『TAKESHIS'』の妄想世界

北野武もついにフェリーニみたいになったね。

『TAKESHIS'』は作品としての完成度はともかく、まるでフェリーニの『8・1/2』や『女の都』のようにシュールな極私映画だった。

ロースルロイスに乗ったビートたけしがマネジャー(大杉漣)や愛人(京野ことみ)を引き連れてテレビ局や麻雀屋に出入りする日常と、たけしの分身と思しい、役者になりたくてオーディション巡りをしているコンビニ店員(北野武)の日常とが、現実と幻想の境界もなく交錯している。

たけしの分身であるコンビニ店員は北野武の売れない時代の自画像とも取れるし、人気者になったたけしの内的な妄想(売れなくなる恐怖、あるいは落ちぶれ願望)とも取れる。

『8・1/2』や『女の都』が、フェリーニがなぜアニタ・エグバーグやソフィア・ローレンみたいな巨乳美女に執着するのか、少年時代に遡ってそのタチの所以を描いてみせたように、この映画も北野武のいろんなタチが意識的にも無意識的にも露わになっているように思った。それを楽しむのが、この映画じゃないかな。

気づいたことを箇条書きに。

・女優は愛人役の京野ことみと、北野映画の常連・岸本加世子(7役)。岸本加世子は、過去にたけしと愛人関係にあったらしい役もやっていて、恨みがましい目をした岸本からたけしは水をぶっかけられたりする。たけしは、まんざらでもない表情をしている(ように見える)。察するに、北野武はあまり女っぽい女は好きじゃなく、中性的な女性(それも貧乳?)が好きみたい。

・花束のユリに極彩色の毛虫(CG)がうごめくイメージが繰り返し登場する。それが巨大な張りぼてになり(『女の都』の巨大な唇の張りぼてのように)、その怪物に大物歌手役の美輪明宏が重ねられる。美輪の「よいとまけの唄」に合わせて、張りぼてでよいとまけをするシーンもある。もぞもぞ動く極彩色の毛虫は、あたかもたけしが自分でそうありたい、おぞましくも美しい姿かもしれない。

・北野武の映画を通底しているのは「死の誘惑」だと思う。過去の自分の映画をなぞるように無数の弾丸が発射されるけれど、まっさきに殺されていいはずのたけしだけはなぜか死なない(死ねない)。生き残る、死ねないヒーローたけしに、僕は逆に『ソナチネ』に露骨に現れていたたけしの死にたい願望を感じた。なかでも冒頭とラストシーンに出てくる、銃を構えた米兵に見下ろされ死体のふりをするショットは何なんだろう。米兵を日常的に見かけた昭和20年代の何らかの体験か、それとも少年時代に見た『コンバット』のようなアメリカのテレビドラマや映画の記憶なのか。

・たけしの死にたい願望を浄化する場所として、沖縄(あるいは海辺)がある。そこから「キタノ・ブルー」の色調が出てくるのだけれど、この映画でも沖縄は繰り返し登場する。僕は北野武の映画のなかで『ソナチネ』がいちばん好きだけど、あの映画の沖縄の空と海は『TAKESHIS'』にそっくり受け継がれている。

・たけしの分身であるコンビニ店員は、旋盤のある町工場の2階、木造の安アパートに住んでいる。たけしは東京の田端で生まれ育っているけど、まさに昭和30年代のこのあたりの風景を思い出させる。たけしの原風景。

・その安アパートの柱や窓枠が青や赤に塗られていて、それが、しがないコンビニ店員は売れっ子タレントたけしの内的妄想かもしれない非現実感を醸し出している。他にもコンビニの制服がピンクだったり、黄色が頻出したり、色の遊びが随所に顔を出す。かつて鈴木清順は『肉体の門』で4人の娼婦の衣装にそれぞれ4色を当てて描きわけるユニークな演出をしたけど、そんなことも思い出した。

ここまでフェリーニをやるなら、次は傑作『フェリーニのローマ』に倣って『TAKESHIS' TOKYO』を撮ってほしいな。

(後記)うかつなことに映画のタイトルが『TAKESHI'S』だとばかり思っていて、正しくは複数形の『TAKESHIS'』であることに記事をアップしてから気づいた。北野武とビートたけし、内的妄想と過去の記憶といった複数のTAKESHIが錯綜している映画と考えればいいのだろう。

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November 26, 2005

庭の紅葉

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カエデ

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ドウダンツツジ

庭の紅葉が真っ盛り。今年は色づきがいいみたいだ。反対に柿もブドウも、実のものはまったくダメ。一年おきの周期の悪い年に当たっていたこともあるけど、去年に比べて日照も少なかったんだろうか。

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November 23, 2005

『親切なクムジャさん』のカメラ目線

映画の冒頭、刑務所から出所したクムジャさんのイ・ヨンエが牧師一行から出迎えを受ける場面で、イ・ヨンエがいきなりカメラを2度、見据える。見ている側は、おいおいいったいこの映画は何なのとうろたえてしまう。

ドキュメンタリーは別として、ふつうフィクションの映画で俳優がカメラを見つめることはしない。それは撮る側と見る側の約束事みたいなものだ。例外は、たとえばハードボイルドでカメラが探偵の目になったときのように、カメラが一人称として使われるとき。もうひとつは、つくり手が「俳優はカメラ目線にならない」という約束ごとを意図的にこわし、架空のつくりごととして安心してスクリーンを見ている観客の、ドラマとの安穏な関係性を揺さぶろうとするとき。

後者の例に初めて出会ったのは黒澤明の『素晴らしき日曜日』(1947)だった。貧しい恋人たちが無人の日比谷野外音楽堂でデートしている。挫折しそうな音楽家志望の男を励まして、恋人の女性がいきなりカメラを見て、観客に向かって「皆さん、拍手してください」と訴える。敗戦から2年後の公開時には、満員の映画館は大きな拍手に包まれたのではないだろうか。僕が見たのはそれから20年後、八重洲のフィルム・ライブラリーで、そのとき拍手は起こらず、拍手しない(できない)自分に尻がむずがゆくなるような居心地の悪さを感じた。

『親切なクムジャさん』のラスト近く、イ・ヨンエはもう一度、カメラを長い時間、無言で見つめる。このとき、見る側はイ・ヨンエがどんな人生をたどり、どんな行動を起こし、今どんな感情を抱えているのかが分かっている。だから彼女が「拍手してください」とは言わず無言のままでも、見る側は彼女がスクリーンを跳び超えて観客に直に何を訴えたいのかを理解する。このラスト近いイ・ヨンエのカメラ目線は、『素晴らしき日曜日』のカメラ目線と同じ構造だろう。

ところが冒頭のイ・ヨンエの2度のカメラ目線は、それとは違うように感じた。観客はまだイ・ヨンエがどんな人物で、なぜ刑務所に入っていたのかを知らされていない。その人物について何の情報もないまま、観客はいきなり主役のクムジャさんからひたと見据えられる。だからカメラを見つめるイ・ヨンエのクムジャさんは、観客に向けて何のメッセージも発していない。ただ、見る側はいきなり暗黙の約束事を破られ、スクリーンの向こう側と観客との安全な関係性を壊されたことにうろたえる。

映画が進むにつれて、あ、これがパク・チャヌク監督のやり方なんだな、と気がついた。

パク・チャヌク監督は、観客の感情を揺さぶり、映画に引き込むためにあらゆるものを動員する。極限的な設定、耽美的であったり様式的であったりする映像、いつも高鳴っている音楽。おびただしい血(そしてアイシャドーや壁の赤)の描写。観客の神経を逆撫でする残酷描写。冒頭のカメラ目線もそういう感情動員の手口のひとつとして、映画の常識的なコードとは関係なく、ともかく観客の感情を揺さぶるためだけに採用されたショットなのだろう。

考えてみれば、そんな姿勢は『オールド・ボーイ』でも一貫していた。ただ、揺さぶられスクリーンの向こう側に動員された感情が、『オールド・ボーイ』では最後に見事に結晶した(好き嫌いはともかく)のに対して、同じ復讐のテーマをもつ『親切なクムジャさん』ではそれが結晶せず、途中ではぐらかされてしまったようにも僕は感じた。

クムジャさんの復讐というより、クムジャさんは途中から登場してくる複数の人間の復讐の念をあおり、その怒りを代行する「仕事引受人」みたいに見えてしまった。だからおびただしい「赤」の果てにおとずれる最後の「白」のシーンには、いまいち乗れないまま。

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November 22, 2005

MJQ以前のMJQ

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MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)のいちばん始めのかたちがMJQ(ミルト・ジャクソン・カルテット)だったことは、MJQのファンならたいてい知ってる。でも、その音を聴いたことがある人はそんなに多くないだろう。僕もそう。

『ザ・カルテット』(SAVOY、1952)を聴いて驚いた。このアルバムは、MJQがミルト・ジャクソン・カルテットだったころの音を聴かせてくれる。メンバーはミルト・ジャクソン、ジョン・ルイス、パーシー・ヒースに、ドラムスがコニー・ケイではなくオリジナル・メンバーのケニー・クラーク。

『ザ・カルテット』はディジー・ガレスピー楽団のリズム・セクションだった4人の初録音。アルバムのジャケットのどこにも、まだ「モダン・ジャズ・カルテット」とは記されていない。

まさしくこれはモダン・ジャズ・カルテットではなかった。全12曲、ミルト・ジャクソンの独り舞台。ジョン・ルイスはサイドメンとして、控えめなピアノに徹している。アルバムにはMJQの重要なレパートリーである「朝日のようにさわやかに」「ブルーソロジー」「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」も収録されているけれど、いずれもMJQの演奏とはかなり違う。ミルト・ジャクソンのソウルフルなアドリブの嵐。

これはこれで、とてもいい。聴きごたえがある。でもこの4人のグループがミルト・ジャクソン・カルテットのままだったら、いっときの人気バンドで終わったような気もする。ジョン・ルイスがリーダーとして西洋音楽の構成的な精神とジャズのソウルを融合させたユニークな音楽を創造したからこそ、MJQ はMJQになりえたし、ジャズ史に残るグループになったんだろう。

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November 20, 2005

「江戸料理を楽しむ会」

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「江戸料理を楽しむ会」に行った。

この会は江戸料理研究家の原田信男さんと大塚の料理屋・なべ家が協力してやっているいる会で、今回が2回目。江戸時代に多数出版された料理本のレシピをもとに料理を再現している。懐石のように洗練されていない、中層の武士・町人が食べたものらしい。

写真は左下から時計回りに、
「吸物 べた汁(具は細切りのゆず)」
「膾(なます) 赤貝うに和え」
「焼物 雉子焼(カジキマグロを雉子ふうに味付けて焼いたもの)」
「猪口 蟹・栗・銀杏」

メニューは他に、
「座付 江ノ嶋最中(先付け。まず最中やあんころもちなど甘いものでお腹をふくらませてから料理を食べた。江戸の人は、みんな腹を空かせていたんですね)」
写真の4品の後、
「刺身 掻鯛(芥子をつけ、醤油でなく梅と酒を煮詰めたたれで食べる)」
「煮物 箏羹(乾し筍、寒天などの煮物)」
「鍋 寄せなべ(具は鯛、蒲鉾、クワイ、三つ葉。最後に雑炊)」
「菓子 玲朧豆腐」

器もすべて江戸時代のもの。なべ家のある大塚三業地は、今でもその風情の残る一角。

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November 19, 2005

アピチャートポン監督の映画2本

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タイのアピチャートポン・ウィーラセータクン監督の映画を2本見た(11月18日、赤坂・国際交流基金フォーラム)。

1本は『真昼の不思議な物体』(2000)。アピチャートポン監督の撮影隊がタイの町や村を移動しながら、出会った人々に「足の悪い少年と家庭教師」の物語を即興で紡いでもらう。人々が語った物語を俳優たちが演じ、それを人々が見ている。ドキュメンタリーとフィクションを往復しながら、出会った人々の想像力にまかせて物語は進んでゆく。その間に映し出されるタイの町や村の人々や風景がリアルだ。山形国際ドキュメンタリー映画祭優秀賞を受賞した作品。

もう1本は『アイアン・プッシーの大冒険』(2003)。アメリカ生まれのタイ人アーティスト、マイケル・シャオワナーサイ(脚本・監督・主演)との共同監督作品。これが何とも奇妙奇天烈で楽しい映画。「アイアン・プッシー」はマイケルがつくったキャラクターで、女装のスパイ(写真)。マイケル自身が演じている。

普段はスキン・ヘッドの冴えない兄ちゃんでセブン・イレブン店員のマイケルが、事が起こるとスーパーマンみたいに女装のアイアン・プッシーに変身する。ミッション・インポッシブルみたいな指令を受けて、タイの女富豪と怪しい外国人の謎を探るために、プッシーは富豪の豪邸にメイドとして住み込む…。

過去の無数のエンタテインメント映画の定番シーンが次々に登場する。冒頭は西部劇の酒場の乱闘。変身はスーパーマンというより仮面ライダーをもっとチープにした感じ。ミッション・インポッシブルはセブン・イレブンのレジに呼び出しがかかり、寺で指令を受けるシーンはミュージカルになって歌と踊りつき。女富豪の豪邸に忍び込んでの活劇は007で、やがてアジア映画お得意の母子物語になり、「人生のハードルを乗り越えるのは麻薬じゃなく仏法よ」と仏教国らしい教訓で終わる。もちろん恋と笑いもたっぷり。

女装のはずがいつの間にか本物の女になってしまったり、辻褄もなにもないけど、パロディじゃないし、かといって本気でもない。くすんだビデオ映像はアート作品のようでもあり、ハリウッドのエンタテインメントとは別な、ゆるい楽しさがあるから商業映画として成り立ちそうでもある。タイでは、どんな形で公開されたんだろう。

(後記。「上倉監督の超責任映画論」によると「会場内はあたかもミュージシャンのライブかお笑いの舞台のような有様。こんなにも見る側が発散して見れる映画や国と言うものがあることに感動しました」)


残念ながら見られなかったけれど、同時上映されたアピチャートポン監督の『ブリスフリー・ユアーズ』はカンヌ映画祭「ある視点」グランプリで、『トロピカル・マラディ』はやはりカンヌの審査員賞を受けた作品。見てみたい。イメージ・フォーラムあたりで公開してくれないかな。


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November 18, 2005

『ブラザーズ・グリム』の森

グリム童話を読んだのは小学校低学年のころだから、もう50年も前のことになる。それ以来いちども読み返してないけれど、今でも鮮明に残っているのは、いくつもの童話の舞台になっている森のほの暗い不気味さだ。とくに「ブレーメンの森の音楽隊」。東京近郊、関東平野のど真ん中で育ったから、森といってもせいぜい武蔵野の明るい雑木林しか知らない子供に、魔物が棲んでいる怖ろしい空間の印象は強烈で、森というもののイメージは実際の森ではなくグリム童話によってつくられたと言ってもいいくらい。

「ブラザーズ・グリム」は、そのグリム童話の森の不気味をキーワードに「赤ずきん」「白雪姫」「ヘンデルとグレーテル」なんかを組み合わせ、さらに作者であるグリム兄弟を登場させたブラックな味のファンタジー。

僕は流行りのファンタジーものにほとんど興味がないのだが、善悪が対立して善が勝利を収める単純な図式と金のかかったVFXという定番とはひと味ちがう映画に仕上がっている。そう思うと、森の木や根っこが動く、ややチープな感じのするVFXまで好ましい。

もうひとつ、この映画がグリム童話のほの暗い雰囲気を再現するのに成功したのは、プラハにロケしたからではないかな。グリム童話の舞台であるドイツでは、今では原生林はほとんど残っていないという。多分、プラハを拠点に近郊の森で撮影されたのだろうけど、いくらVFXやセットといっても素材となる現場の空気までは変えられない。カフカの原作をロシアで映画化した『変身』も確かプラハ・ロケだったように記憶するが、本国ドイツでは失われた前世紀の雰囲気がまだここでは残っているのだろう。

テリー・ギリアムの『ドン・キホーテを殺した男』が中断に追い込まれるまでを記録した『ロスト・イン・ラマンチャ』はなんとも面白い(アン)メイキング・フィルムだったけど、前作の失敗に懲りず、ファンタジーとはいえ子供の動員を見込めないブラックな映画をつくったテリー・ギリアムは腰の座った男だね。

マット・デイモンの田舎男ふうなペテン師のグリムもいいし、モニカ・ベルッティが魔性の魅力をたたえている。こういうお姫様になら、おじさんはいくらたぶらかされてもいいな。


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November 17, 2005

嶋津健一のバラード

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レコーディングに立ち会った(6月6日のエントリ参照)ピアニスト嶋津健一のCD『All Kinds of Ballads』(Rovinfg Spirits)が発売された。

当日、ピアノトリオで演奏された17曲からセレクトされると聞いていたけど、捨てるのは惜しいというプロデューサーの判断で2枚のアルバムに分けられ、全曲が生かされるらしい。ほとんどの曲が1stテイクで、しかもどれも素晴らしい出来だったのを知っている身としては嬉しい。その1枚がバラードばかりを集めたこのアルバム。もう1枚はアップテンポの曲を集めて来年、発売されるという。

1曲目の「モア・ザン・ユウ・ノウ」から、嶋津の美しくエモーショナルな音の世界に引き込まれてしまう。ジャズ・バラードばかりでなくブルースやボサノバ、ロック・バラードなど色んなバラエティーを交えて、9曲目の「ザ・グッド・ライフ」まで聞き惚れた。

嶋津健一の音のいちばんの特徴を一言でいえば、「歌心にあふれている」ことに尽きる。美しいメロディライン、エモーションがこぼれて落ちるようなアドリブ。その果ての突き抜けるような爆発の快感。そんな瞬間を体感させてくれるジャズは、そんなに多くない。

嶋津健一に「アドリブって何ですか」と聞いたことがある。「アドリブは鼻歌みたいなものです」というのが彼の答えだった。「元歌を頭の中で鳴らしながら、元歌から触発された鼻歌を指先で弾くのがアドリブです」というのだった。言葉にすれば簡単だけど、実行するのは至難の技。初心者(僕のことです)に向けた簡単なアドバイスだったけど、嶋津のあふれる歌心の秘密をのぞいたような気がした。

このアルバムは「ハーマン・フォスターに捧ぐ」とタイトルされている。ハーマン・フォスターは、嶋津がアメリカで「教わったことはないが、『追っかけ』のように聴いて、いちばん深く学んだピアニスト」。彼の音は、嶋津の表現を借りれば「女性を愛撫するようなエッチなピアノ」だそうだ。僕のコレクションでは、ルー・ドナルドソン『ブルース・ウォーク』のピアノをハーマン・フォスターが弾いている。

『All Kinds of Ballads』は、ハーマンとの付きあいからたくさんのものをもらったという嶋津の言葉が何を意味しているのかが、聴いていてまざまざと分かるアルバムだった。

太くて深い音を出す加藤真一のベース、岡田啓太の「メロディアスなドラム」。嶋津の音楽をよく知る2人が、嶋津とトリオで見事な対話を繰り広げている。

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November 13, 2005

「イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー」

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トロンボーンの音っていいいよね。カイ・ウィンディングとJ.J.ジョンソン、トロンボーン2本のソフトなジャズ。2人が吹いたコール・ポーターの名曲「イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー」はジャズ・ファンならたいていどこかで聴いた覚えがあるだろうけど、このアルバム(『K+J.J.』1955)に入ってるとは知らなかった。

2人のアドリブは、何度聴いてもうっとりする。メロディをトロンボーン2本の音を重ねて吹いた後、カイからアドリブに入り、J.J.がミュートで応える。カイもミュートをつける。サックスやトランペットと違って、ゆったりしたテンポ。J.J.のミュートは柔らかく、一方、J.J.のは少しハード。やがて2人ともミュートをはずして交互に対話するのだけど、途中からカイとJ.J.の区別がつかなくなって迷い道に入りこんだような気分がまたいい。2人が2人、なんとも気持ちのいい音を出している。

休日の秋の夕暮れに名手2人のトロンボーンを聴いていると、ちょっとセンチメンタルな気分。

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November 12, 2005

嶋津健一・かなさし庸子ライブ

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嶋津健一(p)、かなさし庸子(vo)のライブ(11日、六本木・リラキシン)。

この夜のかなさし庸子は普通にスタンダードを歌うのでなく、ほとんどスキャット(それもシャバダバダというやつでなく彼女独特の)というユニークな歌い方でバップの曲なんかを。声が言葉でなく音として聞こえてくると、身体が見事な楽器だというのがよく分かる。ピアノトリオ+ヴォーカルというより、ボディという楽器の加わったカルテットの演奏に聞こえた。

アメリカ先住民の詩に新井満が曲をつけた「千の風になって」や、最後の「キャラバン」までたっぷり楽しむ。

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November 11, 2005

骨董通り

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子羊(?)の轡(くつわ)。北方系の古代中国のものだろう

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古伊万里だろうか。極彩色でなく、余白がたっぷりあるのがいい

久しぶりに京橋の骨董通りを歩くとウインドーに飾られた品が新しくなっていて、一軒一軒を見て歩くのが楽しみ。


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November 09, 2005

有楽町駅前の再開発

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戦後の猥雑な街並みが残っていた数少ない都心の駅前、有楽町銀座口の「再開発」が始まった。お定まりの高層ビルになるんだろう。駅前のごちゃごちゃした一帯を抜けて数寄屋橋から銀座へ出るのは、いい感じだったんだけどな。なにより、最終回の映画を見た後に気軽に立ち寄れるラーメン屋がなくなるのが困る。

マイナーな良い映画をやっていた有楽シネマ(銀座シネ・ラ・セット)は取り壊され、ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』に出てきた喫茶店「ももや」も店を閉めた。ここの珈琲は濃厚で旨かったなあ。的矢牡蛎で有名なレストラン・レバンテは、近くの東京国際フォーラムに移転している。もっとも、もとの店の戦前のビヤホールみたいな雰囲気はない。

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November 08, 2005

『バットマン・リターンズ』(DVD)

ティム・バートンの『バットマン』とは別のテイストのダークな映画に仕上がっていたけど、クリストファー・ノーランの個性はアメリカン・コミックとの相性が必ずしもよくないと思った。

『メメント』の記憶喪失、『インソムニア』の不眠症と内面の「ノワール」と外部のノワールを対照させてきたノーランが、ブルースがいかにバットマンになるか、その内部の「ノワール」を説明しようとすればするほど、コミックの爽快感やいさぎよさから遠くなるような気がした。内面なんてものをさっぱり切り落とした『シン・シティ』を見たばかりだったので、よけいにそう感じたのかも。

ゴッサム・シティの映像感覚はさすが。この手の架空(未来)都市の描写はたいてい『ブレードランナー』を下敷きにしていて、この映画にも見てとれるが(ルトガー・ハウアーも出ているし)、それ以上にフリッツ・ラングの古典『メトロポリス』に近いものを感じた。

ノーランは、ハリウッドの若手でいちばん楽しみな監督のひとりだね。

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November 07, 2005

「ドイツ写真の現在」展

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写真展「ドイツ写真の現在」(東京国立近代美術館、12月28日まで)を見た。いろいろ感じることがあったけど、腱鞘炎なのでメモだけ。

今のドイツ写真の源であるベッヒャー夫妻の作品を大量に直に見ることができた。プリントが美しい。その後の若い写真家の仕事が、ベッヒャー夫妻の対象とのクールな距離感を引き継いでいるのがよく分かる。

ティルマンズなど既に知られている写真家は別として、初めて見てうなったのはロレッタ・ルックスの子どものポートレート(写真)。彼女の撮るポートレートは、どの子どもも無垢と空虚がないまぜになったような無表情をしている。デジタル操作をして顔と体のプロポーションを微妙に変えていることも、そんな感じを強調している。東ドイツ出身という彼女の子供時代が想像できるような作品群。

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November 06, 2005

『at』と島バナナと芭蕉布

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『at(あっと)』(太田出版)という季刊誌が創刊された。

1号の特集は「バナナから見える世界」。鶴見良行の名著『バナナと日本人』から20年、その後のアジアと日本のつながりを、もう一度バナナを通して考えようという企画。バナナの「国産産直事業」をつづけてきた市民事業「オルタード・トレード・ジャパン」リーダーへのインタビューと、石川清の新連載「バナナの世界地図」。

「バナナの世界地図」第1回は沖縄のバナナをレポートしている。沖縄で栽培されている「島バナナ」と古くからバナナ(芭蕉)の繊維で織られた芭蕉布。たまたま銀座の沖縄物産店「わした」を覗いたら島バナナがあったので買ってきた。普通のバナナより濃厚で酸味があり、うまい。バナナの下は芭蕉布の敷物。時間と空間を自在に旅した鶴見に比べると文章も用語もまだ硬いけど、楽しみな連載。

ほかに連載は柄谷行人「革命と反復」、上野千鶴子「ケアの社会学」と、吉岡忍・吉田司の対談。2人の連載対談(放談)は面白い。

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November 05, 2005

秩父宮の秋

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神宮外苑の銀杏が色づくこの季節、秩父宮ラグビー場のバックスタンド越しにながめる並木とビル群と青空の風景が好きだ。秩父宮ではたいていバックスタンドに座るんだけど、都会の秋を感じさせる景色を楽しみたいために、この季節だけはメインスタンドに座る。

日本代表対スペイン代表戦。このところ日本代表のゲームには失望させられっぱなしで、今日も前半はいやな予感がしていたけれど、後半の後半、大事なところで今日は踏ん張った。モールを押して2トライ、立川と小野沢の見事なステップで2トライ。

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November 04, 2005

やっと咲いた秀明菊

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秀明菊(しゅうめいぎく)が花を咲かせた。去年植えたんだけど、咲かないまま冬になってしまった。今年もちっとも蕾を持たず、どうなっているのかと思ったら、ようやく2輪だけ。菊というより野の花のような風情。わが家の庭には冬の花はないから、これが今年最後の花になるかも。


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November 03, 2005

ひなたぼっこ

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(銀座1丁目)

気持ちよさそうにひなたぼっこしていた2匹。2匹とも人なつこいネコで、喉をなでたら身をすりよせてきた。

仕事が重なって、2週間、連日8時間ほどキーボードをたたいていたら、右手が腱鞘炎になってしまった。筋力が衰えたんだろうか。悲しい。

日常生活と仕事で右手を使うのは避けられないので、長い文章をちょっとの間(10日くらい?)休むことにします。書きたい本と写真展とCDがあったのに、残念。その間に映画も見て、材料をたくさんためこんでおきます。

代わりに、写真日記みたいなものを、毎日アップするつもり。下手な写真ですが、おつきあい下さい。


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November 01, 2005

『冷血』の深い闇

「寝食を忘れて(読む)」なんて言い方が死語に近くなったのは、言葉の問題もあるけれど、それ以上に、熱くなって何かをやることが少なくなったクールな時代の空気とも関係あるのかもしれない。加えてこちとら、老眼が進んで長時間の読書に耐えられない。

でもこの本は「寝食を忘れて」読んでしまった。いや、もちろんご飯は食べたし、寝もしましたけど、気分としてはそんな感じ。それほどに引き込まれ、おもしろかった。

新しく訳されたトルーマン・カポーティのノンフィクション・ノベル『冷血』(佐々田雅子訳、新潮社)。瀧口直太郎の旧訳は30年間も本棚の片隅にあり、いつか読もうと思いながらそのままになっていた。奥付を見ると1972年12月発行の11刷(初版は1967年)とある。江藤淳、石原慎太郎、大宅壮一が推薦文を書いているのが時代を感じさせる。

新訳は、これが1965年に書かれた40年前の作品だとは全く感じさせなかった。1959年の出来事を半世紀後の今、2005年に小説化したのだと言われてもまったく分からなかったろう。

「わたしはいつだって霊感を試してみるんだ。今日までわたしが生き延びてきたのもそのおかげさ」(瀧口訳)

「おれはいつも勘を働かせてきたんだ。今、生きているのもそのせいだ」(佐々田訳)

同じせりふを拾い出しただけだから厳密な比較ではないけど、1人称が「わたし」から「おれ」に変わり、言葉のテンポとリズムが速く強くなっている。それが新しく訳し直したことの意味なのだろう。

古さを感じなかったのは、もちろん訳だけの問題じゃない。なにより1950年代のアメリカ社会の断層を通して明らかになる人間の心の闇が、別の時代、別の地域に生きている僕たちにも深く突き刺さってくるカポーティーの作品そのものの力によっている。

殺されたのは、アメリカ中西部カンザス州で農場を営む、敬虔なプロテスタントとして人望のある一家。大金を目当てに邸宅に侵入し、結果として50ドルのために一家4人を惨殺したのは刑務所で知り合った若者2人。1人はプア・ホワイトの息子で、1人はアイルランド人の父と先住民チェロキー族の母の間に生まれた混血。混血青年は、父母とともにアメリカ中西部や西部、アラスカを転々としてきた、いわば「流れ者」だ。

中西部は「バイブル・ベルト」とも呼ばれるけれど、プロテスタントの信仰篤い人々は、ブッシュ再選の原動力になったことからも伺えるように、建国以来、社会の基盤をなしてアメリカの「健全」と「正義」を体現してきた。

一方、移民国家であるアメリカは、貧しい人々が国に入ってくることによって常に下層階級が更新されている。彼らのある者は広大な大陸をさまよい歩いて流れ者となる。

定住者と流れ者が出会うことで起きる出来事は小説や映画でおなじみの、いわばアメリカのドラマの原型のようなもの。西部劇の流れ者(「シェーン」)や、大陸横断鉄道時代のホーボー(「北国の帝王」)、ケルアックの『路上』の主人公のようなビートニクたち、60年代のヒッピーもそんな流れを引いているにちがいない(「イージーライダー」)。

僕は『冷血』を読んで、この小説が発表された数年後から「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て」「ゲッタウェイ」など、移動しながら犯罪を繰り返すロードムービーがニューシネマと呼ばれて流行した背後にはこの小説の出現があるのではないかと、ふと思った。そういえば、「イージーライダー」のラストシーンも、殺す者と殺される者が『冷血』をそっくり逆転させた構図になっている。

そんなことを思ったのも、『冷血』を読みすすむにつれて、これが必ずしも中立客観的なノンフィクションではなく、作者の思い入れが殺人者の、なかでも流れ者の混血青年にあることがはっきりしてくるからだ。

カポーティは、この殺人を貧しさや社会の矛盾によって説明しているわけではない。強盗の動機はたしかにカネだけれど、作者自身も説明しきれない心の闇のなかにこの殺人があることにこそ『冷血』の凄みがある。

強盗を計画したのは、2人のうちプア・ホワイトの青年のほうだった。混血青年はプア・ホワイト青年に誘われ、いわば従犯として農場に侵入する。侵入する直前には、いったんは犯罪から降りようともしている。

ギターと歌がうまくてミュージシャンになることを夢見、文章を書くことが好きな混血青年は、一家を縛り上げてからも、プア・ホワイト青年が娘をレイプしようとするのを止め、農場主が床にころがされるのは冷たかろうとマットレスの箱を敷き、ベッドに寝かされた農場主の妻にはベッドカバーをたくしあげる思いやりを示している。

家族を皆殺しにするのはプア・ホワイト青年の計画で、混血青年は最後まで一家を殺すことを考えていなかったのだが、実際に農場主の喉をナイフで掻き切り、散弾銃を撃ったのは、臆したプア・ホワイト青年ではなく混血青年のほうだった。

その間の事情をカポーティは2人の告白と、犯罪心理学の論文を援用して記述してゆくのだが、それによっても混血青年がナイフと散弾銃に手をかけた瞬間が納得できるようには描かれていない。その瞬間を作者が説明しきれないだけでなく、当のプア・ホワイト青年や混血青年自身にも自分たちの行った行為がよく分からないのだ。カポーティの叙述は、そんな言葉にならない部分をも想像させるに十分な深さを湛えている。その語りえない領域にひそむ人の心の不可思議な恐ろしさによって、このノンフィクション・ノベルは今でも読む者を震撼させる。

印象に残った挿話。ひとつは混血青年の夢。「国境の南」メキシコへ行って金を掘り、ユカタン半島沖合の島で王侯貴族のように暮らすこと。「おれは金を掘ることなら裏も表も知り尽くしてる。本物の山師だったおやじから教え込まれたからな。だから、おれたち二人、荷馬を二頭買って、シエラマドレで運試ししてみるっていうのはどうだ?」。これはハンフリー・ボガートの映画(『黄金』)だね。

もうひとつは、混血青年が語る父の肖像。「父親は“本物の男”だった。木を望むとおりの位置に切り倒すことができた。熊の皮を剥ぎ、時計を修理し、家を建て、ケーキを焼き、靴下をつくろうことができた。曲がったピンと糸があれば、鱒を釣ることもできた。かつて、アラスカの荒野で独り、冬を乗り越えたこともあった」。

こんな男たちが50年代にはまだ生きていたんだな、アメリカという国には。


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