『戦後日本のジャズ文化』―奇妙な読書体験
自分が身をもって体験した時代のことが、同時代に体験していない若い世代や外国人の手によって分析され論じられている本を読むのは、けっこう奇妙な読書経験なのだ。
例えば『<民主>と<愛国>』を書いた1962年生まれの小熊英二は、僕らの世代が熱中した丸山真男や吉本隆明といった1950年代、60年代の思想を、まるで昆虫採集好きの少年が蝶やクワガタを虫ピンで止めるような手つきで分析してみせた。
そのあまりの冷静さに腹立たしい思いをもちながら、渦中にいた僕たちには思いもよらない視点を提出されて、なるほど自分たちがやっていたことはこういうことだったのかと教えられもした(サイト「book navi」に書評を書いたことがあるので、興味のある方はどうぞ)。
マイク・モラスキーの『戦後日本のジャズ文化―映画・文学・アングラ』(青土社)も、似たような読書体験をさせてくれる。もっとも、こっちは外国人の著書なのに小熊よりも親身に時代に寄り添い、あの時代の熱い思いを追体験させながら視点をずらすことによって僕たちの体験に別の角度から光を当ててくれる。
著者は1956年セントルイス生まれで、十数年間、日本に滞在した現代日本文学の研究者。同時にジャズ・ピアニストとしてライブ活動も行っている。内容は、敗戦から1970年代にいたる「戦後」の時代に、ジャズがいかにこの国の文化に大きな影響を与えたかを、黒澤明や若松孝二、五木寛之や村上春樹なんかを取り上げながら論じたもの。
「日本語で書かれたジャズ関連の作品を見渡すと、ジャズがどれだけ日本の現代文学に浸透してきたか垣間見ることができよう。いや、1960年代以降に限って言えば、アメリカの文学界よりも日本の文学界にとってのほうが、ジャズの存在は大きいといえるかもしれない」
ここでは例えば五木寛之の『さらばモスクワ愚連隊』や『青年は荒野をめざす』といった「ジャズ小説」が戦争と占領体験の影のもとにある作品として読み解かれている。当時、僕らは五木の小説をそのような「戦後派」的感性から切れた新しい青春小説として読んでいたように思う。
著者は、『さらば…』や『青年…』の主人公がロシアやアメリカの青年とジャズ・ライブでバトルを繰り広げ、彼らを打ち負かすシーンを取り上げて、こう言っている。「この一連のジャズ小説で見られるのは、日本人の主人公の(元)占領者たちに対する一種の<逆転>および<復讐>のファンタジーといえるのではないか」。
「ジャズ小説を書いていた初期の五木寛之は、若者向けの<同時代の作家>というイメージが強かったにもかかわらず、その作品群には<過去の影>が微妙ながら色濃く反映されている。やはり、著者自身の敗戦後のソ・米による二重の被占領体験や、引揚者として(母を亡くして)『母国』に帰る、という複雑極まりない個人体験が、作品中に<記憶>として浮上することがある……この<過去の影>こそ、五木文学が読者に与える余韻の源泉ではないだろうか……この<過去の記憶>が<音>と化することもある――錆びたリヤカーのきしむような、永遠に響きつづけるブルースの音である」
そして著者は五木の「ジャズ小説」を評価して、五木はジャズの本質がライブ演奏による<生きた音楽>であること、即興の一回性にあることをわかっていると言う。それは他の作家たち、例えば中上健次や村上春樹がレコードを聴くことによる鑑賞音楽としてのジャズ(「消えていくはずの音を凍結し、永遠に反復して聴くこと」)に影響を受けたのとは違っていると述べている。
このあたり、「即興がジャズの生命であり、即興されない音楽はジャズではない」というミュージシャンでもある著者ならではの視点だろう。
これは「占領文学としてのジャズ小説」という章に書かれていることだけど、他にも「ジャズ喫茶解剖学―儀式とフェティッシュの特異空間」とか、若松孝二・足立正生映画のジャズを論じた「破壊から想像への模索」とか、音楽や小説だけでなく映画、現代詩、左翼の革命論、メディアなど文化全般にわたってジャズとの関係を論じている。
著者の目から見ると、戦後日本がジャズを受け入れた仕方には奇妙な歪みもあるけれど(それはジャズに限らず、欧米文化一般を受け入れる際の問題でもある)、滞日体験が長い著者は、一方でその歪みを愛してもいる。そんなアンビバレンツな感情がいちばん表れているのが、ジャズ喫茶を論じた章だろう。
ここでもまた、30年以上前にジャズ喫茶に入り浸った日々を思い出しつつ、ジャズ喫茶を<学校>と<寺>として捉えるモラスキーの視点に納得してしまった。

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