『シン・シティ』のプロローグ
プロローグは映画全体を予感させる。プロローグで「おヌシ、やるな」と思わせれば、わくわくしながら映画の世界に没入していけるし、どこかで見たような平凡なやつだと、やれやれとこれからの時間が思いやられる。
夜の都会を一望するビルの屋上。パーティーから抜け出てきたようなドレスの女が、気怠い背中を見せて煌めく街をながめている。高価なスーツに身を包んだ男が近寄ってきてタバコを差し出し、女を誘う。モノクロームの画面に、紅い唇と深紅のドレスだけが眼に染みるようなカラー。男と女がいい雰囲気になって、と思った瞬間、男は女に銃を発射する。カメラが上空に引くと、死体になった深紅のドレスの女と男が抱き合っている俯瞰ショット。さらにカメラが引いて都市の夜景に「シン・シティ」のタイトル。
それが、映画全体をどう予感させるのか。普通、プロローグは主人公のキャラクターを印象づけるエピソードだったり、これからのストーリー展開の導入部や伏線だったり、時にはラストシーンの先取りだったりする。でもこのプロローグの男と女は映画の主人公ではないし、これから展開する物語に深く絡んでくるわけでもない。いわば「罪の街」の片隅で起こった1エピソード。
だからここで提示されているのは映画の内容ではなくスタイルなのだ。そのプロローグが予感させるように、これはスタイルを楽しむ映画であり、意地悪く言えばスタイルだけの映画でもある。
そのスタイルはノワール、あるいはハードボイルド。セリフは男のモノローグで処理されているけれど、1人称主観の叙述がハードボイルドの基本であることは言うまでもない。そして犯罪が行われるビルの屋上という場所は、『ダーティーハリー』や『インファナル・アフェア』を引くまでもなく、この種の映画が大好きな設定。そこだけカラーで強調される唇と深紅のドレス(に包まれた死体)は、これまたノワールが偏愛するイメージに他ならない。
上空からの俯瞰ショットもいろんな映画でおなじみだ。例えばドン・シーゲル-クリント・イーストウッドの師弟なら『ダーティーハリー』も『ブラッドワーク』も上空から俯瞰する視線と、そこからの引きや寄せが印象的だった。2人の職人気質の監督は屋上に据えたカメラやヘリを使ったけれど、『シン・シティ』では俯瞰ショットから引いてタイトルまでがCGで処理されている。それは予算や技術の問題である以上に(ヘリからの映像は、安くて早くて効果的だからよく使うと、イーストウッドが語っている)、つくり手の好みの問題で、それが作品全体の肌ざわりの差にもなっている。
そんなプロローグが予感させるように、そして「スペシャル・ゲスト・ディレクター」として参加したタランティーノの映画がいつもそうであるように、過去の映画の引用を見る者に想像させながら、それらしい設定(例えば男とファム・ファタール)、それらしい映像(例えば全編に降りそそぐ雨)で、ノワールやハードボイルドのスタイルを楽しませてくれる。
『シン・シティ』の原作は共同監督のひとり、フランク・ミラーのコミックなのだが、作品を見て思ったのは、これはコミックを映画化したのではなく、フィルムを素材にしてコミックを描いたのだということ。
ミッキー・ロークが特殊メイク(設定とメイクはチャンドラー『さらば愛しき女よ』の「大鹿マロイ」を連想させる)でコミックそのままの横顔のラインを見せている。ギャングを叩きのめすと、リアルというより擬音のようなグチャっと大きな音が必ず入って、コミックの吹き出しみたいな役割を果たす。
コミックの1コマ1コマがそのまま映像化されていて、紙の上では静止している絵がフィルムの上で動いている。悪徳警官のベニチオ・デル・トロが、暴発した拳銃の銃身が顔にめりこむなぞという、コミックでしかリアルさを持たない役を怪演していることも、そんな印象を強めているかもしれない。
だからカットとカットのつなぎが映画的ではないように感じられる。ふつうカットとカットのつなぎは、登場人物の行動や会話に沿って物語や感情が流れていたり、大きな流れのなかで一瞬、異質のものを衝突させて見る者を揺さぶる効果を狙ったりする。でも『シン・シティ』のカットとカットのつなぎは、映画の持続する流れがなく、ぶつ切りにされていて、見る者にカットからカットへジャンプしている感じを起こさせる。そこが新鮮で面白い。
そんなふうにコミックの映画化ではなく、フィルムによるコミックと感じられるところが、この映画のオリジナリティだろう。
映画はブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライブ・オーウェンと、3人の主役たちのパートにおおよそ分かれている。中でミッキー・ロークとクライブ・オーウェンのパートが、僕にはフィルムで描いたコミックのように感じられた。
個人的な好みで言えば違和感はある。『マトリックス』が映画が始まってしばらくは面白かったのに、同じ手法の繰り返しに、ああこういう映画なんだなと途中から飽きてしまったのと同様、クライブ・オーウェンのパートの途中から、描写がどんどん激しくなっていくにもかかわらず、「フィルムによるコミック」にちょっと退屈を感じた。
それを救ってくれたのがブルース・ウィリス。コミックを感じさせる2人のパートを前と後ではさむウィリスのパートには、1950~70年代のモノクロームのノワール、ハードボイルドの香りが濃厚に漂っている。ウィリスのパートの後半には、ロバート・アルドリッチがミッキー・スピレーンの原作を映画化した『キッスで殺せ』の荒々しいタッチを思い出した。
そのタッチの差が、2人の共同監督、ロバート・ロドリゲスとフランク・ミラー、さらに特別参加したクエンティン・タランティーノという3人の個性の差によるものかどうか、それが意識的に目指されたものなのかはわからない。でも3人が、どのように役割分担をし、どんなふうに撮影を進めていったのかは興味あるところだ。

Comments
ご無沙汰しています。
TBありがとうございます。
確かにブルース・ウィリスのパートが設定を含め一番ハードボイルドの香りが
濃厚に漂っていましたね。
それにしてもミッキー・スピレーン原作のロバート・アルドリッチ作品をさらりと
持ってくるところが雄さんらしいというか、さすが!
と感服してしまいました。
Posted by: nikidasu | October 10, 2005 02:20 AM
>nikidasuさま
コメント&TBありがとうございます。
このところ忙しくて映画館に行けなかったのですが、nikidasuさんのブログを読んでたまらずに、仕事を放り出して見に行きました。感謝、です。
それにしてもパーツ・カラーとは見事なネーミングですね。
Posted by: 雄 | October 11, 2005 11:24 PM
TBとコメントありがとうございます。
恐らく私と雄さんの思いは、非常に近いものだったのではないかと思います。フィルムによるコミックとはまさに言い得て妙です。
実は現在発売されている日本語版コミック(ミッキー・ロークの章)を早々に入手し読んでみましたが、いやはや、本当にそのままなんです。雄さんが仰るとおり、効果音にいたるまで見事に。
映画ではなく、あくまでコミックたろうとする姿勢を反動的というなら、ロバート・ロドリゲスは本作において、完璧な反動性に徹したという意味で、確かに評価されるべきなのかもしれませんね。好き嫌いは別としても。
こちらからもTBさせていただきます。
Posted by: [M] | October 12, 2005 09:37 AM
こんにちわ。TBさせていただくのは久し振りですが、雄さんの映画評は毎回奥深く、楽しみに拝読させていただいてます。
相変わらず鋭い鑑賞眼に敬服しつつ、やはりそのように感じましたか・・・と、原作ファンながら苦笑いたしました。
自分の感想では『ピンポン』なぞを引き合いに出してしまいましたが、実は「実写フィルムによるアニメだな」と思った『CASHEERN』と肌触りが近い感じもします。(個人的には結構好きではあるんですけどね、このタイプは)
Posted by: shito | October 13, 2005 04:01 PM
>[M]さま
「完璧な反動性」と、[M]さんの評価の軸が一貫しているを拝見すると、私は軟弱だなあと思います。
>shitoさま
私はミラーの原作を読んだことがなく、ロドリゲスの映画もほとんど見てないので、ブログを拝見してなるほどなと納得でした。これからも訪問させていただきます。
Posted by: 雄 | October 14, 2005 12:56 AM