October 30, 2005
October 29, 2005
『世界』のインサート・ショット
ジャ・ジャンクー監督の『世界』を見ていて、印象に残る2つのインサート・ショットがあった。
ひとつは、彼方に高層ビルが立ち並ぶ北京の街を背景にパリのエッフェル塔が見えるロング・ショット。このありえない風景、 見方によってはグロテスクでもありキッチュでもある風景が、何度か挿入される。
主人公のチャオ・タオとチェン・タイシュンが働く「世界公園」は北京郊外にあり、エッフェル塔やマンハッタンの摩天楼やピラミッドといった世界の有名建築のミニチュアがあるテーマパークらしい。タオは「世界公園」の宝塚のような舞台で踊るダンサーで、タイシュンは公園の警備主任。2人の恋を中心に、彼らをとりまく若い男たち女たちが都会の日常を生きていくさまが映しだされる。
エッフェル塔のショットは、タオとタイシュンの気持ちが行き違ったり、故郷から出てきたタイシュンの親戚の警備員が盗みを働いて解雇されたり、「世界」のなかで起こる小さな出来事が彼らの感情を波立たせるごとにインサートされる。イミテーション建築と北京の街がひとつの画面に収められたキッチュに美しい風景が、タオやタイシュンのあてどなさや、かりそめの感情を引き受けているように見える。
もうひとつのショットは映画のほとんど最後に現れる。夜の北京の工場地帯。紫色の空にコンビナートが黒い影をつくっていて、高炉から吹き出る赤い焔が印象的だ。このショットの前のシーンで、喧嘩したタオとタイシュンは古びたアパートの一室で長い時間、無言で座っている。コンビナートのショットの後はもうラストシーン。ラストシーンで2人がどうなったのか、色んな解釈ができるけれど、このコンビナートのショットは、直前の2人の長い沈黙を引き受けているのだと感じられる。
2つのインサート・ショットから小津安二郎を思い出すのは、唐突な思いつきではない。なぜなら、この映画の1つのパートは「東京物語」とタイトルされ、小津にオマージュが捧げられているから。地方から北京に出てきた労働者が働いているビル建築現場のシーンで「東京物語」の音楽がそのまま流れ、熱海海岸の堤防に座った笠智衆・東山千栄子夫婦のシルエットそっくりの画面が現れる。「今年はまだ雪が降らないわね」と、小津みたいなセリフも出てくる。
でもそれ以上に、2つのインサート・ショットに僕は小津の影を感じた。言うまでもなく、小津のインサート・ショットのユニークさはよく知られている。円熟した「東京物語」では、千住のお化け煙突が映画の流れにすんなり溶け込んで挿入されていたけれど、戦前や戦後すぐの実験精神旺盛だった時代の小津の映画では、映画の流れを一瞬、止めるような、時には異様とも思えるインサート・ショットが強い印象を与えている。
斬新な角度で切り取られたビル、圧倒的な力感をもったガスタンクの全景、水平線が少し傾いだ都会の遠景。ストーリーとは関係のない、しかし当時の「新しさ」の象徴のような都市風景が不意に挿入されて、それらのショットにモダニスト小津の感覚の冴えを見ることができた。
小津がカメラ好きだったことを考えると、都市や産業建築物を撮ったこれらのスチール的映像に、昭和初期に紹介され、絵画的な写真が全盛だった当時の写真界にショックを与えたドイツの「新興写真」の影響を感ずるのだが……。それはともかく、『世界』の2つインサート・ショットに、僕は映画の流れを異化しようとする小津のインサート・ショットに似たものを感じた。
もっとも、小津からこの映画を語れるのはここまで。『世界』は、映画全体としては小津の端正なスタイルとはまったく逆の混沌とした世界をつくりあげている。きちんと見ているわけではないけれど、ここ何年かの中国映画は香港や台湾と違って古風なテイストの作品が多いような印象を受けていた。ジャ・ジャンクー監督の映画を見るのは初めてだけど、中国にもこんな同時代の空気を感じさせる映画が出てきたんだなあ。
タオの華やかな舞台と、喧噪にみちた舞台裏、そして私服に着替えたときの静けさ。そんな対比がテンポのよい語り口で語られる。絶えることなく流れるリン・チャン(ホウ・シャオシェン映画でおなじみ)のダンサブルな、でもどこか悲しげな電子音楽。デジタル撮影された画面の、どぎついほどの色彩と肌ざわり。主人公の内面のつぶやきは携帯のメールとアニメーションで示される。
ダンサーのタオはインドのサリーや和服やスチュワーデスの制服を身にまとって、イミテーションのエッフェル塔のような存在として登場する。彼女は「世界」の敷地にある寮に住んでいるから、「通勤」も園内のモノレールを使う。仕事も恋も同僚のダンサーとの友情や競争も、すべてが「世界」のなかで完結している。そんな設定が、タオにかりそめの生を生きているような印象を与える。
一方、タイシュンは警備員の制服を脱げば「世界」の外で別の現実を生きている。同郷の怪しげな先輩とつるんで遊び、年上の女に惚れ、建築現場で働く同郷の友人の事故に遭遇する(事故で死んだ友人の遺書は円谷幸吉の遺書のように悲しい)。結婚しようと迫るタオに、タイシュンは返事をしない。タオはタイシュンの遊びを心配し、年上の女に嫉妬し、タイシュンに代わって事故で死んだ友人の家族を迎えに行く。そんなふうにして、タオも少しずつ「世界」の外に出てゆく。
でもイミテーションの小世界の外へ出ていくことは、お伽噺のような世界から、斬れば血の出る現実の世界に出てゆくことでもある。ラストシーンにつながるタオとタイシュンの仲違いは、「世界」のなかでかりそめの生が完結できなくなった結果でもあるのだろう。
エッフェル塔のインサート・ショットがそんなかりそめの生に対応していたのだとすれば、黒い影を見せるコンビナートのインサート・ショットは、タオとタイシュンが「世界」を出てもうひとつの世界に生きはじめたことに対応していたとも見える。
October 26, 2005
October 25, 2005
常滑散歩
October 23, 2005
『ドア・イン・ザ・フロア』のJ・ブリッジス
『ドア・イン・ザ・フロア』を見ていて、興味は途中から映画そのものよりジェフ・ブリッジスとキム・ベイシンガーに移っていた。2人とも好きな俳優だということもあるけど、映画そのものが平板で、ハリウッド的なエンタテインメントとは別の映画を目指したのはわかるけれど、それが生きてこない。主演がこの2人でなかったら退屈していたろう。
ジョン・アーヴィング原作の映画は「ガープの世界」(ジョージ・ロイ・ヒル監督)にしても「ホテル・ニューハンプシャー」(トニー・リチャードソン監督)にしても、あるいは「サイダーハウス・ルール」(ラッセ・ハルストレム監督)にしても、それぞれにおもしろい映画だった。どうやらジョン・アーヴィング自身が自作の映画化に積極的にかかわり(「サイダーハウス」は脚本も書いている)、監督の人選も彼自身が決めているらしい。「ガープの世界」と職人肌のエンタテイナー、ジョージ・ロイ・ヒルの組み合わせなんてどうなるのかと思ったら、これが実によかった。
だから今回も、トッド・ウィリアムスという監督は知らないけれど(これが2作目。日本では初公開)、それなりに期待していた。奇をてらうようなショットがひとつもなく、丹念に人物とロングアイランドの風景を造型しようとする意思は伝わってくる。でも、それ以上ではない。
例えば家のなかに死者の写真が満ちていることの異様さや、ジェフ・ブリッジス演ずる作家が意図的にキム・ベイシンガー演ずる妻に少年を「あてがう」壊れた感覚、浮気相手のミミ・ロジャースにジェフ・ブリッジスが追いかけられるシーンなんかは、もう少し恐怖や狂気や滑稽さを「決めて」ほしかった。でないと、ラストシーンが生きてこないように思う。
ジェフ・ブリッジスは失敗した作家であり、成功した児童文学者でもある役どころ。髭面に二重顎、おまけに腹の出た中年男が、妻を愛しながら女に狂い、妻に少年を「あてがう」複雑な内面をもった役を、大げさな身振りも大声をあげるセリフもなしに演じている。キム・ベイシンガーも「LAコンフィデンシャル」以来の静謐な美しさが忘れられない。
ジェフ・ブリッジスという役者には、どの映画を見ても同世代としての共感を抱いてしまう。1949年生まれの56歳だから僕より2歳若いけど、第二次大戦後のベビーブーマー世代(日本では団塊世代)。
初めて見たのは、いうまでもなく「ラストショー」(1971)だった。美人のガールフレンドに振られる高校生役。バカにされてもにやついている頼りなさげな表情がよかった。そんな頼りなさげな男とか、お調子者といった役柄は若い頃のブリッジスについてまわり、「サンダーボルト」でも「天国の門」でも主役の引き立て役にすぎなかった。
80年代になって、ジェフ・ブリッジスは惚れ惚れするほどいい男になった。それを決定づけたのが「800万の死にざま」(1986)。ハードボイルドもの、アル中の私立探偵マット・スカダーを演じて、映画にもブリッジスにも泣けた。僕は原作のローレンス・ブロックが好きなので、以後、このシリーズを読むとブリッジスの顔が浮かんでくる。
もう1本、80年代の代表作が「恋のゆくえ ファビュラス・ベーカー・ボーイズ」(1989)。ジャズ・ピアニストのジェフ・ブリッジスと歌手のミシェル・ファイファーの、実らない恋の物語。日常のさりげない描写と、ブリッジスが弾くグランド・ピアノの上でファイファーが身をくねらせながら歌うセクシーな描写の対比が素敵だった。ブリッジスは自分でピアノを弾き(さすがに音は吹き替え)、ファイファーは自分で歌っていて(こちらはプロはだし)、アメリカの俳優のすごさも知った。僕はファイファーのファンでもあるから、この映画、5回くらい見ている。
80年代のブリッジスは、同世代としての共感もあるけど、むしろこうありたい願望みたいなもの。
90年代に入ると、やや性格俳優的な役柄が多くなる。「アメリカン・ハート」のアル中の父親。「ビック・リボウスキ」ではやたら太った元ヒッピー。50代になったブリッジスは、おかしみのある役を飄々と演じていて、ここでも、やっぱり同世代だなと思った。
ジェフ・ブリッジスはデ・ニーロのようなビッグ・ネームではないし、強い個性の持ち主でもない。賞とも無縁だ(アカデミー賞に4回ノミネートされたけど無冠)。でも20代からつきあい始め、50代になった今でも、他の人には感じない世代的共感をなぜか感じてしまう。彼の映画が来たら、また見に行ってしまうにちがいない。
October 21, 2005
『アワーミュージック』の官能
ジャン=リュック・ゴダールの映画を初めて見たのは中学3年のときだった。もちろん、ゴダールなんて誰かも知らない。色気づいた中学生が『ヨーロッパの夜』なんて妖しげなキャバレーのドキュメンタリーを見に行ったら、同時上映していたのが『女は女である』。東京近郊の町の3番館だから、こんな無茶苦茶な組み合わせもあった。何だか変な映画を見たな、という印象しか残っていない。
高校生になっていっぱしのアートシアター少年になり、ゴダールを見始めてから、ああ、あの変な映画がゴダールだったんだと知る。『女と男のいる歩道』『アルファビル』『気狂いピエロ』……ゴダール映画のヒロイン、アンナ・カリーナは、僕にとってジャンヌ・モローや若尾文子とともに「年上の女」のイメージを象徴する女優になった。何年か前に初めて公開された『はなればなれに』(1964)のアンナ・カリーナを見て、あのころの胸のときめきを思い出した。
……などと始めてしまったが、『アワーミュージック』のことを書くんだった。
僕は1980年代に復活して以降のゴダールをちゃんと追っかけてないし、いま見てもみずみずしい「アンナ・カリーナ時代」や、テーマも手法も過激化してエキサイティングだった「68年以降」のようにのめりこむこともなかった。だから82年の『パッション』以降のゴダールを多少は見ていても、どう語ったらいいのか見当がつかない。
昔、『ベトナムから遠く離れて』(1967)という映画があった。アラン・レネ、ウィリアム・クラインら6人がベトナム戦争をテーマに短篇を撮ったオムニバスで、ゴダールのは「カメラ・アイ」という20分弱の作品だった。ゴダールはこの短篇の直後に毛沢東主義宣言みたいな『中国女』を撮るから、ナマな政治的テーマを取り上げるきっかけになった作品(フィクションではないが)と言っていいのだろう。
この短篇でゴダールはカメラaをのぞくゴダール自身にカメラbを向け、据えっぱなしのカメラbに向けてカメラaをのぞきながら「自分のなかにベトナムをつくれ」と語りつづけた(と記憶する)。「ベトナムから遠く離れて」映画を撮る自分とは何か、ベトナムのために何ができるのか、という極めて60年代的な問いだったと思う。
『アワーミュージック』は、「カメラ・アイ」からぐるりと一巡りして同じ場所に戻ってきた映画のように思えた。その「場所」のことを、どのような言葉で表したらいいのかわからないが、とりあえず「フィルムによる思索」と言ってみよう。ここでフィルムというとき、映像ばかりでなく言葉(セリフやナレーション)や音楽も含んだ意味で使っている。
ふつう、僕たちはものを考えるとき言葉を使うけれど、『アワーミュージック』でゴダールは言葉を時に音(理解不能の外国語)として使いながら、映像と言葉と音楽を動員したフィルムによってものを考えようとしている。
ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボが舞台。ゴダール自身や作家、ジャーナリストらが実名(ゴダール…という役)で登場し、そこにフィクションである女子大生の物語が絡むという、フィクションともノンフィクションともつかない体裁を取りながら、戦争と死についての「フィルムによる思索」が展開されている。
「カメラ・アイ」から『アワーミュージック』へ、一巡りしてゴダールは同じ場所に戻ってきたと書いた。といっても、ゴダールは単純にトラックを一周したのではなく螺旋状に周回している。「カメラ・アイ」の「フィルムによる思索」の手法は、いかにも60年代的に直裁なものだったけれど、『アワーミュージック』のそれは、とても洗練された複雑なものに変わっている。そこに「68年以降」の40年近い歳月を見ることができると思った。
ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた「アンナ・カリーナ時代」のゴダールは、当時のいわば新感覚の映画のつくり手で、まだ僕たちが常識的に考える映画の範疇に収まっていたけれど、『中国女』以後のゴダールは、テーマばかりでなく手法もどんどん過激になっていった。
ストーリーは解体されて筋をきちんと追うことができない。誰もが納得できる映画の文法も無視されて、どうしてaのカットの次にbのカットがくるのか、よくわからない。いろんな記録映像が前後の脈絡なく挿入される。小説や哲学書の言葉が機関銃のようなナレーションで引用され、それがセリフに重なって字幕を追うこともできない(どの作品だったか、画面下と左右の3カ所で字幕をつけていた)。登場人物に思い入れもできないし、一貫した感情の流れもない。そして過激な政治的メッセージ。
60年代後半から70年にかけてのゴダールは、フリージャズと同じように、方法的懐疑をどこまでも突き詰めた結果、時代の袋小路に突っ込んでいったんだと今ならば思う。
80年代に復活したゴダールは、映画のコードを解体するために編み出したいろんな手法を、市場で公開される、ぎりぎり映画と言える境界領域で再構成しているように見える。それを解体の果てと見るか、新しい豊饒と見るかによって、80年代以後のゴダールへの好き嫌いが別れるんだろう。
僕がかつてのように熱狂することはないにしても、やはりゴダールの新作が来れば見にいってしまうのは、フィルムの官能性といったものをゴダールが獲得して(取り戻して?)いるように感ずるからだ。
『パッション』(1982)で泰西名画を下敷きにした深い色彩の画面は印象的だったし、『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)での、レマン湖だったか、秋に色づいた樹々と湖面の美しさ、あるいは『愛の世紀』(2001)のパリやブルターニュの風景のみずみずしさには息をのんだ。どの作品にもちりばめられている音楽(映画のために作曲された現代音楽やクラシック)が、そんな官能性をさらに高めてくれる。
もともとゴダールの映像は官能に満ちていて、初期の『軽蔑』や『気狂いピエロ』の、虚無に裏打ちされた地中海の乾いた風景にはひたすら酔わせられた。そういう陶酔感が、かつてのようでないにせよ、80年代以降のゴダールにもある。
『アワーミュージック』には、フィルムでものを考えるための手段として、ゴダールの40年に及ぶ解体と再構成の、あらゆる手法が投入されている。
この映画は3つの「王国」という、それぞれのパートに分かれている。最初の王国は「地獄」。フィクションとドキュメントとを問わず、過去のあらゆる戦争と虐殺の映像がモンタージュされる。『映画史』(1998)のエッセンスのようなパート。
第二の王国は「煉獄」。ゴダールやパレスチナの詩人、ヨーロッパの作家たちが「本の集会」という催しに招かれてサラエボを訪れる。彼らは「戦争と死」について対話を交わし、学生たちにレクチャーする。学生の1人にロシア出身のユダヤ系フランス人女子学生がいて、彼女は死の観念にとりつかれている。
廃墟になったビル、銃弾の跡がそのまま壁に残るサラエボの風景がなまなましい。リアルな街頭の音が拾われているかと思うと、印象的な音楽がかぶさる。セリフとナレーションにフランス語、ボスニア語、アラビア語、スペイン語が飛び交う。
ボスニア戦争を象徴するモスタルの破壊された橋の下に、突如、3人のアメリカ・インディアンが現れる。端を流れる川面にたわむれる光が美しい。ルイス・キャロルやランボー、レヴィナス、ハワード・ホークスの映画などなどからの引用。インサート・ショットの原色も鮮やかな花々。ゴダール邸の美しい庭。そのなかで繰り返される第二次大戦やパレスチナやボスニアをめぐる対話。解体と官能が映画の境界でせめぎ合っているようなパートだ。
第3の王国は「天国」。死んでしまった女子学生のイメージ。美しい林のなかを歩き、川辺でリンゴをかじる女子学生。最後のセリフはレイモンド・チャンドラー「さらば愛しき女よ」からの引用。「よく晴れた日だった。遠くまで見える。でも、オルガ(注・小説の主人公の名を女子学生の名に変えてある)のいるところまでは見えない」。このパートの映像は復活以後のゴダール的官能をたっぷりと発散させている。
見終わって残るのは、ゴダールの死者への痛切な思い。
October 18, 2005
『ベルベット・レイン』は映像派
10日ほど前にDVDで『インファナルアフェアⅡ』を見直したばかりだったので、最初の印象は、あれれ、なんだか同じメンバーが引っ越してきてるな。
アンディ・ラウはじめ、『Ⅱ』でラウとトニー・レオンの少年時代を演じたエディソン・チャンとショーン・ユー。おなじみサム親分のエリック・ツァンにキョン役のチャップマン・トウ。エリック・ツァンは『Ⅱ』と同じ黒社会のボス役で、しかもサム親分みたいに何か食べて口をもぐもぐさせながらしゃべってる。
でもこんな光景は、かつて東映ヤクザ映画や日活アクション映画を見てきた者には珍しくもなんともない。役者と役柄と設定を使い回していたプログラム・ピクチャーには当たり前のことで、なつかしさすら感じてしまった。
『ベルベット・レイン』(この邦題は???)はウォン・ジンポー監督のデビュー作になる。初監督作品でアンディ・ラウとジャッキー・チュン2人のスターと期待の新星2人を起用した映画をつくれるところに、一時不振を伝えられた香港映画がいま一度おもしろくなってきた状況を見ることができるかも。
ボス役でちょっと出てくるエリック・ツァンがプロデューサーを兼ねている。というより、プロデューサーのツァンがちょいと映画に顔を見せたと言うほうが正確だろう。ツァンは役者だけでなく監督もやり、プロデューサーとして積極的に若手を発掘しているらしいから、香港映画を支えるのキーパーソンのひとりと言えるのだろう。役者としていい味をもち、監督(未見)やプロデューサーとしても活躍するサム親分は頼りになるね。
映画は2つのストーリーが錯綜しながら進む。マフィアの大ボス、アンディ・ラウが引退を決心すると、またたく間に大ボス暗殺の噂が駆けめぐる。ラウの片腕(文字通り)ジャッキー・チュンが大ボスを無事に引退させたいと手荒なやり口でボス連中を粛正するが、ラウはチュンが暗殺の黒幕かもしれないと疑っている。一方、チンピラのエディソン・チャンは、ボス暗殺の鉄砲玉が募集されているのを聞き込み、兄貴分のショーン・ユーを売り込んで、2人で黒社会でのしあがろうとする。
ノワールによくある、2組の男たちの友情(と裏切り?)がテーマになっているのだけど、この映画はあるアイディアを軸に成り立っている。ネタバレは避けるが、そのアイディア自体、『インファナルアフェア』にヒントを得たと言えなくもない。その意味でも香港映画における『インファナルアフェア』3部作の大きさを実感する。
ただウォン・ジンポー監督の文体は、ストーリーと登場人物の感情を丹念に積み重ねるやり方ではなく、どちらかといえば映像派。たびたび登場するレストラン(これがアイディアの伏線)、チンピラ2人が拳銃を求めて訪れる倉庫、ラストシーンで激しく雨の降る路上。画面づくりは凝っている。映画全体として成功しているとは思えなかったけれど、その意味ではウォン・カーウァイの系統に連なるのかもしれない。
昔、プログラム・ピクチャーを毎週のように見ていたときの感じで言えば、当たりとは言えないけど、コツンと感ずるものがあってこの監督の次作が気になる。そんな映画だった。
October 17, 2005
『戦後日本のジャズ文化』―奇妙な読書体験
自分が身をもって体験した時代のことが、同時代に体験していない若い世代や外国人の手によって分析され論じられている本を読むのは、けっこう奇妙な読書経験なのだ。
例えば『<民主>と<愛国>』を書いた1962年生まれの小熊英二は、僕らの世代が熱中した丸山真男や吉本隆明といった1950年代、60年代の思想を、まるで昆虫採集好きの少年が蝶やクワガタを虫ピンで止めるような手つきで分析してみせた。
そのあまりの冷静さに腹立たしい思いをもちながら、渦中にいた僕たちには思いもよらない視点を提出されて、なるほど自分たちがやっていたことはこういうことだったのかと教えられもした(サイト「book navi」に書評を書いたことがあるので、興味のある方はどうぞ)。
マイク・モラスキーの『戦後日本のジャズ文化―映画・文学・アングラ』(青土社)も、似たような読書体験をさせてくれる。もっとも、こっちは外国人の著書なのに小熊よりも親身に時代に寄り添い、あの時代の熱い思いを追体験させながら視点をずらすことによって僕たちの体験に別の角度から光を当ててくれる。
著者は1956年セントルイス生まれで、十数年間、日本に滞在した現代日本文学の研究者。同時にジャズ・ピアニストとしてライブ活動も行っている。内容は、敗戦から1970年代にいたる「戦後」の時代に、ジャズがいかにこの国の文化に大きな影響を与えたかを、黒澤明や若松孝二、五木寛之や村上春樹なんかを取り上げながら論じたもの。
「日本語で書かれたジャズ関連の作品を見渡すと、ジャズがどれだけ日本の現代文学に浸透してきたか垣間見ることができよう。いや、1960年代以降に限って言えば、アメリカの文学界よりも日本の文学界にとってのほうが、ジャズの存在は大きいといえるかもしれない」
ここでは例えば五木寛之の『さらばモスクワ愚連隊』や『青年は荒野をめざす』といった「ジャズ小説」が戦争と占領体験の影のもとにある作品として読み解かれている。当時、僕らは五木の小説をそのような「戦後派」的感性から切れた新しい青春小説として読んでいたように思う。
著者は、『さらば…』や『青年…』の主人公がロシアやアメリカの青年とジャズ・ライブでバトルを繰り広げ、彼らを打ち負かすシーンを取り上げて、こう言っている。「この一連のジャズ小説で見られるのは、日本人の主人公の(元)占領者たちに対する一種の<逆転>および<復讐>のファンタジーといえるのではないか」。
「ジャズ小説を書いていた初期の五木寛之は、若者向けの<同時代の作家>というイメージが強かったにもかかわらず、その作品群には<過去の影>が微妙ながら色濃く反映されている。やはり、著者自身の敗戦後のソ・米による二重の被占領体験や、引揚者として(母を亡くして)『母国』に帰る、という複雑極まりない個人体験が、作品中に<記憶>として浮上することがある……この<過去の影>こそ、五木文学が読者に与える余韻の源泉ではないだろうか……この<過去の記憶>が<音>と化することもある――錆びたリヤカーのきしむような、永遠に響きつづけるブルースの音である」
そして著者は五木の「ジャズ小説」を評価して、五木はジャズの本質がライブ演奏による<生きた音楽>であること、即興の一回性にあることをわかっていると言う。それは他の作家たち、例えば中上健次や村上春樹がレコードを聴くことによる鑑賞音楽としてのジャズ(「消えていくはずの音を凍結し、永遠に反復して聴くこと」)に影響を受けたのとは違っていると述べている。
このあたり、「即興がジャズの生命であり、即興されない音楽はジャズではない」というミュージシャンでもある著者ならではの視点だろう。
これは「占領文学としてのジャズ小説」という章に書かれていることだけど、他にも「ジャズ喫茶解剖学―儀式とフェティッシュの特異空間」とか、若松孝二・足立正生映画のジャズを論じた「破壊から想像への模索」とか、音楽や小説だけでなく映画、現代詩、左翼の革命論、メディアなど文化全般にわたってジャズとの関係を論じている。
著者の目から見ると、戦後日本がジャズを受け入れた仕方には奇妙な歪みもあるけれど(それはジャズに限らず、欧米文化一般を受け入れる際の問題でもある)、滞日体験が長い著者は、一方でその歪みを愛してもいる。そんなアンビバレンツな感情がいちばん表れているのが、ジャズ喫茶を論じた章だろう。
ここでもまた、30年以上前にジャズ喫茶に入り浸った日々を思い出しつつ、ジャズ喫茶を<学校>と<寺>として捉えるモラスキーの視点に納得してしまった。
October 13, 2005
『亀も空を飛ぶ』の子どもの顔
劇映画はフィクションだけれども、ある時代、ある場所のドキュメントでもありうる。
全編セットで撮られた映画でない限り、ロケーションで撮影された風景や街や人は主題となるフィクションに奉仕しているとともに、時にはつくり手の意図をはみだして自らを主張し、それが逆に作品を豊かにもする(先日、テレビでサミュエル・フラー『東京暗黒街 竹の家』を見たけど、「フジヤマ・芸者」のハリウッド的誤解に埋もれて1950年代東京の「戦後」の空気が見事に捉えられていた)。
同じように、フィクションを演ずる役者も脚本や演出に従いながらも、まぎれもなくある時代、ある場所に存在する身体であることによって、フィルムに刻まれたその姿はドキュメントとしての性格を持つことになる。
そんなことを考えたのも、『亀も空を飛ぶ』で、五十数年生きてきたこの国で久しく出会ったことのない、いくつもの顔に出会ったからだ。
『亀も空を飛ぶ』はクルド映画と言えばいいだろうか。国籍でいえばイラン=イラク合作映画。監督はイランのクルド人、バフマン・ゴバディ。俳優はイラクのクルド人。ロケはトルコと国境を接するイラクのクルド人村で2003年、イラク戦争が「終結」した後に行われた。
イラクの少数民族クルド人はフセイン政権下で苛烈な弾圧を受けた。フセイン政権が毒ガス兵器で数千人のクルド人を虐殺したことは「クルドのヒロシマ・ナガサキ」と呼ばれ、大量破壊兵器保有を名目としたイラク戦争の伏線ともなった。
映画は、アメリカによるイラク侵攻が近づく国境の村が舞台となっている。フセイン政府軍の弾圧に追われて難民となり、村へ逃れてきた少年と少女が主人公。
少年は初歩的な英語を解し、パラボラ・アンテナ設置の技術やバザール商人との駆け引きの知恵もあることから子どもたちのリーダーになり、大人たちも一目置く存在となっている。少女には悲しい出来事によってできた赤ん坊があり、両腕のない兄とともに子どもの面倒を見ている。
他にも、リーダーの少年につき従う、地雷で片脚を失った少年、泣き虫の少年など、何人もの子どもたちが登場する。近づく戦争に不安と解放への期待を募らせながら、リーダーの少年を中心に、地雷を掘り起こし武器商人に売っては収入を得て暮らしゆく日々が描かれる。リーダーの少年は少女に淡い恋心を抱き親切にするのだが、心に傷を負った少女は彼を見向きもしない。
バフマン・ゴバディ監督はいつも、自分もその一員であるクルド民族にテーマを求め、俳優ではないふつうのクルド人を使い、クルドの地で撮影をするというセミ・ドキュメンタリー的な手法を取ってきた。これは彼が助監督としてついたことのあるアッバス・キアロスタミ監督のやり方でもある。
それが見事な果実となったのが『酔っぱらった馬の時間』で、両親を失ったクルド人兄妹が馬に密輸品を積み国境の山越えをして暮らす厳しい生活を、いっさい声を荒らげることなく描いてみせた映画だった。僕は最近10年で見た映画のベスト5を挙げろと言われれば、その1本にこれを入れる。イラン・イラク国境の雪に閉ざされたクルドの山村風景と、兄妹を演ずるクルドの少年少女の寡黙な姿が印象に残っている。
『亀も空を飛ぶ』でもその手法は一貫している。斜面に沿って並ぶ家々と難民テント。丘の上に林立するテレビアンテナ。樹木の少ない、ごつごつした岩山。茶色の水を湛えた深い沼。国境の向こうのトルコ軍の監視塔。時に幻想的ですらあるそんないくつもの風景が、見終わっていつまでも記憶に残る。
それ以上に印象深いのは少年少女たちだ。眼鏡をかけたリーダーの少年の自信に満ちた饒舌と、少女を見つめるときの照れ、そして地雷にやられて、この時だけは少年に戻って泣き叫ぶ顔。少女の地獄を見たような無表情や、ふっと見せる成熟した女のような色気。妹が産んだ子どもを世話する兄の悲しげな瞳。右往左往する村の大人たちを尻目に生き生きと働く少年たちの喜びにあふれた顔。
日本では絶えて見たことのない少年や少女たちの表情が、この映画にはあふれている。それは、喜怒哀楽の感情を何の衒いもなく顔や体の全体で表現しているという意味と、過酷な状況に置かれたために、ある瞬間には完全に「大人」の顔になるという、二重の意味において、この国では見ることのない子どもたちの表情だ。
ゴバディ監督の作品はいつも社会的なテーマを扱っているけれど、いわゆる「社会派」のリアリズム映画ではない。誰が悪いと訴えるのでもなく、こうすべきだと高みからものを言うのでもなく、ただ世界の片隅にこういう出来事が起こり、こういう人間がいるということを黙って提出している。しかも映画がテーマに収斂されるのではなく、そこを突き抜けた風景や人間たちがドキュメントされているからこそ、見る者の胸を衝くのだと思う。
October 11, 2005
October 09, 2005
『シン・シティ』のプロローグ
プロローグは映画全体を予感させる。プロローグで「おヌシ、やるな」と思わせれば、わくわくしながら映画の世界に没入していけるし、どこかで見たような平凡なやつだと、やれやれとこれからの時間が思いやられる。
夜の都会を一望するビルの屋上。パーティーから抜け出てきたようなドレスの女が、気怠い背中を見せて煌めく街をながめている。高価なスーツに身を包んだ男が近寄ってきてタバコを差し出し、女を誘う。モノクロームの画面に、紅い唇と深紅のドレスだけが眼に染みるようなカラー。男と女がいい雰囲気になって、と思った瞬間、男は女に銃を発射する。カメラが上空に引くと、死体になった深紅のドレスの女と男が抱き合っている俯瞰ショット。さらにカメラが引いて都市の夜景に「シン・シティ」のタイトル。
それが、映画全体をどう予感させるのか。普通、プロローグは主人公のキャラクターを印象づけるエピソードだったり、これからのストーリー展開の導入部や伏線だったり、時にはラストシーンの先取りだったりする。でもこのプロローグの男と女は映画の主人公ではないし、これから展開する物語に深く絡んでくるわけでもない。いわば「罪の街」の片隅で起こった1エピソード。
だからここで提示されているのは映画の内容ではなくスタイルなのだ。そのプロローグが予感させるように、これはスタイルを楽しむ映画であり、意地悪く言えばスタイルだけの映画でもある。
そのスタイルはノワール、あるいはハードボイルド。セリフは男のモノローグで処理されているけれど、1人称主観の叙述がハードボイルドの基本であることは言うまでもない。そして犯罪が行われるビルの屋上という場所は、『ダーティーハリー』や『インファナル・アフェア』を引くまでもなく、この種の映画が大好きな設定。そこだけカラーで強調される唇と深紅のドレス(に包まれた死体)は、これまたノワールが偏愛するイメージに他ならない。
上空からの俯瞰ショットもいろんな映画でおなじみだ。例えばドン・シーゲル-クリント・イーストウッドの師弟なら『ダーティーハリー』も『ブラッドワーク』も上空から俯瞰する視線と、そこからの引きや寄せが印象的だった。2人の職人気質の監督は屋上に据えたカメラやヘリを使ったけれど、『シン・シティ』では俯瞰ショットから引いてタイトルまでがCGで処理されている。それは予算や技術の問題である以上に(ヘリからの映像は、安くて早くて効果的だからよく使うと、イーストウッドが語っている)、つくり手の好みの問題で、それが作品全体の肌ざわりの差にもなっている。
そんなプロローグが予感させるように、そして「スペシャル・ゲスト・ディレクター」として参加したタランティーノの映画がいつもそうであるように、過去の映画の引用を見る者に想像させながら、それらしい設定(例えば男とファム・ファタール)、それらしい映像(例えば全編に降りそそぐ雨)で、ノワールやハードボイルドのスタイルを楽しませてくれる。
『シン・シティ』の原作は共同監督のひとり、フランク・ミラーのコミックなのだが、作品を見て思ったのは、これはコミックを映画化したのではなく、フィルムを素材にしてコミックを描いたのだということ。
ミッキー・ロークが特殊メイク(設定とメイクはチャンドラー『さらば愛しき女よ』の「大鹿マロイ」を連想させる)でコミックそのままの横顔のラインを見せている。ギャングを叩きのめすと、リアルというより擬音のようなグチャっと大きな音が必ず入って、コミックの吹き出しみたいな役割を果たす。
コミックの1コマ1コマがそのまま映像化されていて、紙の上では静止している絵がフィルムの上で動いている。悪徳警官のベニチオ・デル・トロが、暴発した拳銃の銃身が顔にめりこむなぞという、コミックでしかリアルさを持たない役を怪演していることも、そんな印象を強めているかもしれない。
だからカットとカットのつなぎが映画的ではないように感じられる。ふつうカットとカットのつなぎは、登場人物の行動や会話に沿って物語や感情が流れていたり、大きな流れのなかで一瞬、異質のものを衝突させて見る者を揺さぶる効果を狙ったりする。でも『シン・シティ』のカットとカットのつなぎは、映画の持続する流れがなく、ぶつ切りにされていて、見る者にカットからカットへジャンプしている感じを起こさせる。そこが新鮮で面白い。
そんなふうにコミックの映画化ではなく、フィルムによるコミックと感じられるところが、この映画のオリジナリティだろう。
映画はブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライブ・オーウェンと、3人の主役たちのパートにおおよそ分かれている。中でミッキー・ロークとクライブ・オーウェンのパートが、僕にはフィルムで描いたコミックのように感じられた。
個人的な好みで言えば違和感はある。『マトリックス』が映画が始まってしばらくは面白かったのに、同じ手法の繰り返しに、ああこういう映画なんだなと途中から飽きてしまったのと同様、クライブ・オーウェンのパートの途中から、描写がどんどん激しくなっていくにもかかわらず、「フィルムによるコミック」にちょっと退屈を感じた。
それを救ってくれたのがブルース・ウィリス。コミックを感じさせる2人のパートを前と後ではさむウィリスのパートには、1950~70年代のモノクロームのノワール、ハードボイルドの香りが濃厚に漂っている。ウィリスのパートの後半には、ロバート・アルドリッチがミッキー・スピレーンの原作を映画化した『キッスで殺せ』の荒々しいタッチを思い出した。
そのタッチの差が、2人の共同監督、ロバート・ロドリゲスとフランク・ミラー、さらに特別参加したクエンティン・タランティーノという3人の個性の差によるものかどうか、それが意識的に目指されたものなのかはわからない。でも3人が、どのように役割分担をし、どんなふうに撮影を進めていったのかは興味あるところだ。
October 07, 2005
October 02, 2005
港に佇む鶴見良行
鶴見良行が亡くなって9年。彼の仕事の全貌はようやく『鶴見良行著作集』(全12巻、みすず書房)として集大成された。
鶴見は自分を「学者ではない」と言っているけれど、彼がアジアを歩いて記録した「ナマコの眼」や「バナナと日本人」「マングローブの沼地で」など一連の著作は、現場の眼と文献探索と歴史観とを併せもった、並みの学者にはとても太刀打ちできない希有の仕事だった。今年の6月に出た鶴見良行対話集『歩きながら考える』(太田出版)は、著作集から12の対話を選んで編集したもの。
鶴見良行はこの本で、「歴史を縦ではなく横に読む」ことを語っている。歴史を横に読むとは、例えば東南アジアには山で焼き畑農業を営んで移動を繰り返している人々や、手漕ぎの船でささやかに家族が暮らせるだけの魚を捕っている漁民がたくさんいるけれど、彼らを歴史的に遅れた民(アジア的停滞)としてではなく、同時代に生きている者として、彼らを含んだ同時代史をどう考えてゆくか、ということだろう。
歴史を「縦に読む」と、どうしても中国とかヨーロッパとか強大な文明と権力を持った国々を軸にせざるをえない。近代であれば、ヨーロッパの国民国家の枠組みと、その植民地主義の展開という形で世界を考える。それらに対抗する思想もアンチ国民国家、アンチ国家権力といった形で、結果として軸そのものは疑われずに、もうひとつの権力をつくりあげた。鶴見はそうではなく、「縦」の軸そのものを、島々を歩きながら無化していこうとした。
「東南アジアでは、たとえばフィリピンでもインドネシアでも、民衆の一人一人は自分がフィリピン人であるとかインドネシア人であるということをあまり意識しないで、村という社会単位のなかで生きていればいいわけです。偉大な人間を生む社会は、ある意味で苦しみの中から生まれてくる。ネールや魯迅が出てくる社会というのは、民衆にとっては苦しみの社会、専制国家なんですね。どちらかと言えば、定着農耕の社会です」
「それに対して、偉大な人間を生まない社会は、村だけの村長さんがいやだったら隣の村にくっついちゃえばいい社会です。そこからは偉大な思想家というのは生まれなかったし、生まれなくてよかった。このような社会が非常に遅れていると考えられたら困るんです。……ぼくがひっくりかえしたいという感じをもっているのはそういうことなんです」
12の対話は1970年代から90年代にかけてのもので、それこそ「歴史の縦軸」にとらわれた対話者とのものもある。なかでは山口文憲との単行本1冊分の対話「越境する東南アジア」と、インドネシアのスラウェシ海域を帆船で航海した仲間での座談会「チャハヤ号航海記」が面白かった。
返還前の香港に住んだことのある山口文憲は、なぜ香港に住んだかを「田舎はうざったいからだ」と言っている。「地方の中都市に18歳までいて、もうコリゴリ」だし、「人間の自由というか、さしあたりぼく自身の自由は、都市的な中でしか保障されないだろう」と考えている。
「ですから、タイやフィリピンの農村崩壊というか、都市への人口流入にもきわめて『同情的』でして(笑)」と鶴見とは対極的な実感をベースにしながら、2人はアジアについて、香港について、日本について、モノと人に即して縦横に語って一気に読ませる(2人ともベ平連の組織者)。
「チャハヤ号航海記」は、当時、「エビと日本人」を調査していた村井吉敬、新妻昭夫、鶴見らのグループがスラウェシ島、アンボン島、アル諸島など、かつて香料をめぐって植民地戦争の舞台になった地域を航海しての座談会。島々でそれぞれに違う農業や漁業のあり方や、自給自足的経済を残しながらも貨幣経済が入ってきて世界市場に組み込まれつつある島の姿が語られている。
この本を読み終えて著者の姿をイメージすると、アジアの小さな島の港、水揚げされたわずかな小魚を商っているおばあさんの傍らで、乗り合いの船を待ちながら太陽を反射した波がたぷりたぷりと寄せているのをじっとながめている鶴見良行の像が思い浮かぶ。
鶴見良行の本には、そんな旅の記憶と記録がぎっしり詰まっている。「いまの日本の時流というものに対して全然アイデンティティーもってないし、日本にも違和感を感じてるし、インドネシア人、フィリピン人にもなりきれずに、南シナ海のどっかにポツネンと立っていると自覚があります」。
鶴見良行の仕事は、時を経るごとにますます輝きを増していると思う。
Recent Comments