「ふたりの5つの分かれ路」の隠れテーマ
フランソワ・オゾン監督の映画は、たいてい見る者に謎を投げかけたまま映画が終わってしまい、その解答あるいは解釈は観客に委ねられる。「まぼろし」も「スイミング・プール」もそうだった。「ふたりの5つの分かれ道」もまた、そんな謎を投げかける映画だ。
男(ステファン・フレイス)と女(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)が出会い、結婚し、別れるまでを、「離婚」から始まって時間の流れを逆にたどり、「特別なディナー」「出産」「結婚」、そして「出会い」という5つのパートに分けてつないでいく。
なぜ2人は離婚しなければならなかったのか? いつから2人はこんなに心が離れてしまったのか? 時間が逆になっているから、見ている時点ではその理由が分からず、次のパートへ行ってはじめて分かったり、時には説明されないまま終わってしまったりする。
そんなとき、見る側として取る姿勢は2つある。ひとつは、あくまで疑問に解答を求めようとする姿勢。どうなってるのか分からない、ちゃんと説明してよ、ってことですね。これが普通の見方かもしれない。
もうひとつは、謎や疑問に説明を求めたりせず、ひたすら画面から喚起される感情に忠実に従っていく見方。合理的な説明や解釈がつかなくても(作る側は、意図的にあいまいにすることだってあるし、つくり手自身にも説明がつかないことだってあるんだから)、画面から喚起される感情に身を委ねていれば、ストーリーを追うのとはまた別の映画の楽しみ方ができる。
「まぼろし」や「スイミング・プール」は、後者の姿勢で楽しむことができた映画だった。でも、「ふたりの5つの分かれ路」はそうではなかった。5つのパートを通して男と女の間の不安、嫉妬、無関心、怒り、そんな感情が生まれ、徐々に大きくなって2人の溝が広がっていく過程が描かれているけれど、見ていてどうにも割り切れなさが残った。
なぜだろう。ひとつには、画面から喚起されるものがあまりに少なかったのだと思う。「まぼろし」はフランス南西部のランド地方の海岸が、「スイミング・プール」はプロヴァンスが舞台になって、その風景や街や空気が、時には物語以上に色んなことを語りかけてくれた。でもこの映画は、パリとイタリアが舞台になっているのだけど、そして撮影は「スイミング・プール」と同じくヨリック・ルソーなのだけど、画面がちっとも魅力的じゃない。つくり手が意図した情報と意味が過不足なく伝わるだけで、画面がそれ以上のことを語りかけてこない。
もうひとつ、音楽の問題もあるかもしれない。5つのパートそれぞれに「頬にかかる涙」や「君に恋して」や「煙が目にしみる(プラターズではなく、イタリア・バージョン?)」といった、イタリアン・ポップスがはさまれている。それがあまりに甘すぎて、メロドラマの雰囲気をただよわせているから、メロドラマならメロドラマらしく、ちゃんと因果関係をはっきりさせろよ、って気分になってしまう。
そして、なにより、傷つきやすそうな男が、ただただ身勝手なだけに思えてきて腹が立つ。そこで、腹立ちまぎれに監督が説明しなかった謎はなんなのか、この映画の隠れテーマを考えてみた。
僕の怪しげな解答を先に言えば、男は潜在的なホモセクシュアルで、自分でそれを認めたくないために意識下に押し込めている。その抑圧が女との関係に反映して、どの女とも心も肉体も通わせることができない、というものだ。
5つのパートで、それぞれに性が描かれる。「離婚」では、離婚届を出した直後に2人はホテルへ行き、レイプまがいの関係を持つ。「特別なディナー」は、男の兄(ホモセクシュアル)とその若い恋人を招いてのホーム・パーティーなのだが、兄のカップルが帰った後、男は妻の誘いに応じようとせず、子どもが眠るベッドで泣いている。
「出産」では、妻が産気づいたのを夫に連絡したのに、夫は産院にかけつけることを遅らせ、産院に行っても赤ん坊の姿をちらりと見るだけで、妻に会わずに帰ってしまう。「結婚」では、結婚パーティーで酔った男はベッドで寝入ってしまい、新婦である女はホテルの庭で行きずりの男と関係を持つ。「出会い」では、前の恋人とバカンスを楽しんでいた男が主人公の女と出会うのだが、ベッドで前の恋人に「今夜はあの女と寝たい」と宣言して前の恋人を抱く。
前の恋人を「別の女として」抱き、新婚の妻を放って寝入り、妻が女として赤ん坊を出産することを受け入れられず、ホモの兄に動揺し、離婚した元妻とレイプまがいに関係する。どのシークエンスでも、男は女たち(前の恋人、妻、セリフで示される別居後の新しい恋人)と心と体を通わせることができない。
そして「特別なディナー」でホモセクシュアルの兄への微妙な感情が描かれるだけでなく、男が自分の浮気を暴露する会話、ホモセクシュアルを連想させる芸人と一緒に尻を振るシーン、そしてセックス・シーンでも、男がホモセクシュアルであることを暗示する仕草やセリフがある。
なぜ2人は離婚したのか? もっと単純で短絡的な解釈もできる。生まれたのは結婚式当日に妻が行きずりの男と関係してできた子で、なんらかの理由で男がそれを知った、という解釈。でも、それじゃあ身も蓋もないし、コメディーになっちゃうよね。やはり男は潜在的なホモセクシュアルで、それを意識下に抑圧しているために、男は自分でも解決のつかない不安や猜疑にさいなまれているという解釈のほうが魅力的だと思うが、どうだろう。
そんなデタラメを考えてしまったのも、ひとことで言えば退屈だったのだ、この映画は。フランソワ・オゾンを買いかぶってたかも。
Comments
こんにちは。ふたりの~を見て、同じような感想を持ったので、TBさせていただきました。夫がホモっ気?それは、ちゃんと意識しなかったけど、そうかも!という感じもします。そう考えるといろいろと合点がいくというか。いろんな人のブログを見ていて「自分の考えすぎかな?」と思ってたんですけど、そうでもないとわかって良かったです。
Posted by: グルメリア | September 24, 2005 09:49 AM
>グルメリアさま
自分でもやや強引だなと思いつつ、でも見ていて、そんな気配を感じたので、思い切り拡大解釈してしまいました。
Posted by: 雄 | September 27, 2005 12:55 AM
とても興味深い解釈だったのでTBさせていただきました。
ジルの兄のホモという設定にどういう意味を持たせたいのか。ただ別の愛の形を身近に出して、この夫婦の愛はどうなんだと言いたいのかとも思ってました。
オゾン監督の作品は3つしか観ていませんが、ついつい深く考えてしまってアリ地獄にはまるような感じです。
いろんなブログを読ませてもらって、いろんな解釈に触れるのもまた観終わった楽しみかなと思います。
Posted by: Mam | October 13, 2005 04:37 PM
>Mamさま
確かにオゾン監督は意識的に描写をあいまいにして、さあ君はどう思う? と謎をかけるところがあるので、「アリ地獄」になりますよね。それも映画の楽しみでしょうか。
Posted by: 雄 | October 14, 2005 01:08 AM
こんばんは。
ちょこっと肌に合わなかったので、皆さんのレビューを見て回ってたのですが、なかなか斬新で面白かったです。なるほど、こういう解釈もあるのかーと感心した後に、最後の2行で爆笑させていただきました。
結局、その2行に同感でしたけど(苦笑)。
お邪魔しました。
Posted by: sachi | December 11, 2005 01:07 AM
たしかにフランス映画は日常の些事みたいな小さな話が多いですから、コケたら目も当てられませんよね。
sachiさんのところも楽しく拝見させてもらってます。
Posted by: 雄 | December 12, 2005 03:25 PM