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September 28, 2005

新宿で写真展2つ

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荒木経惟「飛雲閣ものがたり」(エプサイト)

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迫川尚子「ダンボール村 96.1.24-98.2.14」(BERG)

新宿で写真展を2つ回った。

西口・三井ビルのエプサイトでは荒木経惟「飛雲閣ものがたり」(~11月3日)。

飛雲閣は京都の西本願寺境内にある楼閣。普段は一般公開されていないので、僕も塀越にながめたことしかない。金閣・銀閣と並ぶ京の三名閣のひとつで、聚楽第から移築されたと伝えられる。秀吉の聚楽第といえば金ぴか趣味という先入観があるけれど、もし本当とすれば、三層で左右非対称の木造建築は洗練された品の良さを感じさせて、聚楽第に対する興味がつのる。アラーキーの写真は、この建築をモノとしてではなく風景として撮影している。

エプサイトはエプソンがやっているギャラリーで、プリントはいつもデジタル出力(撮影はフィルム・カメラのことも多い)。このプリントを見ていると、すでに銀塩のプリントを超えているな、と思う。

迫川尚子「ダンボール村 96.1.24-98.2.14」(~9月30日)をやっているBERGは、東口駅ビルの地下、改札を出てすぐのところにあるカフェ。食材の質と味にこだわりの店で、僕はここでいつもコーヒーやギネスを飲み、小腹がすいているときはランチを取る。狭い店内の壁を使って、時々、写真展が開かれている。

迫川はこの店の副店長で、新宿のストリート・スナップを集めた写真集も出している写真家。今回のは、かつて西口地下にあった「ダンボール村」を記録したものだ。迫川は2年間、毎日、この「村」に通ってホームレスたちとつきあった。彼らの肖像や、ダンボール・ハウスに描かれた絵を撮影したプリントが壁いっぱいに貼られている。

彼女は「これは自分に向けて言うのですが、ホームレスが現実の問題である限り、ダンボール村を個人の感傷的な思い出にしたくはありません」と書いている。

迫川の文章は店が発行している「BERG通信」に載っているのだけど、この充実したミニコミ紙を読むのも、店へ行く楽しみのひとつ。

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September 26, 2005

台風が逸れて

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台風が近づいているというので傘を持って出たら、夕方には青空がのぞいていた。

今年はじめて見る、秋の深く澄んだ青空。いつもは趣味が悪いと思いながら見上げる都庁も、逆光のシルエットで見ると、空と雲の引き立て役になっていた。

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September 24, 2005

モンク&コルトレーン 1957 凄い!

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「伝説」を聴いた!
想像以上の凄さだった!

1957年、セロニアス・モンクがジョン・コルトレーンを加えたカルテットで、ニューヨークのファイブ・スポットに出演したときの演奏はさまざまに語られ、「伝説」となっている。

「伝説」となったのは、このときのライブが録音されなかったこともあるが、ライセンスを取り上げられてNYで演奏できなかったモンクが久しぶりに現場復帰し、麻薬でマイルス・デイビスのバンドを馘になった新鋭コルトレーンがモンクに鍛えられることによって日毎に変化し、そのプレイが後の「コルトレーン神話」の出発点になったと言われているからだ。

『ライブ・アット・カーネギー・ホール1957/セロニアス・モンク&ジョン・コルトレーン』(BLUE NOTE)は、モンク・カルテットがファイブ・スポットに出ていたまさにその時期に、カーネギー・ホールのコンサートに出演した際のライブ。今年の4月、ワシントンの国会図書館で48年ぶりに録音テープが発見された。ニューヨーク・タイムスに載ったテープ発見の記事は日本でもすぐ紹介されたから、いつ聴けるのかとわくわくしていたファンも多かったろう。僕もその1人。

十何年か前にも、ファイブ・スポットのライブが残っていたと、鳴り物入りでアルバムが発売されたことがあった。個人がテープレコーダーに録音したものだったから、「研究」ならともかく音楽としては聴くに耐えない音質で、噂に聞く演奏の凄さはまったく伝わってこない。僕も1、2度聴いただけでしまい込んでしまった。

今回の盤は、はじめから興奮させられる。オープニングの拍手がなりやむ間もなく、モンクが「モンクス・ムード」のメロディを弾き始める。驚きに満ちた音遣いのモンクがひとりで1コーラス弾いたあと、コルトレーンが低く、静かに入ってくる。今度はコルトレーンが瞑想するようにメロディを吹きはじめ、モンクがバックに回る。バッキングというにはあまりにすごすぎる刺激的なピアノ。ベースとドラムスはごく控え目にしか入ってこないから、2人の絡みあうようなデュオが延々とつづく。

曲が終わると聴衆の拍手を無視して、モンクはすぐに次の「エヴィデンス」に入る。イントロの後、コルトレーンがメロディを吹きはじめ、そのままソロに入って、ぐいぐい熱くなる。「シーツ・オブ・サウンド」と呼ばれるコルトレーン独特の16分音符が敷き詰められた激しいプレイの連続。すごい!

このコンサートは11月29日。その2カ月前にコルトレーンは初期の名盤『ブルー・トレイン』を録音している。『ブルー』は50年代のハードバップ・スタイルだったけど、この夜の演奏はもう50年代ではなく、明らかに60年代の疾風怒濤のコルトレーンを予感させる。

それ以上に興味深いのがモンク。モンクのアルバムで主だったものは持ってるつもりだけど、曲や音遣いのユニークさと対照的に、モンク自身のプレイはいつでも淡々としていて、そのなかに独特のユーモアと明るさを湛えているのが印象的だった。

それがこのライブ盤では、コルトレーンに刺激されてだろう、モンクが熱くなっている! こんなにアグレッシブな音を出し、時にはコルトレーンとバトルを繰り広げるモンクを初めて聴いた。弾きながら出すうなり声(キース・ジャレットより凄みのある)もちゃんと録音されていて、泣かせるね。

1曲が終わると間髪を入れずモンクは次の曲に入り、息もつかせぬモンクの名曲のオン・パレード。「ナッティ」のテンションの高さ、「スウィート&ラブリー」でのモンクらしいバラードのソロと、ダブル・タイムで急速調になるコルトレーンのソロ、「ブルー・モンク」でのコルトレーンの火の出るようなソロに、興奮しまくり。

録音がまた臨場感あふれていい。ボイス・オブ・アメリカが放送用に録音したらしいけど、スタジオでないにもかかわらず音がクリアで、会場にいるようなリアルさがある。目をつぶって聴いていると、1957年のニューヨーク、伝説のモンク・カルテット演奏の現場にタイム・トリップしたような幸せな気分を味わえる。

「歴史的名盤」という言い方があるけど、これは間違いなく歴史に残るアルバムだ。モンク・ファン、コルトレーン・ファンは必聴です。


 

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September 23, 2005

新規開店と老舗

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(銀座3丁目)
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(銀座6丁目)

やっと涼しくなったので、夏の間はサボっていた東京駅から仕事場までのぶらぶら歩きを再開。2カ月ほどの間に、新しい空き地と新しい店が出現している。昔の銀座は変化の少ない街だったけど、今は、めまぐるしく店が代がわりして、さて、以前はここは何だったろうと考え込んでしまう。

ときどき寄る蕎麦屋の向かいに、小さなショット・バーが開店していた。今度、寄ってみよう。

一方で、老舗も健在。ここのウインドー・ディスプレイは、別になんてことないのだが、いつも品がいい。

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September 18, 2005

秩父宮の「蛍」

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シーズンはじめの秩父宮ラグビー場は芝がきれいだ。去年は10月だったか、大雨のなかのゲームがあって芝がずたずたにされてしまい、年明けのビッグゲームの季節には無惨な姿を晒していた。今年は正月にもこんな緑の芝の上でゲームが見たい。

秩父宮はバックスタンドに限ると思っている。この季節、真夏のような暑ささえ我慢すれば、逆光に無数のアキアカネの羽がきらめいて、真昼の蛍のように見える。楕円形のボールが、「蛍」の乱舞する光を切り裂く。その美しさは喩えようがない(写真に写らないのが残念)。

早稲田大学対ケンブリッジ大学戦。


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September 14, 2005

ブラッサイの「夜のパリ」

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『夜のパリ』(みすず書房)

フランスの写真家ブラッサイの、国内で初めての回顧展が開かれている(「ブラッサイ ポンピドゥーセンター・コレクション展」東京都写真美術館、9月25日まで)。

ブラッサイといえば、何よりまず1930年代の<パリ写真>が思い浮かぶ。『夜のパリ』(1932)と『未知のパリ、深夜のパリ』(1976)は、2つの世界大戦間のパリの、夜の都市の美しさと退廃と犯罪といった濃密で危険な魅力を余すところなく描きだした写真集だった。日本語版(みすず書房、『夜のパリ』は1987年の再版)も、フランス語版と同時に現地で印刷された素晴らしい仕上がりで、この20年、何度本棚から取り出しては繰り返し眺めたことか。

そのオリジナル・プリント、ヴィンテージ・プリントが見られるというだけで興奮する。「カフェの恋人たち」「霧の中のポン=ヌフ」「<スージーの館>にて」「宝石の女」といった代表作がずらりと並んでいる。もっとも、そのプリントは割合にコントラストが低く、写真集のようには暗部の黒が潰れていなくて逆に中間の階調が豊かに描写されている(戦後、MoMAのために焼いたプリント群だけは写真集と同じようにコントラストが強い)。写真集の黒っぽい印刷を見慣れた目には、ちょっと意外な感じがした。

ブラッサイはプリントの淡いコントラストと写真集の強いコントラストの、どちらを好んだのか。それは分からない。ただ、作家が自らつくったプリントのほうが、大量印刷された印刷物より作家の意思に忠実だし価値があるはずだという、ベンヤミンの複製芸術論を逆さにした常識論はひとまず疑ってもいいかもしれない。特に『夜のパリ』はエリオグラヴェールという写真版画の手法で手工芸的に印刷されている。ブラッサイが、当時のプリントでは出せない深々とした黒の描写を、印刷でもって再現しようとした可能性はないだろうか。

そんなことを考えたのも、先日、ある写真家から、かつてプリントでは出ない調子を印刷で再現しようとしたことがある、という話を聞いたから。……などともっともらしいことを書いたけど、これは写真集の調子に長年親しんできた僕の「ひが目」かもしれない。あるいは、MoMAのプリントからも伺えるように、戦前と戦後という時代によって異なる好みの差なのかもしれない。

この写真展の見どころは、実は「夜のパリ」シリーズ以外のところにある。今まできちんとした形で見る機会が少なかった「昼のパリ」「落書き」「ヌード」のシリーズ、さらには写真以外の彫塑や素描が展示されている。特に「落書き」シリーズは、パリの壁に彫り込まれた落書きが示す時間の厚みと無名の人々の想像力が、ブラッサイの深みのあるプリントに定着されていて圧巻。

家へ帰って、さっそくブラッサイの2冊の写真集を取り出し、久しぶりにじっくりと眺めた。

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September 11, 2005

「ふたりの5つの分かれ路」の隠れテーマ

フランソワ・オゾン監督の映画は、たいてい見る者に謎を投げかけたまま映画が終わってしまい、その解答あるいは解釈は観客に委ねられる。「まぼろし」も「スイミング・プール」もそうだった。「ふたりの5つの分かれ道」もまた、そんな謎を投げかける映画だ。

男(ステファン・フレイス)と女(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)が出会い、結婚し、別れるまでを、「離婚」から始まって時間の流れを逆にたどり、「特別なディナー」「出産」「結婚」、そして「出会い」という5つのパートに分けてつないでいく。

なぜ2人は離婚しなければならなかったのか? いつから2人はこんなに心が離れてしまったのか? 時間が逆になっているから、見ている時点ではその理由が分からず、次のパートへ行ってはじめて分かったり、時には説明されないまま終わってしまったりする。

そんなとき、見る側として取る姿勢は2つある。ひとつは、あくまで疑問に解答を求めようとする姿勢。どうなってるのか分からない、ちゃんと説明してよ、ってことですね。これが普通の見方かもしれない。

もうひとつは、謎や疑問に説明を求めたりせず、ひたすら画面から喚起される感情に忠実に従っていく見方。合理的な説明や解釈がつかなくても(作る側は、意図的にあいまいにすることだってあるし、つくり手自身にも説明がつかないことだってあるんだから)、画面から喚起される感情に身を委ねていれば、ストーリーを追うのとはまた別の映画の楽しみ方ができる。

「まぼろし」や「スイミング・プール」は、後者の姿勢で楽しむことができた映画だった。でも、「ふたりの5つの分かれ路」はそうではなかった。5つのパートを通して男と女の間の不安、嫉妬、無関心、怒り、そんな感情が生まれ、徐々に大きくなって2人の溝が広がっていく過程が描かれているけれど、見ていてどうにも割り切れなさが残った。

なぜだろう。ひとつには、画面から喚起されるものがあまりに少なかったのだと思う。「まぼろし」はフランス南西部のランド地方の海岸が、「スイミング・プール」はプロヴァンスが舞台になって、その風景や街や空気が、時には物語以上に色んなことを語りかけてくれた。でもこの映画は、パリとイタリアが舞台になっているのだけど、そして撮影は「スイミング・プール」と同じくヨリック・ルソーなのだけど、画面がちっとも魅力的じゃない。つくり手が意図した情報と意味が過不足なく伝わるだけで、画面がそれ以上のことを語りかけてこない。

もうひとつ、音楽の問題もあるかもしれない。5つのパートそれぞれに「頬にかかる涙」や「君に恋して」や「煙が目にしみる(プラターズではなく、イタリア・バージョン?)」といった、イタリアン・ポップスがはさまれている。それがあまりに甘すぎて、メロドラマの雰囲気をただよわせているから、メロドラマならメロドラマらしく、ちゃんと因果関係をはっきりさせろよ、って気分になってしまう。

そして、なにより、傷つきやすそうな男が、ただただ身勝手なだけに思えてきて腹が立つ。そこで、腹立ちまぎれに監督が説明しなかった謎はなんなのか、この映画の隠れテーマを考えてみた。

僕の怪しげな解答を先に言えば、男は潜在的なホモセクシュアルで、自分でそれを認めたくないために意識下に押し込めている。その抑圧が女との関係に反映して、どの女とも心も肉体も通わせることができない、というものだ。

5つのパートで、それぞれに性が描かれる。「離婚」では、離婚届を出した直後に2人はホテルへ行き、レイプまがいの関係を持つ。「特別なディナー」は、男の兄(ホモセクシュアル)とその若い恋人を招いてのホーム・パーティーなのだが、兄のカップルが帰った後、男は妻の誘いに応じようとせず、子どもが眠るベッドで泣いている。

「出産」では、妻が産気づいたのを夫に連絡したのに、夫は産院にかけつけることを遅らせ、産院に行っても赤ん坊の姿をちらりと見るだけで、妻に会わずに帰ってしまう。「結婚」では、結婚パーティーで酔った男はベッドで寝入ってしまい、新婦である女はホテルの庭で行きずりの男と関係を持つ。「出会い」では、前の恋人とバカンスを楽しんでいた男が主人公の女と出会うのだが、ベッドで前の恋人に「今夜はあの女と寝たい」と宣言して前の恋人を抱く。

前の恋人を「別の女として」抱き、新婚の妻を放って寝入り、妻が女として赤ん坊を出産することを受け入れられず、ホモの兄に動揺し、離婚した元妻とレイプまがいに関係する。どのシークエンスでも、男は女たち(前の恋人、妻、セリフで示される別居後の新しい恋人)と心と体を通わせることができない。

そして「特別なディナー」でホモセクシュアルの兄への微妙な感情が描かれるだけでなく、男が自分の浮気を暴露する会話、ホモセクシュアルを連想させる芸人と一緒に尻を振るシーン、そしてセックス・シーンでも、男がホモセクシュアルであることを暗示する仕草やセリフがある。

なぜ2人は離婚したのか? もっと単純で短絡的な解釈もできる。生まれたのは結婚式当日に妻が行きずりの男と関係してできた子で、なんらかの理由で男がそれを知った、という解釈。でも、それじゃあ身も蓋もないし、コメディーになっちゃうよね。やはり男は潜在的なホモセクシュアルで、それを意識下に抑圧しているために、男は自分でも解決のつかない不安や猜疑にさいなまれているという解釈のほうが魅力的だと思うが、どうだろう。

そんなデタラメを考えてしまったのも、ひとことで言えば退屈だったのだ、この映画は。フランソワ・オゾンを買いかぶってたかも。

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September 08, 2005

「開発」が貧困をつくりだす

ジェレミー・シーブルック『世界の貧困 1日1ドルで暮らす人びと』(青土社)には、世界の富と貧困の対比が色んな数字や具体例で示されている。頭では分かっていても、こんなふうに突きつけられると、改めてその偏りのすさまじさを実感する。

●ビル・ゲイツ、ブルネイ国王、ウォルトン家(ウォルマート)の3家族の財産を合わせると1350億ドルになる。これは、世界の最貧国で生活する6億人の年収の合計に等しい。
●世界で最も裕福な200人の資産は、世界人口の総年収の41パーセント以上にのぼる。
●世界人口の最富裕層20パーセントは、最貧層20パーセントの150倍の富を得ている。
●世界で12億の人々が、1日1ドル未満で生活している。世界の人口の半分が1日2ドル未満で生活している。

最近は日本でもEU諸国以上に貧富の差が激しくなっているけど(8日の朝日新聞朝刊にデータが出てた)、平均的な日本人なら「世界人口の最富裕層20パーセント」に入っているはず。世界レベルで考えれば、まだまだ日本人は豊かなのだ。

過去50年に世界経済の規模は拡大し、1人当たりの所得は2.5倍に、商品生産量は8倍に増えたのに、貧困はなくなっていない。なぜか、とシーブルックは問う。著者はアジアを中心に発展途上国を歩いているイギリスのジャーナリスト・作家。彼が出会った人々の姿と数字と彼の考え方とが、ほどよくミックスされて読みやすい。

国連やIMF(国際通貨基金)やWTO(世界貿易機関)が貧困をなくすための計画を進めているが、その処方箋は共通している。「開発」=「経済成長」ということだ。それこそが問題なのだ、というのが著者の答え。

「開発」は、人々を世界市場に統合する。人々が「開発」に参加する、あるいは「開発」に追い立てられて農村から都市へと移動せざるをえなくなる。それまで地縁・血縁ネットワークのなかで市場に全面的には依存せず自給自足的な生活を送っていた人々のライフ・スタイルが、それによって生活必需品のすべてを金で買わざるをえないように変わってくる。

グローバル規模で進められている民営化は、いまや生活必需品にまで及んでいる。「世界銀行とIMFの支援を受けて、一握りの多国籍企業が、世界の給水と排水システムをカルテル化しようとしている。すでにフランスのヴィヴェンディ社とスエズ社は150カ国で2億人以上の人々に私営の水サービスを行っている」。うーん、郵政の次は水道民営化かもしれないぞ。

だから「開発」が貧困をつくりだしているのだ、と著者は言う。それは「参加型開発」であろうと「持続可能な開発」であろうと変わらない。もともと「開発」という考え方自体が、第二次大戦後、社会主義圏に対抗して「豊かさ」をアピールするために考え出されたイデオロギーなのだ。

欧米諸国や日本など「北」の国々が「開発」=「経済成長」に成功したのは、富を絞りだす植民地を持っていたから。でも、植民地を持たない「南」の諸国が「開発」を推進しようとすれば、自国の国民や環境にすさまじい圧力をかけなければならない。

著者が強調しているのは、豊かさは収入によってではなく「安心」と「満足」の度合いによって計られるのがよい、ということ。国連開発計画の調査では、世界の国々で「自分は幸せに暮らしている」と答えた人が最も多かったのは「後発発展途上国」バングラデシュだそうだ。

さて、「世界の最富裕層」に属する僕たちは「幸せに暮らしている」のか。世界から貧困をなくすために何をしたらいいのか。すでに骨の髄まで世界市場に組み込まれている僕らは、そこから身をはがすことができるのか。

色んなことを考えさせられる本だった。翻訳が、いまひとつこなれていないのが残念。


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September 05, 2005

本牧でCKBを聴く

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「クレイジー・ケン・バンド・ショー ソウル・パンチ2005」に行ってきました(9月3日、横浜・本牧市民公園)。

会場でリストバンドと一緒に渡された「お楽しみ上の御注意」には、こんなことが書いてありましたね。「喧嘩は禁止。どうしても喧嘩をする場合には表に出て」「他のお客さんにガンを飛ばしてはいけません」「会場内での性行為は禁止」「CKBのSEXYなステージングに興奮しても全裸は禁止」だって。CKBは横浜市の「G30(ゴミ・ゼロ)」のテーマソングも歌ってるから、もちろん「G30にご協力を」、とも。

開場は午後3時。暑いから、どうしてもビールが必要になる。前座が始まったのが5時。たっぷり待たせて横山剣がナナハンに乗って登場したのが、6時すぎ。そこから2時間半、CKBサウンドの嵐また嵐。

なにせ会場が本牧だから、本牧の歌が目立つ。

♪本牧沖の上空 点滅する赤いランプ 棕櫚の葉影 横切るNight Flight あっちこっちに散らばった 夜光虫の夢の跡 爛れてる(「Midnight Cruiser」)

♪日曜日の夜は空っぽの街角 愛の行方はうつろ ふたりの間を繋ぎ止めるものは 悲しいけれど愛じゃない(本牧でつくった「空っぽの街角」)

横山剣が歌ってる最中に、暗くなった上空を、羽田を飛び立った航空機がほんとに赤いランプを点滅させながら行きすぎる。昔、米軍の住宅があったころの本牧はアメリカの空気が充満してた町だったらしいけど、今ではその面影もなく、夜は人気もなくて「空っぽの街角」。

現場で聴くと、「ヨコハマ・ヨコスカ・サウンド」CKBの歌のリアルが実感されます。横山剣ばかりじゃなく、ほかのメンバーもギターの小野瀬雅生、ベースの洞口信也、サックスの中西圭一と実力派ぞろいで素晴らしいグルーブ感。紅一点、菅原愛子ちゃんもリズム感のあるいい声です。

むろん喧嘩も性交も全裸もなしで、おやじに立ちっぱなしはきつかったけど、たっぷり楽しませたくれた3時間半。G30も、みんなマナーを守ってたみたい。「満漢全席」のライブでした。

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September 03, 2005

ウォーレン・ウルフはウェスになれるかな

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「INCREDIBLE JAZZ VIBES WARREN WOLF」のジャケットを見て思わず、なにこれ、って笑ってしまった。だってウェス・モンゴメリーの名盤「THE INCREDIBLE JAZZ GUITAR OF WES MONTGOMERY」(写真右)のパクリというもおろか(パクリには後ろめたさがある)、これはもう堂々たるコピーだったから。ウェスはこのアルバムのヒットで一躍有名になったから、それにあやかろうってことか。ジャケット・デザインは日本人の手になるらしいけど、どうもね。

それにしてもヴィブラフォンのアルバムとは珍しい。70年代のゲイリー・バートンやボビー・ハッチャーソン以来、ジャズ・ヴァイブを久しく聴いたことがなかった。たまに聴くのは定番中の定番、MJQとミルト・ジャクソンばかり。

1曲目の「I Hear A Rhapsody」。普通はミディアム・テンポで演奏されることの多いこの美しい曲が、猛烈なアップ・テンポで演奏される。ウォーレン・ウルフのヴァイブ・ソロは、聴いたことがないようなスピードの超絶技巧。ちょっと、これは選択を間違えたかなと不安になった。

最近の若いジャズ・ミュージシャンは誰も彼も、とにかく驚くほど巧い。巧いなあと感心はするのだけど、聴き終えて心に響いてこない。そんなことが重なって、新人のアルバムを不見転で買うのは警戒するようになった。このウォーレン・ウルフも警戒しながら買ったのだけど、ライナーを読むとクラシックのヴァイブ奏者としても活動していると書いてあり(テクニックあるはずだ)、しかも1曲目が超絶技巧だったので、またしても、と思ってしまったのだった。

でも聴き進むうちに、4曲目のバラード「Masquerade Is Over」あたりから、うーん、やるじゃない、と思えてきた。音がエモーショナルだし、軽いタッチが心憎い。殊に3曲あるオリジナルが聴かせる。

オリジナルの1曲目「Why Is There A Dolphin On Green Street」は、タイトルからも分かるようにスタンダード「On Green Dolphin Street」をヒントにつくられた曲。メロディーが引用されるし、ベースとピアノのバッキングが誰だったかの盤(よく聴くのに、思い出せない。年だね)にそっくり。ウルフのソロが軽快だ。

「Howling Wolf」はブルース・シンガーの名前をそのままタイトルにした熱い演奏だけど、泥臭いブルースっぽさは薄い。マルグリュー・ミラー(懐かしい!)のピアノはマッコイ・タイナーみたいだし、ウルフのソロも洗練されてる。

オリジナルの3曲目「Lake Nerraw Flow」は一転してクールな曲。ベースが印象的なフレーズを繰り返し、その上に乗るミラーとウルフのソロが気持ちいい。

他にスティービー・ワンダーやハービー・ハンコック、モンクの曲なんかも演っている。パクリ元の盤に入っているウェスの曲「Four On Six」も入っているのはご愛敬。でも演奏はウェスばりに熱く、興奮させる。

買ってきて1週間、毎日聴いているけど、だんだん好きになってきた。1週間聴いていると、飽きるものは飽きる。好きになってきたということは、これからもよく聴くことになるかもしれない。

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