『声をなくして』に励まされる
これがどんなに苦しいことなのか、想像することすらできない。
「誰かにぐいぐいと両手で締めつけられるような首の痛み、その下の、鎖骨あたりのきしむ音の聞こえるような鈍い痛み。両手両足の先端に走る痺れ。そして、なんともいえない、喉の乾きとは別の、実に不快な呼吸の苦しさ。三年前まで、私は、呼吸なんていうのは自然にする行為、いや、その行為自体すら意識していなかった。しかし、今の私にとって呼吸とは、何よりも意識を伴う重大な行為なのだ。生きる為の」
彼も書いているように、健康な人間が自分の呼吸を意識することが日に何度あるだろうか。駅の階段を駆け下りて電車に飛び乗ったとき。気持ちを落ち着かせるために深呼吸を必要とするとき。あるいは、かすかな木槿の香りに嗅覚を研ぎ澄ませようとするとき。いずれにしてもそんなに多くはない。それが、目覚めているかぎり、鼻ではなく喉に開けられた穴でおこなう一呼吸ごとに苦しさがあり、しかも首や鎖骨の痛みさえ伴っている。
彼の場合、咽頭ガンばかりではない。子どものときから時折、襲ってくる鬱。高血圧。糖尿。奥さんから「よっ、病気のデパート!」と明るく励まされ、毎朝、大量の薬を焼酎で流し込む。
『声をなくして』(晶文社)は彼、永沢光雄が下咽頭ガンの手術をして声を失った日々を記録した日記と言おうか、エッセーと言おうか。
永沢光雄といえばすぐに思い浮かぶのは素晴らしいインタビュー集『AV女優』(1996年・ビレッジセンター出版局)だろう。42人のAV女優に身の上話を聞きながら、虚実とりまざっているだろう彼女らの話をそのまま構成することで、20代の女性たちの夢の形とでもいったものを鮮やかに浮き彫りにして見せた。
僕も多少のインタビュー経験があるので分かるけど、永沢光雄は相手が困惑する鋭い質問を次々に投げかける攻撃的なインタビュアーではない。相手がしゃべらなければ、こっちも黙ってタバコを吸ったりコーヒー(彼の場合アルコールらしい)を飲んでいるような、受け身の、でも沈黙を耐えることのできる強靱なインタビュアーである。それが彼の人柄なのだろう、やがて彼女たちはなぜ自分がアダルト・ビデオに出演するようになったかを自ら語り始める。その瞬間の感触が、とてもうまく再現されていた。
『声をなくして』でも、その強靱な受け身の姿勢は変わらない。
彼は病気とまなじりを決して闘おうとはしていない。でも病を受け入れながらそれに屈することなく、奥さんや友人や医師や、そして死んでしまった友人たちの記憶に支えられて、1日1日を「生きる力」を自分のなかに探している。だからだろう、想像を絶する苦痛を耐えながら、その自分の姿がまるで他人を眺めているようにユーモラスに記録されている。それを読んでいると、ガンの永沢光雄に僕たちが逆に励まされているのを発見する。
この本は、ひとりの編集者への「ラブレター」として書かれている。その編集者がいなければ、この本が書かれることはなかった。これも給料のうちとでもいった義務的な、あるいは売ることばかりに目の行った、編集者の仕事が感じられない本が蔓延しているなかで、あふれるような編集者の愛があったからこそ、それへの応答としてこの「ラブレター」は書かれたのだろう。
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