友枝昭世の「安宅」
たまに能を見に行く。といっても、専門的なことは何も分からない。眠ってしまうこともあるけど、時折、能以外では感ずることのない劇的な感動を受けるのが楽しみで出かける(最近、能でも映画でもコンサートでも、眠ることに罪悪感を感じなくなった。年のせいもあるけど、退屈でなく気持ちよいあまりの眠りもある、と自己弁護)。
そんな劇的感銘を受けた舞台を思い出してみると、友枝昭世のものであることが多い。この日は知人から「プラチナ・チケットだから(寝ないように、って意味かな?)」とゆずってもらったチケットで、「友枝昭世の会」に行く(8月21日、国立能楽堂)。演目は「安宅(あたか)」。
「安宅」は歌舞伎では「勧進帳」として知られる。安宅の関の関守が山伏姿で逃避行する義経一行を見とがめ、弁慶の機転で切り抜ける有名な話。能の「安宅」以前にはこういう説話はないらしいから、「勧進帳」の原作と言っていいのだろう。
友枝昭世が直面(ひためん・面をつけないこと)で弁慶を演ずる。弁慶ばかりでなく、関守も義経も全員が面をつけない、能には珍しいセリフ劇。床本(注・上演台本)がないので、地謡の部分も合わせて何を言っているのか判然としないけど、ストーリーが分かっているからおおよそ見当はつく。
友枝昭世がすごいと思うのは、どんな動作をしていても腰を中心にぴたりと決まっていて、「動」のなかに常に「不動」を感じさせること。そこから、ある種の威厳のようなものが漂う。弁慶も、さほど背丈のない友枝なのにひときわ大きく感じられた。最後の舞も素晴らしい。
面白かったのは弁慶たちと関守(富樫)の関係。歌舞伎の「勧進帳」では、富樫は強力(ごうりき)に変装しているのが義経であることに気づきながら、怪しまれた主君の義経を弁慶が杖で打ち据えるのを見て一行を見逃す。
ところが「安宅」では、富樫はあくまで一行を疑っていて、山伏たちが力づくで関を通ろうとするのを弁慶が押しとどめる。7人の山伏が、能でこんなに素早く動くのを初めて見たような動作で富樫に詰め寄る。その集団の迫力に押されて、ひるんだ富樫が通過を許してしまうように見える(床本を読んでいないので、舞台からの印象)。勧進帳を読む場面より、この山伏と富樫の競り合いのほうに僕は劇的な興奮を感じた。少なくとも、富樫に義経と知りながら一行を見逃した気配はない。
歌舞伎の「勧進帳」は、当時の観客(江戸時代の町民)の好みと願望に沿って人情劇に変形しているのだろう。市川団十郎の持ち役だった弁慶は勧進帳の場や最後の六法など派手な見せ場が増え、富樫は義経に同情し弁慶に共感する「準主役」として、2大スター共演の演目となる。その点、能はずっと武家の芸能だったから古形がそのまま残ったのかもしれない。
能も文楽も歌舞伎も、日本の伝統的芝居は西洋的な演劇の因果関係や常識を無視して展開されることがあるから、僕も最初はとまどうことが多かった。「安宅」も「勧進帳」もそういう部分はある。でも、ここは理屈が通らないんじゃない? などと考えることをやめて、登場人物にひたすら心を同一化させようとしていると、すっと納得できることがある。追いつめられた義経一行が弁慶を中心にした知力と武力で関所を強行突破する、その緊張に貫かれた劇として、「安宅」には納得があった。
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