深沢七郎の今日性
先日(8月8日)のエントリにも書いたけど、深沢七郎にはまっている。「楢山節考」をはじめとする代表作は若い頃読んだ記憶があるけれど、現代ものはあまり読んでいない。『深沢七郎集』第2巻(筑摩書房)の現代もの「東京のプリンスたち」と「絢爛の椅子」が面白かった。
「東京のプリンスたち」(1959)は、エルビス・プレスリーにいかれている東京の不良高校生たちが喫茶店にたむろしてレコードを聴いたり他愛ない冗談を言ったり女の子と連れ込みにしけこんだりする日常を、高校生の一人ひとりに次々に視点を移しながら描いた中編。その行動からは「不良」と見えても、たとえば(キタネエ奴等だ)といったようにカッコ内で示される主人公たちの内側の声をたどっていくと、いつの時代にも、どこにでもいる、自分をもてあましている青春の姿が浮かび上がってくる。その「ぬるさ」が、とてもいい。
もうひとつの「絢爛の椅子」(1959)は、「小松川女子高校生殺し」を素材にした異色の中編。深沢七郎が現実の事件に取材した小説を書いていたとは知らなかった。雑誌『婦人公論』に「事件小説」シリーズの一本として掲載されたらしい。
当時、「小松川女子高校生殺し」は、その後の「宮崎勤事件」や「酒鬼薔薇事件」に匹敵するような衝撃的な出来事だったし、事件についての論評や本もずいぶん出た。そのいくつかを読んだ記憶があるけれど、犯人の青年がドストエフスキーを愛読していたことから、「罪と罰」ふうな観念的解釈をほどこした、いわば実存的な事件として扱われることが多かったように思う。
「絢爛の椅子」は、そこのところが全然違う。父親が小さな窃盗で何度も警察にしょっぴかれ、その度に頑張れずに自白してしまう。差し入れに行った主人公は、そんな父の姿が悔しくてならない。
「父が自白してしまったのはどう考えても口惜しかった。それから、図書館で自分が盗んだ時のことも思い出して口惜しくなってきた。そう考えているうちに敬夫は頭がカーッとなった。(そうだ)と思った。(絶対にバレないことをしてやるんだ)と思った。証拠さえなければ調べられても堂々と相手をやっつけることができるのだ。(そうだ、やればいいのだ)を思った。(よし、きっとやるぞ)と決心した」
深沢はこれだけしか説明せず、次の段落になると、いきなり殺人の場面になってしまう。観念的な、あるいは内面的な葛藤など、まったく書きこまれていない。「東京のプリンスたち」の高校生が、(あいつを殴ってやろう)と考えるのとまったく同じ、ごく日常的な思いのなかで「完全犯罪」が決意されている。
この小説、想像するに発表当時の評判はあまり高くなかったんじゃないだろうか。殺人へと至る主人公の描き方があまりにもあっさりしていて、いわば「動機なき殺人」に近い。きっと「主人公の内面に迫っていない」みたいな言い方がされたんじゃないかな。なしにろ「実存」の季節だったからね。自分もそんな時代の空気のなかにいたからよく分かる。
でも今になって読んでみると、殺人という行為へと至る唐突さが小説として逆に新鮮に映る。内面の葛藤などとは無縁の犯罪が、むしろ今日的な感覚を孕んでいるからだろうか。
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