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August 31, 2005

深沢七郎の今日性

先日(8月8日)のエントリにも書いたけど、深沢七郎にはまっている。「楢山節考」をはじめとする代表作は若い頃読んだ記憶があるけれど、現代ものはあまり読んでいない。『深沢七郎集』第2巻(筑摩書房)の現代もの「東京のプリンスたち」と「絢爛の椅子」が面白かった。

「東京のプリンスたち」(1959)は、エルビス・プレスリーにいかれている東京の不良高校生たちが喫茶店にたむろしてレコードを聴いたり他愛ない冗談を言ったり女の子と連れ込みにしけこんだりする日常を、高校生の一人ひとりに次々に視点を移しながら描いた中編。その行動からは「不良」と見えても、たとえば(キタネエ奴等だ)といったようにカッコ内で示される主人公たちの内側の声をたどっていくと、いつの時代にも、どこにでもいる、自分をもてあましている青春の姿が浮かび上がってくる。その「ぬるさ」が、とてもいい。

もうひとつの「絢爛の椅子」(1959)は、「小松川女子高校生殺し」を素材にした異色の中編。深沢七郎が現実の事件に取材した小説を書いていたとは知らなかった。雑誌『婦人公論』に「事件小説」シリーズの一本として掲載されたらしい。

当時、「小松川女子高校生殺し」は、その後の「宮崎勤事件」や「酒鬼薔薇事件」に匹敵するような衝撃的な出来事だったし、事件についての論評や本もずいぶん出た。そのいくつかを読んだ記憶があるけれど、犯人の青年がドストエフスキーを愛読していたことから、「罪と罰」ふうな観念的解釈をほどこした、いわば実存的な事件として扱われることが多かったように思う。

「絢爛の椅子」は、そこのところが全然違う。父親が小さな窃盗で何度も警察にしょっぴかれ、その度に頑張れずに自白してしまう。差し入れに行った主人公は、そんな父の姿が悔しくてならない。

「父が自白してしまったのはどう考えても口惜しかった。それから、図書館で自分が盗んだ時のことも思い出して口惜しくなってきた。そう考えているうちに敬夫は頭がカーッとなった。(そうだ)と思った。(絶対にバレないことをしてやるんだ)と思った。証拠さえなければ調べられても堂々と相手をやっつけることができるのだ。(そうだ、やればいいのだ)を思った。(よし、きっとやるぞ)と決心した」

深沢はこれだけしか説明せず、次の段落になると、いきなり殺人の場面になってしまう。観念的な、あるいは内面的な葛藤など、まったく書きこまれていない。「東京のプリンスたち」の高校生が、(あいつを殴ってやろう)と考えるのとまったく同じ、ごく日常的な思いのなかで「完全犯罪」が決意されている。

この小説、想像するに発表当時の評判はあまり高くなかったんじゃないだろうか。殺人へと至る主人公の描き方があまりにもあっさりしていて、いわば「動機なき殺人」に近い。きっと「主人公の内面に迫っていない」みたいな言い方がされたんじゃないかな。なしにろ「実存」の季節だったからね。自分もそんな時代の空気のなかにいたからよく分かる。

でも今になって読んでみると、殺人という行為へと至る唐突さが小説として逆に新鮮に映る。内面の葛藤などとは無縁の犯罪が、むしろ今日的な感覚を孕んでいるからだろうか。

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August 27, 2005

『ある朝スウプは』の「液体」

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『ある朝スウプは』の冒頭とラスト、2度の長い長い朝食のシーンがある。2つのシーンに、この映画のエッセンスが詰め込まれているように思った。

カメラはほとんど据えっぱなしで、古ぼけたアパートの窓辺にある小さな食卓に向かいあう恋人同士を横から捉えている。同棲している2人がご飯に「スウプ」で、漬け物をぼりぼり噛みながら、とぎれとぎれの会話を交わしている。

冒頭のシーンは秋で、外は曇り空だろうか、やや陰鬱な光が射し込んでいたように思う。男(廣末哲万)はパニック障害になり、医者通いしている。仕事ができなくなり、在宅の仕事を始めようとしている。女(並木愛枝)は、勤めている会社が移転することになり、遠くまで通うか勤めを辞めるか迷っている。そんなことが、ぼそぼそと語られる。どこにでもありそうな、ごく日常的な会話だけれど、男が上目遣いで女を見る表情や、女のちょっと神経質な仕草から、崩壊の予感といっては大げさだけど、画面に緊張が漂う。

(以下ネタバレですが、宣伝でも結末を明かしているので)
ラストシーンは春で、外からは明るい木漏れ日が差し込んで女の上半身をまだらに照らしている。暖かい日差しのなかで、男と女はもう別れることを決めている。最後の朝食。それまでの激しいいさかいとは打ってかわって、2人は互いの今後を思いやりながらぼそぼそとしゃべり、でももう結論は変えようがない。アパートの外には、男を虜にした新興宗教の信者が彼を待っている。画面いっぱいの柔らかい光が、2人の残酷な結末を逆に際立たせる。

この2つの朝食のシーンにはさまれて、恋人たちの崩壊が描かれる。男が手首に数珠のようなブレスレットをつけはじめる。女には、妹にもらったのだと嘘を言う。夜、寝ていると、男は低く呪文のような経をつぶやいている。男は新興宗教にはまり、女が問いつめると、「君にはカルマがあふれている」などと言い出す。そんなささいな出来事から2人の気持ちが噛み合わなくなり、男が壊れてゆく過程を、高橋泉監督(脚本・撮影・編集も)は、ほとんど2人だけの登場人物、アパートとその周辺という閉じられた空間のなかで見つめている。

男が、「液体になりたいんだ」とつぶやく。「液体なら、どんな形にだってなれるじゃないか」。この映画でいちばん印象に残ったセリフ。自分の身体と脳(意識)という固体に閉じこめられた男の、悲鳴のようにも聞こえる。そのセリフに照応するように、映画では終始、液体が登場する。

冒頭、男がアパートで洗濯機を回している。渦巻く水流。と、次のカットでは、女が生卵を箸でかき混ぜる手元がアップになる。至近距離で撮影された卵黄と白身が奇妙な質感をもって渦を巻き、前のカットの渦に重なる。渦巻きというのは、ポーやヒッチコックを引くまでもなく、見る者をそのなかに引きずり込む感覚に誘う。次のカットは、一転して冒頭の静謐な朝食シーン。奇妙なカットのつなぎ方だなと思いながらも、巧みに映画に引き込まれてしまう。

映画はオールロケで、秋から冬へ、冬から春へ、季節に従って撮影されている。その季節ごとの水の表情が、もうひとつの液体として瑞々しい。雨。雪。雪どけの、したたり落ちる水滴。男は、こういう液体になりたかったのか。

ぴあフィルムフェスティバルPFFアワード2004グランプリ作品。自主制作映画だから、スタッフもキャストもプロでなく、むろん予算もなく、ビデオ撮影、ロケの条件も厳しかったろう。そのなかで、こんな濃密な時間をつくりあげた監督の力量はかなりのものだと思う。

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August 26, 2005

「郵政民営化」論の背後

ニュースサイト「日刊ベリタ」に、毎日新聞が没にした平野貞男前参院議員の原稿が掲載されている。このサイトは有料だから引用は控えるけど(けっこう面白いニュースが掲載されてます)、一言で言えば、小泉首相の郵政民営化論は「私憤や利権」から発しているという内容。

若き小泉純一郎が仕えた福田赳夫と田中角栄とで佐藤栄作後継を争った「角福戦争」で福田が負けた背景には、角栄が特定郵便局を倍増したことがある、と平野は指摘している。また「郵貯・簡保改革」の背景についても言及している。

この原稿をなぜ毎日新聞が没にしたのか、平野氏に理由の説明はなかったというけれど、きれいごとの背後の的を突いていたからかもしれないな。

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August 24, 2005

「ドキュメンタリー」というスタイル

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今橋映子『パリ・貧困と街路の詩学--1930年代 外国人芸術家たち』(都市出版)は、1930年代のパリで活動した外国人芸術家というキーワードで、従来なら一緒にされることのなかった人たちやジャンルが横断的に論じられていて面白い。

登場するのは、思想家のヴァルター・ベンヤミン(ユダヤ系ドイツ人)、写真のアンドレ・ケルテス(ハンガリー)、ブラッサイ(ハンガリー)、画家の佐伯祐三、作家のヘンリー・ミラー(アメリカ)、ジョージ・オーウェル(イギリス)、ヨーゼフ・ロート(東方ユダヤ人)、詩人の金子光晴といった綺羅星のような人たち。個性豊かな登場人物がパリの街路で繰り広げるドラマは多彩な問題を孕み、読み物としても一級品に仕上がっている。

1930年代を特徴づけるのは、大恐慌の後遺症とナチスが権力を握った時代ということ。そのためヨーロッパではユダヤ人をはじめ多くの人の移動が生じ、また思想・文学・芸術を貫いて「ファシズム対反ファシズム」という強力な対抗軸が存在した。この政治的な対抗軸があまりに強かったために、30年代の芸術には見るべきものが少ないというのがジョージ・オーウェルの見解。

それはともかく、本筋とは別に「ドキュメンタリー」あるいは「ルポルタージュ」を巡る議論に興味を惹かれた。

今橋によると、「ドキュメンタリー」という用語は新しいもので、1937年に初めて造語されて広まった。「ルポルタージュ」も同様で、日本では伊奈信男が30年代半ばに「フォト・ルポルタージュ」という言葉に「報道写真」の訳語を与えている。

写真の世界で30年代に「ドキュメンタリー」や「ルポルタージュ」が注目された背景には、無論、グラフ・ジャーナリズムの勃興がある。ライカという小型カメラが生まれ、大量高速の印刷技術が高度化し、写真と文字を効果的に配するデザインの技法が洗練されて、まずドイツでグラフ・ジャーナリズムが発達した。ナチスが台頭すると、その担い手はフランスへ、イギリスへ、アメリカへと散り、アメリカなら『LIFE』といった具合に、各国それぞれのグラフ・ジャーナリズムが生まれた。

今橋は、「(30年代の)フォト・ルポルタージュは一つのスタイル(形式)であって、真実ではない」というキム・シシェルの言葉を引きながらこう言っている。

「夜のパリや夜のロンドンを撮ったブラッサイや(ビル・)ブラントが、しばしば『劇的演出』を行ってきたことも、指摘した通りである。つまり、<ドキュメンタリー>の成立期にあっては、記述や映像は<事実(ファクト)>と<虚構(フィクション)>のあわいに位置していたのであって、その技法こそが、<貧困>という主題、政治的意図の有無などと共に、このジャンルの重要な要素であったことに、改めて注目すべきであろう」

現在では、いわゆる「やらせ」はジャーナリズムの精神に反するものとして厳しく指弾される。でもこの時代、「事実」と「虚構」は分離・対立するものではなく、未分化なままに「一つのスタイル」として成立していた。また、現在ではジャーナリズムは「客観」「中立」を旨としているけれども、この時代には貧困とかナチスといった「絶対悪」が存在し、読者がそれらに対して行動を起こすきっかけをつくることが、むしろジャーナリズムに要請されてもいた。

そんな30年代のグラフ・ジャーナリズム成立期から逆に現代を照らしてみると、現在のジャーナリズムに要請されている「客観報道」「価値中立」「(歴史に参加しない)純粋観客」といったことが決して普遍的なものではなく、その時代のなかにいる者には意識されることのないイデオロギーなのかもしれないと思えてくる。


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August 22, 2005

友枝昭世の「安宅」

たまに能を見に行く。といっても、専門的なことは何も分からない。眠ってしまうこともあるけど、時折、能以外では感ずることのない劇的な感動を受けるのが楽しみで出かける(最近、能でも映画でもコンサートでも、眠ることに罪悪感を感じなくなった。年のせいもあるけど、退屈でなく気持ちよいあまりの眠りもある、と自己弁護)。

そんな劇的感銘を受けた舞台を思い出してみると、友枝昭世のものであることが多い。この日は知人から「プラチナ・チケットだから(寝ないように、って意味かな?)」とゆずってもらったチケットで、「友枝昭世の会」に行く(8月21日、国立能楽堂)。演目は「安宅(あたか)」。

「安宅」は歌舞伎では「勧進帳」として知られる。安宅の関の関守が山伏姿で逃避行する義経一行を見とがめ、弁慶の機転で切り抜ける有名な話。能の「安宅」以前にはこういう説話はないらしいから、「勧進帳」の原作と言っていいのだろう。

友枝昭世が直面(ひためん・面をつけないこと)で弁慶を演ずる。弁慶ばかりでなく、関守も義経も全員が面をつけない、能には珍しいセリフ劇。床本(注・上演台本)がないので、地謡の部分も合わせて何を言っているのか判然としないけど、ストーリーが分かっているからおおよそ見当はつく。

友枝昭世がすごいと思うのは、どんな動作をしていても腰を中心にぴたりと決まっていて、「動」のなかに常に「不動」を感じさせること。そこから、ある種の威厳のようなものが漂う。弁慶も、さほど背丈のない友枝なのにひときわ大きく感じられた。最後の舞も素晴らしい。

面白かったのは弁慶たちと関守(富樫)の関係。歌舞伎の「勧進帳」では、富樫は強力(ごうりき)に変装しているのが義経であることに気づきながら、怪しまれた主君の義経を弁慶が杖で打ち据えるのを見て一行を見逃す。

ところが「安宅」では、富樫はあくまで一行を疑っていて、山伏たちが力づくで関を通ろうとするのを弁慶が押しとどめる。7人の山伏が、能でこんなに素早く動くのを初めて見たような動作で富樫に詰め寄る。その集団の迫力に押されて、ひるんだ富樫が通過を許してしまうように見える(床本を読んでいないので、舞台からの印象)。勧進帳を読む場面より、この山伏と富樫の競り合いのほうに僕は劇的な興奮を感じた。少なくとも、富樫に義経と知りながら一行を見逃した気配はない。

歌舞伎の「勧進帳」は、当時の観客(江戸時代の町民)の好みと願望に沿って人情劇に変形しているのだろう。市川団十郎の持ち役だった弁慶は勧進帳の場や最後の六法など派手な見せ場が増え、富樫は義経に同情し弁慶に共感する「準主役」として、2大スター共演の演目となる。その点、能はずっと武家の芸能だったから古形がそのまま残ったのかもしれない。

能も文楽も歌舞伎も、日本の伝統的芝居は西洋的な演劇の因果関係や常識を無視して展開されることがあるから、僕も最初はとまどうことが多かった。「安宅」も「勧進帳」もそういう部分はある。でも、ここは理屈が通らないんじゃない? などと考えることをやめて、登場人物にひたすら心を同一化させようとしていると、すっと納得できることがある。追いつめられた義経一行が弁慶を中心にした知力と武力で関所を強行突破する、その緊張に貫かれた劇として、「安宅」には納得があった。

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August 21, 2005

百日紅に秋の気配

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木槿(ムクゲ)の花が少なくなってくると、百日紅(さるすべり)の花が開く。わが家の庭の、夏の最後の花。これが咲くと、今年の夏も終わりだなと思う。今日も暑いけれど、青空と風はすでに秋の気配。

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August 18, 2005

『アルフィー』のロリンズとミック

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銀座シネパトスへ行ったら、30人足らずの観客のうち男は3人だけだった。女性客はすべてジュード・ロウを見に来ているのだろうけど、僕が『アルフィー』に興味を持ったのは、主題歌がミック・ジャガーとデイブ・スチュワートの曲で、しかもゴールデン・グローブ賞だかの最優秀主題歌賞を受賞したと聞いたから。

というのも、『アルフィー』は1965年のイギリス映画『アルフィー』のリメイクで、旧作ではソニー・ロリンズが曲を提供していた。ロリンズの『アルフィー』(写真左)は20代の一時期、毎日のように聴いた愛聴盤だったのだ。で、ロリンズとミック・ジャガーの曲を聴きくらべてみたいと思ったわけ。

もっとも僕は1965年版の映画を見てない。おまけに、映画ではロリンズではなくイギリスのジャズ・ミュージシャンの演奏が使われたという。監督は007を何本もつくった職人ルイス・ギルバート。この作品でカンヌ映画祭審査員特別賞を受けているから、けっこう面白い映画だったんだろう。主人公(旧作ではマイケル・ケイン)の女遍歴とその裏側の空虚を60年代ポップ感覚で描いた作品だと想像する。

ちょいと洒落た映画にジャズを使うのは、50年代後半の『死刑台のエレベーター』(マイルス・デヴィス)、『大運河』(MJQ)以来、ヨーロッパ映画の流行りだった。この映画もその流れのなかにあり、「最後の大物」ロリンズに白羽の矢が立ったのかも。

ロリンズの「アルフィーのテーマ」は一度聴いたら忘れられないカッコイイ(60年代の言い回し)メロディ・ラインを持ってる。たらりら・らーらら・たらりららーらら、と今でもときどき口ずさむ。いかにもロリンズらしい明るく豪快な名曲。コンサートでも必ず演奏され、ロリンズが最初のフレーズを吹いただけで客は総立ち状態になる。60年代の演奏らしく、アドリブでコルトレーンの影が感じられるのも面白い。映画ではロリンズの演奏でなくとも、すごく効果的なはず。

ロリンズ盤『アルフィー』の2曲目「ヒーズ・ヤンガー・ザン・ユー・アー(He's Younger Than You Are)」は、スローバラード。この曲名は、裕福なビジネス・ウーマン役のスーザン・サランドン(新作)が自宅に若い男を引っぱり込み、それと知らずに訪れたジュード・ロウが「あいつのどこがいいんだ」みたいなことを言ったのに答えたセリフ。たぶん旧作でも同じシーンで使われたんだろう。ジュード・ロウみたいなセクシーな男でなく、もっとシニカルなケインが、このセリフにぶちのめされる(多分)のを想像するだけでおかしい。

今回の新作がミック・ジャガーを起用したのはなぜなのかな? よく分からないけど、ジャズではあまりに旧作に寄りすぎるし、今、ジャズを使う映画はノワール系やハードボイルド系に多く、今日的な感覚ではこの映画にジャズはそぐわない。かといって、この映画が旧作がつくられた60年代の空気を意識している以上、あまり新しいところでもおかしい。60年代を生きた大物(しかもイギリス系)となれば、ミック・ジャガーかエリック・クラプトン、てなことになったのかも。

新作のテーマ曲、ミック・ジャガーとデイブ・スチュワートの「オールド・ハビッツ・ダイ・ハード」は、サビのメロディーがなんとも印象的。甘い声のかすれ具合なんか、スティングのラブソングを思い出した。もっともストーンズのときのような攻撃的な鋭さはない。

映画は、ジュード・ロウのファッションやスクーターなんかの小道具、街路の看板に「DESIRE」とかメッセージを入れる手法、TOMATOによるタイトルバックまで、かなり意識的に60年代のテイストを追いかけてる。ミック・ジャガーとデイブ・スチュワートの曲が、意識的に今の時代とずれた匂いのあるこの映画にはよく似合う。

その一方で、ブルックリン橋越しのマンハッタンの夜景とか、グリニッジビレッジとか、NY名所を登場させるサービス精神は2時間ドラマ「京都なんとか殺人事件」と変わらない。60年代にこだわるかと思うと商売っ気がのぞく、その中途半端さが変におかしい。ジュード・ロウを見ているかぎり、そんなことどうでもいいんだろうけど。1965年版を探さなくちゃ。

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August 16, 2005

箱根の石仏群

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元箱根の石仏群

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姥子の石仏群

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姥子・巨岩の梵字

箱根には色んな場所に石仏群がある。中世、山岳仏教が盛んだったころのものらしい。箱根は何度も行っているけど、はじめて2カ所ほど訪れた。

元箱根から小涌谷へ抜ける国道沿いにある石仏群は、阿弥陀如来を中心に二十数体。国道で2つに分断されているけど見事なものだ。かつて地獄池と呼ばれた池のほとりにある。阿弥陀如来は浄土思想の仏だから、傍らの地獄と対照的に岩山は浄土を表しているのだろうか。

姥子は大涌谷の近くで、火山活動のためだろう大岩がごろごろしている。姥子の石仏はそんな巨岩の下にある。近くには梵字を刻んだ岩もあるから、鬱蒼とした森のなかの大岩が霊性を感じさせるのだろう。ここから大涌谷まで、ミズナラの林をぬって30分のトレッキングが気持ちよい。

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August 13, 2005

『声をなくして』に励まされる

これがどんなに苦しいことなのか、想像することすらできない。

「誰かにぐいぐいと両手で締めつけられるような首の痛み、その下の、鎖骨あたりのきしむ音の聞こえるような鈍い痛み。両手両足の先端に走る痺れ。そして、なんともいえない、喉の乾きとは別の、実に不快な呼吸の苦しさ。三年前まで、私は、呼吸なんていうのは自然にする行為、いや、その行為自体すら意識していなかった。しかし、今の私にとって呼吸とは、何よりも意識を伴う重大な行為なのだ。生きる為の」

彼も書いているように、健康な人間が自分の呼吸を意識することが日に何度あるだろうか。駅の階段を駆け下りて電車に飛び乗ったとき。気持ちを落ち着かせるために深呼吸を必要とするとき。あるいは、かすかな木槿の香りに嗅覚を研ぎ澄ませようとするとき。いずれにしてもそんなに多くはない。それが、目覚めているかぎり、鼻ではなく喉に開けられた穴でおこなう一呼吸ごとに苦しさがあり、しかも首や鎖骨の痛みさえ伴っている。

彼の場合、咽頭ガンばかりではない。子どものときから時折、襲ってくる鬱。高血圧。糖尿。奥さんから「よっ、病気のデパート!」と明るく励まされ、毎朝、大量の薬を焼酎で流し込む。

『声をなくして』(晶文社)は彼、永沢光雄が下咽頭ガンの手術をして声を失った日々を記録した日記と言おうか、エッセーと言おうか。

永沢光雄といえばすぐに思い浮かぶのは素晴らしいインタビュー集『AV女優』(1996年・ビレッジセンター出版局)だろう。42人のAV女優に身の上話を聞きながら、虚実とりまざっているだろう彼女らの話をそのまま構成することで、20代の女性たちの夢の形とでもいったものを鮮やかに浮き彫りにして見せた。

僕も多少のインタビュー経験があるので分かるけど、永沢光雄は相手が困惑する鋭い質問を次々に投げかける攻撃的なインタビュアーではない。相手がしゃべらなければ、こっちも黙ってタバコを吸ったりコーヒー(彼の場合アルコールらしい)を飲んでいるような、受け身の、でも沈黙を耐えることのできる強靱なインタビュアーである。それが彼の人柄なのだろう、やがて彼女たちはなぜ自分がアダルト・ビデオに出演するようになったかを自ら語り始める。その瞬間の感触が、とてもうまく再現されていた。

『声をなくして』でも、その強靱な受け身の姿勢は変わらない。

彼は病気とまなじりを決して闘おうとはしていない。でも病を受け入れながらそれに屈することなく、奥さんや友人や医師や、そして死んでしまった友人たちの記憶に支えられて、1日1日を「生きる力」を自分のなかに探している。だからだろう、想像を絶する苦痛を耐えながら、その自分の姿がまるで他人を眺めているようにユーモラスに記録されている。それを読んでいると、ガンの永沢光雄に僕たちが逆に励まされているのを発見する。

この本は、ひとりの編集者への「ラブレター」として書かれている。その編集者がいなければ、この本が書かれることはなかった。これも給料のうちとでもいった義務的な、あるいは売ることばかりに目の行った、編集者の仕事が感じられない本が蔓延しているなかで、あふれるような編集者の愛があったからこそ、それへの応答としてこの「ラブレター」は書かれたのだろう。

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August 10, 2005

『運命じゃない人』の「その瞬間」

「その瞬間」まで、何なんだこの映画は、と思いながら見ていた。

イントロは、離婚して部屋を出たらしい霧島れいかの一人芝居。広場やレストランに一人ぽっちで座るれいかの映像に、「あ、まずい、泣きそうだ」なんてモノローグがかぶさる。こちとら若い女の子の孤独な自分探しにつきあうほど暇じゃない、ひょっとして見る映画を間違えたかも、なんぞと思った。彼女がレストランで見ず知らずの客、山中聡に「よかったら一緒にご飯食べない?」と声をかけられる。そこで『運命じゃない人』のメインタイトル。

タイトルの後に登場するのは中村靖日。会社員の靖日は「いい人」らしく、先輩にマンションの部屋をデートに貸せと言われて断れない。仕事を終えて部屋に帰った彼は、友人で探偵事務所をやっている山中聡にレストランに呼び出される。靖日は同棲していた恋人に逃げられたらしい。山中に「ナンパのひとつもしてみろ」と説教されている。

そんなやりとりが、何の変哲もないミディアム・ショットの連続で描かれる。2人の会話でもカメラはミディアムに据えたままで、通常使われる切り返し(話している人間を交互にアップする)もしない。切り返しを使わず、かといって据えっぱなしのカメラによってその場に生成する空気を捉えようとする気配も感じられない。意図不明、やっぱり映画を間違えたかな、と再び感じた。

と、その瞬間、山中聡が背後の霧島れいかに「よかったら一緒にご飯食べない?」と声をかけて、画面は10分ほど前の霧島れいかの一人芝居の場面に戻ってしまう。そこから先は、へぇー、なるほど、と、唸り、にやりとする場面の連続。話が進んだかと思うと、何度も前の場面に戻る。その間に登場人物それぞれの物語が語られていることで、同じ場面がまったく違う意味をもって観客の前に現れてくる。

靖日から逃げた恋人・板谷由夏は実は結婚詐欺師で、それを突き止めた探偵を金で抱き込み、靖日のマンションに忍び込む。そこに靖日が仕事から帰ってきて、20分ほど前と同一の場面に戻る。タイトル後の場面で靖日が自宅へ帰ってきたとき、そこには友人の探偵と逃げた恋人が隠れていたわけだ。

もう一度、時間がスパイラルすると、由夏は組長・山下規介の情婦なのだが、組長の金もすくねていて、それを追って組長も靖日のマンションに忍んでいる。そんなふうに時間が前へ前へスパイラルし、同じ場面に戻ったときには、最初は「いい人」靖日の日常だった場面が、結婚詐欺やヤクザがからんだ危ないシーンになっている。

スパイラルした後、前にはミディアム・ショットで処理されていた靖日とれいかの抱擁の場面が、ベッドの下に隠れた組長の目から眺められることによって、ミディアム・ショットには写っていない足先だけで演技される。そんなところが、なんともおかしい。「その瞬間」までの芸のない(と見えた)ミディアム・ショットは、「その瞬間」以後のための仕込みだったのだ。

ミステリーの世界で「コン(騙し)・ゲーム」と呼ばれるジャンルのものに近いかもしれない。例えばコリン・デクスターの小説など、章ごとに同じシチュエーションが全く違って見えてしまい、その度にこいつが犯人に違いない、と何度も騙される。それに似た驚きと楽しさがある。

映画なら、数年前に『メメント』というのがあった。僕はけっこう好きなクリストファー・ノーラン監督の作品。こちらはコン・ゲームではないけど、主人公は15分たつと記憶を失ってしまうという設定。やはり時間がスパイラルしながら同一シーンに何度も戻り、行きつ戻りつしながら犯人探しが進行した。そんな作品を思い出したが、『メメント』が緊迫したミステリーだったのに対して、『運命じゃない人』はユーモラスで温かな眼差しなのがいい。

中村靖日が、最後まで自分のマンションで一体何が起こったのか分からず、騙されたことも信じない「いい人」ぶりで楽しませる。組員にいい顔しようと必死な組長・山下規介もサングラスの陰から善良そうな顔がのぞいてしまう。

監督の内田けんじは、ぴあフィルムフェスティバルで賞を受け、これがデビュー作。最近の映画監督は外国でも日本でも映像派ばかりだけど、こんなふうに脚本に凝りに凝る新人が出てきたのは楽しみだね。インタビューでビリー・ワイルダーやニール・サイモンが好きと答えているのが、よく分かる。この映画、ハリウッドが買いに来るかもしれないな。

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August 08, 2005

深沢七郎で「ひまつぶし」

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新刊書の棚に深沢七郎の名を見つけて懐かしくなり、しかも「未発表作品集」とあるのでは買わずにいられない。『生きているのはひまつぶし』(光文社)。黒とショッキング・ピンクの派手な装幀。帯には、深沢が傍らの女性の服をはだけて胸を見せている写真と、「戦争でエネルギーを使うくらいなら、セックスで消耗する方がよっぽど気がきいているよ」のキャッチ・コピー。

カバーを取ると、カバー裏にまた写真がたくさんコラージュされていて、サービス満点。深沢がラブミー牧場で鶏にエサをやっていたり、今川焼の夢屋で仕事していたり、女優に囲まれたり、ギターを弾いていたりする。表紙には帯と同じ写真が拡大されていて、表はおっぱい、裏は深沢の笑顔のアップ。小口(本文の天地と腹側)もショッキング・ピンクの色がつけられていて、一歩間違えれば下品になりかねないけど、深沢七郎の悦楽的な部分を強調したデザインだね。

内容は深沢が、「死んだら」「土とたわむれ」「男と女と」「旅する」などのテーマでしゃべった語りと「発掘エッセイ」2本。タイトルの「未発表」がこの本全体を指すのか、「発掘エッセイ」だけなのかよく分からないところは、ちょっと編集者に文句をつけたいけど、深沢節を堪能できる。

「死ぬことは大いにいいことだね。/ゴミ屋がゴミを持っていってくれるのと同じで、人間が死んで、この世から片づいていくのは清掃事業の一つだね。/死んだ人間は土塊だからね。魂なんか残ってやしないよ」

「涅槃って言うでしょ、忘れるということね。酒で酔っぱらうということも、女とアレをやって、その瞬間に恍惚の境に入るというのも、ひとつの涅槃だね。麻薬やタバコで、スウッとするのも涅槃だよね。それが全然なくて涅槃できるっていうのが、心のもちかただね。なにもなくて涅槃するのが一番いいけどね。涅槃っていうのは、生きながらにして、死んだと同じ心になることだから。喜びも悲しみも欲望もなくなっちゃう……」

「嫌なことは忘れて、楽しい瞬間をなるべく多く作ることだね。そのために稼いだり、乗り物に乗って移動したりするんだから。稼ぐのはめんどうだけど、楽しい時間を作るための仕度だからね。とにかく、生きているうちは暇つぶしがいい。ギターを弾いたり野菜を作ったりするのも暇つぶしだね。/……/人生とは、何をしに生まれてきたのかなんてわからなくていい」

もちろん深沢七郎は「暇つぶし」のなかで『楢山節考』や『笛吹川』や『庶民列伝』をものしたわけで、「暇つぶし」はすべて文学につながっていた。だからわれら凡人に真似できるわけじゃないけど、いつも暗黒を覗いているような、それでいて飄々とした姿勢には憧れてしまう。

「稼ぐのはめんどうだけど、楽しい時間をつくるための仕度」という言葉にも頷く。もっともっと「楽しい瞬間」をつくらなきゃね。

ところで、いま深沢七郎の本は文庫以外では手に入らない。僕の書棚にも、昔の、もはや読むのが苦痛な小さな活字の文庫しかない。いつか買おうと思ってたけど、こういう気分になったのが買い時と思って、「日本の古本屋」サイトで『深沢七郎集』(全10巻、筑摩書房)を27,000円はたいて買ってしまった。

さっそく京都へ往復する新幹線、急ぐ旅ではなかったので「のぞみ」でなく「ひかり」にして、車中で『庶民列伝』を読んだ。若いときは今ひとつピンとこなかったけど、「お燈明の姉妹」「サロメの十字架」など、ムチャクチャであり、つましくもある女たちの生き方を描いて傑作ぞろいの短編集。しばらく深沢七郎びたりが続きそうだ。


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August 06, 2005

東山の夏木立

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京都・東山の麓に住んでいる人の話では、庭によくタヌキが来るという。札幌は、世界でも稀な猛獣(ヒグマ)の棲む100万都市だと聞いたことがあるけど、京都も大都会の町並みから10分ほどで、もうケモノの領域なんだね。

比良山・比叡山につづく東山の斜面を数十メートル入っただけで、昼なお暗い木立。近くには滝がある。今では細い流れになっているけど、かつては熊野系の修験道の行場だったという。35度の暑さとセミの声が沁みる。

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August 04, 2005

『ライフ・イズ・ミラクル』の祝祭

普通、1本の映画には悲しみであれ喜びであれ、画面を貫くひとつの主要な感情がある。その感情を最大限に高め、観客に伝えるために、画面のあらゆるものが動員されたり、逆に切り捨てられたりする。

『ライフ・イズ・ミラクル』の面白いところは、というより『アンダーグラウンド』以後のエミール・クストリッツァの面白いところは、映画のテーマに沿ったある感情を表現するために他の感情を動員したり切り捨てたりするのでなく、あらゆる感情を等価なものとして1本の映画のなかにごった煮のようにぶちこんでいるところではないだろうか。『アンダーグラウンド』『黒猫・白猫』、そして『ライフ・イズ・ミラクル』の猥雑な祝祭のような空気は、そこからきているのだと思う。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦が舞台になっている『ライフ・イズ・ミラクル』でも、登場人物は皆が皆、あきれるほどよくしゃべり、食い、酒を飲み、歌い、踊る。泣き、笑う。セックスし、排泄し、人も殺す。

ほとんど全編にバルカン・ブラスの明るくて哀しい音楽が流れている。クストリッツァの映画がいつもそうであるように、ブラスバンドは映画のなかにも登場し、いたるところで音楽を演奏する。密輸でうまい汁を吸っている市長たちが、突如、貨車の上でミュージカル映画みたいに歌い出す。主人公のセルビア人鉄道技師ルカ(スラブコ・スティマチ)は縦笛で印象的なテーマ曲を吹いている。

ルカが乗用車に乗ってガチャンガチャンと不自然に方向転換する。画面が引くと、その自動車はなんと列車の車輪をつけていて、鉄道線路を走り出す。未完成の鉄道に列車は走らず、人々は手こぎトロッコや4輪自転車(?)で線路を行き来する。そんな非現実的な滑稽さもまた彼の映画の特徴のひとつ。

これもまたクストリッツァの映画の常として、登場人物のそばに必ず動物がいて、人間と共に生き、時には人間以上の役割を果たす。冒頭では「クロアチアの熊」が村人を襲って、血の予感を漂わせる(内戦がクロアチアから波及したことの隠喩。熊が家に入り込んで風呂に入っているグロテスクな笑いもある)。ルカは犬と猫を飼っていて、『黒猫・白猫』と同じように、猫がミャーと鳴くと男と女が結ばれる。

この映画でそれ以上の役割を負っているのはロバだ。冒頭からラストシーンまで、重要なシーンに必ず登場するロバは、失恋し絶望(!)していて、涙を流し、決して人の言いなりにならない。ある場所に頑固に立ち止まりつづける。ルカやその友人と共にあって、最後に決定的な役割をはたすロバは、クストリッツァがこの映画に込めた固い意志のようなものを象徴しているようにも見える。

『ライフ・イズ・ミラクル』は反リアリズムでありながら、同時にリアリズムでもある。ルカと、彼と愛し合うようになった捕虜のムスリム人看護士サバーハ(ナターシャ・ソラック)の乗ったベッドが隠れ家の屋根を抜けて空中に浮遊し、紅葉した晩秋のボスニアの谷々を飛んでゆくところは、この映画のいちばん美しいシーンだ。そんな幻想的な場面がある一方で、はじめはテレビで伝えられるだけだった首都サラエボの戦闘が、田舎の美しい谷々に迫り人々を巻き込んでゆく様がなんともリアル。

ルカは技師としてセルビア共和国に通ずる鉄道のトンネルを掘っている。まるで『第3の男』の地下シーンのように、トンネルを光と影が往来するたびに、出来事が起こる。

ルカの駅兼用の住まいは高台にあって、美しい谷を見下ろしている。住まいから谷に向けて傾斜した斜面を、ルカの息子のサッカーボールが2度、転がり落ちる。冒頭近くでは、落ちるボールを追いかけて拾ったところに、息子の友人のムスリム人がラマダン明けの菓子を持ってさりげなく別れを告げにくる。いいシーンだね。2度目に転がり落ちるボールは、従軍してムスリム側の捕虜になった息子そのもののようにルカの手を逃げていき、ようやく追いついたルカはボールを抱きしめて泣く。

斜面といえば、隠れ家で結ばれたルカとサバーハも抱き合ったまま草原を転がり落ちる。2人は干し草の山に突っ込んで止まり、愛し合う。ここでは転がり落ちることが爆発的な喜びの表現になっている。

ラスト近く、ルカと息子と妻は廃墟になった駅兼自宅に戻ってくる。タンポポの種が雪のように舞っている。ガチョウが騒ぐ。鷹がガチョウを狙って殺す。息子が自分の部屋へ入って、「枕にクソが!」と叫ぶ。妻は谷に面したベランダ(ホーム)のブランコに乗る。おおげさな言葉を交わすこともなく戦争を生きている3人のひとつひとつの仕草が何とも沁みる。

ムスリムの看護士を演ずるスラブコ・スティマチの淡い緑の瞳がチャーミングだ。ルカを信じきった笑顔も素敵。クライマックスに近く、ルカと2人で国境の川を渡って逃げようとするシーンで、「ちょっと、おしっこ」と言って木の陰に隠れる(こういう日常を差しはさむ演出がクストリッツァの憎いとこ)。少し離れたところにいる、彼女を自民族と知らないムスリムの狙撃兵が銃のスコープを通して(とういうことは観客も)、ちょっと太めの彼女のお尻を覗き見る。そんなエロティシズムもたっぷりある。

(以下ネタバレです)
ムスリム勢力の捕虜になった息子と、息子と交換するための捕虜であるサバーハ。2人の捕虜を交換するシーンで、ルカは愛するようになったサバーハを取るか、息子を取るかの選択を迫られる。ところがクストリッツァはここでルカに自分の意志による選択をさせないで、コートが座席に引っかかってサバーハについてゆけなかった偶然から結果を導き出している。自らの意思ではなく偶然によって、というのがいいね。実際、人生はそんなことが多いのだから。

ラストシーン。ロバに乗ってトンネルを抜けた2人は、どこへ向かっているんだろうか。セルビア共和国じゃないよね。駅を兼ねた自分の家へ向かっているんだよね。とすれば、ここから次の「祝祭」が始まる。

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August 02, 2005

『FRONT』の大艦巨砲主義

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多川精一といえば、岩波写真文庫や『月刊 太陽』『季刊 銀花』など戦後を代表するグラフィックな出版物や雑誌のデザインで知られている。彼の著書『焼跡のグラフィズム 「FRONT」から「週刊サンニュース」へ』(平凡社新書)を読んでいたら、以前から疑問に思っていたことの一部に触れた記述があった。

第二次世界大戦中に、対外国家宣伝のために『FRONT』という雑誌が発行されていた。スポンサーは陸軍参謀本部。デザインに原弘、写真に木村伊兵衛、編集に林達夫、中島健蔵といった最高の技術者と知性が集まり、大判のA3判グラビア1~2色刷り、オフセット4色刷りを使い、15カ国語版(敵国の言語と大東亜共栄圏の言語)をつくるといった、戦争下では考えられない贅沢な雑誌だった。内容的にもデザイン的にも、当時ビジュアル雑誌の最先端を行っていた『USSR in Constraction』や『LIFE』を研究して、世界水準のものをつくっている。

僕が疑問に思っていたのは、15カ国語版の『FRONT』をつくったのなら、それをどのように配布し、どれだけの影響力があったのか、ということ。そのことについて、『FRONT』を扱ったどの本を見ても触れられていない。

『FRONT』の発行元である東方社が設立されたのは開戦の年、1941年の春(開戦は12月)。最初の『海軍号』が発行されたのは開戦後の1942年。だから戦争前に企画され、発行は戦争が始まってからのことになる。『海軍号』は、凸版印刷の最新鋭機、ドイツ製グラビア輪転印刷機を使って十数万部を刷ったという。

『FRONT』のデザイナー原弘の弟子で東方社の社員だった多川精一も、自分がかかわった雑誌がどう配布されたかについて知らされていない。ただ、その間の事情をこう推測している。

「戦争が始まれば『FRONT』のような重くかさばる宣伝物は、運搬も配布もままならない、おそらく膨大な量の『FRONT』が輸送途中にアメリカの潜水艦の攻撃で、船もろとも海底の藻屑と消えたのであろう。/またたとえそれが目的者に届いたとしても、現実の敗戦状況下ではかえって逆効果になった。宣伝も広告も、その実状を知らされない者にだけ効力が発揮できる。ミッドウェイ海戦の敗北で『FRONT』の大半の宣伝効果は失われていたのだ」

「重くかさばる用紙」については、こんなエピソードも記されている。日本の『FRONT』と同じようにに、アメリカ政府がタイム社に委嘱してつくった対外宣伝雑誌『VICTORY』を入手したときのことだ。

「『いや、参った。負けたな……』/『VICTORY』を社内で回覧していた時、木村伊兵衛写真部長が編集室で皆の前で大声で叫んだ。その遠慮のない大胆な発言は、何も言えないでいる全員の心の中の思いであった。編集や製作技術ではアメリカに負けない自信はあった。しかし、宣伝物としての配布や効果といった総合力の点で、さらにそれを支える国力の大きさで、みじめな程劣っていることを、そこに使われている用紙がすべてを象徴していたのである」

それは、その後『LIFE』などで使われるようになった軽量コート紙で、船ではなく航空機で運ぶことを前提に開発された新しい紙だった。

編集制作に時間のかかる『FRONT』は、その後も戦争の進展の速さ(日本軍の敗北に次ぐ敗北)に追いつかず、もっと短時間でできるパンフレット『戦線』を同時発行するのだが、敗戦の1945年まで、『FRONT』も『戦線』も当事者にすらどう配布されるのか知らされないままに発行されつづけた。その理由について、多川はこう記している。

「東方社のスタッフはそれを軍の仕事として続けることで、組織の生き残りを図ったのである。だから最後は戦争に勝つためでも、軍に協力するためでも無く、東方社自身のために『FRONT』を始め対占領地宣伝の存続が必要になっていいた。/そんな効果のない宣伝物を作り続けることを、最後まで参謀本部が認めてきたのはなぜか。それが可能だったのは、今考えると陸軍そして参謀本部という組織も、本質的には官僚主義の機構だったからではなかろうか」

これには若干の注釈がいる。東方社には、満鉄調査部がそうだったように、特高から狙われている左翼がかなりの数、社員としてもぐりこんでいた。東方社の最高責任者(総裁)は建川美次退役陸軍中将で、2.26事件の黒幕とも言われ、陸軍主流からは目障りな存在だったようだ(彼も知り合いの元共産党員、元中国共産党員を社員に入れている)。

そのような会社である以上、警察も手を出せない。参謀本部も、いったん認めたものは、前例主義でつぶさない。だから、東方社にとって『FRONT』の発行は、それによって実際に対外宣伝にどれだけ効果があったかではなく、発行それ自体が目的だったのだ。

結局、『FRONT』は、戦争にはほとんど役に立たなかった大艦巨砲「大和」「武蔵」と同じだった、と多川は結論づけている。

中島健蔵は「東方社の最大の功績は技術の伝承であった」と書いている。『FRONT』のスタッフは、やはり対外宣伝誌『NIPPON』に拠った名取洋之助、亀倉雄策、土門拳らとともに、戦後の出版、デザイン、写真、広告の世界のリーダーになってゆく。

日本光学製の「武蔵」の巨大測距儀技術が戦後の名機ニコンを生んだように、技術と戦争との関係は、単に戦争を「悪」と断罪するだけでは解決がつかない。また戦争期の技術者(あるいは知識人)の生き方についても、戦争に協力したことを追及するだけではすまない複雑な問題が絡み合っている。「戦争責任」をどう考えるかも含め、そこを解きほぐしていく作業は戦後半世紀以上たってもまだ十分でないと思う。
 

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