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August 02, 2005

『FRONT』の大艦巨砲主義

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多川精一といえば、岩波写真文庫や『月刊 太陽』『季刊 銀花』など戦後を代表するグラフィックな出版物や雑誌のデザインで知られている。彼の著書『焼跡のグラフィズム 「FRONT」から「週刊サンニュース」へ』(平凡社新書)を読んでいたら、以前から疑問に思っていたことの一部に触れた記述があった。

第二次世界大戦中に、対外国家宣伝のために『FRONT』という雑誌が発行されていた。スポンサーは陸軍参謀本部。デザインに原弘、写真に木村伊兵衛、編集に林達夫、中島健蔵といった最高の技術者と知性が集まり、大判のA3判グラビア1~2色刷り、オフセット4色刷りを使い、15カ国語版(敵国の言語と大東亜共栄圏の言語)をつくるといった、戦争下では考えられない贅沢な雑誌だった。内容的にもデザイン的にも、当時ビジュアル雑誌の最先端を行っていた『USSR in Constraction』や『LIFE』を研究して、世界水準のものをつくっている。

僕が疑問に思っていたのは、15カ国語版の『FRONT』をつくったのなら、それをどのように配布し、どれだけの影響力があったのか、ということ。そのことについて、『FRONT』を扱ったどの本を見ても触れられていない。

『FRONT』の発行元である東方社が設立されたのは開戦の年、1941年の春(開戦は12月)。最初の『海軍号』が発行されたのは開戦後の1942年。だから戦争前に企画され、発行は戦争が始まってからのことになる。『海軍号』は、凸版印刷の最新鋭機、ドイツ製グラビア輪転印刷機を使って十数万部を刷ったという。

『FRONT』のデザイナー原弘の弟子で東方社の社員だった多川精一も、自分がかかわった雑誌がどう配布されたかについて知らされていない。ただ、その間の事情をこう推測している。

「戦争が始まれば『FRONT』のような重くかさばる宣伝物は、運搬も配布もままならない、おそらく膨大な量の『FRONT』が輸送途中にアメリカの潜水艦の攻撃で、船もろとも海底の藻屑と消えたのであろう。/またたとえそれが目的者に届いたとしても、現実の敗戦状況下ではかえって逆効果になった。宣伝も広告も、その実状を知らされない者にだけ効力が発揮できる。ミッドウェイ海戦の敗北で『FRONT』の大半の宣伝効果は失われていたのだ」

「重くかさばる用紙」については、こんなエピソードも記されている。日本の『FRONT』と同じようにに、アメリカ政府がタイム社に委嘱してつくった対外宣伝雑誌『VICTORY』を入手したときのことだ。

「『いや、参った。負けたな……』/『VICTORY』を社内で回覧していた時、木村伊兵衛写真部長が編集室で皆の前で大声で叫んだ。その遠慮のない大胆な発言は、何も言えないでいる全員の心の中の思いであった。編集や製作技術ではアメリカに負けない自信はあった。しかし、宣伝物としての配布や効果といった総合力の点で、さらにそれを支える国力の大きさで、みじめな程劣っていることを、そこに使われている用紙がすべてを象徴していたのである」

それは、その後『LIFE』などで使われるようになった軽量コート紙で、船ではなく航空機で運ぶことを前提に開発された新しい紙だった。

編集制作に時間のかかる『FRONT』は、その後も戦争の進展の速さ(日本軍の敗北に次ぐ敗北)に追いつかず、もっと短時間でできるパンフレット『戦線』を同時発行するのだが、敗戦の1945年まで、『FRONT』も『戦線』も当事者にすらどう配布されるのか知らされないままに発行されつづけた。その理由について、多川はこう記している。

「東方社のスタッフはそれを軍の仕事として続けることで、組織の生き残りを図ったのである。だから最後は戦争に勝つためでも、軍に協力するためでも無く、東方社自身のために『FRONT』を始め対占領地宣伝の存続が必要になっていいた。/そんな効果のない宣伝物を作り続けることを、最後まで参謀本部が認めてきたのはなぜか。それが可能だったのは、今考えると陸軍そして参謀本部という組織も、本質的には官僚主義の機構だったからではなかろうか」

これには若干の注釈がいる。東方社には、満鉄調査部がそうだったように、特高から狙われている左翼がかなりの数、社員としてもぐりこんでいた。東方社の最高責任者(総裁)は建川美次退役陸軍中将で、2.26事件の黒幕とも言われ、陸軍主流からは目障りな存在だったようだ(彼も知り合いの元共産党員、元中国共産党員を社員に入れている)。

そのような会社である以上、警察も手を出せない。参謀本部も、いったん認めたものは、前例主義でつぶさない。だから、東方社にとって『FRONT』の発行は、それによって実際に対外宣伝にどれだけ効果があったかではなく、発行それ自体が目的だったのだ。

結局、『FRONT』は、戦争にはほとんど役に立たなかった大艦巨砲「大和」「武蔵」と同じだった、と多川は結論づけている。

中島健蔵は「東方社の最大の功績は技術の伝承であった」と書いている。『FRONT』のスタッフは、やはり対外宣伝誌『NIPPON』に拠った名取洋之助、亀倉雄策、土門拳らとともに、戦後の出版、デザイン、写真、広告の世界のリーダーになってゆく。

日本光学製の「武蔵」の巨大測距儀技術が戦後の名機ニコンを生んだように、技術と戦争との関係は、単に戦争を「悪」と断罪するだけでは解決がつかない。また戦争期の技術者(あるいは知識人)の生き方についても、戦争に協力したことを追及するだけではすまない複雑な問題が絡み合っている。「戦争責任」をどう考えるかも含め、そこを解きほぐしていく作業は戦後半世紀以上たってもまだ十分でないと思う。
 

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