森山大道のブエノスアイレス
『DAIDO MORIYAMA BUENOS AIRES』(講談社)と印字された表紙をめくると、見返しに旅客機の機内を写した写真が現れる。次にページをめくると、上空から眺められた夜の都市。闇に浮かんだ光の波のような光景がぐぐっと高度を落としながら近づいてくる。さらにページをめくると、着陸して席を立ち始めた乗客と、今しがたタラップを降りてきた航空機を振り返るショットが続き、再び「BUENOS AIRES」と記された扉が現れて、写真集が始まる。
この「旅」の写真の一点一点、その隅々から言いようのない幸福感が漂ってくるのを感じた。この感覚はどこかで記憶がある、と頭のなかを検索したら、引っかかってきたのは森山大道がかつて『アサヒカメラ』に連載した「何かへの旅」(1971)だった。
「何かへの旅」は、同誌を発表の場にした「アクシデント」(1969)と「地上」(1973)の間にはさまれた、森山の初期の代表作ともいえる3部作の2作目。直後の1972年には、「自身と写真との肉離れ」の感覚から方法的な疑問に突き当たり、何が写っているのかも分からないネガの切れはしや雑誌・テレビの複写で構成した、当時も今もなかなか理解しにくい写真集『写真よさようなら』(写真評論社)を出している。
そこから森山大道の痛苦に満ちた長い道行きが始まるのだけれど、「何かへの旅」は、「写真よさようなら」と告げる直前の一瞬の幸福感というか、自身の意識と方法論と写される現実とが幸せに出会っているという感覚を見る者に与える。
「アクシデント」には方法的な実験があり、また「地上」が「さようなら」を告げた後の試行錯誤に満ちているのに対し、「何かへの旅」では森山の抒情的な資質と「ブレ・ボケ」と言われた大胆な表現とが「旅」という空間移動のなかで葛藤なく出会い、ある種の安定した表現を生みだしている(実はその安定こそが、これでいいのかという方法的な懐疑を生じさせたのかもしれない)。
ぶっちゃけて言えば、「名作」がたくさんあるのだ。三沢の犬。北海道の馬と、地平線。光に溶けるポプラ。海峡の連絡船。好みだけで言えば、僕は3部作のなかで「何かへの旅」をいちばん好む(主な作品は中央公論社の「映像の現代」シリーズ10『狩人』に収録)。
『BUENOS AIRES』は、三十数年の長い長い迂回をへて、ふたたび「何かへの旅」へと回帰した作品のように僕には思えた。90年代以降の森山は以前にも増して活発に作品を発表し、その表現はいよいよ深みと完成度を増して若い世代の読者を獲得したけれど、「何かへの旅」に通ずるこんな幸福感を感ずることは少なかったように思う。
ブエノスアイレスは、まるで彼が訪れるのを待ちかねていたように、森山が感応する被写体を次から次へと彼の目の前に差し出してくる。荒んだ街路をうろつく犬。エロティックな看板。逆光に光る線路とプラットフォームの影。港の貨物船と、黒々とした鉄橋。回るメリーゴーラウンド。石畳を走る少年。座り込む少女。腰まで届く金髪の女の髪。クラブで、路上で、タンゴを踊る男と女。その裾の割れ目から覗く黒い網タイツ。
写真はまぎれもなくブエノスアイレスの現実を記録している。それでいながら、森山大道の目を経由し、光と影という魔術的な皮膜一枚をかぶせられることによって、現実のブエノスアイレスは想念のなかの街へと姿を変えている。その快感と官能。
30代前半の森山だったら、その出会いの幸福にかえって不安と疑問を感じたのかもしれない。でも30年後、ブエノスアイレスで森山が出会いを楽しみながらシャッターを押しているのがとてもよく分かる。そのリズムが伝わってくる。トップランナーとして40年を走りきった、そして今も走っている年季と自信と余裕だろうか。
7月31日まで新宿のエプサイト(西口・三井ビル)で、8月6日まで茅場町のギャラリーTIGで、それぞれ展覧会も開かれている。森山フリークは必見です。
Comments