鶴見良行が歩いたボルネオ
ボルネオに行くことになったとき、短い観光旅行なのだけど、多少なりともその土地のことを知りたいと思った。で、いろいろ本を探したけど、適当なのが見つからない。結局、むかし読んだ鶴見良行『マングローブの沼地で 東南アジア島嶼文化論への誘い』(朝日選書)を引っぱり出した。鶴見良行はこの本で、フィリピンのミンダナオ島、スルー諸島、ボルネオ島のマレーシア領であるサバ州とサラワク州を歩いている。
今回の旅で行ったコタ・キナバルのあるサバ州が第2次大戦前までイギリスの植民地だったことは知ってたけど、この本を読んで改めて驚いたのは、イギリス国家直轄の植民地ではなく、香港のイギリス商人デント商会(アヘン商売をしていた)が租借し、イギリス政府が「勅許」した、いわば会社領の植民地だったこと。ついでに言うと隣のサラワク州は、ブルックなる植民地のイギリス人流れ者がブルネイ王国から割譲させ、自らラジャになった「白人王国」だった(2代目の息子は母国イギリスの近代化を嫌い、住民の伝統的生活様式を守ったなかなかの「名君」だったらしい)。
こんな怪しげな個人や会社が植民地を所有できたのも、この地域がイギリス、スペイン、オランダ3国による植民地争奪戦の谷間にあったのと、3国から見て、この土地が収奪するに足る魅力ある産品が乏しかったという理由による。
第2次大戦後、イギリス直轄の植民地だったマレー半島とサバ、サラワクが一緒になってマレーシア連邦として独立したけど、植民地の成り立ちの違いから、サバとサラワクは半島から半ば独立した自治領のようになっている。その上、サバ州は列強による植民地分割以前から経済的にも民族的にもフィリピンのスルー諸島と一体だったから、半島のクアラルンプールからは分離的傾向があると見られているらしい(スルー諸島はイスラム反政府ゲリラ、モロ民族解放戦線の根拠地であり、マラッカ海峡に出没する海賊の根拠地でもある)。
そういえば、コタ・キナバル空港からクアラルンプールへ飛ぶとき、国内の移動なのに入管カウンターでパスポートのチェックがあった。僕ら「外国人」だけでなく、マレーシア人もチェックされていたと思う。クアラルンプールからすれば、サバは警戒を要する地域であり、住民たちということなのだろうか。
鶴見良行がサバを歩いたのは1980年代のこと。彼のいつもの流儀で、1人でバスや渡し船を乗り継ぎながら移動している。そのころ、内陸の民は焼き畑農業で、マングローブの沼地に住む海の民は漁業、エビの養殖、そしてどうやら海賊で生計を立てていた。
彼はスルー諸島で漂海民パジャウ族の水上集落を訪れたことを書いているが、僕らがカランブナイ(滞在したホテルがある)近くの川を「マングローブ・クルーズ」していくと、鶴見が描写したのとそっくりなパジャウの水上集落があった。川のなかに杭を打ち、その上にトタン屋根の木造家屋(「先進国」的感覚で言ってしまうとバラック)を建てて暮らしている。漁業と牡蛎の養殖をしているという。家も、小さな漁船(というよりモーターを積んだ小舟)も、鶴見が歩いた頃と変わらない生活様式が残っている。
陸上は空港-コタ・キナバル-カランブナイの幹線を移動しただけなので、焼け畑も普通の畑や水田も見かけなかった。道路沿いには、粗末な木造家屋の集落、高床式の木造家屋、コンクリート造の団地、別荘ふうな高級分譲住宅など、新旧さまざまな家が見える。コンクリート造の団地には月給600リンギット(約2万円)程度の中クラスのサラリーマンが住むというが、畑で野菜をつくるなどせず、すべてをお金で買おうとすると生活は苦しいという。
開発がさかんで、工事中の土地も多い。最近は盛んにリゾートがつくられているから、鶴見が歩いた当時と変わらない生活様式に観光産業が接ぎ木され、それがサバの経済を支えているのかもしれない。観光資源としては、今回は行けなかったけど、東南アジア最高峰のキナバル山や熱帯雨林のオランウータン生息地など、「エコ・ツアー」の宝庫でもある。
短期の観光客としては、マングローブと熱帯雨林のほんの一端に触れただけで、それ以上のものを見ることはできなかった。いつか、鶴見良行がやったように、ひとりで、ゆっくりと、この土地を歩いてみたいものだ。
旅のなかから、「近代国家を形成しなくても、分散・移動しながら人々が平穏に暮らしてゆけるならそれで十分だ」という「マングローブ文化圏の思想」を取り出したこの本の魅力を、改めて確認した。
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