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July 30, 2005

黒谷の夏

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銀閣寺・哲学の道から黒谷のほうへ折れると、人影がぐんと少なくなり、セミの声が大きくなる。法然院の門はいつ行っても静かで、それぞれの季節の美しさを見せてくれる。

本堂に近づくと、フルートやヴァイオリンの音が聞こえてくる。夕方からのコンサートのリハーサルをしているのだった。阿弥陀さんの前で音楽をできるなんていいね。法然院は先代の宗教学者・橋本峰雄住職の時代から地域に寺を開放してユニークな活動をしている。

近くの安楽寺、大豊神社まで強い日差しのなかを歩いてさすがにバテた。


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July 28, 2005

森山大道のブエノスアイレス

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『DAIDO MORIYAMA BUENOS AIRES』(講談社)と印字された表紙をめくると、見返しに旅客機の機内を写した写真が現れる。次にページをめくると、上空から眺められた夜の都市。闇に浮かんだ光の波のような光景がぐぐっと高度を落としながら近づいてくる。さらにページをめくると、着陸して席を立ち始めた乗客と、今しがたタラップを降りてきた航空機を振り返るショットが続き、再び「BUENOS AIRES」と記された扉が現れて、写真集が始まる。

この「旅」の写真の一点一点、その隅々から言いようのない幸福感が漂ってくるのを感じた。この感覚はどこかで記憶がある、と頭のなかを検索したら、引っかかってきたのは森山大道がかつて『アサヒカメラ』に連載した「何かへの旅」(1971)だった。

「何かへの旅」は、同誌を発表の場にした「アクシデント」(1969)と「地上」(1973)の間にはさまれた、森山の初期の代表作ともいえる3部作の2作目。直後の1972年には、「自身と写真との肉離れ」の感覚から方法的な疑問に突き当たり、何が写っているのかも分からないネガの切れはしや雑誌・テレビの複写で構成した、当時も今もなかなか理解しにくい写真集『写真よさようなら』(写真評論社)を出している。

そこから森山大道の痛苦に満ちた長い道行きが始まるのだけれど、「何かへの旅」は、「写真よさようなら」と告げる直前の一瞬の幸福感というか、自身の意識と方法論と写される現実とが幸せに出会っているという感覚を見る者に与える。

「アクシデント」には方法的な実験があり、また「地上」が「さようなら」を告げた後の試行錯誤に満ちているのに対し、「何かへの旅」では森山の抒情的な資質と「ブレ・ボケ」と言われた大胆な表現とが「旅」という空間移動のなかで葛藤なく出会い、ある種の安定した表現を生みだしている(実はその安定こそが、これでいいのかという方法的な懐疑を生じさせたのかもしれない)。

ぶっちゃけて言えば、「名作」がたくさんあるのだ。三沢の犬。北海道の馬と、地平線。光に溶けるポプラ。海峡の連絡船。好みだけで言えば、僕は3部作のなかで「何かへの旅」をいちばん好む(主な作品は中央公論社の「映像の現代」シリーズ10『狩人』に収録)。

『BUENOS AIRES』は、三十数年の長い長い迂回をへて、ふたたび「何かへの旅」へと回帰した作品のように僕には思えた。90年代以降の森山は以前にも増して活発に作品を発表し、その表現はいよいよ深みと完成度を増して若い世代の読者を獲得したけれど、「何かへの旅」に通ずるこんな幸福感を感ずることは少なかったように思う。

ブエノスアイレスは、まるで彼が訪れるのを待ちかねていたように、森山が感応する被写体を次から次へと彼の目の前に差し出してくる。荒んだ街路をうろつく犬。エロティックな看板。逆光に光る線路とプラットフォームの影。港の貨物船と、黒々とした鉄橋。回るメリーゴーラウンド。石畳を走る少年。座り込む少女。腰まで届く金髪の女の髪。クラブで、路上で、タンゴを踊る男と女。その裾の割れ目から覗く黒い網タイツ。

写真はまぎれもなくブエノスアイレスの現実を記録している。それでいながら、森山大道の目を経由し、光と影という魔術的な皮膜一枚をかぶせられることによって、現実のブエノスアイレスは想念のなかの街へと姿を変えている。その快感と官能。

30代前半の森山だったら、その出会いの幸福にかえって不安と疑問を感じたのかもしれない。でも30年後、ブエノスアイレスで森山が出会いを楽しみながらシャッターを押しているのがとてもよく分かる。そのリズムが伝わってくる。トップランナーとして40年を走りきった、そして今も走っている年季と自信と余裕だろうか。

7月31日まで新宿のエプサイト(西口・三井ビル)で、8月6日まで茅場町のギャラリーTIGで、それぞれ展覧会も開かれている。森山フリークは必見です。


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July 25, 2005

ハパ(HAPA)のライブにまったり

先日のブログ(22日)で、行きたいなと書いたハパ(HAPA)のライブ、なんとか都合つけて行ってきました(7月24日・三鷹市市民公会堂)。

メンバーが変わった(って、なんせ2人組の相方です)ので心配したんですが、短いチャントに続いて「ハレアカラ(Haleakala)」を2人が歌い始めた瞬間に、うん、やっぱりハパの音だ、と安心。

新メンバー、ハワイイ人のネイザン・アウェアウ(ギター&ヴォーカル)はソロ歌手としてアルバムを出し、賞も受けてるだけに、高音の美しさ、低音の艶やかさ、そしてギターのうまさ、以前のケリイ・カネアリイと甲乙つけがたい感じです。高音はハワイアン・ミュージックのキーですが、それぞれに素晴らしく、僕の印象ではケリイの声は甘く、ネイザンの声は優しい。

新メンバーの最新アルバムからの曲と旧メンバーのヒット曲、トラディショナルとカバー曲、たっぷり聴かせてくれました。

ネイザンの曲「マヒナヒナ(Mahinahina)」は英語の歌詞でメッセージ色の強いハワイアン・バラード(?)。2人に加えて、チャールズ・カウプの野太いハワイイ語のチャントが印象的でした。ネイザンはスラック・ベースも披露しましたが、ロック・ミュージシャンとしてもかなりの腕で、これからのハパは、そんな色が強くなるのかも。

カバー曲はボブ・マーリイの「救いの歌(Redemption Song)」とU2の「プライド(Pride)」。それにアンコールで「ここに幸あり」。戦後の歌謡曲が見事にハワイアン・ミュージックに変身してた。

それにしても初めて見たバリー・フラナガンのスラック・ギターは、CDで聴いていた以上の凄さでした。「超絶技巧」などと評されてますが、変幻自在の音を紡ぎだしてきます。

フラのダンサー2人も一緒に来ていて、素晴らしい踊りを披露してくれました。年上のほうのダンサー、マリア・アン・カワイラナマリー・ピーターセンの、腕と手と腰がいっときも休むことなくハワイイの海のように優しく波打つのに呆然と見とれてた。

日曜の夜、ゆったりと流れる「ハワイの時間」にとっぷり浸った幸せな2時間でした。

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July 23, 2005

『スター・ウォーズ』のブッシュ批判?

『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』は反ブッシュ(反アメリカ)映画ではないかと話題になっている。

例えば「町山智浩アメリカ日記」では、ニューヨーク・タイムズのこんな記事を紹介している。「すでに暗黒面に取り込まれてしまったダースベイダーは、ジョージ・ブッシュの言葉と共鳴するセリフをオビワンに向かって言う。『俺に味方しないやつらは敵だ』」。

また「西森マリーのUSA通信」は、別のセリフに注目している。「上院会議でパルパティーン最高議長が『我々は安全で危害を受けることのない社会を作るために宇宙最初の銀河帝国となるのだ』と演説し、上院たちが拍手喝采をした後のパドメの台詞を見てみましょう。
 "This is how liberty dies. With thunderous applause.(自由はこうして死ぬのね。万雷の拍手を浴びながら)"
 これって、ブッシュのことを21世紀の救世主だと思っている原理主義キリスト教徒たちやネオコン、さらにテロに襲われるより警察国家で暮らしたほうがマシと信じている多くのアメリカ人が、公民権を踏みにじるブッシュの内政や国際法に違反する戦争を繰り返すブッシュの外交を盲目的に支持することを皮肉った一言としか思えませんよね」。

2005年、夏 スターウォーズの夏」には、カンヌ映画祭に出席したジョージ・ルーカスが、これはブッシュ批判映画ではないかという質問に、こう答えたと紹介されている。「筋書きは30年前につくったものであり、類似点は単なる偶然に過ぎない。まさか、現状とこれほど酷似するとは想像もしなかったよ」。ルーカスは、さらにこうも付け加えたという。「映画のなかでの出来事が、我が国で現実のものにならないことを祈っている」。

まあ、ルーカスがブッシュ批判を意図していたとしても、アメリカと世界のメジャーな観客を相手にしている以上、これ以上のことは言えないよね。

映画を見れば一目瞭然だけど、『エピソード3』は共和制から帝政へと移行したローマ史を下敷きにしてる。銀河共和国では分離主義者との内乱が続いてる。元老院のなかで、内乱を裏から操るパルパティーン最高議長に権力が集中していく。議長は、世界に「安全と安定」をもたらすため、元老院議員の圧倒的支持を得て共和国の解体と銀河帝国の誕生を宣言する。彼自身が銀河帝国の皇帝となる。「自由はこうして死ぬのね」というセリフは、この直後に発せられる。

このストーリーがアメリカ批判に映るのは、ひとつには、唯一の超大国となった現在のアメリカが例えば「デモクラシーの帝国」(藤原帰一)というように、「帝国」に擬せられていることによる。そしてまた、アルカイダやイラン、北朝鮮に対してブッシュとネオコンが口にする言葉が、まるでハリウッド映画をなぞるように「善」と「悪」、正義とならず者といった単純な二元論に基づいていることにもよる。

気づいたことを一、二、メモしておこう。

銀河帝国と戦っている分離主義者が逃げ込む星は「ムスターファ」と名づけられている。これは誰が見てもアラブ-イスラムを連想させる名前だ。確かオスマン・トルコにムスタファという支配者がいた。ルーカスはさすがに敵にアラブ-イスラム系の名前をつける愚は犯していないけど、なぜことさらにそんな連想を誘う名前の星を設定したのだろう。

ジェダイ騎士のアナキンは分離主義者と戦うためにムスターファに赴き、さらにアナキンがダークサイドに堕ちたと知ったオビ=ワンも彼を追う。溶岩と火の星であるムスターファを舞台に、アナキンとオビ=ワンの対決が繰り広げられる。

アナキンとオビ=ワンは師弟であり、ともにジェダイ騎士だから、もと一つだった人格が二つに分裂して戦っているのだとも考えられる。そしてダークサイド側の人格であるアナキンは、業火に焼かれてダースベイダーへの道をたどる。ムスターファ星が、アナキンがダースベイダーへと変身するための場を提供し、その溶岩と火が触媒の役割を果たしている。

ところでジェダイって何なのだろう。たくさん出てる「スター・ウォーズ本」を読めば解説されてるだろうけど、映画を見て分かるかぎり、選ばれた者のみに備わる特殊能力フォース(力)を正義の実現ために使う、ある種の宗教のようなものだろうか。「ジェダイ聖堂」というのが出てきて、子どもたちがそこでジェダイへの道を学んでいるから、どうやら銀河共和国(帝国)にとっては宗教としての役割を持っているらしい。

ということは「ジェダイの予言」とはキリスト教にとっての旧約聖書であり、ジェダイ騎士は十字軍の騎士と考えればいいのだろう。ジェダイ評議会とはバチカンで、その指導者ヨーダは法王と考えればいいのか。ジェダイが正統派のローマ教会だとすれば、フォースを悪のために使おうとするダークサイドとは、悪魔に仕えるとしてローマ教会に弾圧された異端派ということになる。ジェダイ評議会(宗教)と元老院(政治)がどういう関係にあるかははっきりしないが、宗教の指導のもとにありながらも、一応は政教分離されているようだ。

だから『エピソード3』とは銀河帝国内部の宗教戦争であり、異端派教会ダークサイドが帝位を簒奪して正統派教会ジェダイを辺境に追いやった映画だと考えられる。だから『エピソード4』につづく3部作は、辺境の正統派教会が権力を握った異端派教会を駆逐して、キリスト教がローマ帝国の国教になったように、帝国の国教の地位を回復するまでの映画だったわけだ。その連想の延長で言えば、ダースベイダーは、さしずめカエサルを裏切った(改心した)ブルータスといったところか。

ところで、ジョージ・ルーカスはこの映画でブッシュ批判を意図していたのだろうか。僕の印象では、やはりその意図はあったように思う。もちろん練達の職人であり、経営者であり資本家でもあるルーカスは、『アメリカン・グラフィティ』でオールディーズの懐かしい響きにベトナム反戦の心を柔らかく包んだように、それを露骨に表現するようなことは決してしない。

でも、それはどっちでもいいと思う。ブッシュ批判であろうとなかろうと、映画そのものの評価に関係するわけではない。僕がこの映画にがっかりしたのは(もちろん楽しんだけど)、ダースベイダーというシリーズ最高のキャラクターの「悪」が、さほど魅力的には描かれていなかったこと。なにしろ、ダースベイダーがどんなに悪魔的な美しさと残虐さを湛えているかが、僕のこの映画への最大の期待だったのだから。

フィギュアをたくさん持っているキャラクター好きなら、アナキンの顔がダースベイダーの黒い仮面によって覆われた瞬間にエクスタシーを感じたかもしれない。数々の戦闘シーンではなく、確かにその静かな瞬間がこの映画のクライマックスには違いない(ネタバレだけど、「3」がダースベイダー誕生をテーマにしてることはみんな知ってるだろうから、許して)。

でも、アナキンがダークサイドに堕ちるまでの苦悩の道筋が、見る者を納得させるようには描かれていないと感じた。愛する者を救うためにアナキンは自ら「悪」と化すのだが、予知夢を見たというだけならば、それを避けるための選択肢はまだまだありそうだ。

ダークサイドに堕ちてからのアナキンの悪逆非道ぶりも徹底していない。幼い観客も多いことだから当然の配慮とはいえ、ジェダイ聖堂での子どもの虐殺もミディアム・ショットであっさりと処理し、黒いマントに身を包んだアナキンの暗い瞳に悪行を象徴させている。ファンタジーに単純な善悪二元論を超えた複雑さを持ち込もうとした構想が、そもそも無理だったのかも。

1978年、『スター・ウォーズ』第1作を見たのは、今はない有楽町の日劇だった。冒頭、広大な銀河宇宙のなかで、解説(あらすじ)が空間手前から奥へと移動していくのは6作を通して変わらない作り方だけど、あらすじが終わると、画面隅から宇宙船が腹を見せて現れる(観客は宇宙船を見上げるかたちになる)。宇宙船の船体と見えたものがそのほんの一部にすぎなくて、とてつもなく巨大でリアルな宇宙船が頭上をゆっくり通り過ぎる。あのときの興奮が、結局、『スター・ウォーズ』のすべてだったような気がする。

お話は単純で、『2001年 宇宙の旅』や『惑星ソラリス』に比べようもなかったけど、冒頭のシーンやCGを使った宇宙船の戦闘シーンは確かに新しい映画の時代を実感させた。それを「ルーカス-スピルバーグの時代」と言うなら、僕はやがてその時代があまり好きではないことに気づくことになった。


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July 22, 2005

ケアリイ・レイシェルとハパ

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梅雨が明けると、朝聴く音楽も気分を変えたくなる。以前はボブ・マーリィのライブを大音量でかけると夏が来たなって感じになったけど、この歳になると悲しいかなボブ・マーリィに対抗するだけのエネルギーがこちらにない。ここ数年は、これも定番だけどハワイアンを聴くようになった。

ハワイアン・ミュージック、なかでも1990年代から大きなムーブメントになったハワイアン・コンテンポラリーを初めて聴いたのは、ケアリイ・レイシェル(Keali'i Reichel)が歌うトラディショナルの名曲「アカカ・フォールズ('Akaka Falls)」だった。スラック・ギターの弛んだ柔らかい音がゆったりしたリズムで入り、ケアリーの高く澄んだ声が美しいメロディーを歌い始めると、ハワイの心地よい風の記憶が五感を刺激して、蒸し暑い東京にいてもハワイ島(僕の場合)のホテルにいるような気分になる。

今年は『ケアラオカマイレ(Ke'alaokamaile)』(左)を聴いている。去年、久しぶりに出た新譜で、買おうかどうか迷っているうちに夏が終わってしまい、今年の6月に買って梅雨が明けるまで封を切らずにおいた。「ケアラオカマイレ」とは「マイレ(祖母の名)の薫りよ永遠に」といった意味らしく、祖母に捧げられている。

アルバムは潮騒の音とともに始まる。穏やかな声のケアリイの語り(英語)と祖母の家系を讃えるチャント(ハワイイ語。池澤夏樹に習ってHawaiiを発音通りに記す)。ケアリイが10代のころハワイイ文化に興味を持って言葉を習い、おばあちゃんに話しかけたら、それまで英語しか知らないと思っていたおばあちゃんがハワイイ語で答えたときの驚きが、ライナーノーツに紹介されている。

チャントが終わると自作の「カ・ノホナ・ピリ・カイ(Ka Nohona Pili Kai)」で、いつものケアリイの快い音楽がはじまる。続いてスティングの「フィールズ・オブ・ゴールド」のカバー(英語)。美しいラブソング。恋を語る「黄金色の小麦畑」が、ケアリイが歌うとハワイイの海の光る波のように感じられて素敵だ。5曲目の「ププ・アオ・エワ(Pupu A'o'ewa)」はトラディショナル(日本でもよく知られた曲)で、おばあちゃんに言われて人前で歌った曲だという。

そんなふうにコンテンポラリーとトラディショナルとカバー曲が入り交じっている。ケアリイの祖母と自らの青春をめぐるアルバムといった感じ。ゆったりと明るく心地よい音楽でありながら精神性を感じさせる。

ケアリイ・レイシェルとともに好きなのがハパ(HAPA)。ハワイイ人のケリイ・カネアリイと白人のバリー・フラナガンのデュオで、僕が持っているのはハワイイ編集のベスト盤『COLLECTION HAPA』。

バリーの見事なスラック・ギターと、ケリイの柔らかく甘い歌声の組み合わせがとてもいい。1曲目の「Lei Pikake」を聴くと、身も心も瞬時にハワイイに飛んでしまう。東京の時間ではなく、ハワイの時間に入り込んでしまう。これはバリーの曲。彼はアメリカ本土出身で、ハワイイ音楽に傾倒してハワイイに来た。白人なのにハワイアン・ミュージックの素晴らしい曲と詩をつくる。

今年もケアリイ・レイシェルとハパで、何とか熱い夏をやりすごそう。

と、ここまで書いてネットで調べたら、ケリイとバリーのハパは解散し、バリーと別のハワイイ人歌手が新しいハパを結成したらしい。なんと、いま来日していて、7月24日に三鷹市公会堂でコンサートがある。うーん、予定が入ってるんだけどな、行きたい。


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July 20, 2005

さらば三信ビル

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三信ビル(千代田区有楽町1丁目)が取り壊されることに決まったそうだ。1929年に建てられたこのオフィス・ビルは建築の世界では有名な建物で、昭和初期のモダン建築を代表するもののひとつ。なかでもアーケードの商店街は、旧丸ビルにもあったように当時の最新流行だった。三信ビルがなくなれば、東京ではもう見られなくなる。アーケードだけでなく、優雅なエレベーターホールや柱のレリーフ、階段の彫刻など、細部も素晴らしい。

午後6時、オフィスが退ける時間だというのに、人影はまばら。空き家になった店もあり、取り壊しも仕方ないのか。でも、この空間に身を置いたときの贅沢感は六本木ヒルズでは味わえない。

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July 17, 2005

浄妙山厄除粽

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友人が祇園祭の厄除け粽(ちまき)を浄妙山山鉾で求めてくれた。よく町屋の玄関に飾ってある、京都ならではの風習。これから1年間、京都ではなく関東だけど、わが家の玄関で厄を払ってくれる。

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July 16, 2005

祇園祭宵宵山

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京都駅で降りて地下鉄に乗ったら若い子たちがみな浴衣を着ている。それで初めて、今日(15日)が祇園祭の宵宵山であることに気づいた(それにしてはホテルがすんなり取れたなあ。直前でキャンセルが出たのにうまく当たったのか)。

烏丸御池で降りると烏丸通りは歩行者天国になっていて、すっかりお祭り気分。用事をすませて、室町通り、新町通りの山鉾を巡り歩いた。

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July 13, 2005

マレーシア・ポップスの2人

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コタ・キナバル最大のショッピング・センター「センター・ポイント」のミュージック・ショップで店員の若い女性に、「いま、いちばん人気ある歌手は?」と聞いたら、シティ・ヌールハリザ(Siti Nurhaliza)のCDを出してきてくれた。するともう一人が、違う、こっちよ、という感じで微笑みながらミーシャ・オマール(Misha Omar)のCDを指さした。

シティ・ヌールハリザの名前は知ってる。HMVやヴァージン・メガストアのアジア・ポップスのコーナーに行くと、「マレーシアの歌姫」というキャッチでシティのCDが必ず置いてある。いつか聴いてみようと思いながら、そのままになっていた。

彼女らがリコメンドしてくれた2枚、シティの「プラサスティ・スニ(Prasasti Seni)」(右)とミーシャの「アクサラ(Aksara)」を買った。ミーシャを買ったのは、ジャケットの彼女にくらくらきた気味もあることは否定できない。シティも清純派の美人で、アラブ・ポップスの歌手は超と言っていいくらいの美女揃いだけど、マレーシア・ポップスの歌手もそれに引けをとらない。

音を聴いての第一印象は、うーん、マレーシア・ポップスは奥が深いなあ、という感じ。日本のポップスはアジア・ポップスのなかでも欧米ポップスの影響が強い音楽だと思うけど、マレーシア・ポップスはそれとは明らかに別の音楽。

でもアジア・ポップス共通の要素はたくさんあって、「日本の歌謡曲みたい」(わがカミサンの感想)だったり、「広東語ポップスみたい」(香港に暮らしたことのある娘の感想)だったり、「いや、アラブ・ポップスの匂いもするぞ」(これはアラブ・ポップスにはまっている僕の感想)だったり、いろんな要素が微妙に入り交じっているように感ずる。そしてそれらを孕みつつ、ほかでもないマレーシア独自のポップスになっている。哀愁あるメロディー。スローな曲と、独特のリズムを持つダンサブルな曲と。

シティ・ヌールハリザのCDは何枚も輸入されているし、ファンも多い。サイト「MELAYU BEAT」などによると、シティはもともとアイドル歌手としてデビューしたが、マレーシア伝統歌謡のアルバム「チンダイ」を出して爆発的にヒットし、以後、ポップスと伝統歌謡と両方のアルバムを出している。

僕の買った「プラサスティ・スニ」(2004)はポップス・アルバムに分類されるているようだが、日本で言えばポップスというより歌謡曲に近い印象を受けた。1950年代の日本の歌謡曲のような懐かしさを感じさせる歌があるかと思えば、70年代フォークふうあり、かと思うとダンサブルな曲があるといった、おもちゃ箱をひっくり返したようなCD。

なかでも7曲目「Lagu rindu」で、アジア人好み(?)のマイナーなメロディーにコブシを利かせ、日本の「リズム歌謡」をもっとダンサブルにしたような曲から、一転して8曲目「Sakti」で竹笛とともにゆったりと東洋的なバラードを歌い上げるあたりに惹かれた。「Kemhalikan Indah」も、中島みゆきが歌ったらおじさんは泣いてしまいそう。

ミーシャ・オマールは、シティと同じように高く澄んだ声に特徴のある歌手だけど、アイドルらしく素直な声のシティよりドスがきいてて、喉を絞ってしゃがれ声を出してみたり、頻繁にコブシを回してみせる。それでいて、シティのCDが全体として歌謡曲といいたくなるのに対して、ミーシャの「アクサラ」(2005)はポップスのつくり。(日本の)ニューミュージックふうな曲と、体が自然に動き出すダンサブルな曲が組み合わされている。

「Riwayat Cinta」は、印象的なマイナーのフレーズが繰り返されるしっとりしたバラード。いい曲です。「Tak Ingin Lagi」はラップが入ったヒップホップ。声が艶っぽい。アラブ・ポップスの匂いを感ずるのは僕だけだろうか。「Hati Keliru」もダンサブルな心地よい曲(ダンドゥット?)で、意味は分からないけど「チャリチャリ」とオノマトペみたいな言葉が繰り返される。「Pulangkan」は男性歌手とのデュエットで、昔聴いた高橋真梨子と来生たかおの歌を思い出した。

伝統的なマレーシア歌謡は、多民族国家にふさわしく色んな民族の伝統的なメロディーとリズムが入り組んでいるようだ。もともとマレー半島に住んでいたマレー系民族だけでなく、華僑が多いから中国的な要素もあるし、インドネシアと共通するダンドゥット(ダンサブルな音楽。インドネシア・ポップスのCDを何枚か持っていて、一時期よく聴いた)もある。マレーシアはイスラム国家で、宗教儀式に音楽はつきものだから、かつてイスラム商人がアラブ音楽も持ってきたにちがいなく、僕がアラブ・ポップスの香りを感じたのもあながち間違いではない気もする。

そんな土壌の上に成り立ったマレーシア・ポップスは、日本の歌謡曲やポップスにくらべると、ずっとバラエティーに富んでいる。

シティとミーシャの、どっちをよく聴くことになるか。時間がたってみないと分からないけど、今のところミーシャを聴くことが多い。

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July 10, 2005

『ワンナイト・イン・モンコック』は激しく、切ない

東映ヤクザ映画が全盛の頃、年に1本か2本、目の覚めるような傑作が生まれた。たとえば山下耕作の『総長賭博』であり、加藤泰の『明治侠客伝 三代目襲名』であり、深作欣二の『人斬り与太 狂犬三兄弟』といった作品が思い浮かぶ。

どの作品もシリーズものの1本だったから、設定もストーリーも役者も、細部で順列組み合わせの差はあるにせよ基本的にはシリーズの他の作品と似たようなもの。その同じ素材から、あるものは眠くなるような映画になり、あるものは30年後にもいくつものシーンを鮮やかに思い出す作品になる。

不思議なことだけれど、脚本と演出と役者とその他スタッフの力と、ジャンル(東映ヤクザ映画)の展開と成熟度と、そしてこれはつくり手の意思ではどうにもならない時代の空気と、ジグゾーパズルのようにすべてのコマが奇跡的にぴたりとはまるべきところにはまる映画がある。

『ワンナイト・イン・モンコック 旺角黒夜』(イー・トンシン監督・脚本)を見てそんなことを思ったのは、この映画が香港ノワールの『総長賭博』であり『人斬り与太 狂犬三兄弟』であるような気がしたからだ。

素材は香港ノワール、あるいは香港映画でおなじみのものばかり。

舞台は香港でいちばん香港らしい街、猥雑な繁華街の旺角(モンコック)。黒社会の、対立する組同士の抗争。それを追う刑事たちの、人生に疲れた警部(アレックス・フォン)と跳ね上がりの新人の対比。大陸からやってくる殺し屋(ダニエル・ウー)という設定は、『インファナル・アフェア 終極無間』でもあった。同じように大陸からやってきて売春している娘(セシリア・チョン)というのも、かつて香港映画で見た記憶がある(タイトル失念)。『PTU』と同じ、一夜の物語という設定(厳密には一夜ではないけど)。

目新しい設定でも物語でもない。でも、いかにも香港ノワールらしい素材を使って、冒頭からラストシーンまで、ぴんと張った一本の糸のような映画だった。

なかでも、脚本がとても良く練れていると思った。導入部で事件のきっかけとなるチンピラ同士の争い。そのきっかけとなる女が、最後にストーリーに絡んでくる伏線の張り方。やる気のない同僚を責め、やたら張り切る新人警官が引き起こす事件。それを黙って処理する警部の苦い思い。

マフィアのボスに脅され、警部にも脅されて右往左往する成金趣味の携帯電話屋夫婦のおかしさと哀れ(『PTU』に続いてラム・シュがいい味出してる)。別々の追っ手から逃れる殺し屋と娼婦が一緒に行動しながら、それぞれに抱えている過去と夢。言葉少なにやりとりする2人の感情が揺れる。この2人の会話だけが北京語というのがこの映画のキーなのだけど、広東語と北京語を聞き分けられないので、その微妙さを理解できないのが残念。

登場する人間たちと、その絡みが丁寧に描かれて、どのシーンも、どのカットも無駄がない。手持ちキャメラの不安定なフレームが映し出す夜の旺角は、雑踏の乱闘も、狭い安ホテルの暴力シーンもリアルだ。

香港ノワールの流れをちゃんと押さえている訳ではないけど、かつての香港ノワールといえば、良い意味でのいい加減さが持ち味だったと思う。そんなのありえねーという設定でも、多少辻褄が合わないストーリー展開でも、それを覆い隠す強烈なアクションと思い入れで見る者を強引に説得してしまった。

でも最近の香港ノワールは『インファナル・アフェア』3部作にしても『PTU』にしても、かつての香港ノワールからは考えられないくらい周到に脚本が書かれている(そもそも、かつての香港ノワールというジャンルから既に逸脱しているのかもしれない)。『ワンナイト・イン・モンコック』も例外ではない。これは香港ノワールの成熟あるいは変質だろうけど、かつてのファンからは、香港映画の魅力はそのいい加減さにこそあったと言われてしまうかもしれない。

(以下、ややネタバレです)

最後、何人もの登場人物が撃たれる。眉間を撃たれた新人警官の血塗れの手と、それを握りしめる兄貴分警官の手のアップ。少し離れた場所で、撃たれた殺し屋が最後の力をふりしぼって伸ばした手を警部が受け止めるのをためらい、ためらっている間に息絶える、これもアップの映像。思いがつながり、あるいはつながらない。それぞれの思いがていねいに描かれているだけに、胸に迫る。

深作欣二のように激しく、加藤泰のように切ない映画だった。

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July 08, 2005

鶴見良行が歩いたボルネオ

ボルネオに行くことになったとき、短い観光旅行なのだけど、多少なりともその土地のことを知りたいと思った。で、いろいろ本を探したけど、適当なのが見つからない。結局、むかし読んだ鶴見良行『マングローブの沼地で 東南アジア島嶼文化論への誘い』(朝日選書)を引っぱり出した。鶴見良行はこの本で、フィリピンのミンダナオ島、スルー諸島、ボルネオ島のマレーシア領であるサバ州とサラワク州を歩いている。

今回の旅で行ったコタ・キナバルのあるサバ州が第2次大戦前までイギリスの植民地だったことは知ってたけど、この本を読んで改めて驚いたのは、イギリス国家直轄の植民地ではなく、香港のイギリス商人デント商会(アヘン商売をしていた)が租借し、イギリス政府が「勅許」した、いわば会社領の植民地だったこと。ついでに言うと隣のサラワク州は、ブルックなる植民地のイギリス人流れ者がブルネイ王国から割譲させ、自らラジャになった「白人王国」だった(2代目の息子は母国イギリスの近代化を嫌い、住民の伝統的生活様式を守ったなかなかの「名君」だったらしい)。

こんな怪しげな個人や会社が植民地を所有できたのも、この地域がイギリス、スペイン、オランダ3国による植民地争奪戦の谷間にあったのと、3国から見て、この土地が収奪するに足る魅力ある産品が乏しかったという理由による。

第2次大戦後、イギリス直轄の植民地だったマレー半島とサバ、サラワクが一緒になってマレーシア連邦として独立したけど、植民地の成り立ちの違いから、サバとサラワクは半島から半ば独立した自治領のようになっている。その上、サバ州は列強による植民地分割以前から経済的にも民族的にもフィリピンのスルー諸島と一体だったから、半島のクアラルンプールからは分離的傾向があると見られているらしい(スルー諸島はイスラム反政府ゲリラ、モロ民族解放戦線の根拠地であり、マラッカ海峡に出没する海賊の根拠地でもある)。

そういえば、コタ・キナバル空港からクアラルンプールへ飛ぶとき、国内の移動なのに入管カウンターでパスポートのチェックがあった。僕ら「外国人」だけでなく、マレーシア人もチェックされていたと思う。クアラルンプールからすれば、サバは警戒を要する地域であり、住民たちということなのだろうか。

鶴見良行がサバを歩いたのは1980年代のこと。彼のいつもの流儀で、1人でバスや渡し船を乗り継ぎながら移動している。そのころ、内陸の民は焼き畑農業で、マングローブの沼地に住む海の民は漁業、エビの養殖、そしてどうやら海賊で生計を立てていた。

彼はスルー諸島で漂海民パジャウ族の水上集落を訪れたことを書いているが、僕らがカランブナイ(滞在したホテルがある)近くの川を「マングローブ・クルーズ」していくと、鶴見が描写したのとそっくりなパジャウの水上集落があった。川のなかに杭を打ち、その上にトタン屋根の木造家屋(「先進国」的感覚で言ってしまうとバラック)を建てて暮らしている。漁業と牡蛎の養殖をしているという。家も、小さな漁船(というよりモーターを積んだ小舟)も、鶴見が歩いた頃と変わらない生活様式が残っている。

陸上は空港-コタ・キナバル-カランブナイの幹線を移動しただけなので、焼け畑も普通の畑や水田も見かけなかった。道路沿いには、粗末な木造家屋の集落、高床式の木造家屋、コンクリート造の団地、別荘ふうな高級分譲住宅など、新旧さまざまな家が見える。コンクリート造の団地には月給600リンギット(約2万円)程度の中クラスのサラリーマンが住むというが、畑で野菜をつくるなどせず、すべてをお金で買おうとすると生活は苦しいという。

開発がさかんで、工事中の土地も多い。最近は盛んにリゾートがつくられているから、鶴見が歩いた当時と変わらない生活様式に観光産業が接ぎ木され、それがサバの経済を支えているのかもしれない。観光資源としては、今回は行けなかったけど、東南アジア最高峰のキナバル山や熱帯雨林のオランウータン生息地など、「エコ・ツアー」の宝庫でもある。

短期の観光客としては、マングローブと熱帯雨林のほんの一端に触れただけで、それ以上のものを見ることはできなかった。いつか、鶴見良行がやったように、ひとりで、ゆっくりと、この土地を歩いてみたいものだ。

旅のなかから、「近代国家を形成しなくても、分散・移動しながら人々が平穏に暮らしてゆけるならそれで十分だ」という「マングローブ文化圏の思想」を取り出したこの本の魅力を、改めて確認した。


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July 04, 2005

ボルネオの旅(4) クアラルンプール

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帰りの便の都合でクアラルンプールで1泊することになった。ボルネオから来ると、夕闇のクアラルンプールは大都会。「アジアのランドマーク」、88階452メートルのペトロナス・ツインタワー(2003年に台湾の台北国際金融センターができるまでは世界一だった)が、あたりを睥睨するようにそそり建っている。

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低層階のアトリウムのガラス天井から見上げたツインタワー。ユニークな超高層、愛宕グリーンヒルズでも知られる建築家シーザー・ペリの設計で、照明が織りなす幾何学模様と、てっぺんの尖塔は、まるで光るイスラム建築。

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クアラルンプールの夜明け。立ち並ぶ高層建築と足下の古い市街は、まさに現在のアジアの都市風景。

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クアラルンプールの朝。旅の終わりに美しい雲を見た。

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ボルネオの旅(3) コタ・キナバル

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州都コタ・キナバルのナイト・マーケット。暗くなると広場に数十軒の屋台が店を開く。衣料、アクセサリー、雑貨、カセット、薬など日用品が中心。観光客というよりコタ・キナバルの住民が買いにきている。

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ナイト・マーケット。乾燥したタツノオトシゴ(薬)を売っていた屋台で、お父さんの脇に座っていた女の子。

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ナイト・マーケットの裏手、イスラム系の大衆食堂で食事した。皿盛りのご飯に好みの総菜をトッピングする。白身魚フライの唐辛子ソース炒め、ゴーヤの炒め、小魚のフライ、牛肉のエビソース炒めなど。素材はボルネオ、料理のベースは中華、香辛料はインド、という気がした。ベトナムのフォーをカレー味にしたような麺もうまい。これに甘いティー(チャイ)をつけて1人200円! アルコールがないのが玉に瑕だけど、満足。

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July 03, 2005

ボルネオの旅(2) 植物と花

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滞在したホテルは新しいリゾートらしく広大で、敷地内にはプライベート・ビーチ、熱帯雨林のトレッキング・コース、ラグーン、僕には無縁だけどゴルフ・コースもある。庭の植物や花はきちんと管理されていて自然のままではないけれど、やはり美しい。

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ボルネオの旅(1) マングローブ

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ボルネオ島(マレーシアのサバ州)に行ってきた。サバの州都コタ・キナバルから車で30分ほどのカランブナイに、5年前に開発されたリゾート。スコールの後、熱帯雨林に虹がかかった。

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両岸にマングローブが緑の壁のように並ぶ川を遡った。かつてこのあたり一帯の海岸はマングローブで覆われていたらしいけど、薪にされたり開発されたりで、今ではかなり少なくなっているようだ。

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見事なマングローブの巨樹。カヤックでマングローブとマングローブの間の狭い水路を走るのは、とても気持ちいい。

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川に面した集落。もっと上流に行くと、フィリピン南部から北ボルネオにかけて住む漂海民パジャウ族の、昔ながらの水上集落も残っている。


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