藤原保信の「自由主義の再検討」
刊行が始まった『藤原保信著作集』(新評論)の第9巻「自由主義の再検討」を読んでみる気になった。藤原保信は50代で惜しまれて亡くなった政治思想史の研究者。巻頭に収められた「自由主義の再検討」(1993)は遺作で、岩波新書のために書かれた。
1993年といえば、ソ連が崩壊した直後。社会主義に対する「自由主義の勝利」が声高に叫ばていた時代だ。そんな空気のなかで、序章に「自由主義は勝利したか」と疑問形のタイトルがつけられているところに、著者の立ち位置が暗示されている。といって藤原は研究者らしく、自らの立場を性急に主張することはしない。専門である西欧の政治思想史をさかのぼることによって、自由主義(具体的には私有財産と市場、つまり資本主義)が歴史的にどんなふうに正当化されたのかを政治思想の視角から跡づけている。
僕なりに(いい加減に、ということですが)要約すると、自由主義は次のような前提に立っている。
・自由主義の人間観は、人は生まれながらに自由で平等である、というものだ。言いかえれば、個人は自然な状態のなかではばらばらに切り離されていて、善悪正邪の基準を自分の内部に探さなければならない。それを誰にも邪魔されないのが、人間の自由というものだ。こういう人間観は、それが生まれた当時には支配的だった中世的な身分秩序や世界観に対してラディカルな批判として機能し、近代を切り拓くことになった。
・個人が働いて得たものは、各人が所有してよい。また平等な個人が自分の意思で結んだ契約は、それによってどんな結果がもたらされようと正しい。市場でのそのような自由な交換と自由な交易は社会の富を全体として増大させるし、人々はその恩恵に浴することができる。
・ギリシャ=ローマ時代や中世には、知恵や勇気や節制といった徳で人間の欲望を抑えることが価値ある生とされたが、近代はそのような価値を転倒し、人間の欲求、欲望を解放することが善とされた。快楽を最大にし、苦痛を最小にすることこそが人間の幸福だ。
・民主主義は政治体制として必ずしも高い評価をされていなかった。議会制民主主義は最善の政治形態ではなく、政権交代が可能であることによって最悪の政府の出現を防げることに意味があるとされた。
こんな考え方が17世紀から19世紀のヨーロッパで成立した。むろん歴史は理念どおりに進んだわけではなく、貧富の差が拡大し、持つ者と持たない者の階級対立が激しくなった。それに対して、資本主義を原理的に批判したのがマルクスで、私有財産と市場を前提に富の再分配を考えたのがケインズだったのはよく知られている。でも今、「マルクス主義」を看板にしたソ連圏は崩壊し、ケインズ的「大きな政府」論は社会の活力を奪うとされて元気がない。
藤原保信は自由主義に懐疑的だけど、それを批判する立場はマルクスでもケインズでもなく、人間の基本的価値としての「善」に拠って立つ。その姿勢はプラトン、アリストテレス以来の系譜を引いた理想主義というか、見方によってはひどく時代錯誤的な印象も受ける。
藤原自身、「死語になったとすら思われる」と言いながら「徳ないし有徳」「善悪、正邪についての判断基準を提供しうるものとしての道徳的空間」の回復を説いている。藤原の主張の背後には、政治思想の世界で、ポスト・モダニズムがからんだ「価値」をめぐる論争があるらしいのだけど、僕にはよく分からない。
ただ藤原に「徳」の回復という、やや唐突(という感じ方こそが、僕らがいかに欲望に支配されているかの証拠かもしれない)な言葉を持ち出させた動機が、同時代に生きる者としての世界と人間への危機感だったのは、その文章から感受できる。
藤原が亡くなって10年たつけれど、彼が感じた危機はいっそう深まっている。今、世界で進行している「グローバル化」と、それを支える「新自由主義」というやつが、世界市場での19世紀的な「むきだしの資本主義」への回帰と、国内的な階級対立から国際的な南北対立へと姿を変えた貧富の格差拡大をもたらしつつあること、19世紀にはなかった新しい問題として地球規模の環境破壊が進行していることは、誰の目にもはっきりしている(と思う)。
それに対して、どう歯止めをかけるか。自分の生活という日常レベルで何ができるか。僕は研究者ではないから、藤原保信が書いていることをそういうレベルに置き直して考えてしまうけれど、そうなると、うーん、うーんと立ち止まってしまう自分がいる。
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