『真夜中の弥次さん喜多さん』の「リヤル」
最初の5分で期待を持たせ、次に、なんじゃこりゃと本気で映画館を出ようと思い、見終わってみると、うーん、なんだかヘンな映画だったなと半分だけ満足した。見ている間に、こんなにくるくると気分が変わった映画も珍しい。
『真夜中の弥次さん喜多さん』(宮藤官九郎監督)の冒頭は、女が米を研ぐ手のアップと、シャッシャツという耳障りな音。これが何を意味するかは、映画の後半で分かってくる。次のシーン。弥次喜多が釣りをしていると戸板が流れてきて、くるりと返ると女の死体が乗っている。たくさんの戸板がテレビゲームみたいな動きで流れてきて、ひっくり返るとどの板にも自分たちが乗っている。「東海道四谷怪談」の有名な「戸板返し」がゲームに見立てられているわけで、だから、どうやらこれが死者の映画であるらしいと想像がつく。
画面が変わると、これが弥次(長瀬智也)の夢だったことが分かる。場所はヤク中の喜多(中村七之助)の長屋。ホモの2人は舞い込んだお伊勢参りのDM(しりあがり寿のパートカラーの絵葉書)に誘われ、生きながら死んでいる喜多のヤク中を直そうと、バイクに乗って「リヤル」探しの旅に出る。ここまでがプロローグ。
2人は53次とまではいかないが、「笑の宿」「喜びの宿」「歌の宿」「王の宿」と旅を続ける。関所でコントを披露して奉行を笑わせないと通してくれない「笑の宿」といったふうに、原作からヒントを得たコントがつながってゆくのだけど、これが僕にはちっとも面白くない。引用やパロディがふんだんに出てきて遊んでるのは分かるけど、出来の悪いテレビのバラエティーか内輪ウケの芝居を見てるみたいで、退屈してしまった。それがいくつも続くので、映画館を出ようかと思ったのはこのあたり。
ところが、幻覚キノコを食べてしまい、弥次さんと喜多さんの腕がなぜかつながってしまうあたりから妙な「リヤル」感が出てくる。冒頭の女のシーン、戸板返しのシーンの意味も分かってくる。すべてが幻覚というか、死者というか(これ以上はネタバレになりそうで説明できないが)、非現実世界の「リヤル」が動き出す。
映画のなかで、人が死ぬと魂はみんな同じ顔と体を持っている。この「魂」を演ずる荒川良々が、しりあがり寿のキャラクターにぴったり。ちょっととぼけた、太り気味で動作ののろい肉体が、なんとも不思議な存在感を醸し出している。岩と化した「魂」が流す涙が三途の川になり、あの世の別の魂が川を飛び越えて現世に戻ろうとするとカエルになってしまう笑いのセンスもいい。
原作(2冊の原作のうち、僕は『弥次喜多 in Deep』しか読んでないが)は、最初から最後まで現実と非現実が入り交じり、死とエロスに満ちた世界が繰り広げられている。その世界が、後半の「魂の宿」あたりからようやく展開される。前半の、僕の目からは面白くないお笑いや純愛は、いわば若い観客を引きつけるための「キャッチ」なのか、あまり重くなりすぎるのを嫌ったクドカンの体質なのか。
芝居やテレビの「リヤル」をそのままフィルムにしたら、映画の「リヤル」にはならなかった、ような気がする。せっかくしりあがり寿を映画にするなら、徹頭徹尾、「魂の宿」で見せた非現実の「リヤル」にこだわってほしかったと思うのはジジイの感想か。
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