『ミリオンダラー・ベイビー』は、133分の上映時間のおそらく半分近くが、ロサンゼルス・ダウンタウンの空き倉庫に組まれたボクシング・ジムのセットで撮影されている。
白く塗られた煉瓦壁は薄汚れてところどころ崩れ、水道や電気の配管が壁を這っている。鉄骨が剥きだしの天井から長く吊り下げられた電灯とその青白い光が、がらんとしたジムの広さを感じさせる。壁には50年代のポスターみたいなボクサーの絵と「HIT PIT JIM」の文字。とてもセットとは思えない、汗と小便の匂いが漂ってきそうなリアルな空間。そこでの、光と影のコントラストを強調し、漆黒の闇の深さを際立たせた撮影が素晴らしい。
この漆黒の深さは単に映像の美しさというだけでなく、映画の深い芯のようなものと密接に絡み合っている。例えばジムに押しかけ入門したマギー(ヒラリー・スワンク)を認めなかったフランキー(クリント・イーストウッド)が、はじめて彼女に声をかけるシーン。
ジムの片隅でマギーのトレーニングをじっと見ているフランキーは、下半身が見えるだけで、上半身と顔は光が当たらない闇のなかにある。フランキーが前に進み出ると顔が光のなかに浮きだし、そこで彼ははじめて彼女に向かって言葉を発する。闇から光のなかへ歩みでたフランキーの姿は、そのまま彼の内部の変化を映し出している。
映画の後半でも印象深いシーンがあった。マギーがある事件に襲われた後、フランキーと元ボクサーの雑役夫スクラップ(モーガン・フリーマン)がジムのなかで言葉少なに会話を交わしている。ぽつりぽつりと語る2人に、光は一方向からのみ当てられている。フランキーは顔の半分だけが光のなかに浮き上がり、残りの半分と上半身は闇に沈んでいる。
かつてスクラップの試合にトレーナーとしてついたフランキーは、止めるべきときに止めないでスクラップの片目を失明させたことを悔いている。その悔いが、彼を勝負よりも安全を第1とするトレーナーにしたのだが、それはプロフェッショナルとしては半ば死んでいるようなものだ。フランキーは優れたボクサーを育てるが、彼らはリスクを犯してまで試合を組もうとしないフランキーのもとを去ってゆく。
ところがフランキーは、マギーにだけ、スクラップに犯したと同じ過ちを繰り返してしまう。スクラップのときと同じように、マギーを愛するがゆえに、「死んだように生きている」人生を今いちど生きようとし、自分で定めたルールを踏み超えてしまった。そのことを語るイーストウッドとフリーマンの対話、というより沈黙といったほうがふさわしいこのシーンでも、深く豊かな黒が画面を支配している。
『ダーティーハリー』(ドン・シーゲル監督)から『荒野のストレンジャー』『ペイルライダー』まで、イーストウッドの映画で撮影監督ブルース・サーティーズが撮る映像の闇の深さ、漆黒のあでやかさは定評があった。その後、ジャック・N・グリーンがサーティーズを継いで『許されざる者』や『スペース・カウボーイ』を撮った。
この映画の撮影監督トム・スターンは『ブラッド・ワーク』以来、イーストウッドと組んでいる。『ブラッド・ワーク』では50年代フィルム・ノワールのモノクロームの光と影をカラー撮影で再現し、前作『ミスティック・リバー』では3人の男たちが抱える心の闇をボストンを流れる川の黒々した川面に象徴してみせた。彼はサーティーズとグリーンの漆黒の美しさを継承しながら、作品のテーマをより緊密に画面に連動させる方向でイーストウッドの文体を発展させた。
撮影のスターンに編集のジョエル・コックス、美術のヘンリー・バムステッドを加えた「イーストウッド組」のもとで、イーストウッド(彼自身は役者であり演出家であり音楽担当でもある)のスタイルはいよいよ成熟し、そのスタイルの個性と完成度においてハリウッドで彼に並ぶ者はいない。
イーストウッドの映画は最後のハリウッド正統派とでもいおうか、最近の流行にははっきりと背を向けている。これ見よがしのCGは使わない。短いカットを積み重ねて3分に1度ヤマをつくるような今のハリウッド映画とは対極の、ゆったりした語りで、じっくりと人物を造型してゆく(この映画の最後の30分のテンポ!)。くすんだ色彩と漆黒の闇を好む。カメラを手持ちで振り回したりせず、また「絵」としての美しさのみを追わない。
さらに物語を分解して入れ子構造にしたり、時制を複雑にすることも好まず、物語を物語としてきちんと語る。エンタテイメント映画の定石を踏まえて典型的な人間像を設定するけれど、それが類型に堕さずに血が通っている。
要するにイーストウッドの映画はルーカス、スピルバーグ以後の現代ハリウッド的なものから遠い。そればかりでなく、70年代のニュー・シネマ的な感性もほとんど感じられない。
監督としてのイーストウッドの師はドン・シーゲルだと言われ、僕もそう思うが、やはり50~60年代ハリウッドの正統的な映画づくりを洗練させ、磨きをかけたのがイーストウッドのスタイルなのだろう。
『ミリオンダラー・ベイビー』はラブ・ストーリーであり、失われた家族の物語であり、男と男の友情物語であり、スポーツ映画であり、見方によってはアクション映画でもあるけれど、それらのジャンルが積み重ねてきた約束事に則りながら、フランキー、マギー、スクラップという3人の人間像を深く刻み込んだ手腕は見事というしかない。大作でありながら、小品の味わいを持っているのもいいよね。
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