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June 30, 2005

山口百恵の「夜へ…」

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山口百恵の「夜へ…」という歌が、ずっと気になっていた。

昔、相米慎二が日活ロマンポルノのためにつくった『ラブホテル』(好きな映画です)のなかで、とても効果的に使われていた。石井隆(脚本)の「名美」シリーズの一本で、名美(速見典子)が男から逃げて(だったか?)乗るタクシーのなかで流れていた。「♪夜へ…夜へ…」というリフレインが耳に残っている。

この曲が入った「A Face in a Vision」をレコード店で見かけて、ふっと買ってしまった。シングル・カットされた曲としては「美・サイレント」が入っている。

作詞・阿木耀子、作曲・宇崎竜童、編曲・萩田光雄の黄金トリオ。「♪修羅 修羅 阿修羅」「♪落花 落花 快楽」と、全編に阿木耀子らしい言葉が重ねられている。ジャズふうなピアノとウッドベースに伴われて、百恵の声が深い夜の底へと降りてゆく。いま聴いても、やっぱり魅力的。

僕にとっての山口百恵のベスト1は「イミテイション・ゴールド」(ドーナツ盤を持っているのが、ささやかな自慢)だけど、「夜へ…」もベスト5を選べば入ってきそうだ。

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June 28, 2005

復刻された『クルドの星』

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四捨五入すれば60になるこの歳になって電車のなかでマンガを読んでいると、ふととがめるような、あきれるような目つきで見られていることがある。無理もない。自分でも他人に対してそうした経験がある。でも、このマンガ、夢中になって途中で止められなかった。

安彦良和『クルドの星(上下)』(チクマ秀版社)が復刻された。

40代以下の世代にとって安彦良和といえば、なんといってもアニメ「機動戦士ガンダム」だろうけど、僕にとってはマンガ『虹色のトロツキー』の作者として鮮烈な印象が残っている。

『虹色のトロツキー』は1990~96年にかけて発表された。大日本帝国がでっちあげた満州国を舞台に、建国大学の学生、日蒙混血のウムボルトを主人公にした叙事マンガ。「五族協和」という偽イデオロギーに殉じようとするウムボルトと、クラブで歌う満州娘(実は共産党系八路軍と通じている)麗花の恋を軸に、満州「建国」、ノモンハン事件から第二次世界大戦へと激動する歴史に翻弄される2人の姿、その夢と挫折が描かれる。

史実が丹念に調べられていて、石原莞爾、辻政信、甘粕正彦ら昭和史の重要な脇役から出口王仁三郎、レオン・トロツキーまでが登場する、色んな意味で「危険な物語」。魅力的な物語がまだまだ続くと思われたのに、安彦はウムボルトに突然の死を与えた。その死は、僕のマンガ体験のなかで大げさにいえば真っ白になった明日のジョーの死以来の衝撃だった。

『クルドの星』(1985~87)は「ガンダム」で圧倒的な人気を誇っていた安彦がマンガを描きはじめての第2作。どちらかといえば神話的物語に題材を取ることが多い安彦が、神話から歴史へと世界を広げることになった最初の作品で、その意味では『虹色のトロツキー』の原型といえる。

『クルドの星』が発表されたのはイラン・イラク戦争が戦われていた最中。今でこそクルドはイラク情勢の鍵をにぎる民族として知られるようになったが、80年代のこの国ではまだほんの一部でしか知られていなかった。僕も、獄中にいたトルコのクルド人監督ユルマズ・ギュネイの映画『路』で、辛うじてクルドの名を知っていた程度。そんな時期に、少年マンガ誌にこの作品を連載した安彦の意気込みがうかがえる。

主人公は『虹色』と同じように、日本人とクルドの混血である少年ジロー。行方の知れない両親を尋ねて、イスタンブールからクルドの地へと足を踏み入れてゆく。その過程でジローはトルコ軍とクルドの反政府ゲリラの戦い、さらにはトルコとソ連の国際政治の裏のドラマに巻き込まれてゆく。更に、クルドやアルメニア人にとっての聖なる山、「ノアの方舟」伝説が残るアララト山と、ネアンデルタール人の絶滅をめぐる古代史の秘密がからむ。もちろん恋もあって、イスタンブールの暴走族の美少女に、母の面影を宿すクルドの娘と、ジローはもてもて。

少年誌に描かれたものだから、からっと明るい冒険マンガ。でも、安彦の大河ロマンをたっぷり楽しめる。政治的な筋もきちっと押さえられていて、いま読んでも(ソ連がなくなっていることを除けば)おかしなところはない。構想があまりに大きすぎて、いろんなことが解決されずに終わってしまうけれど、本業のアニメで死ぬほど忙しいさなかに、これだけの物語を描いた安彦のマンガへの熱い思いが沸々と感じられる。巻末にカラーのイラストレーションがたくさん入っているのも、安彦ファンにはお宝だろう。

このマンガは「レジェンド・アーカイブ」の一冊として刊行された。今後、今は読むことのできない名作を復刻してゆく(とりあえずコミック)という。楽しみだ。水木しげるの貸本版『悪魔くん世紀末大戦』も出ている。

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June 25, 2005

亀井広忠の鼓

誘われて、たまに能を見にいく。今日は「谷大作の会」(6月25日、十四世喜多六平太記念能楽堂)。番組は狂言「伊文字」。友枝昭世の仕舞で「邯鄲」。この人の能を2度ほど見たことがあるけれど、ほんのわずかな仕草に濃密な情感を込める様式の美しさは圧倒的。この日も、まるで戦国の世の野武士が一瞬の「邯鄲の夢」を見たような仕舞だった。

能は「望月」。能には珍しくストーリー展開に富んだ「劇能」というやつで、シテの谷大作が面をつけずに舞う。仇討ちの話で、最後、獅子と化した谷大作の(歌舞伎の鏡獅子の原型みたいな)舞もよかったけど、すごかったのが背後で大鼓を打っていた亀井広忠。亀井広忠は若手のナンバーワン、と友人から聞いていた。その音を初めて聴いた。

最初にぽんと音を出したときから音色が違う。一音で、この世を軽々と超えてゆく、とでもいったらいいか。鼓を打つスピードが隣の鼓とは明らかに差があり、面をたたく瞬間にもスナップが利いているんだと思う。

昔、B・B・キングのコンサートに行ったとき、開演前にスタッフがステージ上のB・Bのギターを調整していたことがある。観客は冷やかし半分で喜んでいたが、幕が開いてB・B・キングが登場し、ギターを取り上げて一音弾いたら、同じギターからそれまでと全く違った音が出てきて、うわぁー、B・Bの音だと感激したことがある。亀井の鼓のぽんという最初の響きは、その一音を思い出させた。

夢幻能といわれる世阿弥の能は静かな演目が多いけど、謡よりはセリフ中心に物語が進んでゆく「劇能」の「望月」は仇討ちの話だけあって、後半、謡も鼓も舞も格段に激しくなる。特に亀井広忠の大鼓は、まるでアルバート・アイラーみたいに、あるいは「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」のジョン・コルトレーンみたいに吼えまくる。その音と掛け声の感情表現の激しさは、邦楽って静かなものという思いこみを軽々と打ち破ってくれた。

友人の話では、今、邦楽にはすごい若手がたくさん出てきているという。彼らは邦楽の内部でも、また邦楽の外へも、ジャンルを超えて活動しはじめている。僕はたまに文楽と能を見るくらいで、日本の伝統芸能にはあまり親しんでないけど、これからはそっちにも興味が向きそうだ。

亀井広忠30歳。苦み走ったイケメンで、連れの女性は、「わたし、追っかけになっちゃう」と興奮しておりました。


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June 22, 2005

『真夜中の弥次さん喜多さん』の「リヤル」

最初の5分で期待を持たせ、次に、なんじゃこりゃと本気で映画館を出ようと思い、見終わってみると、うーん、なんだかヘンな映画だったなと半分だけ満足した。見ている間に、こんなにくるくると気分が変わった映画も珍しい。

『真夜中の弥次さん喜多さん』(宮藤官九郎監督)の冒頭は、女が米を研ぐ手のアップと、シャッシャツという耳障りな音。これが何を意味するかは、映画の後半で分かってくる。次のシーン。弥次喜多が釣りをしていると戸板が流れてきて、くるりと返ると女の死体が乗っている。たくさんの戸板がテレビゲームみたいな動きで流れてきて、ひっくり返るとどの板にも自分たちが乗っている。「東海道四谷怪談」の有名な「戸板返し」がゲームに見立てられているわけで、だから、どうやらこれが死者の映画であるらしいと想像がつく。

画面が変わると、これが弥次(長瀬智也)の夢だったことが分かる。場所はヤク中の喜多(中村七之助)の長屋。ホモの2人は舞い込んだお伊勢参りのDM(しりあがり寿のパートカラーの絵葉書)に誘われ、生きながら死んでいる喜多のヤク中を直そうと、バイクに乗って「リヤル」探しの旅に出る。ここまでがプロローグ。

2人は53次とまではいかないが、「笑の宿」「喜びの宿」「歌の宿」「王の宿」と旅を続ける。関所でコントを披露して奉行を笑わせないと通してくれない「笑の宿」といったふうに、原作からヒントを得たコントがつながってゆくのだけど、これが僕にはちっとも面白くない。引用やパロディがふんだんに出てきて遊んでるのは分かるけど、出来の悪いテレビのバラエティーか内輪ウケの芝居を見てるみたいで、退屈してしまった。それがいくつも続くので、映画館を出ようかと思ったのはこのあたり。

ところが、幻覚キノコを食べてしまい、弥次さんと喜多さんの腕がなぜかつながってしまうあたりから妙な「リヤル」感が出てくる。冒頭の女のシーン、戸板返しのシーンの意味も分かってくる。すべてが幻覚というか、死者というか(これ以上はネタバレになりそうで説明できないが)、非現実世界の「リヤル」が動き出す。

映画のなかで、人が死ぬと魂はみんな同じ顔と体を持っている。この「魂」を演ずる荒川良々が、しりあがり寿のキャラクターにぴったり。ちょっととぼけた、太り気味で動作ののろい肉体が、なんとも不思議な存在感を醸し出している。岩と化した「魂」が流す涙が三途の川になり、あの世の別の魂が川を飛び越えて現世に戻ろうとするとカエルになってしまう笑いのセンスもいい。

原作(2冊の原作のうち、僕は『弥次喜多 in Deep』しか読んでないが)は、最初から最後まで現実と非現実が入り交じり、死とエロスに満ちた世界が繰り広げられている。その世界が、後半の「魂の宿」あたりからようやく展開される。前半の、僕の目からは面白くないお笑いや純愛は、いわば若い観客を引きつけるための「キャッチ」なのか、あまり重くなりすぎるのを嫌ったクドカンの体質なのか。

芝居やテレビの「リヤル」をそのままフィルムにしたら、映画の「リヤル」にはならなかった、ような気がする。せっかくしりあがり寿を映画にするなら、徹頭徹尾、「魂の宿」で見せた非現実の「リヤル」にこだわってほしかったと思うのはジジイの感想か。

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June 19, 2005

鳥辺山から清水寺へ

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清水寺へ行くには、ふつう清水坂か茶碗坂を登ってゆく。修学旅行や観光客のほとんどが、そのコースを歩く。でももうひとつ、大谷本廟から鳥辺山を経由して行く道もある。

鳥辺山という名前には、高校の頃、日本史や古文でしょっちゅうお目にかかった。京の都に戦乱や飢饉があるたびに、死者は鳥辺山に葬られた。京都には何度も行っていたけれど、名前だけは知っていた鳥辺山を歩いたのはずいぶん後になってから。

親鸞が葬られている大谷本廟を過ぎると、谷の斜面いっぱいに墓石が目に飛び込んでくる。崖下には親鸞が火葬に付された御荼毘所も、深閑とした場所にある。江戸時代の古い墓石から新しいものまで無数の墓があるなかで、ひときわ立派なのはたいてい兵士の墓だ。上等兵(戦死したときは二等兵だろう)や軍曹といった下級兵士たちも、いや下級兵士だからこそと言うべきか、墓の立派なことだけは将校と変わらない。

京都の兵は陸軍なら第九連隊に配属された。この連隊は昭和の15年戦争では虐殺のあった南京戦に参加し、武漢、バターン半島と転戦して、最後はレイテで壊滅するという悲惨な歴史をたどった。墓銘を読んでいくと、南京郊外の紫金山(ここでの激戦の後、日本軍は南京に入城した)で戦死した兵や、フィリピンで戦死した兵の墓も多い。

町中からほんの5分ほど歩いただけのところにある、静かな死者の谷。数百年、いや千年を超す霊の発する何ものかが谷一面に籠もっているのを感じて慄然とする。

坂を登りきると、清水の舞台の下にある茶店の脇に出る。いきなり喧噪のなかに放り込まれて、このときばかりは人混みにまぎれてほっとする。デートには向かないけれど、学生の修学旅行のコースには組み込んでもいいんじゃないだろうか。

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June 16, 2005

藤原保信の「自由主義の再検討」

刊行が始まった『藤原保信著作集』(新評論)の第9巻「自由主義の再検討」を読んでみる気になった。藤原保信は50代で惜しまれて亡くなった政治思想史の研究者。巻頭に収められた「自由主義の再検討」(1993)は遺作で、岩波新書のために書かれた。

1993年といえば、ソ連が崩壊した直後。社会主義に対する「自由主義の勝利」が声高に叫ばていた時代だ。そんな空気のなかで、序章に「自由主義は勝利したか」と疑問形のタイトルがつけられているところに、著者の立ち位置が暗示されている。といって藤原は研究者らしく、自らの立場を性急に主張することはしない。専門である西欧の政治思想史をさかのぼることによって、自由主義(具体的には私有財産と市場、つまり資本主義)が歴史的にどんなふうに正当化されたのかを政治思想の視角から跡づけている。

僕なりに(いい加減に、ということですが)要約すると、自由主義は次のような前提に立っている。

・自由主義の人間観は、人は生まれながらに自由で平等である、というものだ。言いかえれば、個人は自然な状態のなかではばらばらに切り離されていて、善悪正邪の基準を自分の内部に探さなければならない。それを誰にも邪魔されないのが、人間の自由というものだ。こういう人間観は、それが生まれた当時には支配的だった中世的な身分秩序や世界観に対してラディカルな批判として機能し、近代を切り拓くことになった。

・個人が働いて得たものは、各人が所有してよい。また平等な個人が自分の意思で結んだ契約は、それによってどんな結果がもたらされようと正しい。市場でのそのような自由な交換と自由な交易は社会の富を全体として増大させるし、人々はその恩恵に浴することができる。

・ギリシャ=ローマ時代や中世には、知恵や勇気や節制といった徳で人間の欲望を抑えることが価値ある生とされたが、近代はそのような価値を転倒し、人間の欲求、欲望を解放することが善とされた。快楽を最大にし、苦痛を最小にすることこそが人間の幸福だ。

・民主主義は政治体制として必ずしも高い評価をされていなかった。議会制民主主義は最善の政治形態ではなく、政権交代が可能であることによって最悪の政府の出現を防げることに意味があるとされた。

こんな考え方が17世紀から19世紀のヨーロッパで成立した。むろん歴史は理念どおりに進んだわけではなく、貧富の差が拡大し、持つ者と持たない者の階級対立が激しくなった。それに対して、資本主義を原理的に批判したのがマルクスで、私有財産と市場を前提に富の再分配を考えたのがケインズだったのはよく知られている。でも今、「マルクス主義」を看板にしたソ連圏は崩壊し、ケインズ的「大きな政府」論は社会の活力を奪うとされて元気がない。

藤原保信は自由主義に懐疑的だけど、それを批判する立場はマルクスでもケインズでもなく、人間の基本的価値としての「善」に拠って立つ。その姿勢はプラトン、アリストテレス以来の系譜を引いた理想主義というか、見方によってはひどく時代錯誤的な印象も受ける。

藤原自身、「死語になったとすら思われる」と言いながら「徳ないし有徳」「善悪、正邪についての判断基準を提供しうるものとしての道徳的空間」の回復を説いている。藤原の主張の背後には、政治思想の世界で、ポスト・モダニズムがからんだ「価値」をめぐる論争があるらしいのだけど、僕にはよく分からない。

ただ藤原に「徳」の回復という、やや唐突(という感じ方こそが、僕らがいかに欲望に支配されているかの証拠かもしれない)な言葉を持ち出させた動機が、同時代に生きる者としての世界と人間への危機感だったのは、その文章から感受できる。

藤原が亡くなって10年たつけれど、彼が感じた危機はいっそう深まっている。今、世界で進行している「グローバル化」と、それを支える「新自由主義」というやつが、世界市場での19世紀的な「むきだしの資本主義」への回帰と、国内的な階級対立から国際的な南北対立へと姿を変えた貧富の格差拡大をもたらしつつあること、19世紀にはなかった新しい問題として地球規模の環境破壊が進行していることは、誰の目にもはっきりしている(と思う)。

それに対して、どう歯止めをかけるか。自分の生活という日常レベルで何ができるか。僕は研究者ではないから、藤原保信が書いていることをそういうレベルに置き直して考えてしまうけれど、そうなると、うーん、うーんと立ち止まってしまう自分がいる。


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駅構内

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月に2度ほど、病人を見舞いに両国へ行く。帰りにはたいてい、両国駅構内の地ビールの店で軽く飲む。古い駅(昭和4年建築)の構造をそのまま見せ、高い屋根と広い空間を生かした店のつくりが気持ちいい。隣の国技館にかけられていた大相撲の優勝額が2枚、引っ越してきている(写真は昭和50年3月場所優勝の大関貴ノ花。向かい側には北の富士)。3種類の地ビールも旨く、店はいつも繁盛している。

両国駅はかつて千葉方面へのターミナルだったから、上野駅に似た堂々たる建築。上野駅もそうだけど、歴史的建築をこんなふうに活用するのは好感が持てる。

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June 12, 2005

ピナ・バウシュの反復

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団を初めて見た(6月11日・新宿文化センター)。僕の信頼する何人かの書き手が彼女の舞踊について書いているのを読んでいたし、テレビで短時間だったけど見たこともある。アルモドバルの映画『トーク・トゥー・ハー』にも出ていた。それでも足が向かなかったのは、本と映画とジャズで(時間もお金も)手一杯だったし、前衛的な舞踊というのは退屈じゃないかと思っていたから。

ところが、これが全然ちがった。前半60分、後半70分。後半の出だしだけは、ソロのダンサーがイマイチに感じられて少々眠くなったけれど、最後まで飽きなかった。

出し物の「Nefes(呼気)」はイスタンブールでつくられたものらしく、幕が開くと公共浴場の場面。男たちが次々にバスタオル一枚で歩いてきては横たわり、別の男が横たわる男をマッサージする。と、今度はマッサージしていた男が横になり、横たわっていた男たちが立ち上がってマッサージをする。やがてドレスの女たちが出てきて、横たわる男たちの上で魅力的な長い髪をくしけずる動作をする。そんな繰り返しのなかにソロで、カップルで、集団でのダンスが挟まれる。音楽はビートの利いたトランス系ロックやインド音楽、アラブ音楽なんか。

ある動作が繰り返される。反復、ということに意味がありそうだ。反復は、ある単調さを生む。また反復は感情を高揚させず、逆にクールダウンさせる。時には、強制されているという感覚をもたらす。そんな反復があるからこそ、ソロやカップルでのダンスの激しさ、感情の爆発が際立つ。

ピナ・バウシュの舞踊は「コンテンポラリー・ダンス」というジャンルに入るのだろうけど、特にソロ・ダンサーの動きは西洋の動きではない。今回の「Nefes」ではインドのダンサーがゲストに迎えられているせいもあるのだろう、濃厚にアジア的。西欧のダンスは背骨がしゃんとしているけれど、ピナ・バウシュの踊りは背骨がないみたいに上半身と腕がくしゃくしゃになって自在に動く。

イブニング・ドレスに身を包んだゲストのインド人ダンサー、それにインドネシアと韓国のダンサー(いずれも女性)の踊りは、なんとも官能的。韓国のブルージーな歌でソロを踊った男性ダンサーもすごかった。

そんなふうに、いろんな場面設定とダンスが脈絡もなく進行していくのだが、特に物語的な意味はない。そこに無理に意味を求めようとすると、「難解」ということになってしまう。ダンスと、時にはコントふうな芝居を楽しみながら、そこから喚起される感情に忠実に従っていけばいいのだろう。

舞台の奥に水たまりらしきものがあった。それまでその周囲で踊っていたダンサーが、ある時、そのなかに入っていく。水しぶきがあがる。ダンサーがはね上げた飛沫に、うわぁ、やっぱり本物の水だったんだと驚く。と、次の瞬間、天井から滝のように水が落ちてくる。照明に輝く飛沫と、滝のなかで踊るダンサーの鮮烈さ!

もう一つ印象的だったのはフィナーレ。トム・ウェイツの音楽に合わせて、舞台前面では男性ダンサーたちが横向きに座り、足を組み換える動作を反復しながら行進してゆく。水たまりの奥では逆方向から女性ダンサーたちが、やはり横になっていくつかの動作を反復しながら進んでゆく。音楽に合わせて反復される動作が、抑制された官能とでもいったものを醸し出す。余韻の残るエンディングだった。

次に機会があれば、また行こうと思う。

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June 06, 2005

嶋津健一のレコーディング

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ジャズ・ピアニスト嶋津健一のレコーディングに立ち会うという幸運を得た。スタジオに20人ほどの人を入れての録音。ジャズに限らず、スタジオ録音とライブ録音の差は大きいが(それぞれ長所短所があり、どちらがいいとも言えない)、スタジオの音の良さと、聴衆がいることによるテンションの高さの双方を狙ったのだろう。

嶋津健一(p)、加藤真一(b)、岡田啓太(ds)のトリオでスタンダード中心の選曲。といっても、オリジナリティーの強い嶋津のことだから、普通のピアノ・トリオとはちょっと違う。アップテンポの曲では実によくスイングして思わず体が動き出し、おっと音を立てちゃいけないんだ。けっこうたくさんあったバラードでは、個性的なアドリブにうっとり陶酔状態。6時間で17曲、ほとんどが1テイクでokになった。

長時間のセッションだったが、アルコール持ち込み可で、いい気分で聴く。こちらは拍手だけの「出演」だけど、弾き終えてピアノの残響が切れたとたんに間髪を入れず手をたたく。何曲かでは最初の拍手の音がこの僕です。10月の発売が楽しみ。写真は打ち合わせをする嶋津と加藤。

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June 05, 2005

鴨川の蛍

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夜の二条大橋を歩いていたら人だかりがしている。なにかと思ったら、「蛍がいるのよ」と子ども連れのお母さんが教えてくれた。確かに、1匹、2匹、暗がりの草むらに光っている。黒谷に住む人の話では、庭にはタヌキが来るし、モリアオガエルが卵を生むという。京都は大都会なのに自然と隣り合っているんだね。

残念ながらカメラに写らないので、遠く三条大橋の車のライトが蛍みたいに写らないかな、と思いながらシャッターを切る。

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June 03, 2005

『ミリオンダラー・ベイビー』とトム・スターン

『ミリオンダラー・ベイビー』は、133分の上映時間のおそらく半分近くが、ロサンゼルス・ダウンタウンの空き倉庫に組まれたボクシング・ジムのセットで撮影されている。

白く塗られた煉瓦壁は薄汚れてところどころ崩れ、水道や電気の配管が壁を這っている。鉄骨が剥きだしの天井から長く吊り下げられた電灯とその青白い光が、がらんとしたジムの広さを感じさせる。壁には50年代のポスターみたいなボクサーの絵と「HIT PIT JIM」の文字。とてもセットとは思えない、汗と小便の匂いが漂ってきそうなリアルな空間。そこでの、光と影のコントラストを強調し、漆黒の闇の深さを際立たせた撮影が素晴らしい。

この漆黒の深さは単に映像の美しさというだけでなく、映画の深い芯のようなものと密接に絡み合っている。例えばジムに押しかけ入門したマギー(ヒラリー・スワンク)を認めなかったフランキー(クリント・イーストウッド)が、はじめて彼女に声をかけるシーン。

ジムの片隅でマギーのトレーニングをじっと見ているフランキーは、下半身が見えるだけで、上半身と顔は光が当たらない闇のなかにある。フランキーが前に進み出ると顔が光のなかに浮きだし、そこで彼ははじめて彼女に向かって言葉を発する。闇から光のなかへ歩みでたフランキーの姿は、そのまま彼の内部の変化を映し出している。

映画の後半でも印象深いシーンがあった。マギーがある事件に襲われた後、フランキーと元ボクサーの雑役夫スクラップ(モーガン・フリーマン)がジムのなかで言葉少なに会話を交わしている。ぽつりぽつりと語る2人に、光は一方向からのみ当てられている。フランキーは顔の半分だけが光のなかに浮き上がり、残りの半分と上半身は闇に沈んでいる。

かつてスクラップの試合にトレーナーとしてついたフランキーは、止めるべきときに止めないでスクラップの片目を失明させたことを悔いている。その悔いが、彼を勝負よりも安全を第1とするトレーナーにしたのだが、それはプロフェッショナルとしては半ば死んでいるようなものだ。フランキーは優れたボクサーを育てるが、彼らはリスクを犯してまで試合を組もうとしないフランキーのもとを去ってゆく。

ところがフランキーは、マギーにだけ、スクラップに犯したと同じ過ちを繰り返してしまう。スクラップのときと同じように、マギーを愛するがゆえに、「死んだように生きている」人生を今いちど生きようとし、自分で定めたルールを踏み超えてしまった。そのことを語るイーストウッドとフリーマンの対話、というより沈黙といったほうがふさわしいこのシーンでも、深く豊かな黒が画面を支配している。

『ダーティーハリー』(ドン・シーゲル監督)から『荒野のストレンジャー』『ペイルライダー』まで、イーストウッドの映画で撮影監督ブルース・サーティーズが撮る映像の闇の深さ、漆黒のあでやかさは定評があった。その後、ジャック・N・グリーンがサーティーズを継いで『許されざる者』や『スペース・カウボーイ』を撮った。

この映画の撮影監督トム・スターンは『ブラッド・ワーク』以来、イーストウッドと組んでいる。『ブラッド・ワーク』では50年代フィルム・ノワールのモノクロームの光と影をカラー撮影で再現し、前作『ミスティック・リバー』では3人の男たちが抱える心の闇をボストンを流れる川の黒々した川面に象徴してみせた。彼はサーティーズとグリーンの漆黒の美しさを継承しながら、作品のテーマをより緊密に画面に連動させる方向でイーストウッドの文体を発展させた。

撮影のスターンに編集のジョエル・コックス、美術のヘンリー・バムステッドを加えた「イーストウッド組」のもとで、イーストウッド(彼自身は役者であり演出家であり音楽担当でもある)のスタイルはいよいよ成熟し、そのスタイルの個性と完成度においてハリウッドで彼に並ぶ者はいない。

イーストウッドの映画は最後のハリウッド正統派とでもいおうか、最近の流行にははっきりと背を向けている。これ見よがしのCGは使わない。短いカットを積み重ねて3分に1度ヤマをつくるような今のハリウッド映画とは対極の、ゆったりした語りで、じっくりと人物を造型してゆく(この映画の最後の30分のテンポ!)。くすんだ色彩と漆黒の闇を好む。カメラを手持ちで振り回したりせず、また「絵」としての美しさのみを追わない。

さらに物語を分解して入れ子構造にしたり、時制を複雑にすることも好まず、物語を物語としてきちんと語る。エンタテイメント映画の定石を踏まえて典型的な人間像を設定するけれど、それが類型に堕さずに血が通っている。

要するにイーストウッドの映画はルーカス、スピルバーグ以後の現代ハリウッド的なものから遠い。そればかりでなく、70年代のニュー・シネマ的な感性もほとんど感じられない。

監督としてのイーストウッドの師はドン・シーゲルだと言われ、僕もそう思うが、やはり50~60年代ハリウッドの正統的な映画づくりを洗練させ、磨きをかけたのがイーストウッドのスタイルなのだろう。

『ミリオンダラー・ベイビー』はラブ・ストーリーであり、失われた家族の物語であり、男と男の友情物語であり、スポーツ映画であり、見方によってはアクション映画でもあるけれど、それらのジャンルが積み重ねてきた約束事に則りながら、フランキー、マギー、スクラップという3人の人間像を深く刻み込んだ手腕は見事というしかない。大作でありながら、小品の味わいを持っているのもいいよね。

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