カエターノ・ヴェローゾの「さすらう心」
憂いに満ちたチェロのイントロのなかに、カエターノ・ヴェローゾの低くつぶやくような歌が入ってくる。初期のヒット曲「コラソン・ヴァカボンド(さすらう心)」。数ある彼の歌のなかで、僕はこの曲がいちばん好き。
子どものようなぼくの心
それは、微笑んだ女の
まぼろしのような記憶だけじゃない
夢から滑り落ちて さよならも云わないまま
ぼくの目に とめどなく涙を流させた
ぼくのさすらう心
世界を手にしたいんだ ぼくのなかに(杉田敦訳)
チェロとカエターノの抑えた対話のようなデュオにつづいて、バンド全員がテンションを上げる(アコースティックとエレキのギター2本、ベース、ドラムス、パーカッション)。CDで聴くこの曲の、クールなボサノバ調とは別の高揚。別の憂愁。
「ククルクク・パロマ」でも同じ興奮を味わった。映画『トーク・トゥー・ハー』ではカエターノがアコースティック・ギターの弾き語りで歌っていたが、震えるようなチェロ(ジャキス・モレレンバウム)をバックにカエターノが小鳥のさえずりのような裏声で歌う。照明が切り替わると、バンド全員が一気に情感を解放させてカタルシスに達する。カエターノの歌も裏声から表に返って「♪ククルクク」の絶唱。拍手がいつまでも鳴りやまない。
カエターノ・ヴェローゾのコンサートに行ってきた(5月24日、東京国際フォーラム)。僕はブラジル音楽の熱心なファンではないけれど、それでもカエターノの歌は折に触れ耳にしてきた。最近ではアルモドバルの映画。「ククルクク・パロマ」が心に残った。去年、ジョアン・ジルベルトのコンサートに、いわばボサノバの神話をこの目で確かめるつもりで出かけたけれど(大満足)、カエターノの場合も、この機会を逃したら生涯、彼を生で聴けないかもしれないという思いから。
カエターノは、「トロピカリスモ」という1960~70年代ブラジル音楽の革新運動の担い手とされる。といっても、そのあたりをきちんと聴いていない僕にはよく分からない。都会的に洗練されたボサノバとは別の、バイーア(カエターノの出身地で民族音楽の宝庫)の伝統に根ざした新しいサンバ、とでも理解しておけばいいのか。そこにつけられる言葉は、日本の常識でいえば歌の詞というより現代詩に近く、ブラジルが独裁政権だった時代にも重なっているから、政治的なプロテスト・ソングでもある。
でも結局のところ、カエターノ・ヴェローゾの歌はカエターノ・ヴェローゾの歌だ、としか言いようがない。ラテンのスタンダードを歌っても、ビートルズやマイケル・ジャクソンを歌っても、ジャズを歌っても、ジャズの歌い手(例えばサラ・ヴォーン)が原曲のメロディを自在に変化させて自分だけの曲にしてしまうように、「カエターノの歌」にしてしまう説得力は圧倒的。それが彼の個性というものか、その声からは、どこか虚無の香りが漂ってくる。
だからチェロとの組み合わせはぴったり。サンバのリズムも、リオのカーニバルやなにかで耳にするものとはひと味違って、陽気なリズムというより、深い情感がたゆたう。チェロのモレレンバウムを中心とするバックバンドは、その微妙なグルーヴ感を叩き出して、聴かせる。
この夜の舞台では、アメリカのポップスから「ダイアナ」と「ラブ・ミー・テンダー」(他にもあったけど、曲名が分からない)。ジャズのスタンダードから、アカペラで「ラブ・フォー・セイル」と「クライ・ミー・ア・リバー」。ボサノバの名曲「カーニバルの朝」。そして彼自身の曲。語るように歌った「ハイチ」。甘く艶っぽい「オ・シウーミ(嫉妬)」。アンコール前の最後は、レゲエ・リズムの「エストランジェイロ」で最高に盛り上がる。
満ち足りた気持ちで会場を出た。
Comments
羨ましいです。
行こうと思っていたのに、行けなかったのです。
お客さんが盛り上がるということはカエターノさん
もノっていらしたんでしょうね。
ジョアン・ジルベルトのように来年も来てくれる事
を祈ります。
Posted by: colonita | May 30, 2005 11:50 PM
>colonitaさま
コメント、ありがとうございます。
ジョアン・ジルベルトのときは、ちょっとでも気に入らないことがあると演奏を止めてしまうと聞かされていたので(実際、空調の音がうるさいと、開演が30分遅れた)、みな、はじめのうちはぴりぴりしてましたけど、カエターノは最初からノリノリでした。エンターテイナーではないけれど、人の心をぎゅっと掴む歌い手ですね。
Posted by: 雄 | May 31, 2005 11:20 PM