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April 03, 2005

堀江敏幸の河岸

このところ堀江敏幸の小説は日本を舞台にしたものが多かったけれど、長編『河岸忘日抄』(新潮社)は久しぶりにフランスの風景のなかで物語(ともいえない物語)が展開される。作品の評価などというレベルでなく、きわめて個人的な興味として、主人公の設定がわが身と引きくらべて応えるものがあった。

主人公は、かつてパリ市内と思しい公園で倒れているところを助けて知り合った老人に向かって言う。「少し働きすぎた、ような気がするので、しばらく、ぼんやり、するために、時間をつくって、また、やってきたんです」。

同じことが、後に地の文ではこう述べられている。「高等遊民なんてもう死語だけれど、下等ではあれ遊民の権利を得るために、彼はこの何年か人並み以上に根をつめて働いてきた。いや、そうではない。『少し』根をつめすぎたがゆえに、遊民の身分にみずからを擬して不要物を洗い流そうと思いはじめたのだ」。

主人公の職業は明らかにされていない。でも、主人公を作者の分身と考えると(こういう短絡的な読みは、より客観的・公共的な場では許されないけど、ブログでならまあいいだろう)、芥川賞はじめ文学賞を立てつづけに取った作者が殺到する原稿依頼に応えた結果として疲れはて、フランスでしばしの「休養」を企てたという事実をなにがしか反映しているように思えてしまう。

その心持ちは、才能の問題を別にすれば自分にも重なる部分がある。なにせこちらも、30年以上にわたって、それなりに「根をつめて」働いてきたような気がするからだ。「しばらく、ぼんやり」したい、「遊民の身分にみずからを擬して不要物を洗い流」したいと思う主人公の気持ちは、自分にとっても切実なものがある。

主人公が老人にそんなことを述べると、ワイン樽の運搬で財をなした老人は、彼が所有し、セーヌらしき河岸に係留してある船を住居として主人公に提供しようと申し出る。「二、三人ならじゅうぶん快適に暮らせる設備の整った」船での主人公の日々がはじまる。その日常のうつろいが、この小説のすべてと言ってもいい。

河岸に係留されている動かない船、という設定が絶妙な舞台を提供している。川はひとときも留まることなく上流から下流へと流れている。船はその川に浮かびながら、流れに乗って、あるいは流れに抗して動くようにつくられた本来の目的からはずれ、エンジンをかけられることなく岸に固定されている。それは主人公が立っている場所とほとんど相似形をなしている。

「動かないこと、とどまること、そして、待つこと。五分より十分、三十分より一時間、半日より一日という時間の長短が問題なのではない。むしろ心の状態、精神のありかたをこの猫(注・ある小説に登場する黄色い猫)は伝えているのだ、目のまえに生起している事象をいかに立ち止まって味わいうるか、その強さを言っているのだ、と彼は愚考する。行く川の流れは絶えずして、なにもかも運ばれていく。時間も、人間も、そこではあまりにはかない。けれどもその流れのさなかで足を止め、とどまるものを摘出しようとする試みは、まぎれもなくいまを生きる者だけの特権ではないか」

主人公の船での生活がはじまる。毎朝、対岸でアフリカ系の男がたたく太鼓の音に耳をすます。近くのマーケットで買ってきた豆を挽いて珈琲を入れ、郵便を配達にきた男にふるまって、彼と知り合いになる。やはり船上に暮らしている、ロマ族らしき女の子が船を訪れる。病身である船主の老人や、ファクスでつながった日本の友人と、ぽつりぽつりと対話が試みられる。

係留された船には主人公以前にも女性が暮らしていたらしいこと、老人の係累らしき少女の姿が見え隠れすることといった、かすかな謎がある。でもそうした謎が物語を引っ張ってゆくことはなく、やがてさりげなく訳が明かされてしまう。この作者にはめずらしく、アメリカがイラクにしかけた戦争のことも間接的に触れられるけれど、それも遠雷のように響いてくるにすぎない。水の上の物語にふさわしく一夜の暴風雨がクライマックスらしくないクライマックスをつくるが、それもすぐに普段と変わりない日常に回収されてしまう。

とどまる、立ち止まる、ためらう、という行為の意味が探られる。それらは、ある目的地へ着くための途中経過や無駄な時間ではなく、それ自体が「命の芯」をなしているのだという認識。すると、文中に繰り返し記述されるその日の天候が、自然現象の記録であるとともに精神の「彼の天気図」でもあることが自然に納得されてくる。

「気温九度、湿度四〇パーセント、気圧一〇一八ミリバール。西よりの微風が吹いている。木々にほとんど揺れはなく、水面は穏やかだ。風力一、と彼は判定する。下流に船の気配がある。船影でも発動機の音でもなく、見えない下流から伝わってくる船の気配が」

いつもながら読み終えるのが惜しい、なんとも贅沢な読書の時間。

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