March 29, 2005
March 27, 2005
『猟人日記』 水中の密室
水中の密室を主な舞台にするという設定によって、この作品の通奏低音ともいうべき孤独で、暗く、重い感情が映画全体に満ちることになったのだと思う。水中の密室は地上から切り離されている。周囲を水に囲まれ、見えない水圧で押しつぶされそうになっている。そんな世界で、この映画は展開する。
グラスゴーから運河を伝って近在に石炭を届ける木造の平底船。船を所有する夫婦と幼い息子は水上生活者で、船底の狭い部屋に暮らしている。そこへ若い男(ユアン・マクレガー)が雇われ雑役夫として転がり込んでいる。男は平底船のなかで、夫婦と板壁1枚を隔てて寝起きしている。密室のなかに男が2人と女が1人。映画の後半になると、男が1人に女が2人。何かが起こらないほうがおかしい。
若い男は石炭の積み降ろしで真っ黒になる作業の合間に、桟橋や船の屋根の上で静かに本を読んでいる。小説家を志して挫折、大学からドロップアウトし、恋人とも別れて流れ者の労働者になったのだ。厳然とした階級社会であるイギリスで、男は自らの手で自分の未来を閉ざした(再会した元恋人から、「あんたは労働者階級になったの」と言われる)。
若い男と家族が船底の狭い部屋で食事をしている。水圧で船がぎしりぎしりと音を立てる。見えない力が密室の彼らを取り囲んでいるのが、ひしひしと感じられる。
ドロップアウトした男ばかりでなく、水上生活を営んでいる夫婦(この船の所有者は妻で、夫は若い男と同じ流れ者だったことが後にわかる)も地上に住む人間とのつながりは希薄だ。唯一のつながりは、夫が行く先々で訪れるパブだけ。
平底船が係留されている近くの水底には、かつて作家志望だった男が投げ捨てたタイプライターが沈んでいる。そして、薄いペティコートを身につけただけの女の死体が浮いてくる。
若い男が水死体を引き上げて、物語が動き始める。男は無表情ながら、女の水死体に毛布をかけてやり、その背にいとおしそうに触れる。その夜から、男は狭い船室のなかで雇い主の妻(ティルダ・スウィントン)を誘惑しはじめる。
若い男と水死した女をめぐる謎と、男と雇い主の夫婦をめぐる危うい関係とが絡まりあって映画は進行する。男は地上の人間関係もモラルも信じていない。どの女とも、愛憎も内面の葛藤もなしに性的関係を結ぶ。無実だと自分だけが知る人間が裁判で死刑になりそうになったときだけ裁判所に匿名の手紙を書くのだが、結局は無実の人間を見殺しにしてしまう。
曇天の空、淀んだ水面、夜露が光る土手の細い路。画面は全編がブルーの色彩に統一されている。男が舵を取る平底船の両岸に広がる風景は、自己放棄した男の目を通して見た世界そのものだといえるのかもしれない。
バロウズとも交友のあったビートニク作家トロッキの原作。ノワールの香り、ポルノグラフィー的な描写(ただしエロティックな匂いは皆無)。そんなアンダーグラウンドな雰囲気を漂わせているけれど、奇を衒うところのない演出で、イギリス映画にいつも感ずる生活感あふれるリアリズムはここでも生きている。
1960年代の「アングリー・ヤングメン」と呼ばれたトニー・リチャードソンらの映画も、「トレインスポッティング」以降のニューウエーブも、労働者階級の男たち、女たちからテーマを引き出すことが多い。上流階級とは文化も生活様式も歴然と違う彼らの生活のディテールが、そうした映画に独特のリアリティーを与えていた。それは『猟人日記』でも変わらない。
この映画の設定は1950年代だけれど、平底船と水上生活者という、あまり触れたことのない世界が素材にされているのがなにより面白い(日本でも高度成長以前には水上生活者はいた)。実際に平底船が運河を行き来するのが撮影され、2つの運河の水位を調節する閘門までロケされているところをみると、21世紀になった今でも現役として活動し、水上生活が営まれているのだろうか。
平底船に住む妻を演ずるティルダ・スウィントンがすごい。表情や仕草から粗野な労働者階級の女になりきって、最初、まったく女を感じさせないのに、密室のなかで次第に男を誘惑する香りを発散させてゆく。
デヴィッド・バーンの音楽もいい。文芸映画のような重厚なストリングスと、クールなロックとが、過去と現在を混淆させたような奇妙な味を醸しだしている。ストーリーも現在と回想が混在して進行するけれど、50年代という設定の時代性を感じさせないのは音楽のせいかもしれない。
原題は「YOUNG ADAM」。平底船の船名は「ATLANTIC EVE」。地上から水中へと追放されたアダムとイブの物語ということなのだろうか。
March 22, 2005
March 18, 2005
リスボン 白い街
いままで訪れたことのある外国の都市で、しばらく住んでみたいところはどこかと聞かれたら、ためらいなくリスボンと答える。
旅行者として、リスボンには3度、行ったことがある。3度とも街から受けた印象は変わらない。住んでみたいと思わせる親近感を感じさせる街、といったらいいか。
ヨーロッパの都市に身をおくと、アジアの片隅に暮らす民としては街全体から拒否されているように感じることがある(それは都市の問題というよりこちらの心の問題だし、だからこそ刺激が大きいのだが)。でもリスボンは初めて訪れたときからこの身を柔らかな空気でふわりと包み込んでくれるような気がして、街全体から刺すような気配を感ずることがなかった。
それは、繁栄から取り残されたかつての世界帝国の落魄とか、数世紀にわたってイスラムに支配され、街にどことなくアジアの空気が漂っていることとも関係しているかもしれない。
最後にリスボンに行ったのは1998年。それ以前に行った年から数えて十数年ぶりで、その間にポルトガルはECに加盟していた。街には流行の尖端をゆくショップも増えていたけれど、灰色の建物と鮭色の屋根、くすんだ石畳という街の基本をなす色彩と、その優しい表情は変わっていなかった。
杉田敦『白い街へ――リスボン、路の果てるところ』(彩流社)を読んで、ここに僕などよりはるかに深くリスボンの魅力にとらわれた人間がいると思った。それだけでなくヨーロッパや南米の人間のなかにも、リスボンに否応なく引き寄せられた何人もの作家や音楽家や映画監督がいることを知った。
杉田は毎年リスボンを訪れ、ひと月ほど、中心街を見下ろすなじみのペンサオンに滞在するらしい。そこから出かけるリスボンの街の印象、名所旧跡ではなく、いかにもこの著者らしくテージョ河の対岸からリスボンを遠望するレストランといった無名の場所の印象や、カフェで出会った人たちとの会話を一方の軸に、リスボンに魅せられた作家やアーティストをめぐるテーマ群をもう一方の軸にした思索的紀行、あるいは紀行的思索といった趣をこの本はもっている。
そこに登場するのは、ポルトガル人では国民詩人のフェルナンド・ペソア、室内楽にファドをのせたマドレデウス、建築家のアルヴァロ・シザら。外国人では映画監督のヴィム・ベンダース、アラン・タネール、イタリアの作家アントニオ・タブッキ、ブラジルの歌手カエターノ・ヴェローゾ、デヴィッド・バーン、そしてナチスから逃れてリスボンを目指す途中、ピレネー山中で自死したヴァルター・ベンヤミンといった人々。
杉田がリスボンに惹きつけられるきっかけになったというアラン・タネールの『白い町で』(本のタイトルもここから)は、僕にとっても記憶に残る映画だった。リスボンに上陸した船員が、アジアやアフリカの匂いのする旧市街アルファマをさ迷い歩き、家々の壁すれすれにすり抜けていく路面電車に乗り、酒場で女と知り合い、次第に街の魔力にとらわれてゆく。
『白い町で』という題名は、この町で主人公が過去を捨てて「真っ白な状態」になることと、リスボンの街の白さとを重ね合わせているのだが、杉田はここからさらに、ポルトガルやリスボンがヨーロッパ人にとって「現代社会の逃走地」といった性格をもっていることを指摘してゆく。
たとえばリスボンを舞台にしたタブッキの小説『レクイエム』を取り上げて、タブッキの小説は「自分自身を真っ白な状態にリセットしようと」していると記す。またヴェンダースの映画『リスボン物語』に触れて、「西欧近代外部としてのポルトガル」という言い方がされたり、「ポルトガルという国が、人間主義を掲げながらもその内部を空洞化してきた先進諸国からある種の希望と映る」とも書かれている。
人間くさいと言ってしまってはあまりに陳腐だけれど、パリからリスボンへ入っても、マドリッドからリスボンへ入っても、街へ足を踏み入れた瞬間に、冷たい合理や鎧に身を固めた孤立から解き放たれたような安心感を感ずる。ヨーロッパでありながらヨーロッパでないというそのポジションが、この時代、ヨーロッパ的な価値をゆさぶり、新らしいものを生みだす可能性を秘めているのかもしれない。
「逃走地」とか「外部」といった言葉遣いからはいかにも観念的な本のようだけれど、そんなことはない。杉田の紀行的な文章には醒めた抒情といった雰囲気がある。たとえばこんな描写。
「眼の前をエレクトリコ(注・路面電車)がすり抜けていく。振り返ると、降車扉の近くに、帽子を被ったペソアの後姿のようなシルエットが浮かんでいた。振り払うように横道に入る。大きくなりながら遠ざかる人影が路地の壁に浮かび上がる。いつのまにか空は紺色に変わり、ナトリウムランプも灯りはじめている」
まるで映画の1シーン。この本全体に、定住者になりえない旅人の寄る辺なさや不安と、そんな根無しゆえの快感とがちりばめられている。著者が撮った写真も挿入されているが、これがまたクールな文章にぴったりと寄り添っている。読みおえたら、このところCDラックに収まったままになっていたマドレデウスを聴きたくなった。
March 16, 2005
エロティックな光の建築
ある建築評論家がこの建物のことを「クールな触感の光の塔」「見事な光のオブジェ」と書いていた。妹島和世と西沢立衛という2人の建築家の手になる「ディオール表参道」。昼間は何の気なしに通り過ぎてしまう建物だけれど、夜になると、その存在は他を圧している。といっても威圧的なのではなく、なんともエロティック。僕はこのブランドと無縁だし、中に入ったことはないけれど、夜、この建物の前を通るとしばし見とれてしまう。
小説はペン1本(古いね。今ではパソコン)があれば書けるけど、建築はスポンサーがなければ成り立たない。かつては空想建築家もいたけれど、それはあくまで例外。現代の建築の最大のスポンサーは国家と企業だろう。建築家にとって、その最も不幸な組み合わせがシュペーアとヒトラーだったとすると、ファッション企業との組み合わせは最も幸福な例なのかも。近くにあるプラダのビルもそうだが、「差異化」が商品価値であるブランドにとって、その「差異」を目に見えるかたちで示してくれる建築はユニークであればあるほどいい。いま、東京はブランド・ショップが次々にオープンしており、僕はそういう店に行くことはほとんどないけど、どうせならこんな実験をたくさんやってほしい。
March 13, 2005
松江泰治 見下ろされた都市
松江泰治の『CC』(大和ラジエーター製作所)は、見下ろされた都市の写真集である。
どの写真も、おそらく百数十メートル前後の高さから一定の視野、一定の角度で都市が見下ろされている。写っているのはビルと屋根と窓と、散在する緑。空中写真ではない。航空機からの視覚にくらべれば、ぐっと低い。すべて太陽が真上にある時間にシャッターを切った、陰影のない都市のランドスケープ。
いわば六本木ヒルズの展望台から見た真昼の東京。でも、人間が肉眼で見る風景と違うのは、そこに眼球の精度とは比較にならないくらい先鋭な大型カメラのレンズが据えられていることだ。そのレンズの精度と陰影を排除することによって、むきだしにされたような都市風景が展開されている。
パソコン画面などに向き合っている文明人の眼球の精度は悪いけれど、アフリカの狩猟民やアボリジニーは地平線の彼方にぽつりと現れた人間の頭を識別できるという。松江泰治の写真は、喩えていえば狩猟民が六本木ヒルズ展望台から東京を見下ろしているようなものかもしれない。
写真は、どの都市を撮っているのかが、ちょっと見にはわからない。東京なら東京都庁、ニューヨークならクライスラー・ビル(つい数年前までなら世界貿易センタービル)といった、誰にでもわかるランドマークは避けられている。ヒントは「CHI」「PAR」といった、空港につけられるような略号のみ。だから、ここはどこだろう、何が写っているんだろうと、写真の細部に目を凝らすことになる。
例えば「CHI 0254」(おそらくシカゴ)とタイトルされた作品(写真下)は、画面いっぱいに多数の高層ビル群が写っている。いちばん目立つのは直線のみで構成された直方体の、1950年代から70年代に建てられただろう合理主義一辺倒の高層ビルだが、それらに埋もれるように頭部に尖塔や、円柱とドーム屋根の装飾をほどこされた1920~30年代の高層ビルが見える。さらに、直方体をさまざまに崩したポスト・モダンな80年代以降の新しい高層ビルも見える。
大型カメラのレンズの焦点深度は深い。だから、画面いっぱいに写りこんだそれらのビル群のいちばん手前からいちばん奥まで、すべてにきっちりとピントが合っている。どこか1ヶ所にしかピントが合わない肉眼とは見え方がちがう。だからそこに捉えられたビル群は遠近感と立体感を失い、2次元の空間に面と面がひしめきあう奇妙にリアルな風景となって見る者の目に飛びこんでくる。
そんなふうに写真を読んでいくと、1枚1枚につい立ち止まってしまう。
「PAR 0354」はパリだろう。パリ市内に高い建物はないから、こちらは6、7階建てのアパルトマンが画面いっぱいに広がっている。ここでいちばん目立つのは、最上階の屋根裏部屋とその出窓だ。その連なりは、まるで都市のなかを高架の列車が走っているようにも見える。建物ごとに工夫をこらした、しかし基本的な構造は変わらない屋根裏部屋と出窓の並び具合やその屈曲が、画面には見えない街路のありかを示している。
「PEN 0219」は、たぶん東南アジアの都市のチャイナ・タウン。香港島の古い商店街と同型の家がずらりと並んでいる。表通り側には漢字と英文表記の商店の看板。裏通り側にはアジアの都市らしく洗濯物と鉢植えの植物。
そして細部にさらに目をこらしていくと、写真のそこここに通行人が写っている。身長1.5ミリから2ミリほど。レンズは、彼らが大またで歩いたり、立ち止まって2人で立ち話をしているさまを鮮明に捉えている。50階建ての高層ビルの全景と、その下の歩道をさまざまな姿勢で歩く通行人のひとりひとりが、ともに1枚の写真のなかにかっちり描写されているのだから驚く。
そして松江泰治は、ビルや建築物とともに、ひとりひとりの人間をくっきり捉えるためにこそこの高度を選んだのかもしれない、と深読みをしてみたくなる。これより高度を上げた航空機からの空中写真では、人間はおそらくただの点になり、さらに高度を上げると、ついには消失してしまうだろう。
人間がその輪郭を失ってただの点になり、あるいは消失してしまう空中からの視線とは、短絡を承知で言えば重慶ードレスデンー東京ー広島とつづく「戦略爆撃の思想」につながる視線にほかならない。高高度から爆弾を投下する「戦略爆撃の思想」においては、ひとりひとりの人間が意識されることはない。人間を点や数字に還元しなければ、非戦闘員への無差別爆撃など発想されるはずもないからだ。
松江泰治が選んだ地上の高地点は、都市の人工的風景のなかで、人間のひとりひとりが固有の輪郭を持っていることを認識できる、ぎりぎりの境界点といえるだろう。
『CC』は、そんなことを考えさせる豊かな情報と刺激にあふれ、見るだけでなく、写真を読む楽しさの詰まった写真集だった。
これまで松江泰治は、高地点に大型カメラを据えるという方法で、都市ではなく、世界の乾燥地帯の風景を撮ってきた。その成果で、写真界の芥川賞といわれる木村伊兵衛賞を受賞している。今回の『CC』をメインに、それ以前の乾燥地帯の風景も交えた写真展「CC gazetteer」が表参道のNADIFFで開かれている(4月17日まで)。
March 10, 2005
ホテルと材木屋
しゃれたプチ・ホテル風のホテル・モントレ銀座の向かいには材木屋がある(銀座2丁目)。交差点のコーナーに、建物の外壁に沿って材木が並べてある。建物のなかにちゃんとした材木置き場があるところを見ると、この交差点の材木は実用ではなく、店のディスプレーなのである。さすが銀座の材木屋。粋なものだ。
週に1、2度、東京駅から仕事場までを40分ほどかけて歩く。気が向くままにこっちの裏通りに曲がり、あっちの路地に入り込む。縦横に細い道が走っているから、仕事場までのルートはおそらく数百通り、いや、ひょっとしたらもっとあるかもしれない。町名でいうと、銀座と京橋がすっぽり収まる地域。ここには老舗、ブランド・ショップ、デパート、有名レストラン、料理屋がひしめいているけれど、よく知られたそれらの店ではない、バック・ストリートの風景を記録してみようと思い立った。さて、いつまで続きますか。
March 08, 2005
March 05, 2005
March 03, 2005
『ダブリン上等!』クールでハートウォーミング
ファースト・シーンの6週間前から、物語は始まっている。ダブリンで、どこにでもいそうなカップルが、どこにでもありそうな理由で別れた。男(キリアン・マーフィ)は未練たっぷりで、勤めているスーパーで同僚の親友にいらだちをぶつけている。女(ケリー・マクドナルド)は、はやくも歳上の銀行の支店長を恋人にして、同棲をはじめようとしている。そこまでが、映画が始まる以前の設定。
TOMATOの手になる洒落たタイトル・シークエンスが終わると、コリン・ファレル扮するチンピラが、カフェでレジの女の子を口説いている。と、いきなり強盗に変身して、レジの金を奪って逃走する。居合わせた刑事がファレルを追いかける。そこから映画はぽんぽんとテンポよく、多彩な登場人物を紹介してゆく。
女の妹(シャーリー・ヘンダーソン)は、唇の上のうぶ毛が髭のように濃い、男嫌いの女の子。その妹と母親の乗っていたバスが、悪ガキの投石で横転し、不運なバス運転手はクビになる。男の親友は長いこと恋人不在だったのが、熟年向けのシングル・バーで銀行支店長に捨てられた妻と出会い、セックス・フレンドになる。
ほかにも色んな脇役がいて、ちょっとしたエピソードが積み重なって、結局、男とチンピラとバス運転手が、男の元恋人の住まいに押し入って彼女を人質に取り、支店長に命じて銀行から金を強奪しようとする。
そんな群像劇が、ダブリンの街角やパブやスーパーや住宅を背景に繰り広げられる。くすんだ地方都市のような首都のさびれた路上や、郊外に広がる緑の野や、飲んだり議論したりの活気あふれるパブや、たいした家具もない質素な住宅が、見事な手持ちカメラで捉えられている。ダブリンを舞台にした映画は何本か記憶にあるけれど、この映画の、とりたてて特徴のないヨーロッパのどこにでもありそうな都市風景は、それだけダブリンの本当の姿を伝えているかもしれない(ダブリン、行ってみたいなあ)。
ところで多彩な人物が織りなす群像劇といえば、どうしてもロバート・アルトマンを思い出す。アルトマンの群像劇は、たいてい同時進行でいくつもの物語が展開し、時には人物たちが互いに無関係で、映画が終わるまでまったく顔を合わせないことすらある。アルトマンより若いポール・T・アンダーソンの『マグノリア』(傑作!)になると、物語の因果関係がいよいよ希薄になって、不条理劇の匂いさえしてくる。
『ダブリン上等!』は、そんな現代的な群像劇とは味わいが違う。一組のカップルが別れたことから、連鎖反応的に次から次へ出来事が起こって、ついには犯罪にまで行きついてしまう。ジグソーパズルの一片をはめこむ場所を間違えたために、誤りが誤りを呼び込んでしまうような、因果関係が一本の糸でつながった、ある種古風な趣きをもっている。
それでいながら映画のつくりが古さを感じさせないのは、舞台になっているダブリンの風景がリアルなこと、かっぱらいやらリストラやら不倫やらのエピソードが今ふうなこと、そしてなにより登場人物がチョイ役にいたるまで生き生きしているからだろう。笑いもたっぷりあり、アイリッシュの英語が分かれば、多分、もっと笑える。
彼女いない歴が長い欲求不満の親友。なにかというと「ケルト魂」をふりかざすのが滑稽な、強面の刑事。ビジネス書のせりふをオウム返しして笑わせるスーパーのマネージャー。やたらと石を投げて小さなカタストロフをもたらす狂言回しの悪ガキ。パブで誰彼かまわずギネスをたかる車椅子の常連のじいさん。これだけの人数が登場すると、エンドマークが出るまでついに区別がつかない人物がいたりするものだけど、この映画ではそんなことはなかった。
映画の途中から、多分そうなるだろうなと予想できるように、最後にはジグソーパズルの一片は収まるべきところに収まる。くっつくべき男と女はくっつき、元の鞘に納まるべきカップルは元に戻り、パブでは今夜もじいさんがギネスをねだっている。クールだけどハートウォーミング。そしてダブリンでも人生は続く。
チンピラのコリン・ファレルが、いかにもその辺にいそうなあんちゃんでいい。『アレキサンダー』は見てないけど、多分、こっちのほうがぴちぴち跳ねてる。妹役のシャーリー・ヘンダーソンは可哀想な役どころ(ラストではきれいになるんだろうと思ってたら、最後まで口ひげ)を熱演。『トレインスポッティング』や『ブリジット・ジョーンズの日記』もそうだったけど、イギリス圏映画に欠かせない、癖のあるバイ・プレイヤーだね。
ところで、この映画の原題は「interMission」だけど、「ダブリン上等!」ってどういうココロなんだろう? 気分は何となく分かるけど。
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