江藤淳の予見
江藤淳の『成熟と喪失――"母"の崩壊』(講談社文芸文庫)が刊行されたのは1967年。「右」と「左」のイデオロギー対立が激しい時代だった。江藤は保守派の文芸評論家と言われたけれども、この本は、そんなイデオロギー対立の時代を超えて21世紀までも生き残ることになった。しかも、「父」たりえない戦後の男たちへの批判から明治的な「父」=国家の再興を志したらしい江藤の意図とは逆に、上野千鶴子-大塚英志といったフェミニズムや「女子供」をフィールドとする側からの読みによって。
上野は、この本をこう評している。「江藤は、七〇年代以降あらわになった日本の女の変貌とフェミニズムの存在理由を、その芽のうちから的確に読み取っていた」。
そこに関係しそうな部分をメモしておく。
「『海辺の光景』の母親のうたう歌にこめられているのは、成長して自分を離れて行く息子に対する恨み--あるいは『成熟』そのものに対する呪詛である。母親は息子が自分とはちがった存在になって行くことに耐えられず、彼が……母親の延長にすぎなかった頃の幸福をなつかしむ。この息子が『他人』になることに脅える感情は、あるいは母と子のあいだを超えて、一般にわれわれの現実認識の型を支配しているかも知れない」
「学校教育を受けて近代社会の『フロンティア』に『出発』させられたのちでも、彼の意識の奥底に潜むoutcastの不安や『他人』に対する恐怖が深ければ深いほど、彼は『母』に密着していることができた幼児期を『楽園』と想い描くようになり、この『楽園』を回復しようとする願望を結婚に託して、……妻を『母』と同じかたちに切りとろうとする。彼に崩壊して行く農耕社会で過された幼児期の安息をとり戻そうとする願望があるかぎり、彼は決して『家』から、つまり『母』の影である妻のいる場所から、『出発しよう』とはしない」
「この二つの世代の女性(注・『海辺の光景』の明治生まれらしい母親と、『抱擁家族』の昭和世代らしい妻)のあいだに、ある本質的な価値転換が行われていることは疑う余地がない。つまりここでは女が発狂するための条件が逆転している。それはとりもなおさず、女が『幸福』と考えるもののイメイジが決定的に逆転したからである」
「もし女であり、『母』であるが故に『置き去りにされる』なら、自己のなかの『自然』=『母』は自らの手で破壊されなければならない。しかも産業化の速度がはやければはやいほど、この女性の自己破壊は徹底的なものでなければならない」
「成人男性」をモデルとする近代の産業社会のなかで、従来、女性は「家」のなかで産業戦士を産み、育て、夫を支える補助的な座しか与えられてこなかった。しかし産業化の進展とともに女性も「成人男性」と同じ役割を期待されるようになり、その社会に適応しようとする女性たちは、適応のじゃまになる自らの内なる自然=「母」を嫌悪し、破壊しようとする。
それは社会現象としては、女性の社会進出とか非婚・晩婚、離婚の増大、少子化といった事態として現れてくるだろう。男女関係に言い換えれば、恋愛はいくらでもオッケーだけど制度的な妻=「母」になるのはごめん、ということになるだろうか。あるいは、制度的な妻という保障はほしいけど恋愛の自由は別の場所に確保しておきたい、ということか。
江藤の指摘が正しいとすると、「母の崩壊」は、産業社会から高度情報化社会へとさらに成熟をつづける世界のなかで、今もなお進行中ということになる。
去年話題になった「負け犬」論争も、酒井順子の巧妙なネーミングに惑わされたメディアも多いけれど、制度的な結婚に魅力を感じないまま自分の欲望に忠実に生きている女性たちが「自分は楽しいんだから、ほっといてよ。負け犬って呼んでもいいからさ」という、勝ち犬=制度的な妻=「母」になりたくないシングルのしたたかな戦略だったことは、あの本を読めばはっきりしている。
1960年代、小説のなかにまず先鋭的に現れた「母の崩壊」は、今では非婚・少子化というかたちで、国の未来を脅かす危機(日本国の女性が子を産みたくないなら、移民を積極的に受け入れればいいと僕は思うけど、保守政治家はそうは思わないらしい)といわれるまでの広がりを見せている。
話は変わって、最近、広場や電車のなかでカップルを見かけると、男のほうが女の肩にもたれかかったり、女の胸に顔をうずめているケースが圧倒的に多い。それを見るたびに、ああ、ここでも江藤淳の予見は正確だったと思ってしまう。以前なら「男らしさ」の規範にじゃまされてできなかった愛情表現を、今では誰はばかることなくその本音をあらわにすることができる。この国では、「母」との楽園を求める男の幼児的な夢は永劫につづくのかもしれない。
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