『モーターサイクル・ダイアリーズ』の風景
映画を見る楽しみのひとつに、それまでどんな映像にも接することがなかった国や地域の風景(と、そこに生きる人々の姿)に触れられることがある。
高校時代に見た『大地のうた』で知ったインドの大平原。『夜行列車』や『水の中のナイフ』で見た、垂れこめた雲の下に並木が延々とつづくポーランドの暗鬱な田園。ずいぶん後になってからだが、世界史の教科書でしか知らなかったマケドニアの荒涼とした風景を初めて見た映画(タイトル失念)や、『路』で土地と民族の名前すら初めて知ったクルディスタン。それらの風景は今でも鮮烈に記憶に残っている。
『モーターサイクル・ダイアリーズ』も、そんな楽しさをたっぷり味わわせてくれたロード・ムーヴィーだった。ラテン・アメリカの風景といえば、僕もそうだが、たいていの人はリオやブエノスアイレスといった都市か、アマゾンやギアナ高地の大自然、マチュピチュを始めとするインカの遺跡くらいしか思い浮かばないだろう。
医学生のエルネスト・ゲバラと先輩の化学者アルベルトの乗るおんぼろバイクがブエノスアイレスの街を離れて平原(確かパンパといった)を土埃をあげて走り始めるのを見たとき、心がすうっと解放されるのを感じた。それは旅の始まりにエルネストが感じたものと同じものに違いない。そこから2人は雪深いアンデス山脈を超えて、チリ南部の町をいくつも訪れる。
何の変哲もない小さな町。町工場や寂れたカフェのある、特に美しいわけでもないたたずまいが胸に迫る。おそらく実際にその町の住民が出演しているのだろう、集会場で歌を歌いダンスに興ずる人々の姿は、演出というよりはドキュメンタリーのように感じられる。実際、この映画はゲバラが旅した行程を順に追いながら撮影したらしいから、俳優を使ったセミ・ドキュメンタリーといってもいいくらいだ。
これはウォルター・サレス監督が『セントラル・ステーション』の後半で、ブラジル南部の貧困地帯を少年たちが旅するくだり(これも心に残る風景だった)にとてもよく似ている。というより、その部分を拡大して1本の映画にしたのだと言ったほうがいいかもしれない。
旅のなかで、エルネストは病院にも行けず死にかけている老婆を診て己の無力を知る。アタカマ砂漠で家を失ったインディオのコミュニスト夫婦と野宿をする。チュキカマタ鉱山で日雇いの口がかかるのを待っている貧しい人々を見る。アマゾン上流のハンセン病療養所でボランティアをして、患者の信頼を得る。
映画の最後に、2人が旅で出会ったそれらの人々の映像がそこだけモノクロームで映し出される。一見スチールのようだけれど、じっとカメラを見ている彼らがかすかに動くことから、スチールではないことがわかる。その肖像には、エルネストの、そしてサレス監督の彼らへの深い共感が込められていた。
いい映画だったね。ふつうは、それでお終い。でも、この映画はそれで済まないものを抱えているようにも思う。それはこの映画の主人公がチェ・ゲバラだからだ。
ブエノスアイレスの裕福な家庭に育ったエルネストが、初めての旅で、虐げられた人々に接し、目覚める。その限りにおいて、この映画は万人に共感できる作品に仕上がっている。でもその後、エルネストは革命家への道を選んだ。カストロとともにキューバ革命を成功させ、さらにラテン・アメリカでのゲリラ活動に身を投じた果てに、CIAとボリビア政府の手で殺された。その人生については、万人が共感できるなどという範囲を超えている。
映画は、エルネストのその後については何も言わない。まだハバナで元気に生きているアルベルトを画面に登場させ、彼の万感の思いを込めた表情をとらえて映画は終わる。
映画がエルネストのその後について触れないのは、それはそれで正解だと思う。彼の最初の覚醒の旅を題材に選んだ以上、それ以上のお先走りは必要ないからだ。ただ、それだけにこの映画からは、例えば『アントニオ・ダス・モルテス』や『シティ・オブ・ゴッド』がラテン・アメリカの砂漠や都市のスラムの底から僕たちのノド元に鋭い刃を突きつけたような衝撃力は感じられない。いわば「良心的な映画」という枠のなかに収まっている。あるいは、チェ・ゲバラという固有名詞を消しても一向にかまわない青春映画なのだとも言える。
『モーターサイクル・ダイアリーズ』はロバート・レッドフォードが製作している。だから資本関係でいえばアメリカ映画(イギリス資本も参加)ということになる。この映画は、決してハリウッドの大作だけではないアメリカ映画の可能性を示すとともに、何を描くかではなく何を描かないかによって、その限界をも見せてくれたと言えるかもしれない。
その意味で、ゲバラが生きていた時代を知っている世代にとって、『モーターサイクル・ダイアリーズ』は渋谷の路上やJリーグのスタンドでチェ・ゲバラのイコンを目にしたときに感ずる違和感と、一方で、あらゆる革命家の魅力が失せた時代にどのような形であれゲバラが生きていることへの感慨という、けっこう複雑な感情に相通ずるもののある映画だった。
Comments
ご無沙汰しています。いつも興味深く読ませてもらっています。この映画、ロバート・レッドフォードが製作しているという点でも確かに注目に値するでしょうね。なにしろゲバラが亡くなった翌年制作され、彼も出演していたあの「明日に向かって撃て!」で最後の闘いの場としてボリヴィアを持ってきたのは、単なる思い付きではなかったのではないかと思った次第です。
Posted by: nikidasu | February 16, 2005 01:24 AM
こんにちは。こちらからもTBさせていただきました。
本作はファッションアイコンとしてのゲバラしか知らない人々(「アカルイミライ」のラストに出てくる高校生たち)にも充分に刺さる映画だと思います。
サレス監督は、南米の“闇”ではなく、“豊穣さ”を描くことの出来る貴重な監督ですよね。
私もあのラストのモノクロームが大好きでした。
Posted by: [M] | February 16, 2005 10:58 AM
>nikidasさま
そうでした。忘れてました。『明日に向かって撃て』のラストはボリビアでしたね。レッドフォードはゲバラに憧れてたんでしょうか。そのあたり、調べてみると面白いかもしれませんね。
>[M]さま
サレスが描くのは「闇」でなく「豊穣」。なるほど、そうですね。優しい視線がいいと思いました。これからもゲバラがどんなふうにイコンとして若い人に残っていくのか、興味あります。
Posted by: 雄 | February 17, 2005 01:17 PM
レッドフォードとゲバラの関係については、堀田佳男のレッドフォード・インタビューに詳しい。
http://www.yoshiohotta.com/bunshun/2004/bunshun041014.html
Posted by: 健 | February 18, 2005 09:34 AM
ありがとう。
キーワードは、やはり「旅」だったんですね。
Posted by: 雄 | February 18, 2005 12:40 PM
いいですね、この映画。「青春映画」としてとても好きです。サレス監督の他の作品も見てみようと思います。
Posted by: sheknows | April 12, 2005 06:27 PM
>sheknowsさま
『セントラル・ステーション』、なかなかいいですよ。[M]さんが見事なコメントをしてくれたように、南米の「闇」ではなく「豊穣」を描くことのできる監督だと思います。私も2本しか見ていませんが、センチメンタルなヒューマニズムに落ちるぎりぎりのところで、すっと芯が通っているような気がします。
Posted by: 雄 | April 14, 2005 07:00 PM
お勧めにより「セントラル・ステーション」を観ましたよ。
>センチメンタルなヒューマニズムに落ちるぎりぎりのところで、すっと芯が通っている
その通りでした。子役を使う事でのリスクをクリアしていると思いました。この監督は微妙なさじ加減が上手いのでしょうね。
Posted by: sheknows | May 01, 2005 11:45 PM
>sheknowsさま
サレス監督のように、職人的な技で見る者を楽しませながら、きちんとメッセージを持っている監督が私は好きです。
Posted by: 雄 | May 02, 2005 01:54 PM
この記事へTBさせて頂いたんですが、サーバーの不具合で、何度もTBが掲載されるという結果になってしまいました。重複分は削除して下さい。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
Posted by: saya | May 06, 2005 04:18 PM
>sayaさま
削除しました。私も何度か同じ誤りをしました。ご心配なく。
Posted by: 雄 | May 08, 2005 07:30 PM