『シンセミア』は未完のクロニクル
何年か前に阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮社)を読んだことがあって、当時、J-POPにあやかってネーミングされたJ文学なるものの一種だと思っていた。でも、しばらく読んでいなかった間に、蛹が妖しくも美しい蛾に変態するように、阿部和重は見事に変貌していた。『シンセミア』(上・下巻、朝日新聞社、各1700円+税)はぞくぞくするような傑作だった。
上下巻で800ページに及ぶこの大長編を読みながら連想した何本かの小説や映画がある。最初に思い浮かんだのは北杜夫の『楡家の人びと』。しばらく読み進んでから浮かんだのが中上健次『千年の愉楽』。最後に思い浮かべたのは深作欣二の『仁義なき戦い』だった。
最初の『楡家の人びと』が、他人に納得してもらえる連想でないのは自分でも分かる。なにしろ、一方は東京の山の手を舞台に静謐な空気が全編をおおう端正な小説だし、他方は、出てくる話といえば暴力や盗撮にSMまがい、恐喝にロリコンに不倫なんかで、語り口もメール文体が入ってきたり、「阿部和重」なる小説家が登場したり、今ふうな趣向がこらされている。でも、小説の骨組みのところで両者は共通している。一言でいえば「クロニクル=年代記」ということ。
『楡家の人びと』が北杜夫自身の家をモデルに、3代にわたる家族が生きてゆく様とその没落をまるごと掬いとろうとしたように、『シンセミア』も山形県東根市神町(じんまち)という実在の町をモデルに、その歴史をいくつもの光源を用いて多面的に浮かび上がらせようとしている。
戦後、米軍が進駐して「パンパン町」と蔑まれた町で、闇の力も利用して町を支配した2家族の3代にわたる物語。「神町クロニクル」とでも名づけたらいいだろうか。歴史とまともに向きあおうとするその姿勢は、J文学がいつでも「永遠の現在」を扱っているように見えるのと鋭い対照をなしている。
中上健次の『千年の愉楽』を思い浮かべたのには2つの理由がある。ひとつは、土地。中上健次が紀州という地域性と、その路地に一貫してこだわったように、『シンセミア』も阿部和重の生まれ在所である東根市神町と、その土地の方言に徹底してこだわっている。
実際、50ページほど読みすすんだところで、いきなりこの地方の方言が洪水のようにあふれ出てきたのに圧倒された。「おら家(え)の爺さん、急に居ねぐなって、どこさ行ったが判らなぐなったんだ!」といったしゃべり言葉が採用されなければ、この小説の世界は成り立たなかったろう。
ふたつ目は、『千年の愉楽』と同様に、これが(中上の用語を使えば)若衆の物語であること。小さな町に閉じこめられ、それ故に過剰なエネルギーをすべて内に向かって爆発させ傷つけあうしかない若衆の血のたぎりが、この小説を前へ前へと進める原動力となっている。
『仁義なき戦い』を連想したのは、破滅へ向けて突っ走る速度に深作欣二の映画と同質のものを感じたから。ラストへ向けて激しく加速する疾走感は、読んでいて、なぜか小説というより映画のものという気がした。阿部和重は映画についての著書もあるほどの映画好きだから、その意味で不思議はない。
小説のなかの「現在」は20世紀終わり近い年の7月と8月。真夏の強烈な光のなかで、1つの殺人と1つの事故と1つの行方不明を発端に物語は進行する。小説の半ばをすぎて、主人公の1人である男とその妻が渋谷へ出てきて、偶然にダンプカーの暴走事故に遭遇する。その夏、神町は台風に襲われ、竜巻が吹き荒れ、洪水が起こる。
そこに原因と結果といった近代小説の因果関係はない。でもそんな偶然や自然の猛威に触発されるかのようにして、若衆たちは破滅への道行きを加速させてゆく。神がかりの男女が巨大な赤瑪瑙の岩を発見して、神体として掘り出そうとする。小説が一気に不穏な空気に包まれる。
『千年の愉楽』ではオリュウノオバという不死の生命をもった産婆の目を通すことによって若衆たちが神話的存在となったように、『シンセミア』でも登場人物たちが荒れ狂う自然に抱かれ、巨大な赤瑪瑙の光に照らされることによって、ひとりひとりが「近代的」な意志や精神をもった存在ではなく、古代の叙事詩のなかの荒ぶる登場人物のようにも感じられてくる。
物語の最後では、『シンセミア(高純度のマリファナ)』が「神町クロニクル」のなかのほんの一部にすぎないことが暗示される。今回の芥川賞を取った『グランド・フィナーレ』は「神町クロニクル外伝」とでもいうべきもの(これについては近々、book naviで取り上げる予定。LINKS参照)。全体像が見えるのは、さらに先になりそうだ。楽しみが増えた。
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