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February 25, 2005

江藤淳の予見

江藤淳の『成熟と喪失――"母"の崩壊』(講談社文芸文庫)が刊行されたのは1967年。「右」と「左」のイデオロギー対立が激しい時代だった。江藤は保守派の文芸評論家と言われたけれども、この本は、そんなイデオロギー対立の時代を超えて21世紀までも生き残ることになった。しかも、「父」たりえない戦後の男たちへの批判から明治的な「父」=国家の再興を志したらしい江藤の意図とは逆に、上野千鶴子-大塚英志といったフェミニズムや「女子供」をフィールドとする側からの読みによって。

上野は、この本をこう評している。「江藤は、七〇年代以降あらわになった日本の女の変貌とフェミニズムの存在理由を、その芽のうちから的確に読み取っていた」。

そこに関係しそうな部分をメモしておく。

「『海辺の光景』の母親のうたう歌にこめられているのは、成長して自分を離れて行く息子に対する恨み--あるいは『成熟』そのものに対する呪詛である。母親は息子が自分とはちがった存在になって行くことに耐えられず、彼が……母親の延長にすぎなかった頃の幸福をなつかしむ。この息子が『他人』になることに脅える感情は、あるいは母と子のあいだを超えて、一般にわれわれの現実認識の型を支配しているかも知れない」

「学校教育を受けて近代社会の『フロンティア』に『出発』させられたのちでも、彼の意識の奥底に潜むoutcastの不安や『他人』に対する恐怖が深ければ深いほど、彼は『母』に密着していることができた幼児期を『楽園』と想い描くようになり、この『楽園』を回復しようとする願望を結婚に託して、……妻を『母』と同じかたちに切りとろうとする。彼に崩壊して行く農耕社会で過された幼児期の安息をとり戻そうとする願望があるかぎり、彼は決して『家』から、つまり『母』の影である妻のいる場所から、『出発しよう』とはしない」

「この二つの世代の女性(注・『海辺の光景』の明治生まれらしい母親と、『抱擁家族』の昭和世代らしい妻)のあいだに、ある本質的な価値転換が行われていることは疑う余地がない。つまりここでは女が発狂するための条件が逆転している。それはとりもなおさず、女が『幸福』と考えるもののイメイジが決定的に逆転したからである」

「もし女であり、『母』であるが故に『置き去りにされる』なら、自己のなかの『自然』=『母』は自らの手で破壊されなければならない。しかも産業化の速度がはやければはやいほど、この女性の自己破壊は徹底的なものでなければならない」

「成人男性」をモデルとする近代の産業社会のなかで、従来、女性は「家」のなかで産業戦士を産み、育て、夫を支える補助的な座しか与えられてこなかった。しかし産業化の進展とともに女性も「成人男性」と同じ役割を期待されるようになり、その社会に適応しようとする女性たちは、適応のじゃまになる自らの内なる自然=「母」を嫌悪し、破壊しようとする。

それは社会現象としては、女性の社会進出とか非婚・晩婚、離婚の増大、少子化といった事態として現れてくるだろう。男女関係に言い換えれば、恋愛はいくらでもオッケーだけど制度的な妻=「母」になるのはごめん、ということになるだろうか。あるいは、制度的な妻という保障はほしいけど恋愛の自由は別の場所に確保しておきたい、ということか。

江藤の指摘が正しいとすると、「母の崩壊」は、産業社会から高度情報化社会へとさらに成熟をつづける世界のなかで、今もなお進行中ということになる。

去年話題になった「負け犬」論争も、酒井順子の巧妙なネーミングに惑わされたメディアも多いけれど、制度的な結婚に魅力を感じないまま自分の欲望に忠実に生きている女性たちが「自分は楽しいんだから、ほっといてよ。負け犬って呼んでもいいからさ」という、勝ち犬=制度的な妻=「母」になりたくないシングルのしたたかな戦略だったことは、あの本を読めばはっきりしている。

1960年代、小説のなかにまず先鋭的に現れた「母の崩壊」は、今では非婚・少子化というかたちで、国の未来を脅かす危機(日本国の女性が子を産みたくないなら、移民を積極的に受け入れればいいと僕は思うけど、保守政治家はそうは思わないらしい)といわれるまでの広がりを見せている。

話は変わって、最近、広場や電車のなかでカップルを見かけると、男のほうが女の肩にもたれかかったり、女の胸に顔をうずめているケースが圧倒的に多い。それを見るたびに、ああ、ここでも江藤淳の予見は正確だったと思ってしまう。以前なら「男らしさ」の規範にじゃまされてできなかった愛情表現を、今では誰はばかることなくその本音をあらわにすることができる。この国では、「母」との楽園を求める男の幼児的な夢は永劫につづくのかもしれない。


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February 20, 2005

イリアーヌ・プレイズ&シングス・ジョビン

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ブラジル・ジャズの心地よさと楽しさを堪能した。イリアーヌ・イライアス(p,vo)のライブ(2月15日、ブルーノート東京、1st.セット)。

ブラジル・ジャズというのは、もちろんボサノバをベースにしたジャズ。最新作『ドリーマー』(右上)のヴォーカル+ピアノを中心に、昔の『プレイズ・ジョビン』(右下)のピアノ・カルテットからアントニオ・カルロス・ジョビンの名曲を数曲。メンバーはルーベンス・デ・ラ・コルテ(g)、マーク・ジョンソン(b)、武石聡(ds)。

ジョビンの曲で短いイントロがあった後、『ドリーマー』から「コール・ミー」「ビーズと指輪」の2曲。いずれもアメリカの古いポップスでバラードだけれど、イリアーヌが歌のパートを終えてピアノを弾きはじめると、とたんにボサノバの香りがしてくるのがうれしい。直前まで仕事をしていて、こわばった自分の体の芯がゆるんでくるのが分かる。

つづけて、ジョビンの名曲「おいしい水」。ヴォーカル抜きでピアノをたっぷり聴かせる。『プレイズ・ジョビン』ではエディ・ゴメス、ジャック・デ・ジョネットと組んでいたせいかバリバリのジャズだったが、ここではライブということもあってか、ノリのいいフレーズとリズム。ボサノバは、アドリブでどんなに熱くなっても、どこか爽やかな風を感じさせるのがいい。もともとトロピカルな熱さを都会の洗練でくるみ、2つの要素を絶妙にブレンドした音楽だから、そのクールさが今の時代の空気に合っているのかも。

そこから『ドリーマー』のヴォーカル+ピアノに戻ってジョビンの「フォトグラフ」、ブラジル音楽の宝庫バイーア地方の作曲家・カイミの「ドラリシ」、古いアメリカのポップス「タンジェリン」を、これもボサノバで。

ボサノバは、あまり複雑でない、でも魅力的なメロディーにたくさんの歌詞をつけて、語るように、ささやくように歌うことが多い。『ドリーマー』(この盤については04年7月3日のブログに書いた)は明らかにダイアナ・クラールを意識したつくりだけど、イリアーヌの歌は、だからクラールよりアストラッド・ジルベルトと比べたくなってしまう。

一世を風靡したジルベルトの「イパネマの娘」の透明な歌声に対して、イリアーヌの唄は低音域で、艶を感じさせる。彼女は若くしてブラジルで名をなし、1980年頃にニューヨークへ渡ったというから、たぶん40代前半だろう。当時のアストラッドは小娘のくせに全てを見てしまったような虚無の雰囲気がよかったが、イリアーヌには穏やかな歳相応の成熟を感じる。

セットの最後は、もう一度ヴォーカル抜きでジョビンの「デサフィナード」。名盤『ゲッツ/ジルベルト』でおなじみの曲。ベースのマーク・ジョンソン、ドラムスの武石聡も燃えた。僕が座ったのは彼女の右後ろ2メートルくらい、ピアノを弾く右手がよく見える席だった。柔らかなタッチは、演奏がどんなに激しくなっても変わらない。その柔らかさが、ボサノバの軽く、はずむような音を生むのだろう。演奏の途中、揺れる金髪からときどきのぞかせる横顔のライン、とくに唇の表情が、なかなか色っぽかった。

アンコールは「ワン・ノート・サンバ」「3月の雨」と、これもジョビンの名曲。ビギナー向けの選曲とはいえ、たっぷり楽しませてくれました。

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February 16, 2005

『モーターサイクル・ダイアリーズ』の風景

映画を見る楽しみのひとつに、それまでどんな映像にも接することがなかった国や地域の風景(と、そこに生きる人々の姿)に触れられることがある。

高校時代に見た『大地のうた』で知ったインドの大平原。『夜行列車』や『水の中のナイフ』で見た、垂れこめた雲の下に並木が延々とつづくポーランドの暗鬱な田園。ずいぶん後になってからだが、世界史の教科書でしか知らなかったマケドニアの荒涼とした風景を初めて見た映画(タイトル失念)や、『路』で土地と民族の名前すら初めて知ったクルディスタン。それらの風景は今でも鮮烈に記憶に残っている。

『モーターサイクル・ダイアリーズ』も、そんな楽しさをたっぷり味わわせてくれたロード・ムーヴィーだった。ラテン・アメリカの風景といえば、僕もそうだが、たいていの人はリオやブエノスアイレスといった都市か、アマゾンやギアナ高地の大自然、マチュピチュを始めとするインカの遺跡くらいしか思い浮かばないだろう。

医学生のエルネスト・ゲバラと先輩の化学者アルベルトの乗るおんぼろバイクがブエノスアイレスの街を離れて平原(確かパンパといった)を土埃をあげて走り始めるのを見たとき、心がすうっと解放されるのを感じた。それは旅の始まりにエルネストが感じたものと同じものに違いない。そこから2人は雪深いアンデス山脈を超えて、チリ南部の町をいくつも訪れる。

何の変哲もない小さな町。町工場や寂れたカフェのある、特に美しいわけでもないたたずまいが胸に迫る。おそらく実際にその町の住民が出演しているのだろう、集会場で歌を歌いダンスに興ずる人々の姿は、演出というよりはドキュメンタリーのように感じられる。実際、この映画はゲバラが旅した行程を順に追いながら撮影したらしいから、俳優を使ったセミ・ドキュメンタリーといってもいいくらいだ。

これはウォルター・サレス監督が『セントラル・ステーション』の後半で、ブラジル南部の貧困地帯を少年たちが旅するくだり(これも心に残る風景だった)にとてもよく似ている。というより、その部分を拡大して1本の映画にしたのだと言ったほうがいいかもしれない。

旅のなかで、エルネストは病院にも行けず死にかけている老婆を診て己の無力を知る。アタカマ砂漠で家を失ったインディオのコミュニスト夫婦と野宿をする。チュキカマタ鉱山で日雇いの口がかかるのを待っている貧しい人々を見る。アマゾン上流のハンセン病療養所でボランティアをして、患者の信頼を得る。

映画の最後に、2人が旅で出会ったそれらの人々の映像がそこだけモノクロームで映し出される。一見スチールのようだけれど、じっとカメラを見ている彼らがかすかに動くことから、スチールではないことがわかる。その肖像には、エルネストの、そしてサレス監督の彼らへの深い共感が込められていた。

いい映画だったね。ふつうは、それでお終い。でも、この映画はそれで済まないものを抱えているようにも思う。それはこの映画の主人公がチェ・ゲバラだからだ。

ブエノスアイレスの裕福な家庭に育ったエルネストが、初めての旅で、虐げられた人々に接し、目覚める。その限りにおいて、この映画は万人に共感できる作品に仕上がっている。でもその後、エルネストは革命家への道を選んだ。カストロとともにキューバ革命を成功させ、さらにラテン・アメリカでのゲリラ活動に身を投じた果てに、CIAとボリビア政府の手で殺された。その人生については、万人が共感できるなどという範囲を超えている。

映画は、エルネストのその後については何も言わない。まだハバナで元気に生きているアルベルトを画面に登場させ、彼の万感の思いを込めた表情をとらえて映画は終わる。

映画がエルネストのその後について触れないのは、それはそれで正解だと思う。彼の最初の覚醒の旅を題材に選んだ以上、それ以上のお先走りは必要ないからだ。ただ、それだけにこの映画からは、例えば『アントニオ・ダス・モルテス』や『シティ・オブ・ゴッド』がラテン・アメリカの砂漠や都市のスラムの底から僕たちのノド元に鋭い刃を突きつけたような衝撃力は感じられない。いわば「良心的な映画」という枠のなかに収まっている。あるいは、チェ・ゲバラという固有名詞を消しても一向にかまわない青春映画なのだとも言える。

『モーターサイクル・ダイアリーズ』はロバート・レッドフォードが製作している。だから資本関係でいえばアメリカ映画(イギリス資本も参加)ということになる。この映画は、決してハリウッドの大作だけではないアメリカ映画の可能性を示すとともに、何を描くかではなく何を描かないかによって、その限界をも見せてくれたと言えるかもしれない。

その意味で、ゲバラが生きていた時代を知っている世代にとって、『モーターサイクル・ダイアリーズ』は渋谷の路上やJリーグのスタンドでチェ・ゲバラのイコンを目にしたときに感ずる違和感と、一方で、あらゆる革命家の魅力が失せた時代にどのような形であれゲバラが生きていることへの感慨という、けっこう複雑な感情に相通ずるもののある映画だった。


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February 14, 2005

早春の予感

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庭の梅が一輪咲いた。白梅がほしくて苗木を買ってきて2年目。今年はたくさんの蕾を持っているので期待できそうだ。沈丁花もそろそろ蕾がふくらんできた。夜、家へ帰ると闇のなかに沈丁花の香りが満ち、梅の白い花が開いているのは、早春の予感を感じさせて好きだ。

持っているコンパクト・デジカメでは、接写モードにしても花にピントが合わない。一輪ではピント合わせの対象として小さすぎるのか。電池も充電機能がヘタっていて、そろそろ買い換えどきかも。もっと画素数の高いコンパクトにするか、思い切って一眼レフにするか、逆にカメラつき携帯(持ってない)でメモに徹するか、悩むところ。

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February 12, 2005

冬の秩父宮ラグビー場

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冬の晴れた日、秩父宮ラグビー場は東京でいちばん気持ちよいと思える場所のひとつだ。今日はバックスタンド側だったが、正面スタンド側からバックスタンド越しに見る絵画館前の銀杏並木とビルのエッジは、東京という都会の美を堪能させてくれる。今年の秩父宮は芝の状態が悪く、緑が鮮やかでないのが残念。

日本選手権の2回戦。挑戦者がよく戦って、NEC-サニックスは後半、サニックスが追い上げた。トヨタ自動車-早稲田大学は、後半30分まで早稲田がリード。静まりかえったグラウンドで、1年生FB五郎丸のロングキックが美しい放物線を描いてポールを越えてゆく。SO安藤のドロップゴールが決まってスタンドが湧く。2人のキック力と15人の鋭いタックル。後ろの席に来週、このゲームの勝者と戦う東芝府中の選手たちがいて、「ひょっとすると、ひょっとするぞ」と、ざわめいていた。最後には力の差が出たが、興奮した試合。


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February 10, 2005

『レイクサイド・マーダーケース』の水中死体

水中の死体というイメージはなんとも映画的で、いろんな作品にしばしば登場する。それが魅力的な女性であればなおさらだ。特にホラー映画やサイコ映画では、ある種の定型にすらなっている。古典的なところでは中川信夫の傑作『東海道四谷怪談』があるし、『リング』もそうだった。最近では『スイミング・プール』が、プールに浮かぶ死体というイメージを巧みに使っていた。

でもここ数年で取りわけ記憶に残っているのはハリソン・フォードとミシェル・ファイファーが共演した『ホワット・ライズ・ビニース』。湖とバスタブという2種類の「水」を使って、水中での殺人や水中を浮遊する死体といった美しく恐ろしい映像を、これでもかとばかり見せてくれた。ま、映画の出来はたいしたことなかったけど。

『レイクサイド・マーダーケース』も冒頭からラストシーンまで、水中の死体というイメージに執拗にこだわっている。そのイメージを核に映画が組み立てられているといってもいいくらい。

冒頭は水中シーンから始まる。カメラが上方へ移動すると、それは大きな水槽で、その上に敷いた透明のアクリル板にモデルが仰向けに横たわっている。彼女を狙って真上から、女性カメラマンがシャッターを切っている。雑誌グラビアかなにかの撮影なのだけれど、できあがった作品は、水をバックに、髪が水中にあるように四方に広がり、目と口を心持ち開けたモデルの顔を正面真上からとらえている。水中の死体を連想させる写真。

女性カメラマンを演ずるのは眞野裕子で、彼女は間もなく自分が撮った写真のような死体になってしまう。傍らでは編集者の役所広司が愛人でもある彼女の撮影を見ていて、ストロボが焚かれるごとに目に痛みを感じて顔をおおう。これもまた、いわば死体から目をそむけることの暗喩になっていることが、後になって分かる。

このあたりのプロローグは、すべてブルーの色調に統一されている。夕闇のなかで捉えられる東京の高層ビルの遠景は、まるで水中都市のようだ。

そこから映画は一転して、湖畔に立つログハウスの別荘での舞台劇のような展開になる。3家族9人の親子と、塾講師(豊川悦司)がエリート進学校を目指して合宿している。柄本明、薬師丸ひろ子らが強張った身振りと口調で芝居をするのに対して、遅れて合宿に参加した役所広司だけがナチュラルな演技を見せて一人だけ浮いているが、これも後に、青山真治監督と役所の確かな計算の上に成り立っていたことが分かる。

やがて招かれざる客、眞野裕子が死体となって発見される。殺された眞野の表情と顔にからみつく髪は、東京で彼女自身が撮っていた写真にそっくりだ。誰が、何のために殺したのか?
 
眞野は白いテーブルクロスにくるまれて湖の底へ沈められることになる。確か『ツインピークス』(映画版)のキャッチに「世界一美しい死体」というのがあったけど、着衣をはがされテーブルクロスにラッピングされた眞野も、ローラ・パーマーの死体に劣らず美しい。水底に眞野の死体を飲みこんだ湖の、油を流したようにねっとりした湖面が、深夜あるいは夜明けとさまざまな光と色彩で映し出される。

最後の部分で、眞野のイメージがもう一度繰り返される。それは水底の彼女の死体という実景ではなく、眞野が空中を浮遊する幻想として映像化されている。この場面で、青い空は明らかに水を、風になびく髪は水の流れに揺らぐそれを表している。

『ホワット・ライズ・ビニース』では、水中を浮遊する死体の映像が繰り返し使われていた。水中の死体という実景は、殺された者の怨念とか、死体が醸し出す恐怖といった感情を観客に抱かせてしまう。この映画に、そうした感情は必要とされていないから、青山監督はそれを避けたかったのだと思う。結局、監督は、この映画で水中の死体という実景を一度も見せずに、その魅惑的なイメージだけを見る者に伝えることに成功した。さすが、というべきか。

不満と言えば、これは映画というより原作(東野圭吾)の責任だと思うが、殺人の動機(?)がいまひとつストンと腑に落ちなかったこと。そして、終わり近くなって教育問題とか子どもの問題とか社会派的な視点が前面に出てくること。そのあたりはさらりとかわして、水中死体という極めて映画的なイメージに見る者を酔わせてエンディングしてほしかった。

薬師丸は最初から最後までキンキンと声を荒げる損な役どころだけれど熱演。役所・薬師丸、柄本・黒田福美、鶴見辰吾・杉田かおるの3組の夫婦が、それぞれの持ち味で楽しませてくれる。でもこの作品では映画初出演らしい、美しい死体となった眞野裕子に拍手を送りたい。

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February 05, 2005

『シンセミア』は未完のクロニクル

何年か前に阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮社)を読んだことがあって、当時、J-POPにあやかってネーミングされたJ文学なるものの一種だと思っていた。でも、しばらく読んでいなかった間に、蛹が妖しくも美しい蛾に変態するように、阿部和重は見事に変貌していた。『シンセミア』(上・下巻、朝日新聞社、各1700円+税)はぞくぞくするような傑作だった。

上下巻で800ページに及ぶこの大長編を読みながら連想した何本かの小説や映画がある。最初に思い浮かんだのは北杜夫の『楡家の人びと』。しばらく読み進んでから浮かんだのが中上健次『千年の愉楽』。最後に思い浮かべたのは深作欣二の『仁義なき戦い』だった。

最初の『楡家の人びと』が、他人に納得してもらえる連想でないのは自分でも分かる。なにしろ、一方は東京の山の手を舞台に静謐な空気が全編をおおう端正な小説だし、他方は、出てくる話といえば暴力や盗撮にSMまがい、恐喝にロリコンに不倫なんかで、語り口もメール文体が入ってきたり、「阿部和重」なる小説家が登場したり、今ふうな趣向がこらされている。でも、小説の骨組みのところで両者は共通している。一言でいえば「クロニクル=年代記」ということ。

『楡家の人びと』が北杜夫自身の家をモデルに、3代にわたる家族が生きてゆく様とその没落をまるごと掬いとろうとしたように、『シンセミア』も山形県東根市神町(じんまち)という実在の町をモデルに、その歴史をいくつもの光源を用いて多面的に浮かび上がらせようとしている。

戦後、米軍が進駐して「パンパン町」と蔑まれた町で、闇の力も利用して町を支配した2家族の3代にわたる物語。「神町クロニクル」とでも名づけたらいいだろうか。歴史とまともに向きあおうとするその姿勢は、J文学がいつでも「永遠の現在」を扱っているように見えるのと鋭い対照をなしている。

中上健次の『千年の愉楽』を思い浮かべたのには2つの理由がある。ひとつは、土地。中上健次が紀州という地域性と、その路地に一貫してこだわったように、『シンセミア』も阿部和重の生まれ在所である東根市神町と、その土地の方言に徹底してこだわっている。

実際、50ページほど読みすすんだところで、いきなりこの地方の方言が洪水のようにあふれ出てきたのに圧倒された。「おら家(え)の爺さん、急に居ねぐなって、どこさ行ったが判らなぐなったんだ!」といったしゃべり言葉が採用されなければ、この小説の世界は成り立たなかったろう。

ふたつ目は、『千年の愉楽』と同様に、これが(中上の用語を使えば)若衆の物語であること。小さな町に閉じこめられ、それ故に過剰なエネルギーをすべて内に向かって爆発させ傷つけあうしかない若衆の血のたぎりが、この小説を前へ前へと進める原動力となっている。

『仁義なき戦い』を連想したのは、破滅へ向けて突っ走る速度に深作欣二の映画と同質のものを感じたから。ラストへ向けて激しく加速する疾走感は、読んでいて、なぜか小説というより映画のものという気がした。阿部和重は映画についての著書もあるほどの映画好きだから、その意味で不思議はない。

小説のなかの「現在」は20世紀終わり近い年の7月と8月。真夏の強烈な光のなかで、1つの殺人と1つの事故と1つの行方不明を発端に物語は進行する。小説の半ばをすぎて、主人公の1人である男とその妻が渋谷へ出てきて、偶然にダンプカーの暴走事故に遭遇する。その夏、神町は台風に襲われ、竜巻が吹き荒れ、洪水が起こる。

そこに原因と結果といった近代小説の因果関係はない。でもそんな偶然や自然の猛威に触発されるかのようにして、若衆たちは破滅への道行きを加速させてゆく。神がかりの男女が巨大な赤瑪瑙の岩を発見して、神体として掘り出そうとする。小説が一気に不穏な空気に包まれる。

『千年の愉楽』ではオリュウノオバという不死の生命をもった産婆の目を通すことによって若衆たちが神話的存在となったように、『シンセミア』でも登場人物たちが荒れ狂う自然に抱かれ、巨大な赤瑪瑙の光に照らされることによって、ひとりひとりが「近代的」な意志や精神をもった存在ではなく、古代の叙事詩のなかの荒ぶる登場人物のようにも感じられてくる。

物語の最後では、『シンセミア(高純度のマリファナ)』が「神町クロニクル」のなかのほんの一部にすぎないことが暗示される。今回の芥川賞を取った『グランド・フィナーレ』は「神町クロニクル外伝」とでもいうべきもの(これについては近々、book naviで取り上げる予定。LINKS参照)。全体像が見えるのは、さらに先になりそうだ。楽しみが増えた。

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February 03, 2005

川原湯温泉の源泉

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群馬県川原湯温泉の源泉。湯が湧きでている中央の筒は松材をくりぬいたもので、江戸時代以来使われているという。

やまきぼし旅館の露天風呂「崖湯」は、草津方面を望む雪原を見下ろす崖に突き出るようにしてある。浴槽からあふれでた湯が崖下にこぼれてゆく。雪が舞い、時折、屋根の雪塊がどどどっと崩れる。折からの寒波で顔に当たる風は氷のように冷たく、首から下は熱い湯がぴりぴりと肌を刺す。

草津、万座、四万、伊香保と近くに有名な温泉が多いせいか、川原湯温泉は首都圏でもあまり知られていない。僕も嵐山光三郎『快楽温泉201』(講談社)で初めて知った。この本は嵐山の兄貴が全国1200余の温泉を巡って選びぬいただけあって、期待を裏切られたことがない。今回も大満足。

2010年、川原湯温泉は建設中の八ツ場ダムの底に沈み、今ある場所から数十メートル高いところに新しい温泉街ができる。

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