『マイ・ボディーガード』のテンポ
クリント・イーストウッドを別格とすれば、トニー・スコットはいま、ハリウッドでアクションものを撮らせたらナンバーワンかもしれない。兄のリドリーがどちらかといえばノワールやハードボイルドの匂いをもち、時に作家性を垣間見せるのに対して、弟はハリウッドの求めるものに忠実に従いながら、しかし自分のスタイルをもって職人的な技を発揮するタイプ。だから兄はプロデューサーにエンディングを変えられた『ブレードランナー』のディレクターズ・カットをつくったけれど、スコットはそんなことに無関心だろう。
いま全盛のアクション映画のスタイルがハリウッドで生まれたのは1980年代後半だったろうか。短いカットで畳みかける怖ろしく速いテンポ。数分に1度の見せ場。絶え間ない音楽。派手な映像と音。見る者の身体感覚を揺さぶりながら息を抜く間も与えないよう計算された「ヒット作の方程式」は、ミュージック・ビデオやコマーシャルの手法を取り入れてつくられた。トニー・スコットの『トップガン』や『ビバリーヒルズ・コップ2』は、そんな新しいスタイルの初期の作品だったように思う。
僕のような古いタイプのファンの目からは、そういう映画には人間がどこにもいないと思えた。癖のある役者が癖のある人間たちを演じたロバート・アルドリッチやドン・シーゲルの映画は、そんな「方程式」から見ればなんともテンポののろい、時代遅れのアクションものに見えたに違いない。僕の見るところ、いまだに古いタイプのアクション映画にこだわり、しかも傑作をつくりつづけているのはクリント・イーストウッドくらい。
トニー・スコットは90年代の『トゥルーロマンス』や01年の『スパイゲーム』などで、それなりに完成度の高い新しいタイプのアクション映画をつくってきた。『マイ・ボディガード』もその延長線上にある。
ただ、この映画で注目したいのはブライアン・ヘルゲランドが脚本を書いていること。『LAコンフィデンシャル』や『ミスティック・リバー』がそうだったように、彼はじっくりと人間を描き込んでゆくタイプで、テンポだけのアクションとは対極のところにいる脚本家。これはプロデューサーでもあるトニー・スコットの指名だろうから、彼が今までの映画とは違うところを狙っているのが分かる。
映画の前半は、米軍特殊部隊の暗殺者の経歴をもち、アル中で自殺願望にさいなまれるデンゼル・ワシントンと、彼がボディー・ガードをつとめることになった少女、ダコタ・ファニングの出会いから心が通いあうまで。派手なシーンも動きも少ないけれど、トニー・スコットは相変わらずのテンポと短いカットの積み重ねで、2人の交流と誘拐への伏線を描いてゆく。デンゼルの心の闇、ダコタの可愛らしさ、型通りだけど悪くない。
デンゼル・ワシントンを、僕はあまり好きでなかった。かつてのシドニー・ポアティエふうというか、正義派のアフリカ系として、「ポリティカリー・コレクト」に配慮したハリウッド映画でいつも似たような役柄を演じていたから。でもメキシコシティーに向かう車のなかから、レイバーンをかけ、無精髭をはやして無表情にポポカテペトル山の印象的な姿をながめるファーストシーンから、いつものデンゼルではない。
映画の後半はアクションに次ぐアクション。誘拐をビジネスにしている汚職警官への復讐に、デンゼルの鬱屈したエネルギーが爆発する。エリート層の厳重に警護された邸宅と、貧困層のスラムと、貧富の差が極端なメキシコシティーの風景がリアル。
トニー・スコットの映像は短くテンポが速いだけでなく、常に動いている。移動撮影しながら、カメラの首を振ったり、ズーミングしたり。その2重に動いている感じが見る者に奇妙な揺らぎの感覚を与える(余談だけど、『24』シリーズの微妙に揺らぐテンポの速い映像を見たとき、あ、トニー・スコットみたいと感じた)。さらにスローやスピードアップ、多重露出やソラリゼーション(?)、マルチカメラ、16ミリ、デジタル加工など、ありとあらゆるテクニックを駆使してクライマックスに向かって走る。
クレジットで初めて気がついたけど、これ、原作はクィネルの『燃える男』なんだね。原作はイタリアが舞台で、主人公は白人、ストーリーも20年前に読んだ記憶ではずいぶん違っていたような気がする。でも、いま映画化するとしたら、確かにこうなるんだろう。
クリストファー・ウォーケン、ミッキー・ロークと、僕たちの世代には思い入れのある役者が出ているのも憎い。このタイプの映画は好みでないんだけどなと思いながら、すっかり楽しんでしまった。
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