『脳と仮想』のクオリア
茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社)は、「物質である脳になぜ心が宿るのか」という古典的な問いに、現在の脳科学の立場から答えようとしている。
もっとも、漱石や樋口一葉やワグナーがたびたび引き合いに出されることからも分かるように、これは科学者の科学論ではなく、脳科学を応用して文学・芸術(あるいは文学・芸術を生みださざるをえない人間)を論じたエッセーというほうが正確かもしれない。その意味では、解剖学を応用してこの世間を斬ってみせた『バカの壁』と似ているところがある。
茂木は、脳科学の「クオリア(感覚質)」という考え方を紹介している。クオリアとは「赤い色の感覚」とか「水の冷たさの感じ」とか「そこはかとない不安」といった、私たちの心のなかの数量化できない経験を指す。
クオリアではない数量化できる経験をどう認知するかを、近代は科学として発達させてきた。クオリアも数量化できる経験も、人間のすべての主観的体験は脳内にある1000億のニューロン(神経細胞)の活動によって生みだされている。だからクオリアも何らかの精密な自然現象の結果であることは確かなのだが、その「科学的」な因果関係はまだ解明されていない。
私たちが北極で乱舞するオーロラを見上げているとする。私たちはオーロラを認知し、その美しさに打たれる。そうしたクオリア体験は、すべて脳内現象ということができる。私たちの身体の向こうに広がっている外部からの刺激にもとづいて1000億のニューロンが活動して、脳のなかで身体の外の宇宙を体験することができる。
でも人間の脳は、外界から何の入力がなくても、ニューロンが常に自発的に活動しているという性質をもっている。だから、いまこの瞬間にオーロラが存在していなくても、脳のニューロンが何らかの形式で活動すれば、人間は脳のなかでオーロラを体験することができる。つまり仮想(ヴァーチャル・リアリティー)を立ち上げることができる。その特徴は、1リットルの質量しかない脳に閉じこめられない無限の仮想空間を持っていることだ。
生まれたばかりの新生児の脳は、未分化で原始的な形ではあるが「自己」「外界」「他者」「快」「不快」といったカテゴリーの仮想を生んでいくらしい。そうした仮想が次第に複雑になり多様化していき、身体の外の現実とそれらの仮想をマッチングさせることによって現実を認識することができるようになる。
仮想を豊かにすればするほど、私たちは現実を豊かに把握することができるようになる。その一方、身体の外の現実がなくても、私たちは無限の仮想空間に遊ぶことができる。
さまざまなクオリアに満ちた仮想について、文学や音楽を引いて繰り返し語る茂木は、「人間にとって切実なものは仮想に属する」と言う。映画や小説やジャズに、時に「現実」以上に切実なものを感じる人間にとっては当たり前の言葉でも、科学者としてこう断言するのは勇気のいることなのだろう。養老「唯脳論」にならえば「唯仮想論」とでも言うか。
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