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November 16, 2004

『ペンギンの憂鬱』の背後

売れない中年の短篇小説家がペンギンと暮らしている。動物園からもらってきたペンギンは憂鬱症で、ときどき鏡に写る自分の姿を黙ってながめている。1人と1匹が「孤独をふたつ補いあって」日々を過ごしている。ある日、小説家に、未来の死者のための追悼記事を書いてほしいという依頼が新聞社から舞い込む。

ウクライナの作家、アンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』(新潮クレストブックス)は、そんな魅力的な導入から始まる。その設定はロアルド・ダールふうな「奇妙な味の小説」を思わせるし、メランコリーとユーモアが程よくブレンドされた心地よい描写は村上春樹を感じさせる。実際、クルコフは村上春樹が好きだそうで、誤解を恐れずに言えばこれはウクライナ版『羊をめぐる冒険』なのである。

と言えば、展開は想像がつくだろう。行きがかり上預かることになった少女のソーニャと、同居人になってしまった恋人(?)ニーナとの、3人と1匹の「家族ごっこ」が、小説家にひとときの穏やかな日々をもたらす。が、やがて身辺に不可解な出来事が……。

村上春樹の『羊をめぐる冒険』は高度成長下の安定した社会を舞台にした、いわば観念的な「悪」と「戦争」の物語だった(20年以上前に読んだきりなので間違っているかも)と記憶しているけれど、今日のウクライナを舞台にしたこの物語ではしばしば銃と銃声が登場して、この閉じられた寓話的な物語に現実の側から亀裂を入れる。

銃声は冒頭の2ページ目で早くも主人公の耳に聞こえてくる。アパートのなか、「蝋燭を探しあてて火をつけ、マヨネーズの入っていた瓶に立ててテーブルに置いた。炎がゆらゆら揺れる……外で銃声が鳴りひびいた。びくっとして窓に飛び寄ったが、何も見えないので、テーブルに戻る」。

この銃声は直接に小説家の身にふりかかる出来事ではなく、小説家がどんな環境に取りまかれているかを読者に知らせる役割をはたしている。でも、首都キエフに住む小説家が、追悼記事を取材するためにウクライナ第2の都市ハリコフに出張すると、銃と銃声はさっそく小説家の身近なものになる。取材をセットしてくれるはずだった新聞社の支局員が死体で発見される。

ハリコフという地名を聞いて、僕は何の脈絡もなく『ケース・ヒストリー(CASE HISTORY)』(SCALO)という写真集を思い出した。この写真集は、ハリコフ生まれの写真家、ボリス・ミハイロフの手になるもの。ミハイロフが暮らすハリコフの荒廃した街と人々の絶望的な表情の数々が500ページ近い本に収められている。ヨーロッパやアメリカで話題になり、MOMAなどで写真展が開かれた。

写真集の巻頭には傷つき病んだ老人や女性10人ほどの、服を脱いだ痛ましいポートレートが置かれている。ミハイロフは「レクイエム」と題した短文のなかで、「彼らのうち3人は撮影して2カ月以内に死んだ。彼らの意志に従ってこれを公表する」と書いていた。

アスファルトに穴があき、ごみが散らかり放題の街路、閉鎖された工場や商店。ホームレスなのだろうか、路上に倒れている人。シンナーかなにかを手にしたストリート・チルドレン。娼婦らしき女の貧しい裸体。希望のない目をした老人たち。そんな写真が延々とつづいている。

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『ペンギンの憂鬱』は1996年に出版されているから、1999年に出版された『ケース・ヒストリー』の撮影時期とちょうど重なっている。旧ソ連崩壊後、ウクライナも独立したけれど、それによって人々の生活が豊かで安全になったようには思えない。この写真集を見ていると、貧しさと混乱は一層ひどくなっているようだ。

『ペンギンの憂鬱』の背後にこんな目をそむけたくなるような現実があることを想像すると、その不条理なメルヘンじみた世界が、不眠に悩むペンギンの姿とともに急に別の貌をもったものにも思えてくる。それは『羊をめぐる冒険』の背後に1980年代のこの国の「豊かな」社会があったのと鋭い対照をなしている。

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