『血と骨』の叙事
映画は、食いつめて日本本土に移住するために船に乗りくんだ朝鮮人たちが、波の彼方に煙突が並び立つ大阪の工場地帯を望んで歓声を上げるシーンから始まる。
そのシーンを見て、崔洋一監督はこの映画で『ゴッドファーザー』みたいな、あるいは『ギャング・オブ・ニューヨーク』みたいな移民の叙事物語をつくりたいのだなと思った。そしてその試みはある部分では成功し、ある部分ではうまくいかなかった。
日本映画が在日朝鮮人の一代記というテーマを扱うとき、むずかしい問題をかかえこむことになる。植民地支配、強制連行、差別といった歴史をどう扱うか。そこを避けて通ることはできない。すると、映画はどうしても「加害-被害」「差別-被差別」という視点を孕むことになる。教科書なら必須でも、それによって映画がよくなる保証はない。むしろ、ある種の予定調和の世界が出現してしまう危険さえある。
崔洋一監督(共同脚本は鄭義信)は、そんな「加害-被害」の関係を目に見える形では映画のなかに導入しなかった。梁石日の小説がそうした視点に立っていないこともあるけれど、原作・脚本・監督が在日チームだったからこそ取りえた戦略だろう。その意味では、彼ら以外ではこの映画は成り立たなかった。
映画は大文字の歴史を背景として描きながら(省略した描写で若い人が理解できるだろうかという心配はあるが)、小さな朝鮮人集落に焦点を合わせて、ひたすらビートたけし演ずる金俊平の欲望むき出しの行動だけを追っていく。だからこの映画には、戦中のシーンに朝鮮語で「万歳」を叫ぶ青年を殴る体制協力的な朝鮮人は出てきても、日本人はほとんど出てこない。
大きな役で登場する日本人は2人だけ。金俊平に囲われる戦争未亡人と、やはり愛人となる子連れの女(中村優子と濱田マリがいい雰囲気)。2人とも、強者である金俊平に金と性と暴力で組み敷かれる弱者として描かれている。僕はそこに崔=鄭組のメッセージを感じた。
22軒の家を建てたという朝鮮人集落のオープンセットがリアルだ。バラックや工場、看板や家具、機械類にいたるまで、高度成長以前の貧しかった時代の町並みが見事に再現されている。その時代を知る年代として、また小学校時代に朝鮮人の同級生の家に出入りした記憶を持つ身として、違和感をまったく感じなかった。
ビートたけしと、ひたすらに忍従する妻を演ずる鈴木京香はもちろんいいけれど、俊平の家にころがりこむ腹違いの子供・朴武を演ずるオダギリジョーが、凶暴さと甘えを同居させて素晴らしい。激しい雨のなかで演じられるビートたけしとオダギリジョーの長い格闘シーンは、2人とも演技じゃなく本気? と錯覚させられるほど。
それに比べると俊平の長男・正雄(新井清文)の描き方が弱い。それがこの映画のいちばんの弱点ではないかな。
映画は正雄の1人称で語られる。正雄の目からみた父の、金と性と暴力がむき出しにされた生が描かれるわけだが、父の理不尽さへの正雄の恐怖や怒りの感情が、映画の導入部で見る者を納得させるようには描かれていない。父と息子の対立がくっきりしないから、観客の感情は同一化する対象を見つけられずにさまようしかなく、だから激しい暴力シーンの連続がいまひとつ響いてこない。
後半の叙事的な語りがいいだけに、映画に乗りきれない自分がもどかしかった。もうちょっとなのに、なんとかしてくれ、って感じ。
印象に残るショットやシーンはたくさんある。脳障害で廃人になった戦争未亡人を盥でいたわるように水浴させる、俊平の優しさを感じさせるシーン。言葉を失った彼女がバラックの2階の窓から呆然と通りをながめているロングショット。半身不随になった俊平が、家を出て地方のスマートボールで働いている正雄に会いに行き、ちあきなおみの「喝采」が流れるシーン。韓国ロケしたらしいラストシーンも、俊平の孤独を際立たせていた。
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