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November 27, 2004

『血と骨』の叙事

映画は、食いつめて日本本土に移住するために船に乗りくんだ朝鮮人たちが、波の彼方に煙突が並び立つ大阪の工場地帯を望んで歓声を上げるシーンから始まる。

そのシーンを見て、崔洋一監督はこの映画で『ゴッドファーザー』みたいな、あるいは『ギャング・オブ・ニューヨーク』みたいな移民の叙事物語をつくりたいのだなと思った。そしてその試みはある部分では成功し、ある部分ではうまくいかなかった。

日本映画が在日朝鮮人の一代記というテーマを扱うとき、むずかしい問題をかかえこむことになる。植民地支配、強制連行、差別といった歴史をどう扱うか。そこを避けて通ることはできない。すると、映画はどうしても「加害-被害」「差別-被差別」という視点を孕むことになる。教科書なら必須でも、それによって映画がよくなる保証はない。むしろ、ある種の予定調和の世界が出現してしまう危険さえある。

崔洋一監督(共同脚本は鄭義信)は、そんな「加害-被害」の関係を目に見える形では映画のなかに導入しなかった。梁石日の小説がそうした視点に立っていないこともあるけれど、原作・脚本・監督が在日チームだったからこそ取りえた戦略だろう。その意味では、彼ら以外ではこの映画は成り立たなかった。

映画は大文字の歴史を背景として描きながら(省略した描写で若い人が理解できるだろうかという心配はあるが)、小さな朝鮮人集落に焦点を合わせて、ひたすらビートたけし演ずる金俊平の欲望むき出しの行動だけを追っていく。だからこの映画には、戦中のシーンに朝鮮語で「万歳」を叫ぶ青年を殴る体制協力的な朝鮮人は出てきても、日本人はほとんど出てこない。

大きな役で登場する日本人は2人だけ。金俊平に囲われる戦争未亡人と、やはり愛人となる子連れの女(中村優子と濱田マリがいい雰囲気)。2人とも、強者である金俊平に金と性と暴力で組み敷かれる弱者として描かれている。僕はそこに崔=鄭組のメッセージを感じた。

22軒の家を建てたという朝鮮人集落のオープンセットがリアルだ。バラックや工場、看板や家具、機械類にいたるまで、高度成長以前の貧しかった時代の町並みが見事に再現されている。その時代を知る年代として、また小学校時代に朝鮮人の同級生の家に出入りした記憶を持つ身として、違和感をまったく感じなかった。

ビートたけしと、ひたすらに忍従する妻を演ずる鈴木京香はもちろんいいけれど、俊平の家にころがりこむ腹違いの子供・朴武を演ずるオダギリジョーが、凶暴さと甘えを同居させて素晴らしい。激しい雨のなかで演じられるビートたけしとオダギリジョーの長い格闘シーンは、2人とも演技じゃなく本気? と錯覚させられるほど。

それに比べると俊平の長男・正雄(新井清文)の描き方が弱い。それがこの映画のいちばんの弱点ではないかな。

映画は正雄の1人称で語られる。正雄の目からみた父の、金と性と暴力がむき出しにされた生が描かれるわけだが、父の理不尽さへの正雄の恐怖や怒りの感情が、映画の導入部で見る者を納得させるようには描かれていない。父と息子の対立がくっきりしないから、観客の感情は同一化する対象を見つけられずにさまようしかなく、だから激しい暴力シーンの連続がいまひとつ響いてこない。

後半の叙事的な語りがいいだけに、映画に乗りきれない自分がもどかしかった。もうちょっとなのに、なんとかしてくれ、って感じ。

印象に残るショットやシーンはたくさんある。脳障害で廃人になった戦争未亡人を盥でいたわるように水浴させる、俊平の優しさを感じさせるシーン。言葉を失った彼女がバラックの2階の窓から呆然と通りをながめているロングショット。半身不随になった俊平が、家を出て地方のスマートボールで働いている正雄に会いに行き、ちあきなおみの「喝采」が流れるシーン。韓国ロケしたらしいラストシーンも、俊平の孤独を際立たせていた。

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November 23, 2004

『脳と仮想』のクオリア

茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社)は、「物質である脳になぜ心が宿るのか」という古典的な問いに、現在の脳科学の立場から答えようとしている。

もっとも、漱石や樋口一葉やワグナーがたびたび引き合いに出されることからも分かるように、これは科学者の科学論ではなく、脳科学を応用して文学・芸術(あるいは文学・芸術を生みださざるをえない人間)を論じたエッセーというほうが正確かもしれない。その意味では、解剖学を応用してこの世間を斬ってみせた『バカの壁』と似ているところがある。

茂木は、脳科学の「クオリア(感覚質)」という考え方を紹介している。クオリアとは「赤い色の感覚」とか「水の冷たさの感じ」とか「そこはかとない不安」といった、私たちの心のなかの数量化できない経験を指す。

クオリアではない数量化できる経験をどう認知するかを、近代は科学として発達させてきた。クオリアも数量化できる経験も、人間のすべての主観的体験は脳内にある1000億のニューロン(神経細胞)の活動によって生みだされている。だからクオリアも何らかの精密な自然現象の結果であることは確かなのだが、その「科学的」な因果関係はまだ解明されていない。

私たちが北極で乱舞するオーロラを見上げているとする。私たちはオーロラを認知し、その美しさに打たれる。そうしたクオリア体験は、すべて脳内現象ということができる。私たちの身体の向こうに広がっている外部からの刺激にもとづいて1000億のニューロンが活動して、脳のなかで身体の外の宇宙を体験することができる。

でも人間の脳は、外界から何の入力がなくても、ニューロンが常に自発的に活動しているという性質をもっている。だから、いまこの瞬間にオーロラが存在していなくても、脳のニューロンが何らかの形式で活動すれば、人間は脳のなかでオーロラを体験することができる。つまり仮想(ヴァーチャル・リアリティー)を立ち上げることができる。その特徴は、1リットルの質量しかない脳に閉じこめられない無限の仮想空間を持っていることだ。

生まれたばかりの新生児の脳は、未分化で原始的な形ではあるが「自己」「外界」「他者」「快」「不快」といったカテゴリーの仮想を生んでいくらしい。そうした仮想が次第に複雑になり多様化していき、身体の外の現実とそれらの仮想をマッチングさせることによって現実を認識することができるようになる。

仮想を豊かにすればするほど、私たちは現実を豊かに把握することができるようになる。その一方、身体の外の現実がなくても、私たちは無限の仮想空間に遊ぶことができる。

さまざまなクオリアに満ちた仮想について、文学や音楽を引いて繰り返し語る茂木は、「人間にとって切実なものは仮想に属する」と言う。映画や小説やジャズに、時に「現実」以上に切実なものを感じる人間にとっては当たり前の言葉でも、科学者としてこう断言するのは勇気のいることなのだろう。養老「唯脳論」にならえば「唯仮想論」とでも言うか。


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November 20, 2004

ノーダール・プレイズ・ミンガス

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ペーター・ノーダールを食わず嫌いだった。ヨーロッパ・ジャズ、それもピアノ・トリオが流行りはじめたころ、何人かをちょっと聴いただけで止めてしまった。癒し系のヤワなジャズだからというより、スタンダードをお定まりのフレーズで聞かせるだけなのが多く、すぐに飽きてしまったような気がする。ペーター・ノーダールもそういうひとりだと思っていた。

それなのに新作「THE NIGHT WE CALL IT A DAY」(ARIETTA)を買ったのは、9曲のうち4曲でチャールス・ミンガスの曲を取り上げていたから。へえーっ、という驚き。

チャールス・ミンガスといえば、その代表作『直立猿人』は1960年代の学生時代にジャズ喫茶に長時間たむろしていると、たいてい一度はかかった。「前衛ジャズ」と呼ばれた実験的な音と、アフリカ系を差別するアメリカ社会への挑戦的なメッセージをもった音楽だった。そんな熱いミンガスを、クールで叙情的なノーダールがどう弾くのかという興味。

ノーダールはまず、ミンガスの「前衛的」な部分をきれいに捨てた。これはうなずける。いま聴くと、不協和音にみちた当時の「前衛ジャズ」の音が、いささか時代からずれて聞こえるのは仕方がない。それだけでなくノーダールは、ミンガスのブルース・フィーリングやグルーブ感(ミンガス・グループは少人数なのに時にオーケストラのように聞こえる)までも捨てた。その結果残ったのは、なんとも魅力的な旋律を生みだすメロディー・メーカーとしてのミンガス。

取り上げた4曲はいずれもバラードだけれど、「Weird Nightmare」にかすかなブルース・フィーリングを感ずる以外、どの曲も穏やかで、え? これがミンガス? と、思わずつぶやいてしまう。そんな可憐とさえいえるような表情を見せている。うーん、ミンガスはこんなきれいな曲を書いていたのか。これは発見だった。

そう思って久しぶりに『直立猿人』を聴いてみると、改めてミンガスの曲が美しいメロディー・ラインをもっていることを確認することになる。「直立猿人」で2本のサックスがケモノの咆吼のように吼えまくった後、一転してジャッキー・マクリーンがかすれたトーンで憂いにみちたメロディーを吹きはじめるあたりは、何十回、いや何百回聞いてもしびれる瞬間だ。

「Profile of Jakie」も「Love Chant」も、いま聴くと実験的というよりファンキー・ジャズのように聞こえるけれど、メロディだけを取りだしてみると、なんとも都会的な洗練と憂愁の香りがする。でも当時はミンガスのそんな部分よりも、「前衛」としての攻撃的な音に興味が行っていた。

ノーダールの弾くミンガスは、彼の強烈なブルース・フィーリングをここまで漂白してしまっていいの、という気もするけれど、それによってミンガスの繊細で心にしみるメロディーに光が当てられたのなら、それもまたアリ。

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November 16, 2004

『ペンギンの憂鬱』の背後

売れない中年の短篇小説家がペンギンと暮らしている。動物園からもらってきたペンギンは憂鬱症で、ときどき鏡に写る自分の姿を黙ってながめている。1人と1匹が「孤独をふたつ補いあって」日々を過ごしている。ある日、小説家に、未来の死者のための追悼記事を書いてほしいという依頼が新聞社から舞い込む。

ウクライナの作家、アンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』(新潮クレストブックス)は、そんな魅力的な導入から始まる。その設定はロアルド・ダールふうな「奇妙な味の小説」を思わせるし、メランコリーとユーモアが程よくブレンドされた心地よい描写は村上春樹を感じさせる。実際、クルコフは村上春樹が好きだそうで、誤解を恐れずに言えばこれはウクライナ版『羊をめぐる冒険』なのである。

と言えば、展開は想像がつくだろう。行きがかり上預かることになった少女のソーニャと、同居人になってしまった恋人(?)ニーナとの、3人と1匹の「家族ごっこ」が、小説家にひとときの穏やかな日々をもたらす。が、やがて身辺に不可解な出来事が……。

村上春樹の『羊をめぐる冒険』は高度成長下の安定した社会を舞台にした、いわば観念的な「悪」と「戦争」の物語だった(20年以上前に読んだきりなので間違っているかも)と記憶しているけれど、今日のウクライナを舞台にしたこの物語ではしばしば銃と銃声が登場して、この閉じられた寓話的な物語に現実の側から亀裂を入れる。

銃声は冒頭の2ページ目で早くも主人公の耳に聞こえてくる。アパートのなか、「蝋燭を探しあてて火をつけ、マヨネーズの入っていた瓶に立ててテーブルに置いた。炎がゆらゆら揺れる……外で銃声が鳴りひびいた。びくっとして窓に飛び寄ったが、何も見えないので、テーブルに戻る」。

この銃声は直接に小説家の身にふりかかる出来事ではなく、小説家がどんな環境に取りまかれているかを読者に知らせる役割をはたしている。でも、首都キエフに住む小説家が、追悼記事を取材するためにウクライナ第2の都市ハリコフに出張すると、銃と銃声はさっそく小説家の身近なものになる。取材をセットしてくれるはずだった新聞社の支局員が死体で発見される。

ハリコフという地名を聞いて、僕は何の脈絡もなく『ケース・ヒストリー(CASE HISTORY)』(SCALO)という写真集を思い出した。この写真集は、ハリコフ生まれの写真家、ボリス・ミハイロフの手になるもの。ミハイロフが暮らすハリコフの荒廃した街と人々の絶望的な表情の数々が500ページ近い本に収められている。ヨーロッパやアメリカで話題になり、MOMAなどで写真展が開かれた。

写真集の巻頭には傷つき病んだ老人や女性10人ほどの、服を脱いだ痛ましいポートレートが置かれている。ミハイロフは「レクイエム」と題した短文のなかで、「彼らのうち3人は撮影して2カ月以内に死んだ。彼らの意志に従ってこれを公表する」と書いていた。

アスファルトに穴があき、ごみが散らかり放題の街路、閉鎖された工場や商店。ホームレスなのだろうか、路上に倒れている人。シンナーかなにかを手にしたストリート・チルドレン。娼婦らしき女の貧しい裸体。希望のない目をした老人たち。そんな写真が延々とつづいている。

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『ペンギンの憂鬱』は1996年に出版されているから、1999年に出版された『ケース・ヒストリー』の撮影時期とちょうど重なっている。旧ソ連崩壊後、ウクライナも独立したけれど、それによって人々の生活が豊かで安全になったようには思えない。この写真集を見ていると、貧しさと混乱は一層ひどくなっているようだ。

『ペンギンの憂鬱』の背後にこんな目をそむけたくなるような現実があることを想像すると、その不条理なメルヘンじみた世界が、不眠に悩むペンギンの姿とともに急に別の貌をもったものにも思えてくる。それは『羊をめぐる冒険』の背後に1980年代のこの国の「豊かな」社会があったのと鋭い対照をなしている。

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November 13, 2004

『オールド・ボーイ』の力技

韓国映画のパワーをまざまざと感じさせる作品だった。1980年代から東アジア映画をリードしてきた香港・台湾・中国の中国語圏映画に勢いが感じられないこの数年、韓国映画の元気のよさは際立っている。今年のカンヌ映画祭でグランプリを取った『オールド・ボーイ』は、その象徴として記憶されることになるに違いない。

ただ、僕はこの映画、好みで言えば好きにはなれなかった。

もし1本の映画に投入される感情の総和、あるいは1本の映画から喚起される感情の総和を計ることができるとすれば、韓国映画は昔から日本映画や中国映画に比べてもその和が飛びぬけて大きかった(『8月のクリスマス』以降のニューウェーブは、その意味では異端に属する)。『オールド・ボーイ』は、そうした韓国映画の王道を行っている作品だと思った。

男と男の復讐譚、宿命劇。青春のセンチメンタリズム。生理を逆なでする暴力描写。ゴス趣味のセット。感情を煽るワルツのテーマ曲。アクの強い色んな要素がぶちこまれ、そんな濃いパーツを腕力でつないで2転3転させ最後の逆転まで引っ張ってゆく。監督は『JSA』のパク・チャヌク。

なにより主演のチェ・ミンシクの存在が大きい。15年間、理由も分からず監禁され、突然に解放されて、5日以内に監禁の理由を解き明かせと命じられる中年男。復讐と怨念に駆り立てられる、日本映画なら役所広司あたりの役どころを『シュリ』のチェ・ミンシクが熱く演ずる。端正な顔立ちを、無精髭とぼさぼさ髪と深い皺を刻んだメークに隠してオーバーアクション気味に憑かれた狂気を発散させている。

相手役のカン・ヘジョンは最初、厚いメークで登場し、え? という感じで魅力を感じなかったけれど、どんどんと美しさを増す。清楚さがエロティックな(なぜかは説明できない)ラストシーンのアップが官能的。二重瞼が印象に残る。楽しみな女優だね。

ところでこの映画、人間をシチュエーションで動かしすぎているように僕には思えた。幾重にも罠を張り、ストーリーを次々に展開させていくことによって、主人公たちは喜怒哀楽の感情に翻弄される。そういうシチュエーションに放りこまれれば人間誰でもそうなるよな、とは思うけど、ふとした表情とか仕草とかディテールの描写が少ないので、それらにリアリティーがやや薄い。まあ、そういうことを狙ってる映画ではないけど。

あるいは暴力描写。歯をペンチで引き抜いたり舌をハサミで切ったり観客の皮膚感覚をゾロリと泡立たせるけれど、表層の生理的刺激に終わって、それ以上に奥深い恐怖へと引きずりめなかったような気がする。一言でいえば、荒っぽい。裏を返せば刺激とスピード感はたっぷりある。

監督はインタビューで、映画2本分の内容を詰め込んだと言っている。ストーリーを動かすこと、シチュエーションを複雑に転換させることで重い主題を語ろうとしたために、映画全体が強引な力技という印象になったのではないか。だから最後に主人公たちが泣き、わめき、許しを乞い、抱き合っても、僕にはいまひとつ心に届いてこなかった。映画の出来というよりは、好みの問題なんだろう。

一方にこんなパワフルな映画があり、一方に『子猫をお願い』みたいなニューウェーブの佳作があり、その幅の広さが韓国映画を支えている。 

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November 09, 2004

安井仲治の触感

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安井仲治(やすい・なかじ)といっても、知ってる人は少ないかもしれない。写真好き、しかも写真史に興味のある人にしか、なじみのない名前かもしれない。知っていても代表作を数点見たことがあるくらいの人が多いに違いない。それほどに知られざる写真家だった。その安井仲治の初めての本格的な回顧展が開かれている(11月21日まで、渋谷区立松濤美術館。05年1月から名古屋市美術館)。

その写真は、たとえば路面の水の飛沫をハイコントラストで接写した「水」(写真上)を森山大道の写真にまぎれこませても、ほとんどの人は気づかないだろう。たとえば植物や魚を真上から捉えた静物を東松照明の作品にまぎれこませても、気づく人は少ないだろう。そんな現代性を湛えている。

安井仲治は戦前の近代写真の黎明期に大阪・神戸で活躍したアマチュア写真家。もっともアマチュアといっても、この時代、写真館の撮影技師を除けば、プロフェッショナルな写真家はほとんど存在していなかった(同世代の木村伊兵衛らが初めてプロとして東京で活動を始めた)。

昭和初期、関西は東京と並んで、というよりある意味では東京以上に同時代のヨーロッパの動きに敏感で、先端的な写真を撮るアマチュア写真家が揃っていた。「ライカ1台、家1軒」と言われるほどカメラは金のかかる道楽だったから、安井仲治(船場の洋紙店)も木村伊兵衛(下谷の組紐業)もそうだったように、アマチュア写真家の大半は金持ちのボンボンだった。この当時、関西の写真家が東京以上に活動的だったということは、その基盤をなす富裕層の厚みを示しているのだろう。

会場には、安井が10代で作品を発表しはじめた1920年代初頭から病没した1942年までの約250点が展示されている。これだけまとめて安井の作品を見ることができるのは初めて。「生誕100年 安井仲治 写真のすべて」というキャッチコピーに嘘はない。

1920年代から30年代にかけて、写真は絵画的な世界を脱して写真独自の表現を確立する激動期だったけれど、そうした世界的動向を反映して、安井の写真もあらゆる方法的な実験が試みられている。

絵画的な美意識を残す芸術写真、都市風景を切り取ったモダニズム写真、リアルなポートレート、スナップショット、ドキュメンタリー、フォト・モンタージュ、光と影を強調した静物。さらにフォトグラムやソラリゼーションがあることから、安井がマン・レイらのシュールレアリズム写真を同時代に見ていたことが分かる。年譜によると、1933年にはその年にフランスで刊行されたブラッサイの写真集『パリの夜』も見ている。

そんなさまざまなスタイルの写真を通して浮かび上がってくるのは、安井独特のモノの量感と触感だと思った。被写体となっているモノは物質であったり風景であったり、人や生きものであったりするけれど、安井の視線はそれらのモノにまっすぐに近づき、そのモノが発しているオーラに迫ろうとする。

フレームいっぱいに捉えられた船、牛、メーデーの労働者、機関銃、飛沫、蛾、魚といったモノたちからは、その存在の圧倒的なボリューム感が迫ってくる。またそれらのモノたちの、ざらりとした異様なテクスチュアが伝わってくる。

特にメーデーの「旗」、兵士と機関銃、檻に入れられた「犬」、「朝鮮集落」、神戸の亡命ユダヤ人を追った「流氓ユダヤ」と社会性を感じさせるドキュメント-スナップショット系の作品群をたどってゆくと、その暗く切迫した画面からは、短絡を承知で言えば、戦争へとなだれてゆく抗しがたい流れのなかで安井が感じていた「時代」の肌触りを想像することができる。その鋭敏な触感が、僕たちに安井の写真の現代性を感じさせるのではないか。

それは、僕の知っている同時代のどの写真家からも感じることがないものだ。たとえば同世代のトップランナーたち--東京という場所と、その才能とプロフェッショナルな立場の故に昭和10年代に国策的な宣伝に巻きこまれていった木村伊兵衛や土門拳(ひと世代下だが)の写真から感ずることもない。

安井の、あえて言えば時代への抵抗感が、首都ではなく関西の、アマチュア写真という有産階級の「道楽」のなかでのみ、しかも絵画的な美意識の残った優美なプリントによって表現されたのは、アートの逆説というべきなのだろうか。


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November 06, 2004

『灰とダイヤモンド』の謎

数カ月前、NHK-BSで『灰とダイヤモンド』をやっていたのでDVDに録画した。この映画は何回見ているか分からないけれど、しばらくぶりにマチェック(ズビグニエフ・チブルスキー演ずる主人公のテロリスト)に会おうと思って冒頭の画面を見てびっくりしてしまった。ヴィスタ・サイズではないか!
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ヴィスタ・サイズ(a)

アンジェイ・ワイダ監督のこの名作を僕は公開時(1959年)ではなく、60年代後半に名画座で見た。その後、テレビも含めて4、5回は見ている。僕の記憶ではすべてスタンダード・サイズだった。念のため、昔NHKで放映したのを録画したビデオを確認したら、やっぱりスタンダード・サイズだ。
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スタンダード・サイズ(b)

いったい、どうなってるんだ?

もっとも、かつてはスタンダード・サイズの画面の上下をちょんぎってヴィスタ・サイズで上映することは時々あった。もともとはスタンダードのものを商業的な要請でヴィスタ・サイズにプリントしたり、時にはスタンダード・サイズのフィルムを上映館の映写機の都合で上下にマスクをかけてヴィスタにしたこともあったのかもしれない(スタンダードのフィルムをヴィスタの映写機にかけられるのかは知らないけど)。

今回のNHK-BSも、そういうことなのかと思った。ところが両方の画面を比べてみると、ヴィスタ(a)には、スタンダード(b)にはない部分が映っているではないか。スタンダードではマチェック(左)は首までしか映ってなく、仲間(右)は耳で切れている。ところがヴィスタではマチェックの首の下のシャツが映っているし、仲間は頭がすべて映っているうえに背後の草むらまで見えている。ということは、ヴィスタ(a)からスタンダード(b)をつくることはできても、スタンダード(b)の上下をちょんぎってヴィスタ(a)にすることはできない。

つまり、『灰とダイヤモンド』はもともとスタンダードではなく、ヴィスタだったのか?

映画を見ていない人は、そんな些細なことどうだっていいじゃないと思うかもしれない。でも、『灰とダイヤモンド』は古典と言っていい名作だ。僕が生涯に見た映画のベストテンをつくれば、必ず(しかも上位に)入ってくる。光と影のコントラストが鮮やかで、フレームのすみずみまで配慮のいきとどいたモノクロームのスタンダード画面。僕のなかでは、そう記憶されている。

たとえば『第3の男』や『市民ケーン』がヴィスタ・サイズだったら、どうだろうか。映画の印象はずいぶん変わってくるにちがいない。それと同じことだ。

NHKに往復はがきで訊ねてみた。答えは、1995年にヘラルドがリバイバル公開した際にはヴィスタ・サイズで、今回放映のフィルムはそのときのもの、それ以上詳しいことは分からない、とのこと。

とすると、ヌーヴェル・ヴァーグに影響を与えた当時のポーランド映画の傑作群は、ひょっとしてヴィスタ・サイズだったのか? 50年代から60年代のポーランド映画は、たいていカードルという国立の製作会社でつくられている(映画の冒頭、カチカチッというタイプライターの音とともに「KADR」と文字が打たれるのが印象的だった)。ヴィスタで撮影するには専用のカメラ(レンズ?)が必要だから、カードルが機材を購入したのなら、ほかの映画もヴィスタということはありうる。

ちなみに手元にある当時のポーランド映画のビデオをチェックしてみた。アンジェイ・ワイダ監督の『地下水道』(1957)も『夜の終わりに』(1960)も、イェジー・カワレロウィッチ監督の『影』(1956)も『夜行列車』(1959)も、すべてスタンダード・サイズだった。手元にないが、『パサジェルカ』がシネスコだった以外、『20歳の恋』も『水の中のナイフ』(ポランスキーの処女作)もスタンダードだったように思う(うーん、どの映画も何度見たことだろう)。

『灰とダイヤモンド』は本当にヴィスタ・サイズだったのか。謎だ。
 

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November 02, 2004

『コラテラル』のノワール度

好みの映画に当たって「身も心も」スクリーンにゆだねたいのに、微妙な、でも大事なところで小さな違和感がごろごろと凝って、そうできないのが悔しい。『コラテラル』は、そんな映画だった。

トム・クルーズがプロフェッショナルな殺し屋に扮する。翌日から開廷する事件の証人ら5人を1晩で殺す契約を請け負ってロスにやってきたヒットマン。殺す相手に対して何の感情も見せず、「仕事」の邪魔をする人間には躊躇なく銃を向ける。『マグノリア』(傑作!)もそうだったけれど、単純な2枚目を脱皮しようとする役柄に、クルーズ・ファンはどう反応するんだろう。渋い銀髪で頑張ってるけどね。

それに「巻き込まれ(コラテラル)」るのがタクシー運転手のジェイミー・フォックス。実直で腕のいいドライバーなのだけれど、リムジン・ハイヤー経営を夢見ながら長いことタクシー運転手に甘んじている。そんなフォックスが、客として乗せたクルーズに脅され、無理強いされながら、ある瞬間からりりしい男に変わっていくのが、もうひとつの見どころ。テレビ・コメディーの人気者だというアフリカ系のフォックスを、物静かな、でも気弱なところもある男を演じさせたのがうまい。

監督はテレビの『マイアミ・バイス』シリーズでブレークしたマイケル・マン。

彼の作品には「男の映画」とか「スタイリッシュな映像」とかキャッチコピーがつくことが多い。ここでも美しいロスの夜景のなかに2人の男の生き方を対比させ、ロックにジャズにソウルと途切れることなく流れる音楽もてんこ盛り、ジャズ・クラブでのハードボイルドな殺しの後にはモッブ・シーンでのアクションとサービスも満点、おまけに深夜のロスの交差点を野生のコヨーテが横切る象徴的なシーンまであって、たっぷりと楽しめる映画になっている。

でもワタクシ的には、この映画の面白いところがそのまま微妙に凝っていることも確か。

1晩の話だから全編が夜で、それは見事なカメラワークなのだけれど、ロスの夜景が華麗すぎて陰影に乏しい。「地下鉄で、誰にも知られず男が死んだ」とか「これが仕事だ」とか、決めゼリフが過剰でカッコつけすぎ。3分に1回ハラハラさせるような速すぎるテンポと、クライマックスの後にもうひとつヤマをつくる、近頃のハリウッドの常道も気になる。しかもその2つのシーンがオーソン・ウェルズの傑作『上海から来た女』とアクション映画の名作『フレンチ・コネクション』からヒントを得ていることも、過去の作品へのオマージュというよりパクリめいている。最初の5分でラストの予想がつくのも、ちょっと弱い。

ひとことで言えば、ノワールふう映画なのにノワールのエッセンスの1滴が足りないんじゃないの。

……と文句を並べたけれど、最近のハリウッドはこの手の映画が少ないから、『コラテラル』を見られただけでも良しとすべきなんだろうな。しかもこのいちゃもんはあくまでワタクシ的なもので、裏を返せばなかなか良くできたハリウッド映画だということは、よーく自覚しております。

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