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October 26, 2004

リニューアルした『散歩の達人』

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『散歩の達人』(交通新聞社)が割と好きだ。その『サンタツ』がリニューアルして、「新装しました。」と表紙に刷り込まれている(11月号)。リニューアルというのは数字が低迷しているときにやるものと、業界では決まっている。

で、何が変わったかというと、まず本文にいい紙を使っている。さすがに色の出方は、ぐんと良くなった。1色(黒インクだけの)ページもなくしたから、貧乏くささもなくなった。レイアウトも、ひと昔前の雑誌のような野暮ったさ(意図的にそうしているのかと思っていた)を捨てた。要するに普通の雑誌になった。

特集は「銀座」「築地」の2本立てと、これまた普通の雑誌になった。ちなみに今年の1月号からの特集を並べてみると、「市川・本八幡」「下北沢・駒場」「池袋・目白」「調布・府中」「東急世田谷線」「江古田・練馬」「高円寺・阿佐ヶ谷」「向島・曳舟」「浦安・葛西」ときて、リニューアル直前の10月号は「川口・蕨」。「川口・蕨」なんて、どう考えても『サンタツ』以外、見向きもされない街だよね(馬鹿にしているのではありません。小生、川口育ちなもので、これは裏返しの愛情表現)。

リニューアル号に台北に住む読者からの投稿が載っていた。「海外在住者にとって散達は凶器です。駐在員は接待で高級和食を食べる機会が日本にいるときより多いのですが、食べたい! 飲みたい! のはコロッケであり、カレーうどんであり、ソースにたっぷりひたした串かつであり、ホッピーであり……」。

「銀座」「築地」に「サンタツ精神」は貫かれているか? 頑張ってはいる。頑張ってはいるけれど、『サライ』や『東京人』その他もろもろの雑誌の「定番」や「高級店」も取り上げてしまうところが中途半端というか。

例えば鮨屋。「数寄屋橋次郎」こそないけれど、予算は「1万円」「1万5千円」「2万円」「3万5千円」が並ぶ(「1万円」の店には小生も行ったことがある。その予算では収まらなかった。うまかったけれど、あまりの勘定の高さに、その後、足を踏み入れていない)。全体に「裏路地の銀座」ではなく、「1ランク下の銀座」といった特集になっているような気がする。

リニューアルした意図はなんだろう。ローカルな街の特集はひとめぐりしてしまった。それはあるだろう(川口までやるんだから)。より上品で、おしゃれな雑誌にしたい。リニューアル誌面は明らかにその方向を向いている。でも、「サンタツ精神」を求める読者には不満が残り、一方、「上品」「おしゃれ」「高級」方面では並みいる他誌に太刀打ちできない。「銀座」「築地」で読者を広げられるだろうか。

と文句を言いつつ他のページを見ると、これが面白い。連載「旧道File」の「墨田区八広の煙突ロード」では下町のヘンな煙突を見つけては、☆1つとか1つ半とか採点して遊んでいる。「中古民家主義」は、東京の木造建築の「基礎知識」を手際よくまとめてくれる。連載「THE 軍事遺跡」は「神奈川県三浦市の砲弾海岸」。新連載「お墓で逢いましょう」は、西多摩霊園の松田優作の墓。「散歩者インタビュー」は吉本隆明に銀座や月島の話を聞いている。

うーん、こっちのほうがやっぱり『サンタツ』に相応しい。『サンタツ』の誌面には、うちは予算がありません、その代わり、徹底的に足で歩いて編集者やライターの好みで書かせていただきます、という匂いが漂っている。雑誌の初心を思い起こさせるそんな匂いを失って、普通の雑誌になってほしくないなあ。

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October 23, 2004

嶋津健一の宙(そら)の音

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嶋津健一の「AIR 空間が紡ぎ出す即興演奏の広がり」(10月22日、四谷・コア石響)に行った。嶋津はもともとジャズ・ピアニストだけれど、今日はジャズクラブではなく小ホールでのコンサート。「空」と書かれた3枚の書をバックに、いわゆるジャズとは少し違った、あまり聴いたことのない音の世界に浸った。

第1部は山下弘治(bass)、加藤真一(bass)という2台のベースとのセッション。このダブル・ベース・トリオについては以前にブログに書いたことがある(8月18日「嶋津健一の冒険」)。ユニークな編成と音。今夜は3人とも気合いが入ってる。なかでも嶋津のオリジナル「Harapeko」はマイナー・ブルースの、ジョン・ルイスの「Jjango」はバラードの、体の芯がとろけるようなピアノに聴きほれた。この2曲はまぎれもなくジャズの興奮。

一方、やはり嶋津のオリジナル「宙(そら)の音」や、デューク・エリントンの「African Flower」は、ジャズの即興演奏という方法を使いながらも、聞き手が刺激されるエモーションの質がいわゆるジャズから受けるものとは少しずれている(別にジャズであってもなくてもいいのだけれど)。ジャズのリズムやグルーブ感とは別の音の配列から、これはもう嶋津のオリジナルと言うしかない美しい音の世界が紡ぎだされる(音を言葉にホンヤクするのはむずかしい)。

第2部に入ると、それはもっとはっきりしてくる。田辺洌山(尺八)、かなさし庸子(voice)、加藤真一(bass)とのユニット。尺八という日本の楽器が入り、日本の曲も演奏されるのだけれど、ジャズが日本的な要素を取り入れようとするときによく陥る逆オリエンタリズム風のジャズにはならない。

「鹿の遠音~Blue In Green」は、まず尺八とヴォイス(歌というより声なのです)の応答で尺八の古典(だそうだ)が演奏された後、ピアノとベースがマイルス・デイビスの曲へと移行してゆく。…と、これはプログラムを見ているから分かるので、知らずに聴いていたらひとつの曲としか聞こえないだろう。それほど自然に尺八の曲とマイルスが融合して、どこか遠い世界から人間に呼びかけてくる音のような不思議な空間が現れてきた。

「さくら」と、アンコールの「りんご追分」はサービス精神いっぱいの演奏。ゆったりと揺れるようなリズムに、気がついたら体が動いていた。

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October 19, 2004

『誰も知らない』のみずみずしさ

上映館へ2度行ったのに満員で入れなかった『誰も知らない』を、やっと見ることができた。そのみずみずしさ、切なさに心が震えた。

東京の都心と羽田空港を結ぶモノレールの、それぞれに印象的なシーンが3度、出てくる。

ファースト・シーン。モノレールの座席に母(YOU)と長男(柳楽優弥)が座っている。長男は、スーツケースのへりを力をこめて触っている。実はそのなかには弟が隠れている。これから僕たちが見ることになる兄弟姉妹4人の「誰も知らない」漂流生活のなかでモノレールとスーツケースが重要な役割を果たすことを、是枝裕和監督はここでさりげなく知らせてくれる。

母が姿を消し、4人が2DKのアパートで人目を避けて暮らしはじめてしばらく後、誕生日を迎えた下の妹が、「今日は絶対にママが帰ってくる」と窓から離れようとしない。長男は、外へ出ることを禁じていた妹を連れて初めて外出し、モノレール駅へ母を迎えに行く。夜になっても母は帰ってこず、2人はモノレールがまるで光の箱が移動するように走るのを見上げて、立ちつくしている。それまで淡々と物語を進めてきた是枝監督は、ここで初めて闇のなかに光の箱が流れゆく映像を、繰りかえし映しだす。繰りかえすことで、感情が凝縮される。

ラスト近く、悲しい出来事があって、長男と女友だち(韓英恵)は夜のモノレールに乗る。空港を望む川べりで夜を過ごし朝を迎えた2人は、再びモノレールに乗って都心へ戻ってゆく。朝の空気のなか、2人の乗ったモノレールがビル群に吸い込まれてゆくロングショットが素晴らしい(このショットといい、優弥くんのアップといい、是枝監督は現代写真の表現を踏まえていると感ずる)。彼らはまた都会のなかの「誰も知らない」存在へと、その姿を消す。

そんなふうに、『誰も知らない』は一見さりげないようでいながら、とても緻密に組み立てられた映画だった。モノレールと同じように、4人が暮らす2DKに近く、コンクリート護岸の川や、坂の階段や街角のショットが何度か繰り返されて、兄弟の喜びや悲しみをそれらの風景が見つめている。

この映画は「西巣鴨子供4人置き去り事件」として、かつて週刊誌をにぎわした事件を素材にしている。是枝裕和はその事件を社会の側から描こうとはしない。4人兄弟、なかでも長男に寄り添って、その悲惨さ残酷さをではなく、外側からは悲惨とも残酷とも見える漂流生活のなかの子どもたちの「豊かさ」を描こうとした。

母に見捨てられ、金も尽き、電気も水道も止められた生活のなかで、長男は妹や弟のために力をつくして生きようとする。

乏しい金を工夫して妹や弟のために「アポロチョコ」や「さくさく天麸羅カップヌードル」を買う(妹弟役を演じる子どもたち自身の好物を映画に取り込んだ)。雑草の種を集めて、狭いベランダでカップヌードルを植木鉢にして育てる。隠れて暮らしていた妹弟3人と、初めてそろって公園へ行き、回転遊具に乗って全身に風を受けて遊ぶ(風景がぐるぐる回るこのショットも鮮烈)。幼い妹が歩くたびにサンダルがキュッキュと鳴る。側溝に置かれた置き石を踏むと、ことんと小さな音を立てる。そんな日常の細部への優しいまなざしがこの映画を支えている。

是枝監督の映画はよく「ドキュメンタリー的手法」と言われるが、それにしても子供たちの自然さにはびっくりしてしまう。もちろん是枝監督の演出によるものなのだけれど、子供たちへの演技指導という以上に、「場所」と「時間」の選択によるところが大きいのだと思う。

「場所」とは、この映画がセットを使わず、オールロケで撮られているらしいこと。実際に都内に古いアパートを見つけ、そこを1年間借りて撮影したという。映画の大半が狭い2DKでの室内劇。セットであれば、天井や床や壁をはずして自由にカメラをセットできるけれど(小津のローアングルとか)、現実のアパートではそれもむずかしい。引きのない空間のなかで演技経験のない子供たちの密室劇を撮るのは、想像以上に大変なことだったろう。でもその選択によってこそ、今の東京の空気をまるごと映しこむことができた。

「時間」とは、撮影に1年かけたこと。「製作日誌」を読むと、クランク・イン前に「優弥くんにおこづかいを預けて兄妹4人で代々木八幡のお祭りに出かける」といった記述がある。まず4人の子どもたちに兄弟のような雰囲気をつくり、物語の展開に沿って秋、冬、春、夏と撮影を重ねた。それによって子どもたちが自分の演ずる役の変化を自然に受け入れられるだけでなく、実際に子どもたちが1年のうちに声変わりしたり身長が伸びてゆくことや、役柄の上で次第に髪が伸び放題になり、Tシャツが汚れてゆくさまを、つくりものでなく撮ることができた。

繰り返すようだけど、この映画の「自然さ」は、監督の確かな計算と技術の上に生まれている。そして『幻の光』や『ワンダフルライフ』で自分のスタイルにこだわった映画づくりをしてきた是枝裕和が、ここでは良い意味での「大衆性」を否定していないことも映画に心地よいリズムをもたらしていると思う。

例えば音楽。これまでの監督の映画では考えられなかったことだけれど、クライマックスではテーマソング(タテタカコ「宝石」)が画面にかぶさってくる。さらには全編にゴンチチのアコースティックな音が流れ、残酷な話を中和してくれる(『無能の人』<竹中直人監督>のゴンチチの使い方と同じだけれど、そう言われることは覚悟の上だろう)。

「泣かせどころ」も、ちゃんと用意してある。2度のモノレールのシーン。女友だちが援交まがいで工面した金を受け取ることを拒否した長男が、夜の歩道を走る長い長い移動のシーン(見事な移動撮影)。

そういったことをすべて引っくるめて、是枝裕和監督の演出の力が、この2時間以上の長尺をゆるみなく、みずみずしい映画にした。優弥くんや、弟、妹たち、母を演じたYOU、彼らの表情と目の光を忘れることはないだろう。

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October 17, 2004

マン・レイ 欲望全開

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マン・レイが写真だけでなく絵を描きオブジェもつくるアーティストであることは知られていたし、過去の展覧会でも部分的に見ることができたけれど、今回の展覧会はその全貌を見せてくれた(「マン・レイ展 『私は謎だ。』」埼玉県立美術館、10月27日まで)。

写真はもちろん、油彩、デッサン、イラストレーション、ブロンズ、オブジェ、映画、ポスター、書籍やパンフレットなど印刷物にいたるまで、マン・レイの60年近い活動のすべてが見渡せるように展示されている。

面白かったのは、マン・レイの作品がその時々に生活していた場所と、一緒に暮らした女性に大きく左右されていること。あの街に住んで、あの女(美女ばかり)に惚れて、だからあの作品ができたのか、っていうのが手に取るように分かる。

ブルックリン育ちのロシア系ユダヤ人、若きマン・レイがベルギーから来た詩人のアドン・ラクロワに惚れたニューヨーク時代(「ドンナの肖像」)。憧れのパリに渡り、有名なモデルのキキ・ド・モンパルナスと同棲(「ヴェールをかぶって座るキキ」)。やがてキキと別れ、写真家志望のモデル、リー・ミラーとも同棲したパリ時代(「天文台の時刻に」)。

マン・レイを踏み台にした野心的なリーに去られ、夏をコート・ダジュールで過ごすうちに「カフェ・オレ色の肌」のダンサー、アディと暮らすようになった南仏時代(「アディの肖像」)。第2次大戦が始まってフランスを去り、ロサンジェルスに到着したその日に出会って、亡くなるまで暮らすことになるモデルのジュリエット・ブラウナーとのハリウッド時代(「スペイン風の手」)。

これにパリ時代のクールなシュルレアリストの美女、メレット・オッペンハイム(「エロティックな-ヴェールをまとう」。彼女とは何もなかったんだろうか?)と、ポール・エリュアールの妻、ニュッシュ(「容易」。彼女とは?)を加えれば、マン・レイが撮ったり描いたりした女性ポートレートやヌードの名作の大半はカバーできてしまう。

展覧会ポスターに使われた「天文台の時刻に」(空に巨大な赤い唇が浮かんでいる)は、別れた恋人リー・ミラーの唇で、熱愛していた女に去られたマン・レイの狂おしい思いがなまなましい。対照的にキキやアディの写真には、親密で楽しげな空気が満ちあふれている。パリへ戻った晩年、新進女優カトリーヌ・ドヌーブや、モナリザと同じポーズで撮った宮脇愛子のポートレートも美しい。

ソラリゼーションやレイヨグラフといった写真の実験、ユーモラスでエロティックなオブジェにフィギュア、好奇心のおもむくままに混然としたスタイルの油彩やスケッチを見ていると、シュルレアリスムの前衛というより、手仕事の好きな仕立屋の息子がいくつになってもおもちゃを自作している、といった風情。まあ、この時代のシュルレアリストは、ダリにしろブニュエルにしろ、みな似たような趣がある。

いくつもの街に住み、たくさんの女と愛憎を繰り返し、死ぬまでおもちゃをつくりつづけたマン・レイは、欲望全開のまま20世紀を駆けぬけた幸せなアーティストだった。

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October 12, 2004

島尾伸三の脳内風景

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ページをめくる行為が、そのまま作者の内的なリズムや感覚に結びついている。そんな稀な体験をもたらしてくれたのが、島尾伸三写真集『中華幻紀』(ワールドフォトプレス)。

最初の見開きには「バス車中」と大きな文字があり、停留所で乗り降りする人々の白いシャツがブレて写っている。「とっくに/朝は/始まって/いて、」と、短い言葉が添えられている。

次の見開きは、路上の店先。プラスチック人形や日本製らしい刀が売られている。「駄菓子屋」と見出しがあり、「夢中から/醒めぬまま光に包まれ、」の短文。

三番目の見開きには、門前で獅子舞の音楽を鳴らす少年たちと、古い建物の2点の写真。「澳門街角」の見出しと、「朝が来るたびに/死から蘇る神経は、/覚醒に無頓着のままです」の短文。

写真と見出しと短文が、見開きごとにワンセットになっている。写真は香港、澳門(マカオ)、広州、上海など中国の都市。見出しは、その写真を説明するものもあり、「温度差」「消滅速度」など写真の「内面」を言葉に置き換えたものもある。短文は写真や見出しと関係ありそうでも、なさそうでもあり、読点(、)で見開きから見開きへとつながってゆく。

例えば、「時として、/幻覚は現実に勝る実感(リアリティー)を/第3信号系にもたらし、」「現実もまた幻覚に似て、/蒙昧とした快感を伴い、」「神経系は実在の肉体を/置き去りにして、」……

写真と見出しと短文とが、微妙にからみあう。そこから現れてくる風景は、別の世界から来るような光と色につつまれていて、現実のようでもあり、幻覚のようでもある。写っているのは確かに中国の街角や人々なのに、そこに質量の実体があるようには感じられない。

そう思ったとき、これは島尾伸三の大脳皮質に蓄積された映像と言葉の記憶なのだなと分かった。確かな因果関係から漂い出て、夢のようにつながっている断片。見る者は、まるで写真集のページをめくるように島尾伸三の脳内の風景をながめている。

島尾伸三とパートナーの潮田登久子は、1980年代から中国の町々を歩いてきた。その体験は写真集『中国庶民生活図引』(共著)や『香港市民生活見聞』(島尾著)にまとめられている。どちらかといえば中国・香港の生活図鑑的なものだったけれど、その間、島尾はこんな魅力的な夢をずっと見つづけていたのだった。

<追記>島尾、潮田と、2人の娘でまんが家のしまおまほの3人展「まほちゃんち」が10月23日から水戸芸術館現代美術ギャラリーで開かれる。島尾の写真「まほちゃん」「季節風」、潮田の写真「冷蔵庫」「HATS」と2人の「中国庶民生活百科遊覧」、しまおまほの「まほちゃんの部屋」などで構成される、楽しそうな「家族展」。3人のホームページもある。


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October 10, 2004

ケータイと監視カメラの未来

斉藤貴男『安心のファシズム--支配されたがる人びと』(岩波新書)を読んでいたら、ケータイと監視カメラの未来がこんなふうに描かれていた。

ケータイは、アメリカの軍事衛星を使って持ち主の位置を特定するGPS(Global Positioning System)が現在もう実用化されており、徘徊老人や外回りの営業・運転手の「管理」に使われている。

このGPSと顧客情報データベースを組み合わせれば、持ち主が「いま、どこにいて、なにをしたいか」に応じて、近くの好みのレストランとか、その時々の情報がケータイに届けられる。それと似たシステムとして、小田急では自動改札機とケータイを組み合わせ、定期券で駅を出た利用者のケータイにショップ広告なんかを流すことを計画している。

いま政府が計画している「ユニバーサル社会創造法案」では、道路や電柱、住居表示板にICチップを埋め込むことによって、GPSよりもずっと精密にケータイ所有者の位置を特定できるようになる。それによって高齢者や障害者のケータイに目的地までの経路や情報を届け、バリアフリー社会をつくるというのだが、もちろんこれは犯罪捜査に転用すれば大きな威力を発揮することになる。

一方、ソニーとNTTドコモ、JR東日本が出資した会社では、1台にプリペイドカード、定期券・航空券、クレジットカード、キャッシュカード、会員カード、クーポンサービス、社員証、マンションキーなど多機能を盛り込んだケータイを開発している。

ここまで来ると、ケータイは家を出たら絶対に手放せない、命の次に大事なものになるだろう。と同時に、ケータイを持っているかぎり、いま持ち主がどこにいるのかをシステム管理者に常に把握されることになる。

もちろん斉藤貴男は、こんなに便利になりますよと言っているのではなく、一人ひとりが巨大システムに管理され、個人情報のデータベースがビジネスに利用されることに警告を発しているわけだ。

監視カメラには将来、顔認証システムが組み込まれるだろう。生涯変わることのない顔面の特徴を顔貌データベースとして登録し、監視カメラの映像と照合する。例えばテロリストとされたデータと一致する人がカメラに映ると、警告音が鳴り響く。変装も役に立たない。英米ではすでに実用化されている。

増えつづける犯罪への不安、テロへの不安から、人々は「安心」を求め、そのために巨大システムに「管理」され「監視」されることが苦痛でなく、むしろ心地よく感じられる……そんな社会が来ようとしている、と斉藤は言う。

「国民にはあたかも一般的な犯罪防止を目的とする技術だと思い込ませつつ、実際にはテロ対策という名の政治・公安警察イデオロギーばかりが突っ走っていく」

もちろん、そんな社会は願い下げだ。でも、「監視」と「管理」の社会を招きよせないためにどうしたらいいのか。「監視カメラ反対」、それはまだ理解を得ることはできる(既に賛成派が多数だろうけど)。でも、「ケータイ反対」とは誰も言えないだろう。

東浩紀は「<監視社会>と<自由>」というシンポジウムでのデイヴィッド・ライアンの発言に触れて、こんなふうに言っている。

「国家によるSF的監視と市民的自由を対立させるこのような図式は、あまりに単純すぎて、9.11以前に書かれた『監視社会』の射程を濁らせてしまうものでもある。ライアンは『監視社会』では、監視技術の危険性を抉り出すとともに、それが私たちの日常生活にとって不可欠なものになりつつあることも指摘しています。したがって、ライアンの議論は、本来であれば、『監視カメラ反対』『住基ネット反対』といった総論にはなじまない」(hirokiazuma.com/blog)

監視カメラはともかく、ケータイはすでに社会に深くビルト・インされていて、「日常生活にとって不可欠」なツールになりつつある。「監視カメラやケータイは管理の道具だ」というだけでは、議論が新しい技術を否定する方向に流れやすい。

たとえそれが「悪魔の発明」であろうとも、技術の発展を倫理や善悪で否定することは、政治的・一時的にはともかく、本質的にはできない。だから新しい技術とどう向き合うかは、いつも僕たちにむずかしい選択を強いてくる。

『「退歩的文化人」のススメ』を書いた嵐山光三郎のように、パソコンもケータイも持たないという考え方は、個人の生き方としてもちろんありうる。隠遁者への願望は、リタイアが数年後に迫った年まわりには、けっこう魅力的な誘惑なんだなあ。

でも、僕は今のところ、新しい技術にできるだけつきあってやろうと思っている。パソコンもケータイも若者に独占させておくだけではもったいない。高年者にとっての利用価値だっていろいろある(僕も徘徊老人にならないとは限らないしね)。このブログをやっているのも、会社や仕事とはまた別のコミュニケーションや人間関係がありうるかもしれない、と考えてのこと。まあ、そんな大上段に振りかぶらなくても、たんに楽しいだけなのだが。

新しい技術には新しい可能性が生まれる。でも、もう一度繰り返すけど、どこで何をしていても誰かに常に「監視」されるような社会はごめんだ。

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October 07, 2004

金木犀の香り

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3日続いたどしゃ降りの雨がようやく止んで、青空が懐かしい。道を歩くと、金木犀の香りがそこここに漂っている。1年中でいちばん好きな季節。夜には、メンバーの1人が中学の同級生、東京クワルテットのコンサートでモーツァルト(弦楽四重奏曲第22番)を聴いた。気分のいい1日。

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October 05, 2004

『2046』の欲張り

そりゃあいくらなんでも欲張りすぎでしょ、というのが見終わっての感想(試写)。だって、フェイ・ウォン、チャン・ツィイー、コン・リーの3人をメーンに、カリーナ・ラウ、特別出演のマギー・チャンまで、中国・香港を代表する女優5人をずらりと揃えて大メロドラマをつくろうというんだから。しかもフェイ・ウォンは現在と未来のアンドロイドの2役だから、合わせて6人の愛や恋を一本の映画にする。

まあ、顔を見てれば満足という、5人のうち誰かのファンであれば問題はない。アンドロイドのフェイ・ウォンはキュートだし、チャン・ツィイーの娼婦もかわいい。ただコン・リーのファン(僕のことだ)には不満が残る。コン・リーが美しく撮られていないではないか。という私憤は抜きにしても、映画の終わり近く、そろそろエンドマークかなと思ったあたりから、冒頭にちらっと出てきた黒いドレスに黒手袋の女ギャンブラー、コン・リーの物語が語られ出す。

トニー・レオンは大過去のマギー・チャンとの愛の挫折がトラウマになっているのだけれど、コン・リーとも同じような近過去のトラウマ話(ごていねいにマギー・チャンの役と同姓同名の設定)が繰り返される。しかも、現在と未来の話がほとんど終わってから。

男と女の話なんて、そうそうバリエーションがあるわけじゃないから、コン・リーかマギー・チャンか、どちらか(多分、コン・リー)はこの映画には必要なかった。ドラマの必然というより、製作者でもあるウォン・カーウァイが中国語圏トップ女優の顔見せにこだわったのか。コン・リーにまで声をかけたことのツケが最後に蛇足のようなエピソードになったと考えるのは、男のひがみもあるかも。

チャン・ツィイー、フェイ・ウォンとの現在(1960年代)の話は、古ぼけたホテルの「2046」号室を主な舞台に、ほとんどがセットで撮られている。『花様年華』もそうだったけれど、クリストファー・ドイル(撮影)の映像に、なぜかかつての大映、なかでも1960年代の増村保造のカラー映画を思い出してしまった。

1960年代というこの映画の設定は、増村が若尾文子主演で都会の風俗映画なんかもつくっていた時代。匂いが似ていることもあるけれど、くすんだ色彩、つくりものめいたセット、フレームの手前に紅いカーテンや壁、人の後ろ姿を大きく配し、奥の人物にピントを合わせた奥行きのある画面づくりなんかそっくりで、増村作品でおなじみの列車の音(この場合は市電?)まで響いてくる。カーウァイあるいはドイルは増村を見てるんだろうかと、冗談じゃなく考えてしまった。

一方、未来(2046年)の香港の映像は、『ブレードランナー』がつくりだした「未来のLAチャイナタウン」の想像力の枠からはみ出してない、というのが僕の判定。

もっとも、キムタクは悪くない。トニー・レオンの未来の分身という役どころ。トニーの、ちょっと目を細めたり、かすかに微笑んだり、微妙な表情で複雑な感情を表す巧みさ(酸いも甘いも噛み分けた、ってやつですね)に太刀打ちはできないけれど、アンドロイドのフェイ・ウォンに恋する青年を一直線に演じている。

90年代初めに『欲望の翼』(『2046』のカリーナ・ラウは、この作品の彼女と同一人物らしい)や『恋する惑星』でブレークした新感覚のラブ・ストーリーと、『花様年華』(マギー・チャンも役名は違うが、2本の映画で同一人物と考えることもできる)の古風なメロドラマが入れ子になったような印象を、全体からは受けた。その意味でウォン・カーウァイの集大成であることは確か。ま、役者を見ているだけでも損しません。

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