「退歩的生活」のほうへ
「退歩しつつも至福の価値を見つける」
「『退歩的文化人』は人生の下り坂を満喫する」
「欲情すれど執着せず」
……と、嵐山光三郎『「退歩的文化人」のススメ』(新講社)の目次を書き写してみれば、嵐山の兄貴が言おうとしていることの、少なくとも気分は伝わってくるよね。
兄貴がそこから退歩しようというのは、ふた昔前の「進歩的」左翼ではなく、IT技術の発展によって日々「進歩」している、今日ただ今、僕たちの目の前にある社会のことを指している。
でも、降りるといってもそう簡単なことじゃないぞと、兄貴は言う。「どうやって人生後半の坂を降りていったらよいのか。これはそう容易なことではなく、降りる技術は登る技術にも増して熟練がいる。退歩していく自分を受容しつつ文化的であること。これは、年をとってからではもう遅く、四十歳ぐらいから練習しておいたほうがよい」。
というわけで、これは38歳で会社を辞めて以来、還暦を過ぎた現在にいたるまで「退歩的生活」にいそしんでいる兄貴が、自身の体験から得た「降りる技術」を伝授してくれるハウツー本なのだった。
嵐山的「退歩の日々」とは--。俳句をひねる。ローカル線で温泉を巡る。ママチャリで「奥の細道ツアー」をする。古本を漁る。地方競馬に凝る。それらに加えて挙げる「退歩の条件」は、友情、飲酒、隠居、散歩、朝寝などなど。
もちろん兄貴の場合、これらをネタにエッセーを書き(『快楽温泉201』にはお世話になってます)、求めた古本から明治文学についていくつもの著作をものし、それによって収入を得るという循環があったからこそできた「退歩」なわけだが……。
兄貴も「まず金が重要である」と言っている。これは、それぞれの才覚でなんとかするしかない。でも大切なのは「悟ってはいけない。迷いつづけて不良なる精神を持ちつづける」こと。兄貴は以前『「不良中年」は楽しい』(講談社)という本を書いていて、これには学ぶところが多かった。この本でもわれわれが「不良中年」から「不良老年」に移行するに際して、お金と体力と精神の、それぞれどこに留意すべきなのかをていねいに指南してくれる。
なかでも徳富蘆花、武者小路実篤、谷崎潤一郎、北原白秋、宇野浩二ら文学者の晩年の生き方を扱ったエッセーは読みものとしても面白く、教訓の書としても色んなことを考えされられた。
蛇足。僕は兄貴のようにIT社会のすべてに背を向けるつもりはなく、このブログも「60歳以後」へのトレーニングのひとつだと思っている。
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