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September 29, 2004

スローなフランク・カステニアー

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ドイツのピアニスト、フランク・カステニアーの第1作『フォー・ユー(For You)』(UNIVERSAL)は全曲がバラードだった。といって、甘く心地よいだけのバラードではなく、抒情的なピアノのなかに斬新なフレーズがきらめいて聞き流せない。

このピアニストを知ったのは、僕がいまいちばん好きなトランペット、ティル・ブレナーのアルバム『チャッティン・ウィズ・チェット』(VERVE)のサイドメンとして。特に印象に残るピアノではなかったけれど、ブレナーがカステニアーの初リーダー・アルバムをプロデュースし、バックに参加もしているというので、そそられた。ピアノ・トリオを中心に、何曲かにブレナーが加わり、ストリングスも入る。

全編バラードとはいえ、ともかくテンポがゆったりしている。スタンダードの「今宵の君は(The Way You Look Tonight)」「いつか王子様が(Someday My Prince Will Come)」、1920年代ドイツのヒット曲という「バイ・ディア・ヴァー・エス・インマー・ゾー・シェーン」、ギルバート・オサリバンの名曲「アローン・アゲイン(Alone Again)」などが、スロー・バラードという言い方を超えた、なんともゆったりしたテンポと穏やかなリズムで演奏される。

あまりにもスローなので、逆に少し緊張していないと音と音のつながりを追えないくらい。聞き流していたら、なんかバラードふうなピアノが鳴ってるなあ、くらいにしか感じられないだろう。そのテンポと少ない音数で「今宵の君は」など10分以上を弾ききるのだからすごい。

そんなふうに気持ちを集中させて聴いていると、じわっとカステニアーの世界が立ち上がってくる。クールで官能的なピアノは、都会(彼の場合はベルリン)の夜の気分とでも言おうか。

なかでアクセントとなっているのが、ブレナーが参加している曲。「メンシュ」は去年、ドイツでヒットした曲らしい。8ビートのバラードで、バックでささやくようなブレナーのフレンチ・ホルンが利いている。ブレナー得意の、アンニュイな雰囲気。「フォー・ユー」はカステニアー自身の曲。ブレナーとカステニアーのデュオにストリングスが入り、美しいメロディーだけをアドリブ抜きでさらりと聴かせる。

参加しているミュージシャンは皆、長年組んできた仲間らしいけど、どの曲も互いの呼吸を知りつくしたリラックスした空気が漂っている。暑い夏の夜にこういうジャズは向かないけど、これからの季節にはいいね。

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September 27, 2004

『インファナル・アフェア 無間序曲』の闇

前作『インファナル・アフェア』で魅力的な脇役だった警部と、マフィアのボスであるサム。2人が深い影と光のなかで対話するファーストシーンで、この映画が両者の対決と友情をめぐって展開することが示される。

画面が一転すると、自分の組の大ボスを殺しに夜の街を行くちんぴら(エディソン・チャン。前作はアンディー・ラウの役)の背を、手持ちカメラがゆらゆらと追いかける。静から動へと見事なリズム。導入部で早くもぞくっとさせる。

夜のシーンが画面を支配している。殺された大ボスを継いだ息子が、裏切りを画策する4人の幹部を殺す場面は夜。大ボスの息子とサムが対決する場面も夜。細い路地、路上の屋台、雑居ビルのネオン。ほとんどがロケなのだろう、闇のなかに原色の色彩がちりばめられた映像の艶にほれぼれする(撮影は監督でもあるアンドリュー・ラウ)。この映画の主役は夜の香港だと言ってもいいくらいだ。

前作『インファナル・アフェア』は、沈滞していた香港ノワールを見事に復活させた。警察に潜入したマフィア、マフィアに潜入した捜査官(ショーン・ユー。前作はトニー・レオン)、潜入捜査官の上司である警部とマフィアのボス、サム。この映画では前作の11年前に舞台が設定され、香港の中国返還を背景に運命的に絡みあう4人の前史が描かれる。

前作では女性はあっさり描かれていたけれど、この映画では女が男たちの運命をことりと回転させる。サムの妻(カリーナ・ラウ)は夫には知らせずに、ちんぴらを使って大ボスを殺させた。これは警部との共謀で、警部とマリーは寝たことがある(らしい。海の見えるホテルの一室のシーンは、そう解釈するほうが陰影が濃くなる)。大ボスを殺して警察に潜入したちんぴらもサムの妻に惚れているが、冷たくされたことで彼女を裏切る。一方、潜入捜査官は実は大ボスの私生児で……。

これでもかとばかりに人間関係が絡み合う。そのもつれが銃と血によって解決される。警察と黒社会の対立、組織内の抗争、友情と裏切り、男と女、家族の血のつながり。次から次へたたみかける展開と情感を煽る音楽、この濃さこそが香港ノワールなんだなあ。

役者がまた揃っている。警部のアンソニー・ウォン、サムのエリック・ツァンはもちろん、冷血な大ボスの息子を演ずるフランシス・ンが、激情を感じさせながらも抑えた芝居を見せる(弟の裏切りを知りながら息絶えるシーンが泣かせる)。日本映画によく出てくる絶叫と大げさな身振りがないのがいい。

香港ではもう第3作の『インファナル・アフェア 終極無間』が公開されている。潜入捜査官と潜入マフィアは、第1作と同じトニー・レオンとアンディ・ラウに戻る。このシリーズ、『ゴッドファーザー』や『仁義なき戦い』と同様に、後々まで語り継がれる香港ノワールになるにちがいない。

<後記>TBしていただいたムーさんから、この映画について詳しい紹介とコメントをしているサイトがあるのを教わった。それによると、原作の小説があり、そこでは警部とサムとサムの妻は幼なじみで、警部とサムが共に彼女に惚れ、彼女はサムを選んだらしい。それで、ホテルの一室のシーン、ただ利害だけで動いているのではない2人の微妙な空気が理解できる。充実したサイトだけど、これから映画を見ようという人はネタばれもあるので、ご注意を。


<追記>DVDでこの作品を見直した。ホテルの一室での警部とサムの妻のシーン。女はベッドに座っている。警部は女に触れるほどの距離まで近づく。女の顎に手をかけて女の顔を上へ向ける。この一つながりのカットは、やはり2人が男と女の関係にあること(幼なじみであるにしても)を暗示する描写ではないかと感じた。(2005・10・14)

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September 23, 2004

『珈琲時光』の時間

映画が終わって場内が明るくなり、映画館の外へ出ると、何時間かひたっていた虚構の時間から抜けだし、現実の時間に戻ったと感ずる。それは、見た映画がどんなに面白くとも退屈であっても変わらない。『珈琲時光』には、それがなかった。映画館の外へ出ても、映画のなかと同じ時間が流れていると感じられた。これはどういうことだろう。

場所の問題ではないはずだ。この映画は今の東京を舞台に僕たちがなじんだ風景がたくさん出てくるけれど、そんな映画は珍しくもない。

やはり、時間の流れ方なんだと思う。ほとんどの映画では、時間が濃縮される。時には人の一生が数時間で物語られるように、ストーリーの密度が現実よりもずっと濃くなる。喜び悲しみの感情の密度も濃くなる。人の顔のクローズアップや風景のロングショット、映像と映像のモンタージュといった手法やバックの音楽が、時間と感情の密度を高めるのを助ける。見る人は、そんな凝縮された時間に涙を流したり、笑ったりする。

『珈琲時光』に流れているのはそのような時間ではなく、限りなく現実に近い(と感じられる)時間だ。しかもそれが退屈でない。むしろ快い。そんな映画は、これまで見たことがなかった。これって、すごく実験的な映画なのかもしれない。

とにかく電車と駅とがよく映る。早稲田・三ノ輪間の都電。山手線。中央線。高崎線。上信電鉄。都電の鬼子母神駅。大塚駅。お茶の水駅。新宿駅。有楽町駅。日暮里駅。電車の音、ホームのアナウンスや発車を知らせるデジタル音など、日常的すぎて僕たちの耳を通りぬける音も意識的に拾われている(これは浅野忠信の趣味とも絡む)。

そして駅界隈の風景。主人公の一青窈が住む鬼子母神駅界隈。都電から山手線に乗り換える大塚駅界隈。友人の浅野忠信の古書店がある神田神保町界隈。有楽町駅界隈(僕も時々行く喫茶店「ももや」がマスターともども登場)。どこも懐かしく雑多な商店街が広がる。そして一青の両親が住む上信電鉄の、田園のなかの実家。この映画は、一青窈たち登場人物が電車に乗ってそれらの地点を行き来するだけで成りたっている、と言ってもいいくらいだ。

一青窈はライターで、戦前の台湾出身(当時は植民地だから「日本人」)作曲家・江文也のことを調べている。友人の浅野忠信は古書店を営み、一青の調査を助けながら、電車と駅の音を録音して歩いている。一青は台湾人の恋人の子を妊娠していて、結婚はしないが子供を産むと両親に告げる。それが、この映画のストーリーのすべて。そこからドラマは一歩も動かない。

結婚しないで子を産むと決めた一青。何も言えない両親(小林稔侍と余貴美子が、いい味出してる)。一青を見守る浅野。大状況としてはその場所に宙づりにされたまま、4人は日常生活を営んでひとつの地点から別の地点へと移動する。その移動が、ひたすら描かれる。

僕たちの日常は映画や小説のように濃縮されたドラマが起こるわけではない。でも毎日、小さな出来事があり、感情の波立ちがあり、1杯の珈琲にほっとする時間がある。そんな僕たちの日常の時間の流れと同じ時間感覚が、電車と駅と界隈の風景から立ち上がってくる。その時間の流れは、たとえば僕たちが8ミリビデオを回しっぱなしで日常を撮っても捕らえられるものではない。これも巧みに構成された虚構の時間なのだ。

それに関連して気づいたことがある。侯孝賢の映画は長回しの多いことで知られるが、この作品ではそんなに多用されていない。カメラを長時間据えっぱなしで撮る長回しは、現実の時間の流れをそのままフィルムに定着させるものだと思っていたけれど、どうもそれは逆で、長回しはむしろ時間と感情を濃縮させる効果をもつのではないか。それは『悲情城市』の長回しを思い出してみれば納得できる。

それにしても侯孝賢は列車と駅が好きだ。『恋恋風塵』は、トンネルをくぐる列車内で幼なじみが会話する印象的なシーンで始まるし、2人が台北と故郷の十分を列車で往復する。『冬冬の夏休み』では、少年が台北から列車に乗って銅鑼のおじいちゃんの家へ行くことで、夏休みという「特別な時間」に入り込む。『悲情城市』でもラストに近く、官憲に追われた主人公一家が海の見えるホームに佇む悲痛なショットがあった。

そんな侯孝賢が東京で映画を撮るに当たって電車と駅を選んだのは、ごく自然なことだったかもしれない。日本をよく知らない外国人監督であれば、たとえば『ロスト・イン・トランスレーション』がそうだったように高層ビルや渋谷や新宿歌舞伎町といった、今の東京を象徴する舞台を選ぶだろう。また日本人監督であれば、あまりにも日常的でありすぎる風景を映画の主役に据えることをためらうだろう。

過去20年、しばしば東京を訪れて仕事もし、旅人の目ではない目で東京を見(しかし外国人であることには変わりない)、さらに市内に電車が走っていない台北に住み、しかも列車大好きの侯孝賢が、これが自分の東京だと選んだのが電車と駅と界隈の風景だったわけだ。とりわけ丸の内線と中央線と総武線が3重に交差し、神田川の流れと鉄橋が立体感をいっそう際立たせるお茶の水駅のロングショットが繰りかえし映し出される。侯孝賢が感ずる東京の風景と音のエッセンスが、そのショットに込められている。

ところで。侯孝賢には傑作が何本もあるけれど、それらは過去を素材にした映画ばかりで、現代の、しかも都会を描くのは下手だと言われてきた。実際、『ナイルの娘』にしても『好男好女』(現代の部分)にしても失敗作と言っていいのだろう(僕は『憂鬱な楽園』は好きだし傑作だと思うが)。

侯孝賢が現代を扱った作品は、たいていは日常をあてもなく浮遊する女の子とやくざな男との絡みで物語がつくられていた。『珈琲時光』では、主人公をそうした設定やストーリーで動かすことをしていない。映画が始まった時点での登場人物の設定はほとんど動かさず、宙づりにされた主人公の日々のささやかな移動をひたすら見つめることで映画が成り立っている。

映画的に濃縮された時の流れない、こんなヌルい映画はつまらない、と言う人も多いに違いない。でも、僕は好きなんだなあ、この映画。

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September 20, 2004

『快楽通りの悪魔』の2人

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デイヴィッド・フルマー『快楽通りの悪魔』(新潮文庫)は20世紀初頭のニューオリンズを舞台にしたハードボイルドだけど、興味深い実在の人物が2人登場する。というより、この2人の人物をヒントにして書かれたと言ったほうが正確なのだと思う。

ひとりはジャズ草創期の伝説的コルネット奏者バディ・ボールデン。この小説は、ニューオリンズの赤線地帯ストーリーヴィルに起こった連続娼婦殺人事件を、フランス系とアフリカ系の混血であるクレオール探偵が追うというストーリーなのだが、ジャズは100年前にこの町の、とりわけストーリーヴィルの娼館や酒場で生まれた。ボールデンはクレオール探偵の幼なじみという設定で、事件に重要な役割を果たす。

もちろん小説のなかの話だけれど、実在のバディ・ボールデンはニューオリンズの路上で行進しながら演奏するブラスバンドのコルネット吹きとして抜群の人気を誇っていた。ラングストン・ヒューズは『ジャズの本』(晶文社)でこう書いている。

「当時、リンカーン公園でダンスがあるんだということをひとびとに知らせようと思うと、偉大な管楽器吹奏者のひとり、バディ・ボールデンが音楽堂に立ってかれのかがやくトランペットで一発ラグふうのブルースをぶっぱなしたものでした。みんなかれの演奏をとおくはなれた街角からきくことができましたので、ダンスに出かけようとしたものです」

ボールデンの録音はなく、その音を聞くことができないのが残念。

もうひとりは、ストーリーヴィルの娼婦のポートレートで知られる写真家アーネスト・J・ベロック。1970年にMoMAから『Storyville Portraits』という有名な写真集が出ている。小説のなかでも「そこには被写体の目の奥にある空虚が映しだされていた」と描写されているけれど、盛装していたり、下着姿やヌードの娼婦たちのポートレートは、笑っている女からもレンズをまっすぐに見ている女からも、魂を抜き取られたような虚ろな印象を受ける。

この小説が面白いのは、「あとがき」に参考文献が挙げられていることからも分かるように、きちんと考証されているらしいことだ。

作者が描写するベロックは、「フランス人の血を引き、透き通るような青白い肌をしていて、身長は5フィートそこそこだが、頭はカボチャのように丸く、大きい。医学用語で言うなら、水頭症だ。小さな身体は歪み、脚は曲がっていて、歩き方はアヒルのよう」な男だった。娼婦街を大型カメラと3脚をかついで歩く異形の小男のイメージは、それが本当かどうかはひとまず措くとしても、いかにもという感じがする。

作品としては、型通りながらまずまず楽しめた。それ以上に、主人公の探偵の目を通して描かれるニューオリンズの社会が興味深い。

当時のニューオリンズは4つの社会階層からなっていたという。いちばん上が、アングロサクソンとフランス系移民の子孫。次にフランス人とスペイン人の混血。その下に彼らとアフリカ系の混血であるクレオール。肌の色がどんなに白くても、アフリカ系の血が1滴でも入っていればクレオールとされた。クレオールも混血の度合いによって更に細かく、オクトルーン(8分の1混血)とかクワルドルーン、ムラートなどに分けられる。最下層にアフリカ系。

ストーリーヴィルの娼館もオクトルーンだけの店とかがあり、逆に白人娼婦の娼館にはクレオールやアフリカ系は入れなかった。当時の娼婦一覧には名前の後に略号がついており、「W」は白人、「J」はユダヤ人、「C」はカラード、「O」はオクトルーンを表している(「どれも単純明快だが、"フレンチ"だけは例外で、それはヨーロッパのとある国から来た女をさすわけではない」)。

まあ、こんなこと知っても何の役にも立たないけど。でも弱者がほんのわずかな差異をタテに、さらに弱者を差別することによって差別の体系ができあがっていることがよく分かる。

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September 17, 2004

『VS.』vs.『Number』

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月刊『VS.(バーサス)』(光文社)の創刊号が出た。スポーツ雑誌というと、どうしても『Number』と比べてみたくなる。僕の感想を一言で言えば、似て非なる雑誌。スポーツを素材にした「男の生き方雑誌」という印象だ。

巻頭特集は大リーグの日本人プレイヤーを中心にした「頑固と言われようと、自分のスタイルを貫く男たち」。創刊号巻頭のタイトルに、雑誌が目指すものが込められている。松井(秀)、野茂、長谷川、高津にインタビューした長いエッセーと写真。オーソドックスな切り口と文章で、それぞれの「流儀」を浮き上がらせようとする。

『Number』最新号も、珍しく野球特集。こちらは日本プロ野球の1リーグ制問題を中心に、「野球は誰のものなのか」「江夏豊インタビュー」「藤井寺物語」「猛牛たちの伝説」など盛りだくさん。江夏の主張に、そう、そうなんだよなあと頷き、猛牛伝説に過去の栄光を偲ぶ、老舗らしいファン心理を心得た記事が並ぶ。『VS.』の特集が130キロ台のストレートなのに対して、こちらはストレート変化球と多彩な球種を駆使。

『VS.』の第2特集はアテネ・オリンピック。バレーボールの吉原、レスリングの吉田ら女性アスリートを女性ライターがレポートしている。一方、隔週刊の『Number』ではオリンピックは既に過去の話題で、コラムでしか扱われていない。月刊誌である『VS.』がオリンピックやワールドカップを取りあげようとすれば、その問題は常についてまわる。時間的不利をカバーする誌面がつくれるかどうかの勝負だけれど、この特集はちとぬるい。

コラムは、率直に言って『Number』の切れ味に遠く及ばない。特集にしてもコラムにしても、スポーツ愛好者の心情や批評心のツボをどう刺激するか、『Number』が培ってきたノウハウに改めて感心する。その代わり、『VS.』はスポーツをからめたファッションや道具(モノ)や食で「男のライフスタイル」誌を志向する。

単発では、悲運の競歩ランナー・板倉美紀の闘いを追った織田淳太郎「遥かなる五輪ロード」が、なじみの薄いスポーツを素材に読ませた。連載に金子達仁、東野圭吾、吉田修一と小説を3本揃えているのも、最近の創刊誌では異色。

本文に『Number』と同じく11級の小さめな文字を使い、しかも余白や行間を広く取っているのに、『Number』より読みにくく感ずるのはなぜだろう。選んだ明朝の書体が肉薄なこと、字詰めが多いこと(35字詰めの2段組みもある)、墨(黒)以外のインクも使っていること、写真のなかに文字を抜いていること、などによるものか。

総じて、光文社の雑誌には珍しく可読性よりデザインを重視しているように見える。老眼が来ている身には、電車で30分読んだら目が痛くなってきた(そんな世代は相手にしてないよと言われれば、その通り)。

広告はスポーツ関係だけでなく、ブランド、車、化粧品から痩身法、アデランスまで雑多。創刊号にはおつきあいするクライアントも多いから、今後どのような広告が増える(減る)かも雑誌の方向性と関係するだろう。

「似て非なる」雑誌だから同じフィールドでは論じられないけれど、どっちを選ぶかと聞かれれば、やっぱり『Number』を買うだろうなあ。

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September 15, 2004

『ピアノ・ブルース』は濃い

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1月ほど前、WOWOWで『ピアノ・ブルース』(演出=クリント・イーストウッド)というドキュメンタリーを放映した。劇場公開はない(イーストウッドの希望。つまり「作品」ではありませんよってことか)ので要チェックと思っていたのに見逃した。残念に思っていたら、友人が録画してあるという。

ちなみに、その男は日に数本の映画、テレビ映画(主に60年代アメリカのTVシリーズ)を録画しているのだけれど、CMを抜いて編集し直したり作品データを調べるのに忙しくて、録画したものを見る暇がないとボヤいている。リタイアしたら映画三昧だと言うのだが、自分の部屋は未見のヴィデオやDVDで天井まで埋まっているらしい。

クリント・イーストウッドが大のジャズ好きというのは、よく知られている。チャーリー・パーカーをモデルにした映画『バード』をつくっているし、自分でもピアノを弾く。そのイーストウッドがピアノを前にレイ・チャールズやデイブ・ブルーベック、Dr.ジョン、ジェイ・マクシャンらブルース・ピアニストにインタビューし、おまけにピアノを弾いてもらうという好き放題(?)やってるドキュメント。

ニューオリンズやシカゴのブルース・ピアノ、ブギウギ・ピアノなど過去の映像が次々に紹介される。その指に「神が宿る」と言われたアート・テイタムのピアノを初めて映像で見たし、セロニアス・モンクのユニークな演奏も、ブギウギ・ピアノの流れのなかに置いてみると何の違和感もなく、伝統にのっとりながら新しいものをつけ加えていることがよく分かる。

現役では、ニューオリンズのブルースとはあまり関係なさそうなデイブ・ブルーベックが子供の頃の思い出を語り、彼らしいやり方で弾いたブルースが、アフリカ系のピアニストとはまったく違うアプローチで素晴らしかった。

個々のミュージシャンを知らなくとも、音に耳を傾けているだけでたっぷりと濃いブルース・ピアノを堪能できる。9月20日深夜に再放送があるので、ブルース・ファン、ジャズ・ファン、イーストウッド・ファンは是非。

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September 13, 2004

『父、帰る』の水の魅力

映画にもDNAはちゃんとあるんだなあ、と思った。しかもとび抜けて優れたDNAが、ソ連からロシアへと国は変わっても、政治の移り変わりなど何ほどのこともないように受け継がれていた。

『父、帰る』のDNAは間違いなくタルコフスキーのものであり、それは特に水の描写に見てとれる。『惑星ソラリス』の「海」と、記憶のなかの池。『ストーカー』や『サクリファイス』『ノスタルジア』の水たまりや沼や湖と、なにより降りしきる雨。タルコススキーの場合、水は目の前の現実が異界へと姿を変える予兆のようなものだったけれど、あの緊張に満ちた美しい水の描写が、姿を変えて40歳の監督(アンドレイ・ズビャギンツェフ)の処女作に現れたのには驚いた。

ファースト・シーン、湖底に沈んでいるボートのイメージ(実はラスト・シーン)からして、水が現れる。2人の兄弟が湖の飛び込み台で遊んでいる。飛び込み台は下方から高い塔を思わせるように撮られ(これが重要な意味をもつ)、それに対比されるように静かな湖面が広がる。夏のようだけれど、冷たさを感ずる風景だ。

次のシーン、子供たちが遊んでいる廃ビルでも、むき出しのコンクリートの床には水がたまっている。僕はこの場面で、あ、タルコフスキーと感じた(タルコフスキーを見てる人なら誰でもそう思うよね)。カラー映画なのに、湖面も空も廃ビルもくすんでほとんど色を感じさせないのも、その思いを強めた。

12年ぶりに父が家へ帰ってくる。2人の息子は、父の顔を知らない。権力的な父に、兄はそれでも嬉しさを隠せず、一方、弟は反発する。父が、息子たちに旅に出ようと誘う(命令する)。それがストーリーの骨格。シンプルだけれど、父は何者なのか、旅に目的があるのか、色んなことが説明されないので全体が謎めいている。

車で旅に出た3人は、ボートを漕いで湖に渡る。またしても水だ。凪いだ湖面のさざ波が光を受けて微妙に輝く。水面に雨が走る。霧がかかって空と区別のつかなくなった湖面が油のように重い。風を受けた梢がざわざわと音を立てる。

タルコフスキーのように現実と非現実が入り組んだ世界ではないけれど、水や、水を取りまく風景の映像には、別世界に引きずり込まれそうになる恐ろしい、抗いがたい魅力がある(「銀残し」という技法で撮影されているらしい。どんな技法なのだろう?)。水の映像が多く出てくるというだけでなく、水がそのような徴を湛えていることが、タルコフスキーのDNAの証だ。音楽は多用されないけれど、ビートの利いたミニマル・ミュージックのような低い音の繰り返しが風景に重なって耳に残る。

製作年から逆算すると、父がいなくなった12年前とはソ連崩壊の年に当たる。誰かが語っていたように、12年間不在だった父、突如現れて息子たちにあれこれ命じ、気に入らなければ容赦なく手を上げる父に父権的権力=国家の影を見ることもできる。そんな政治的な読みではなく、父に「神」を見るような宗教的な読みもできる。映画の原題は「帰還」。

2人の兄弟の対照的な態度は、「父」に対する愛憎なかばする感情を、それぞれ人格化したものだろうか。なかでも、怒られても殴られてもそのそばから帰ってきた父への親しみの感情がにじみ出てしまう兄の表情は、この少年が映画撮影後に事故死(しかも溺死)した事実も知ってしまうと、よけいに悲しい。

結末が来てスクリーンが暗転すると、雨音だけが闇に響く。水に始まって水に終わる『父、帰る』の兄と弟は、この後、どう生きていくのだろう。謎は謎のままありつづけ、そんな問いかけだけが残った。

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September 11, 2004

ウィリアム・クラインのパリ

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ウィリアム・クライン写真展「PARIS+KLEIN」を見てきた(10月6日まで、東京都写真美術館)。2002年にパリのヨーロッパ写真美術館で開催されたものの巡回展。1980年代以降にパリで撮られたカラー75点が大型パネルで展示されている(東京展ではモノクロの代表作も追加)。

僕たちにとってウィリアム・クラインの名前が神話化されたのは、森山大道や中平卓馬の写真や文章によるところが大きい。

1960年代、森山や中平はクラインの写真集『NEWYORK』に衝撃を受けて自らの写真の方向を定めていった。それは「ブレボケ」という言葉に象徴される、動く被写体がぶれ、至近距離の被写体がぼけ、粒子の粗いざらっとした感触の写真だった。60年代後半から70年代前半にかけて、森山も中平もその方向に作品を激化させていったから、クラインもアレ・ブレ・ボケの元祖という思いこみが定着した。

でもクラインは『NEWYORK』の作家であると同時に、『VOGUE』で活躍するファッション写真家でもあった。もちろん『NEWYORK』にはブレもボケもアレもあるけれど、丹念に見ていくとそのような写真は思いのほか少ない。「ブレボケ」を自らの表現の根底にかかわるものとして言わば実存的に受け取った森山や中平に対して、クラインにとってはファッション写真家としての多彩なテクニックのひとつだったのだと、今ならば言える。

多彩なテクニックをもつファッション写真家という言い方で、僕はクラインを貶めたいのではない。逆にそのような写真家だからこそ、ニューヨークという多面的で複雑な都市の暴力的なエネルギーを、見事に一冊の写真集のなかに捕らえることができた。

『NEWYORK』は、大都会の路上にうごめく群衆に始まり、銃を持つ少年少女、町のポスターや看板、ネオン、そして高層ビルの風景など、さまざまな対象を切れ味鋭く切り取った、いま見直しても三十数年前の興奮がよみがえる写真集だ。

今回の「PARIS」は、クラインが写真をいったん離れて映画に行き、80年代にもう一度写真に戻ってからの作品で構成されている。ここでは、『NEWYORK』に見られた多様な被写体のなかから、クラインの興味はもっぱら人間たちに絞られているように見える。

パリの路上で繰り広げられる高校生のデモやゲイのパレード(写真)。カーニバル。葬儀。セレブのパーティーや、ショーのバックステージ。シャンゼリゼのツール・ド・フランスやラグビーの代表戦。広角系の画面いっぱいに被写体を取り込み、もちろん「ブレボケ」を含む多彩なテクニックは相変わらずで、加えて、カラーによる色彩の氾濫が見る者を圧倒する。

クラインの人間を見る眼は、一言で言って醒めている。フレームの隅々までを人や街路や建物で埋めつくす密度に反比例するように、距離をおいて、冷たい。それはファッション写真家がマヌカンを見る眼と言ったらいいだろうか。写真家にとって、マヌカンは喜びや悲しみを分かち合う隣人ではない。そのような眼をもってクラインはニューヨークを、モスクワを、東京を撮ってきた。

ここでもクラインはまったく同じように、マヌカンを見る眼でパリの人間たちを見ている。そしてパリの路上は、とびきり奇妙で、とびきりシックで、とびきり偽善的で、とびきり美しいマヌカンたちであふれているのだ。

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September 08, 2004

「退歩的生活」のほうへ

「退歩しつつも至福の価値を見つける」
「『退歩的文化人』は人生の下り坂を満喫する」
「欲情すれど執着せず」

……と、嵐山光三郎『「退歩的文化人」のススメ』(新講社)の目次を書き写してみれば、嵐山の兄貴が言おうとしていることの、少なくとも気分は伝わってくるよね。

兄貴がそこから退歩しようというのは、ふた昔前の「進歩的」左翼ではなく、IT技術の発展によって日々「進歩」している、今日ただ今、僕たちの目の前にある社会のことを指している。

でも、降りるといってもそう簡単なことじゃないぞと、兄貴は言う。「どうやって人生後半の坂を降りていったらよいのか。これはそう容易なことではなく、降りる技術は登る技術にも増して熟練がいる。退歩していく自分を受容しつつ文化的であること。これは、年をとってからではもう遅く、四十歳ぐらいから練習しておいたほうがよい」。

というわけで、これは38歳で会社を辞めて以来、還暦を過ぎた現在にいたるまで「退歩的生活」にいそしんでいる兄貴が、自身の体験から得た「降りる技術」を伝授してくれるハウツー本なのだった。

嵐山的「退歩の日々」とは--。俳句をひねる。ローカル線で温泉を巡る。ママチャリで「奥の細道ツアー」をする。古本を漁る。地方競馬に凝る。それらに加えて挙げる「退歩の条件」は、友情、飲酒、隠居、散歩、朝寝などなど。

もちろん兄貴の場合、これらをネタにエッセーを書き(『快楽温泉201』にはお世話になってます)、求めた古本から明治文学についていくつもの著作をものし、それによって収入を得るという循環があったからこそできた「退歩」なわけだが……。

兄貴も「まず金が重要である」と言っている。これは、それぞれの才覚でなんとかするしかない。でも大切なのは「悟ってはいけない。迷いつづけて不良なる精神を持ちつづける」こと。兄貴は以前『「不良中年」は楽しい』(講談社)という本を書いていて、これには学ぶところが多かった。この本でもわれわれが「不良中年」から「不良老年」に移行するに際して、お金と体力と精神の、それぞれどこに留意すべきなのかをていねいに指南してくれる。

なかでも徳富蘆花、武者小路実篤、谷崎潤一郎、北原白秋、宇野浩二ら文学者の晩年の生き方を扱ったエッセーは読みものとしても面白く、教訓の書としても色んなことを考えされられた。

蛇足。僕は兄貴のようにIT社会のすべてに背を向けるつもりはなく、このブログも「60歳以後」へのトレーニングのひとつだと思っている。


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September 07, 2004

夏の終わり

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台風18号が日本海を北上している。伊豆半島も雨模様。大島に黒雲がおおいかぶさり、わずかな雲間から朝陽が射していた。

生暖かい風が夏の終わりを告げているようだ。

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『堕天使のパスポート』の優しさ

スティーヴン・フリアーズの映画を何本か見ていると、2つのキーワードが浮かびあがってくる。ひとつは「ゲームとしての犯罪」、もうひとつは「移民、あるいはマイノリティー」。

フリアーズがハリウッドで撮った『グリフターズ 詐欺師たち』は、タイトル通り詐欺に生きる母親と息子と、その恋人の話だった(アンジェリカ・ヒューストンの強い母と、ジョン・キューザックの頼りなげな息子の取り合わせが絶妙)。その前に撮った『危険な関係』も犯罪ではないけれど、ラクロ原作の騙し騙される恋愛ゲーム(姦通罪があれば犯罪だ。ミシェル・ファイファーが、ため息が出るほど美しい)。

僕は見ていないのだけれど、彼がハリウッドへ渡る前にイギリスで撮った『マイ・ビューティフル・ランドレッド』や『サミー&ロージィ』は、イギリスへやってきたアジア系移民の話らしい。最近では、『がんばれ、リアム』がその系統に属する。

『堕天使のパスポート(Dirty Pretty Things)』は、その2つのキーワードがないまぜになった映画だった。

ロンドンに暮らす2人の移民。男はナイジェリア出身の医者。権力者に反抗して国を追われ、身分を偽り不法入国してホテルのフロント係をやっている。女は同じホテルでメイドをしているトルコ難民。禁じられている労働に従事したことで母国の係官に追われている。アフリカ系の男とトルコ系の女のミステリー・タッチのラブストーリーというのが、いかにもフリアーズらしい。

娼婦も出入りする怪しげなホテルを舞台に、移民から臓器を摘出して売買する闇のルートに気づくことから、2人はトラブルに巻き込まれてゆくのだけれど、「移民」と「犯罪」というテーマにもかかわらず、映画が社会派にもならず悲恋にもならないのがいい。

ひとつには、主演のオドレイ・トトゥのキャラクターがいいから。『アメリ』でも夢見る少女を好演していたけれど、ここでは一転して化粧っ気もないトルコ難民に扮しながら、貧しいけれどもそれに打ちひしがれることのない、どこか現実を超えてしまった女を演じている。ホテルで働けなくなった彼女が、不法滞在者や難民ばかりの製縫工場でセクハラする工場長に逆襲するシーンなど、男であっても、やったぜ! という気になる。

もうひとつは、フリアーズの描く犯罪が殺人のような重苦しいものでなく、いつでもゲームの軽さをもっていることだろう。ネタバレを避けるため詳しくは書かないが、ここでもコン・ゲームふうな痛快な逆転が用意されている。

そこから見えてくるのは、スティーヴン・フリアーズの人を見る目の優しさだ。移民もマイノリティーも犯罪者も、社会の隅に生きることを強いられている存在だけれど、彼らの悲しみ喜びを、同情でもなく告発でもなく、しかしシンパシーをもって見つめている。

彼がハリウッドでつくった『ハイ・フィデリティー』の、ダメ男を見る視線にも親近感を抱かせられたが、この映画でもロンドンの移民街のちょっとしたエピソード--医師がブラック・ジャックとして淋病の不法移民たちに薬を調達してやる話とか--にもフリアーズのユーモラスな視線が行き届いている。普通の映画には出てこないロンドンの移民街のロケもリアル。

ハリウッドとイギリスを行き来することでハリウッドの「型」に取り込まれずに映画をつくりつづけるフリアーズは、剛球投手ではないけれど、自分の好みと視点にこだわるしぶとさを持っている。見終わって気持ちのよい映画だった。

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September 02, 2004

キッチュなビル

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毎日歩いている道に、突如出現したビル。

ラブホテルかパチンコ店なら、そのキッチュを笑うこともできるけど、安売り店とはいえ普通にものを売る店だ。赤白の柱と、ステンドグラスまがいの窓を最初に見たときは呆然としてしまった。夜景だからまだましに写っているが、昼間見ると、周囲の風景のなかで書き割りのように浮いている。

目立てばいいという、それこそが建築主の狙いなのだろうが、景観は「公」のものという考えは遂にこの国には根づかないのだろうか。

「公」というと、すぐ「私」を超えて「国家」へといったナショナリスティックな議論に短絡してしまう。そのくせ、土地や建築物については「私権の絶対」が主張される。「公(共性)」とは、もともと国家ではなく社会に属する考え方なのだから、こういうビルについて具体的に論議が起こるのがまっとうだと思うのだが。

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『芸術新潮』の円空特集

『芸術新潮』9月号が円空の特集をしている。

『芸新』の特集は題材も編集もオーソドックスだけれど丁寧なつくりで、いつも安心して読める。今月号もその例に漏れない。

数十ページにわたる撮り下ろしの円空仏、梅原猛の長編エッセー、全国の円空仏マップ。必要にして十分な素材だけで65ページ。ムック(あるいは新潮社の「とんぼの本」)1冊分の内容はありそうな「保存版」だ。

梅原のエッセーは、彫刻家としての円空だけでなく、行基ー泰澄の流れで円空の仏教思想を重視しているのが面白い。円空を木地師とみる通説に異を唱えているのも彼らしい。

ほかに、平野甲賀の手書きタイポグラフィーを扱った小特集。平野はひらがな、片仮名、数字、アルファベットの4種で自作のフォントをつくってしまった。そのフォントで組まれた見開きページを(実用はともかく)ついつい読んでしまう。今後、常用漢字を中心に2000字の自作漢字フォントに挑戦するらしい。この特集では漢字は既成のゴチック系フォントが使われているが、全部自作のフォントになったら「読むことを拒否する本」ができるかも。

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