セザリア・エヴォラの「哀しみ」
先日、パリから成田への長旅のあいだ、眠れないので機内サービスのアフリカ・ポップスをずっと聴いていた。知らない曲ばかりだったけれど、次々に耳に入ってくるアフリカのリズムが快く、身動きできない身体を音の洪水にゆだねていた。
突然、それまでの強烈なリズムとはまったく異質の、メロディアスで耳慣れた曲が耳に飛び込んできた。セザリア・エヴォラの「Beijo Roubado」だった。ああ、これはやっぱりアフリカではなくファドなんだなと思った。
セザリア・エヴォラをよく聴く。大地に根ざしたような太く、優しい声。ファドに似て哀しみにあふれたメロディー。それでいて、ファドより軽快なリズム。こんなにも心に染みこんでくる歌を、久しぶりに聴いた。
僕はファドが好きだけど、アマリア・ロドリゲス、フェルナンダ・マリア以降、惚れ込むほどの歌い手になかなか出会わない。近頃はファドもワールド・ミュージック化して、若い歌手やグループのCDもずいぶん出ているし、コンサートにも出かけたが、しばらく聴くと彼らのCDはいつの間にかラックに収まったままになっている。
セザリア・エヴォラはかつてポルトガルの植民地だったカヴォ・ヴェルデの出身。若い頃はリスボンで歌っていたらしいから、ファドの影が色濃いのは当然かもしれない。ファドの精神といわれる「サウダージ」(郷愁とでも訳したらいいか)の感情を、本国の若いファドの歌手以上にたっぷり湛えていると僕は思う。
その意味では、ファド代わりにセザリアを聴くのも、あながち見当はずれではないのだろう。「サウダージ」の深さと透明さにおいて、アマリアが新作ファドばかりを歌った『COM QUE VOZ』(永遠の愛聴盤です)に近いといえば誉めすぎだろうか。
カヴォ・ヴェルデはセネガルの沖(といっても500キロ以上離れたところ)にある島。おそらく、大航海時代に喜望峰を目指すポルトガル船によって「発見」されたのだろう。アフリカ系の奴隷を南アメリカに「輸出」する中継地として栄えた。
だから「モルナ」と呼ばれるカヴォ・ヴェルデの音楽は、三大陸の要素が混交したクレオール音楽だった。ポルトガルのメロディー。アフリカ西海岸のリズム。ブラジルのサンバやショーロで使われる小型の4弦ギター、カバキーニョ。商業的な「ワールド・ミュージック」の遙か以前から、過酷な運命に条件づけられたワールド・ミュージックだったわけだ。
そのような音楽が僕たちの耳に届くようになったのも、皮肉なことに近年の「先進」諸国のワールド・ミュージック・ブームのおかげなんだよね。
「Beijo Roubado」(名曲です)の入った『VOZ D'AMOR』(BLUEBIRD、日本盤も出ているはず)は、グラミー賞のワールド・ミュージック部門受賞作。前作『遙かなるサン・ヴィセンテ』(SONY)ではカエターノ・ヴェローゾはじめ、ブラジル、キューバ、スペイン、アメリカのミュージシャンと共演しているし、『VOZ』ではバックにピアノ、エレクトリック・ベース、サックス、ヴァイオリンが入っている。
僕はワールド・ミュージックとして録音された2枚を聴いただけで、それ以前のカヴォ・ヴェルデ音楽としてのセザリアを知らない。でも、おそらく本質的な差はないだろうと思っている。
そもそも本来の「モルナ」が三大陸の要素が混血したクレオール音楽なのだし、「ワールド・ミュージック」としてつくられた最新の2枚も、そのような混淆の上に、サンバやフォルクローレやキューバ音楽の音とリズムをとてもうまく乗せているように思えるからだ。
それをソフィスティケートされたと呼ぶか、非アフリカ化されたと呼ぶかは、聞き手の価値観にもよる。でもファドから入った僕には、価値判断以前に、なにより耳に心地よい。
ただ、あまりにもファドのメロディー的要素が強すぎ、機内で聴いたアフリカン・ポップスが、アメリカ的要素をアフリカのリズムが食い破ったなという印象なのに比べると、音全体としてヨーロッパ-南米的な哀愁に回収されてしまっているような気もする。セザリアの歌が「サウダージ」を体現した素晴らしいものであるだけに、よけいにそういう印象を与えるのだろう。
セザリアの声に聴きほれながら、「植民地の哀しみ」という言葉がふっと頭をかすめたりもするのだ。
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